三島由紀夫の遺言をめぐって

精神の癌状態とは?



最近作家、三島由起夫の遺書が公開された。これまで三島が知人宛に送った遺書は、いくつか公開されていたが、今回公開されたのは、楯の会の隊員宛のものである。その一節を上げてみよう。

日本はみせかけの安定の下に、一日一日、魂のとりかえしのつかぬ癌症状をあらわしているのに、手をこまねいていなければならなかった。…このやむかたない痛憤を、少数者の行動を持って代表しようとしたとき…

この手紙の中には、もはや文学者三島の面影はない。ただ日本というものの文化、価値を何とかしなければ、という痛切なる思いが切々と伝わってくるだけである。

そしてあれから30年目の春が来た…。

あの時、確か「タイム」誌は表紙に三島由起夫を使って「最後の侍」「切腹(ハラキリ)」と報道した。当時三島は世界的な作家として、ノーベル賞の候補に上るなどしており、その「ハラキリ」という特異な死は、世界中に衝撃を与えたのであった。

ここで簡単に三島事件を振り返ってみよう。

1970年11月25日、三島は自分が組織した組織「楯の会」の隊員3名を引き連れて、市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部に行き、総監に会見を申し出る。顔見知りだった総監は、三島を迎入れたが、そこで三島は総監を縛りあげ、綿密に計画された行動にでるのであった。

その後、彼は自衛官たちを総監質下の前庭に集めて、バルコニーから、短い演説を始める。白い垂れ幕を下ろし、ガリ版刷りの檄文をまいた。すでにこのニュースは、マスコミの知れる所となり、上空にはヘリコプターが飛んで、三島の声は、隊員の耳にはほとんど達しなかった。いや、ヤジと怒号が彼の義憤の声をかき消して、最後を悟った三島は、総監質室にとって返し、内からバリケードを築くと、えいという気合いもろとも下腹を深さ15センチ長さ45センチに渡って切り裂いて、森田腹心に促して首を介錯させたのであった。

それにしても何故、彼はこんなことをしたのであろう。戦後民主主義が完全に機能し始めた1970年という時期を選んで…。ふやけた日本の精神風土が我慢ならず、切腹という衝撃的な方法で、日本と日本人を目覚めさせようとしたのであろうか…。あの時、確か遺書か何かで、「いつが私が云っていることの正当性が証明されるだろう」と語ったのが、今更のように思い出される。

それから30年を経て、あらためて先の三島の手紙にある「魂のとりかえしのつかぬ癌症状」という言葉を思い起こして見る。すると何故か、三島の予言が当たったな、という思いが強くなるばかりだ。

いまや日本と日本文化は腑抜け状態にある。日本文化にある固有の良きものを放棄し、いたずらに欧米化して、それを民主主義などという優しい耳障りのいい言葉で飾る現在の日本人の精神状態こそ、三島のいう「精神の癌症状」であり、もはや今その状態は末期的で取り返しのつかない次元まで来ていると思えてくるのは私だけだろうか。

もちろん私は三島の主張や思想の全てを肯定しようとは思わない。しかし少なくても、日本や日本人が今のままで良いのか、という点で、我々はもう少し、三島由起夫の日本と日本文化に対する思いというものを前向きに受容する気持ちがあっても良いのではあるまいか。
佐藤
 


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2000.01.24