名画を見る眼

 

民衆を導く自由の女神
ウジェーヌ・ドラクロワ作 カンヴァス、油彩
1830年、260×325cm ルーヴル美術館所蔵


ドラクロアの「民衆を導く自由の女神」が、ルーブル博物館から日本に来たというニュースを聞いて、2月27日早速上野の国立博物館に向かった。これは去年「フランスにおける日本年」の記念行事として法隆寺の国宝「百済観音」が、ルーブル美術館に展示されたお返しとして、日本に特別展示されることになったのである。

この絵は、ドラクロアというロマン派の画家が、1830年のパリ7月革命を題材にして、書いた劇的な構図をもった名画である。私がこの絵と最初に出会ったのは、確か中学の社会科の教科書だったと思う。その意味でも思いで深い作品である。

そして今あらためて、この絵をしみじみ観ていると、どうもピンと来るものがない。疑問ばかりが湧いてきて仕方がない。

まず、なぜ女性は女神だけで、登場するほかの人間は、男性ばかりなのか?しかもたった一人の女性である女神が、裸でなければならないのか?これは一種の女性差別ではないのか?次々と疑問が浮かんでは消える…。

本物の芸術というものは、そんな疑問を差し挟む余地すら感じさせない迫力というものがあるものだ。ミロのビーナスだって、手がなくなってしまったからこそ良いのだ。と思わせるすごさがある。またダヴィンチのモナリザだって、あの眉毛をそり込んだモナリザの薄気味の悪い微笑みは、ただの美しさとはまったく違うすごみがある。

大体この絵の真ん中で、フランスの国旗を振っているような構図には、フランス特有のナショナリズムのようなものを感じて、どうにも好きになれない。ドラクロアは、革命に酔い興奮し過ぎなのである。その証拠に、この絵の中央で黒い服を着て、女神に従っている黒ハットの男が、実はドラクロア自身であるらしい。

芸術というものは、岡本太郎の言うごとく、確かに精神の「爆発」そのものかもしれない。しかしその芸術における爆発とは、作り手が、一緒になって、作品に熱狂することではない。むしろ心の興奮を押さえ込んで、描こうとする対象の本質に鋭く、しかも冷静に迫まることである。だから爆発とは言っても、けっして熱くなることでも、その時にバンという爆発音が出るわけではない。つまり芸術における爆発とは、精神の爆発なのである。

まさに、この「民衆を導く自由の女神」は、作者が興奮し過ぎているとしか言いようがない。まあその当時の時代の空気というものを伝えることには成功しているかもしれないが、芸術作品(人類共通の資産)としては三流の作品としか思えない。これが私の「民衆を導く自由の女神」と言う絵に対する感想である。世評や前評判にごまかされてはならない。何事も眼が大切なのだ。佐藤
 


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1999.3.1