第七回世田谷フォーラム

2008年 横田夫妻の夏 講演録


横田夫妻と鈴木淑 夫代表

08621日 午後6時半〜9時 世田谷区区民集会室
ゲスト−横田滋・早紀江夫妻、聞き手−鈴木淑夫 司会 佐藤弘弥 


 第一部 父の決断

横田滋さん談

 ◆最近の拉致問題の動向について

 読売新聞の誤報騒動など
 ただ今ご紹介いただいた横田でございます。最近気になることがありますので、いくつかご紹介いたします。5月9日の読売 新聞の朝刊に、中山総理補佐官が 4月に訪韓し韓国の政府の方にキム・へギョンさんと我々を韓国で対面するように取りはからって欲しい、その見返りとして、めぐみの遺骨ということで骨が提 供されていますが、これを北朝鮮に返すということにするという話をしたということが掲載されました。

 それで急いで、中山補佐官の方へ電話を掛けて見たのです。ところが「そんな事実はない」ということでした。それに ついて、町村官房長官も「事実無根であ る」と記者会見を行っています。一般の方から見れば、1面に大きく出たので、そんなことがあったんじゃないかと、思われたと思います。

 それから数日後、安倍総理の秘書官になられた井上さんという方が、その時は内閣府の事務官だったわけですが、北朝 鮮に行った時に、(拉致された人の中 で)何人か生きている人がいるという話を聞いてきたという話が報道されました。しかし何故今の時期にそういう話が出てきたのかという風に思いました。

 山崎拓さんらの「日朝国交正常化議連」について
 次は、最近になって、「日朝国交正常化推進議員連盟」(2008年5月22日設立総会)が作られることになりまし た。山崎拓さんが会長で、岩国哲人さん らが副会長です。最近安倍さんは山崎さんのことを、「政府でもない者が、政府より甘い条件をつけて、北朝鮮と接触しようとすることは、百害あって一利な し」、いやもっと、「百害あって利権あり」というようなことで、テレビなどでも、何回も報道されてました。

 やはり我々は、従来から、権限のない者が行って、我々に対しても、訪朝しないかと、打診もありましたけど、そう いったことをして、政府とあまり違ったこと をした議員活動というものは解決のためには、マイナスになるのではないかと、思っております。

 それから日朝協議というものは、昨年の5月に開かれて、昨年の9月にウランバートルで開かれてから、9ヶ月くらい 交渉が行われておりません。それが今月 (08年6月)の11日と12日に突然開かれました。通常なら、その時すぐ家族会に連絡がありますが、その時はまったくありませんでした。

 総理に相談をしてから、後で説明をするということだったんです。それで13日に説明がありました。それによります と、第1に北朝鮮側が拉致被害者の再調 査をすることを約束したということ。第2によど号犯でまだ残っている人がおりますけど、その人を帰国させることに協力するということでした。それに対して 日本側は、経済制裁の一部を解除するということを表明したということが説明されたわけなんです。

 従来から政府は、拉致問題に「進展」があればという前提で、例えばエネルギー支援をするとか、制裁の一部を緩める ということは、我々は説明を受けており ます。その「進展」とは何かということは、例えば「北朝鮮が再調査を約束した」というだけでは、それは進展とは言えないし、よど号犯が帰ってきたところ で、それは拉致問題とは直接関係ないことだから、それも進展ではないと思います。

 しかし、北がどんなことをするか、約束をしても、また実行をするかどうかも分からないのに、一方的に(制裁を)解 除するのは、おかしいということです。 この流れに不安を感じて、政府に対し、救う会、家族会、それから各党の拉致問題対策本部などから反対(表明)が出たわけです。

 それに対して政府は、何もしないうちに解除するんではなくて、行動対行動だから、相手の行動を見てから、解除する ということも言っています。けれども、 相手がちょっとでも動き出したら、(譲歩を)引き出すために解除をやる、というようなことも言っていまして、どうもあまりはっきりしたことが、分からない わけなんです。

 これはやっぱり国民みんなが、政府がどのようにするかということを、監視というのは、言い方が悪いですけども、良 く見守って、単に北朝鮮が、約束をして も、期限を設けているわけではありませんから、いつまで経っても、約束を実行しないにもかかわらず、日本が万景峰号(まんぎょんぼんごう)の入港を認める というようなことは、やらないように、国民がみんなで政府の動きを見守る必要があるんではないかと思います。

 気になるアメリカかのスタンス
 それからこれとほぼ同時に、米国のライス国務長官が、北朝鮮をテロ支援国家の指定から解除するということが発表さ れました。そしてブッシュ大統領が議会 に対して、解除を通告するということが発表されました。米国も従来から、「これは米国の国内法のことだから、日本人の拉致問題が解決するかしないかに関わ らず、法律的には、解決できる」と言っておりましたが、まあしかし、北朝鮮を利するために、「日本人の拉致が解決しなくても、解除するということはありえ ない」ということを、ずっと言ってきたんですが、このところ、まだ北朝鮮は、核(放棄の)申告もしてませんが、すぐに解除に動きそうだという動きが感じら れます。

 そしてこれが解除されるとどういう利点があるかというと、やっぱり北は世界銀行などから、金融と言いますか、お金 を借りる権利が今はないわけですが、そ れを取得するわけなんです。ですから経済的に困った場合、借りることが可能になってくるわけです。しかし、借りるということは返すという条件がいりますか ら、無制限に借りられるわけではありませんけど、やっぱり少しは有利になって、日本人の拉致は置いといても、何とか生き延びられるということになる可能性 がありますので、これは政府は、是非解除しないように(アメリカに)働きかけていただきたいと思います。

 まあ、新聞なんかで学者の方は、色んな事を書いております。例えば日本が6者協議から脱退すれば良いとかおっしゃ る方もいます。やはりこのケースについて は、日本がもう少しアメリカを説得するように努力していただきたいと思います。

 安易な経済制裁の緩和はして欲しくありません
 最近は、拉致問題に動きがなく、北朝鮮側は、17人の政府が認定しています被害者のうち、5人はすでに帰国してい ますが、そのうち8人は死亡。4人は未 入国を主張しているわけです。(北朝鮮政府は)「これで子供さんもすべて返したから、拉致問題は解決済み」と言い続けています。

 しかしその後、(日朝交渉も)まったく動きがありませんで、9ヶ月振りに交渉が行われたことで、日本政府としては 交渉によって解決するという方針をとっ ていますから、ちょっとは良い方に動いたとは思いますけど、これもどの程度の調査結果を出してくるか、前の時なんかにも、小泉総理の2度目の訪朝の時に は、めぐみのものとして遺骨を提供してきたんですが、それはDNA鑑定の結果、まったく別人 だったわけです。それ以外の方についても、新しいものは何もで ていません。ですから今度は、生きている人はすべて返すという形で、捜査することを、期待しております。安易な経済制裁の緩和ということはして欲しくない と思っております。以上が最近の拉致問題に関係する動きでございます。


聞き手 鈴木淑夫先生談

 ◆日銀マン横田滋さんと私の50年間

 みなさん、こんばんわ。ご紹介に預かりました鈴木淑夫です。私は今日質問をするという大役を仰せつかりましたが、 世田谷フォーラムの代表だからというより も、実は昭和31年から、私は横田滋さんを存じ上げております。半世紀以上、長いお付き合いでございます。横田さんは昭和26年に、日本銀行札幌支店にお 入りになりまして、10年間札幌支店におられました。私は昭和31年に、札幌支店に本店から転勤して行ったんですが、ちょうど同い年なもんですから、横田 さんを含む5人の北海道出身の札幌支店勤務の男性の仲間に入れていただきまして、同期会というもので4年間一緒に過ごしました。仕事の上では横田さんに教 わりっぱなしでした。業務は、そろばんはボクは下手くそですし、その他いろいろ教えていただきました。横田さんは非常に几帳面な方なんですね。極めて性格 が日銀マンの模範のような中堅行員で、既にいらっしゃいました。

 土日なんか、一緒に、ずいぶん遊びに行ったんですけども、北海道につい て、何も知らない私に、非常にきちっと、いろんなことを教えてくれました。一言で言って、横田さんは几帳面なんですよ。それから草花がお好きです。特に北 海道の植物について、詳しく説明していただいたのを、今でも覚えています。それから写真がお好きです。めぐみさんや家族の写真が、周囲にたくさん貼ってあ りますが、当時独身の日本銀行入り立ての、横田滋さんも、既に写真が大好きで、自分で現像もするんです。私の家のアルバムには、横田さんに撮っていただい た私ども新婚当時の写真が貼ってあります。その後、横田さんも私も、東京の本店勤務になった時期がありまして、やはり日曜日などは、日本銀行の石神井の運 動場で、横田夫妻とめぐみさんの三人の楽しそうな家族、私どもは、その頃子供が三人おりまして、三人引きつれて五人の鈴木家の家族と一緒になって、遊んだ こともありました。

 ですから、1977年の11月15日の夕方、新潟の自宅前から、忽然とめぐみさんが来ちゃったという話を聞きまし た時 には、仰天をいたしました。私も新潟支店には、二度ほど遊びに行ったことがありまして、横田さんのご本に出て来ますように、海岸に向かって、広い通りが、 ずっーとあるんですね。だけどそんなに車や人が通ってないんです。夕方になりましと、寂しい感じの通りで、そこから左に曲がりますと、日本銀行の公舎とい いますか、社宅群がありまして、そのうちの一戸建てに横田さん一家は、住んでらしたわけです。

 めぐみさんが行方不明ということを聞いて、(横田ご夫妻は)どういうお気持ちだろうと思いました。当時めぐみさん は、中学1年生で13歳です。私も胸が締め付けられるような思いでおりました。


 ◆めぐみちゃんが拉致された瞬間、幸せな一家の時間は止まった

 最初に、横田滋さんは、当面の家族会の悩みというか、問題点をズバッと言ってくださいました。ここでちょっと巻き 戻しまして、最初の「めぐみちゃんが消えちゃった」というその辺から、質問をさせていただきます。

 確かあの晩は、転勤してきた人の歓迎会かなんかあって、滋さんは帰りが遅かったですね。で早紀江さんが、帰って来 ないめぐみちゃんのことを心配して、色々手 を打たれた。そして次の日、警察から脅迫電話が掛かってくることを想定して、盗聴の器具を持ち込むということなどいろいろあったようですが、その時、どん な風で、どんな思いだったか、お話しください。

滋さんの証言
 その日は、今鈴木さんの話にあっ たように、私たち営業課では、転入者の歓迎会を行いました。そんなに遅くなったとは思いませんけど、中で終わって、その方が、本店で一緒だった人だったも のですから、終わってから、麻雀をやろう、ということになって、麻雀屋に行って、始まる前に、家に電話して、「麻雀やって帰るから、今日は遅くなるよ」と 言ったら、「まだめぐみが帰ってないから、すぐに帰ってきて」って、言うことでした。みんなに言ったら、「それはすぐに帰らなければダメだ」ということに なって、4人でタクシーに乗って、ほとんど同じところに住んでいますから、戻ってきました。

 それでも帰る途中は、これまでも遅く帰ることは、ほとんどな かったんですけど、もしかしたら、家に帰ってるかもしれないな、と思いながら、帰りましたんですが、しかしまだ帰っておらずに、その前に、早紀江が、神社 の境内とか海岸などを探したと聞いてましたが、また改めて、そこを調べました。

 校庭から家までは、500m位でバスが通っている広い道なんですが、ただそ この通路の横というのは、新潟大学の理学部があったところが、郊外に移転して、そこが広い空き地になっていました。今は整備されていますけど、その当時 は、秋ですから草が枯れていて、ところどころに低い木がありまして、見通しの悪いところで、街の中心街に近いところなんですけど、少し寂しいところでし た。

鈴木
 早紀江さんは、滋さんが帰るまで、お一人で、大変だったと思うんですけど、その日だ けではなくて、その後しばらくの間、いろんなことが考えられたわけですね。誘拐ではないか。強迫電話が掛かってくるのではないか。事故にあったのではない か。海でどうかしたんじゃないか。あるいは家出したんだろうか。自分たちがめぐみちゃんを、育てるのに落ち度があったんじゃないか。自殺でもしたのか。と か、いろんな可能性を、お考えになって、一人で家にいる早紀江さんが、一番お気の毒だったと思うんですね。滋さんは、まだ仕事があります。だけど早紀江さ んは、本当に大変だったと思いますが、どうでしたか。

早紀江さんの証言
 何が起きたのかわからない。丁度15日に、行方不明になったんですが、その前の13日に、バドミントンの新人戦と いうのがありまして、バドミントン部に入っていましたので、その時に強化選手に選ばれたんだと言って帰って来たんです。

 そ して強化選手というのは、自分ではそんなにうまくないと思っていたらしいんですけど、「何で私が選ばれたのか、分からない。」と言ってました。そして新潟 市内のそれぞれの学校の3人ぐらい選ばれた人たちが、新潟市の強化選手として、これから合宿に行ったりとか、非常にきつい練習に行ったりしなければならな いけど、新人戦でも5位だったんです。

 ○○(寄居?)中学というのは、バドミントンが非常に強い学校で、一位になるか、二位でないとダメ よ、ということを前の晩に、キャプテンの方から、夜の8時半頃、お電話がありまして、めぐみが非常に緊張してですね、「わかりました。ハイ、分かりまし た。頑張ります」とカチカチになって言っていたので、「なに?」と申しますと、めぐみの学校は例年一位か二位が当たり前の学校なので、「しっかりやりなさ いと、頑張るのよ、という電話だったけどどうしよう」と言って、すごい緊張をしていたのを覚えてるんです。

 13日にその新人戦がありまし て、その時にダブルスで出たんですが、5位だったんですね。私からすれば、たくさんの学校が出ているわけですから、「5位でよかったね」と言ったんですけ ど、帰って来たときに、「そうじゃないのよ。お母さん。ウチの学校は5位なんて、全然ダメで、二位か一位でなければダメだったのに、」って、突き上げられ た様子もちょっとあったようなんですが、悩んでいまして、「同じ学校で、一位、二位だった人も居たのに、何で私が選ばれたか分からない」と非常にそれが辛 かったようで。「どうしようか。私は自信がない。断った方がいいかな」って、私に言っていました。私は「お断りするなら、早く言った方がいいよ。だって選 手になりたい人が山ほどいるんだから」と。「もしどうしても先生言いにくければ、近いから、お母さんが一緒について行ってあげてもいい。」と言ったら。 「そんなの中学生にもなって、みっともない。お母さんが来てくれるなんて嫌だから、自分で考えて行く」と言ってたんです。

 それで14日が 来て、反省会があったりして、15日になったんです。そのことがあったものですから、帰ってこないということがあって、一番最初にああそのことだ、と思い ました。そのことで悩んで学校でもいろいろあって、落ち込んで、ここに居られないって、どっかにいっちゃったのではないかと、まあ前任地の広島に行ってし まったんだろうかとか。バドミントンのあのことじゃないか、と思ってしまったんです。

 私はそれを非常に心配して、海の方にでも行っ て、どうかなってしまったのかもしれないって、夜半中ずっと息子に一緒に懐中電灯を持たせて、暗い浜辺をずっと、真っ暗だったんですが、名前を呼びなが ら、歩きましたし、護国神社の境内も真っ暗でしたけども、名前を一所懸命に呼んで歩いたんですけども、何にも音もしませんし、あらゆるところを探し回っ て、その時に主人が帰って来てくれて、早く警察に言ってください、と言って、学校にもすぐに見に行ったんですね。めぐみがまだバドミントンをしているかも しれない。でも、ママさんバレーの人たちが、やってたんで、その時に、もう、これは普通ではないな、とすぐに感じたました。

 でもその後も 何の手がかりもありませんでした。それでももう凍り付くような経験したことのない気持ちがしまして、その後の新潟時代の経験は、地獄変としか言えないよう な、家庭崩壊をしても当たり前のような状態でした。みんな考え方も違いますし、私たちの育て方が悪かったかもしれないとか、誰かが連れて行って、あの山の 辺に埋められているとか、そういう時に、いろんな事件が起きまして、よく講演会でもお話しするんですが、焼却炉の中から、女の人の焼死体が出て来ました、 という電話がありまして、めぐみさんは腕時計をしていましたか、というお話しでした。引き出しを開けたら、時計が入っていまして、「それなら違うかも知れ ない」と思って、調べてくださった結果、それは5、60代の方のもので、「めぐみさんでなくて、よかったですね」と言っていただきました。

 それで、ほっと した矢先、また日本海の沖の方から、ちょっと小さめの女の方の頭蓋骨が漁船の網に引っかかって、上がってきました。これは めぐみちゃんかもしれな い、と警察は色めき立って、すぐに来られて写真とか見て、いろいろ話をなさいましたけど、広島の歯科医さんから、めぐみの歯のカルテを取り寄せまして、速 達で送っていただいたものを、震えながら自転車に乗って、警察に駆け込んで、見ていただきましたけど、それはめぐみのものではなかったということで、あー よかった、とその都度、震えながら、「よかった」、「どうしよう」、「ああよかった」というような繰り返しでした。

 本当にいろいろありま したし、いろんな新興宗教のような方が、たくさん次から次から、見えまして、お家に上がって来られて、いろんなことを言って、誘われて、「私はそんなこと 信じられない」と思って、泣きながら応対したり、畳をかきむしって、絶叫して泣いたり、いろんな町を歩いて、行ったこともない新潟の町を毎日毎日歩きなが ら、どこかのアパートの上に干してある洗濯物の中にめぐみのものがないかと、ずっと探して見たりとか。本当に新潟時代というのは、気の狂うような、今考え ても思い出したくないほどの非常に悲惨な毎日を過ごしていました。

鈴木
 早紀江さん。思い出し ても辛いような話をしていただきありがとうございました。地獄のような新潟時代が1977年から1983年まで、6年間続くんですね。その間、家の玄関の 電灯を明るくして、夜中にも煌々と周囲を照らして、めぐみちゃんが帰ってきたら、すぐ分かるようにね。出勤前に滋さんは、必ず海岸をずっと散歩をされて、 何か痕跡がないか、調べたり、まあそれぞれに家族は、辛い辛い思いをされたと思うんですが、だいたい日本銀行は、普通4、5年で転勤になるんですけど、そ ういうことがありました関係で、7年間新潟支店にいらして、新潟を離れて、東京に転勤することになるんですけど、これまたとても辛い思いをされたわけで す。ご本によりますと、横田さんが住んでいた家は取り壊すことになっていたそうですけど、それでもビニール袋に入れて、東京の住所を書いて、ひょっとし て、めぐみちゃんが帰ってきたら、迷わないようにという配慮までして、後ろ髪引かれる思いで、東京に転勤しこられたそうです。そして次の年になりますか、 1984年早紀江さんは洗礼を受けられました。東京に帰ってからも、いろんなことがあったそうですが、確実な情報はなにもない。滋さんは、めぐみがひとり で苦しんでいるんだから、自分もひとりで「頑張る」、「苦しむんだ」と言って、洗礼を受けられなかったと聞いています。この辺のご心境はいかがだったで しょうか。

滋さん
 私はめぐみの事件が解決するまで、新潟支店に居たいという勤務に関する希望 を、毎年春に提出するわけですけど、そのように書いてきたわけですが、まあしかし、事件発生の時、小学校3年だった弟が、もう中学校の3年生になっていま した。次の年には高校受験がありますが、新潟の高校に入ってからでは、転校が難しくなりますので、連れていくこともできなくなるかもしれないので、学校、 警察、日本銀行にも相談をして、転勤ということになりました。警察は、「転勤をされても、キチンと捜査をするから、安心していて欲しい」と言うことで、転 勤することになったわけなんですが、やはり、もし電話が掛かってきたというような時に、出られなくて、結果的に救出するチャンスを失うのではないかと、 思っていました。新潟を出ることは本当に辛かったわけです。しかし弟たちにとってみれば、新潟に居ますと、みなさん善意で見守ってくださっていたわけなん ですが、ある意味窮屈なところもあったんですが、東京に来てからは、めぐみのことは知らないものですから、そういう面では、気持ちの上では、ずっと楽にな りました。もちろんずっとめぐみのことを思い続けていましたけど。

 最近増元さんが、戸籍を復活させるということが新聞に出てましたけれ ど、ウチの場合は、めぐみが死んだという証拠がないのだから、そういった失踪宣告をして、判決を受けてそうするということは可能なんですけど、そうすると いうことは、絶対にしないということを早紀江とも相談していました。それからどちらかひとり死んだとすれば、その段階では、弟の方は、小学生なので、細か いことは知りませんので、なかなか手続きを取るといっても、分からないもので、その時になったら、お互いに話し合ったんですが、生きている証拠もないけ ど、死んだという証拠も、もちろんない。だから生きている信じてやっていこう、ということで、戸籍の抹消などということはしなかったのです。引っかかるの は、待っているだけ、ということしかないわけです。その後なんかでも、例えば前橋に転勤になった時なんかでも、ちょっと美術館に行った帰り、食堂に入った ら、上州こ?(じょうしゅうこ)というタウン誌があって、ボウリングの群馬県代表になった人が、(めぐみちゃんに)非常に似ているということで、ホテルで 開かれた本戦の時に、早紀江が前の方に座って、その人と目があった時に、何か反応するかと、思っていましたら、全然反応がなくて、もちろん向こうは、早紀 江のことなんか、知っているわけはないので、それは当たり前なんですが・・・。そういったように、似た人がいるとかいう情報があれば、確認のために、必ず 見るようにしましたけど、待っているだけ、というのも、なかなか辛いことですね。

鈴木
 そうい う辛い日々を、結局二十年間ご一家は過ごされていたわけですが、丁度20年経った1977年1月21日に、北朝鮮でめぐみさんが生きてらっしゃるという情 報が入るわけです。でその時、ご家族は、非常に難しい選択を迫られました。一種の葛藤があったわけですね。皆さん自分の家族に置き換えてみるとすぐに分か ると思うんですが、じゃー「横田めぐみ」という名前を出して、北朝鮮に向かって、「娘のめぐみを早く返してくれ」と大声をあげて運動を始めるべきか、そん なことをしたら、北朝鮮は何をするか分からない。証拠を消すようなことをやられたら、それこそ大変です。これはやっぱり匿名で、新潟のmさんとかYさんで 解決のための運動を起こすべきだ、という大変な選択に迫られたんです。リスクを冒して、運動を始めるか、このリスクを回避するか、でその時に家族の意見が 割れて、滋さんは、本名を出して、そういうリスクを覚悟した上で、やってこそ、皆さんが動いてくれるんだと。それに対して、早紀江さんとふたりの弟さん は、「お父さんそれは危険すぎると、大変な葛藤があったわけです。早紀江さんその時、本当に大変だったでしょうね。

早紀江さん
 そうですね。決断をしなければならない時間も本当に短かったんです。それで「アエラ」という雑誌と産経新聞に、大 きく載せられたわけですが、アエラさんが 「写真を載せます」、「文章を書きます」と下準備をしたのを、持ってきていただいた時に、「いやーもう、そんな怖いことをしないでください。絶対だけで す」って言いました。でもお父さんは、「ここで出さなかったら、20年も我慢して分からなかったものが、こんなにはっきり分かったんだから、ここで出さな かったら、また何にも分からないままで、この世からいなくなってしまうかもしれないという風になって。こちらも、そういえばそうだな・・・ということで一 時承諾はしたんですが。やっぱり夜中に眠れなくて、顔面神経津になるほど悩んだんですが、9時頃に、電話をして「アエラさんの社長さんをだしてください」 と、遅くに掛けて、実名の報道はやっぱり無理ですからというと、「でもあれは、一度承諾いただいているので、それで一部出ているところもありますので、取 り消しはできません」と言われました。そこでまた落ち込んで、「せっかく20年間、向こうで生きている可能性もあるのに、こんな名前と顔が出たら、指導者 は、それを見つけて、めぐみを抹殺してしまうかも知れないという思いで眠れなくなってしまいました。

 先ほど、言い忘れたんですが、たく さんの宗教が来た中で、聖書に巡り会うことができました。友達が持ってきてくれたものです。近くに宣教師ご夫妻が住んでらして、そちらで、聖書の集いに、 誘っていただいて、その中で、聖書を通して、生きる意味とか、今までの私では考えられないような不思議なものというか、美しいものを教わったのです。

 洗礼を受けた後、教会生活とかで、いつも聖書と祈りの時間を持つことができ、それまでは、もの凄い苦しみの中でし たけれど、洗礼後はいろんなことが、いっぱ い起きましたけれど、いつも聖書の御言葉の中で、「(神は)ああそう言っておられるんだ。あそこの状況は、このことなんだ」というように、自然に胸の中に 浮かんでくるようになりました。自分ではない自分というか、ちゃんと見ていてくださる方に導かれているなと、思いをもって、苦しみにも堪えることが、でき るようになってきたように思います。

 でも、あの時には、何も分からない。生まれたままの私でしたから、もう本当に苦しくて、胃が縮むとい うか、チリチリと痛むような感じでした。それほど、悲しくて、苦しくて、どうしようにも決断が付かないまで、子供たちにも説得をして、公表しましょうとい うことに決まったわけです。

滋さん
 その時には、新進党の衆議院議員西村慎吾氏が衆議院議長に 対して、質問趣意書というものを提出するわけです。これは急に何か質問しても、答えはでませんから、事前に質問書というものを出して、それに対して、回答 書が来て、その回答書を見ながら、不備を突いて、総理に対して、質問するわけなんですが、その趣意書のコピーを「アエラ」からもらいました。

 ですので、匿名にしたところで、国会で名前が出てしまえば、たった2日や3日抑えたところで、意味がないわけで す。

 それと、もうひとつは、「現代コリア」という雑誌がありまして、当時はあまり知られない雑誌だったんですが、それ に大阪朝日放送の○○さん が、「私が金正日を書いた訳」という文章を掲載して、○○さんが、ソウルで、取材をして、アベックの人なんかについて金正日の指令によって、拉致事件が起 きたという本をだしたんですが、その時に、この本には書けなかったけど、それ以外にもこんなことがあるんだってこと、1977年から78年に日本のどっか の都市で、この時には、新潟という名はでなかったんですけど、13歳の少女が、バドミントンの練習を終えて帰宅途中に、任務を終えた工作員が、まさに脱出 しようとしたところを目撃したので、連れて帰った。少女は家に帰りたかったんだけど、朝鮮語をマスターすれば帰してあげると言われて、一生懸命勉強して覚 えたんだけれど、18歳になった時に、帰して貰えないということが分かった時に、精神に破綻をきたして、入院した。少女は、双子の妹である、ということが 書いてあったんです。

 まあ、それを○○さんが、誰か知っている人がいたら教えて欲しい、と「現代コリア」という雑誌に、書いたわけなん で すけど、まあそれを教えてもらって、めぐみが北朝鮮で生きているということが分かったわけなんです。その「現代コリア」には、ホームページがあって、日本 人拉致リストというのがあって、アベックの人は、名前に実名を入れてあったんです。その一番前に、我々が知らないうちに、「横田めぐみ」と載ってしまった わけなんです。

 するとこんな中途半端なことをして、その雑誌というのは、北朝鮮関係のことを調べている人とか、朝鮮総連の人とか 見ていな いような雑誌ですから、それだったら、むしろ大新聞の方に、出した方が安全だと思ったんです。その記事は石坂さんなどは情報不足だから、今は匿名にしてお いた方が、いいだろうと言うし、産経新聞の社会部長とか、ニューズウィークの女性記者で拉致を取材していた高山さんなどは、実名を出して写真を出して、日 本政府はこれだけの情報を持っているのだから、手出しをするなという形を見せた方が、安全ではないか、ということを言われました。

 それで 確かにリスクはあったんですけど、「現代コリア」に実名報道が出て、後は知らないというのでは返って危険だと思ったので、実名報道に踏み切ったのです。家 族にも説明し納得させたんですけど、子供たちも今は東京とか川崎に住んでいますけれども、その時には、福岡と奈良に住んでいまして、なかなか連絡するに も、仕事から帰ってから、電話ですることになるんですけど、なかなか了解をしなかったんですけど、最終的には子供たちを説得しました。

鈴木
 そういう大変難しいことがあって、めぐみちゃんを返してもらおうという運動が、拡がったんだという風に思います。 身を挺してというか、自分たちの家族を犠牲にしてでも、拉致問題の全国の盛り上がりを図られたわけです。

 事実この後すぐに、「家族会」が発足します。最初ご家族同士が集まって、8家族でスタートされました。そして滋さ んは、その会の代表になられました。続いて 今度は、「救う会」がスタート。そしてさらに超党派の国会議員が「拉致議連」がスタートしました。この後、横田ご夫妻は、大変忙しさに巻き込まれて、行く んです。そしてお二人は、常に拉致問題の先頭に立って、講演会・集会はもちろんのこと、署名運動や更には座り込みまでやりました。

 国会の 前で三日間、続けて座り込まれました。その中で、小泉さんが2002年9月17日の第一回訪朝があるんですね。その結果、翌月10月15日、蓮池さん夫 妻、地村さん夫妻、曽我ひとみさんら5人が帰ってくるんです。向こうは5人生存。八人死亡と発表しました。その8人の中に、横田めぐみさんを入れてきたわ けです。

 それを日本政府は、右から左に伝えたものですから、皆さん覚えていますか。私は涙なくして見れなかった。本当に落 胆してポロポロ 涙を零しながら、官邸の通告された部屋から、出て来られたんですね。悲しいことでした。でも、その後横田ご夫妻は立派だと思ったんですが、5人帰ってき た、それからしばらく経ってその家族も返ってきた。ジェンキンスさんも帰ってこられた。それを家族会の代表として、本当によかったといって、死亡したと言 われためぐみちゃんのことは、一言も言わずに、家族会の運動をリードしてこられました。本当にお二人はご立派だったとも思います。しかし北朝鮮はめぐみ ちゃんの遺骨だとして、他人の骨を出してきたんです。これはDNA鑑定で、偽物だということ が、わかったわけです。

 小泉訪朝以降、本当に大変だったと思いますが、この後は第2部でお話ししていただきたいと思います。



第二部 母の愛と祈り

司会
 実は横田早紀江さんには、とても無茶なことをお願いしています。それは皆さまよくご存じのように、早紀江さんは短 歌というものを発表されていて、それがとて も人の心を打つ、素晴らしい歌です。実はその歌も、特に意識されて出来たものではなく、行方不明のめぐみさんの安否を思いに思っているふとした時に、作っ たというよりも、心の内側から沸いてきたものを書き留めていて、それを三十一文字にしたというものだとおっしゃっています。第二部は、この歌の創作のこと から、お話しいただきたいと思います。早紀江さんどうぞ、よろしくお願いします。

早紀江さん短歌の創作について語る

早紀江さん
 今短歌のことをおっしゃってくださったんですけど、私は別に短歌を習ったことはなかったんです。中学、高校の時 に、国語の時間に、短歌というものを先生から 教わっていただけで、全然自分で作ったということがなかったんですが、めぐみの居なくなった時の、絶望的な悲しさの中で、特にあの日本海の海岸の寂しさと いうか、松林の風の音とか、あの辺の空気を今でも、行くと本当に身震いするような思いがするほどの、思い出なんえすが、いつもその辺を歩き回って、探し 回って、泣いておりました。その時、何とも云えない、作ろうという思いでなくて、広島時代の楽しかったところからから、みんな元気で、こんな遠い新潟に 引っ越して来たのに、どうしてこんなに悲しいことがおきたんだろうって、いうような思いが出まして、泣きながら松林を歩いて居るときに、

 はろばろと睦み移りし雪の町に子を失いて海鳴り悲し

 という歌が、ぽこぽこと出て来たんですね。それをちょっとノートに書き留めまして置いたのを、連ねて、何となく朝 日新聞の歌壇に出しましたら、それが載せて いただくことが出来たと言うことで、非常に「はあ、こんなものでも、載るんだ」という思いで、それから、7首ぐらい作りましたでしょうか。本当に、わざわ ざという気でなくて、作ったんです。それでいつも目が覚めて、雀とか色んな小鳥が庭に来るんですね。そして翌朝早くから鳥が鳴いて居るんですけど、いつも ならめぐみが居る。その声を聞いても、可愛い鳥が鳴いてるなって思えたんですけど、本当にめぐみが居ないという何とも云えない空虚の中で、鳥の声を聞く と、非常に寂しいんですね。それで門灯をずっと、めぐみがいつ帰って来てもいいように、ずっと付けておりました。それで三年位が経った時に、そんな歌を 作ったんですが、

 朝まだき囀る鳥の声悲し子を待つ淡き門灯三とせ

それから、

 消えし子よ残せるサボテン花咲けりかく小さくも生きよと願う

 これはあの子が中学校の修学旅行で買ってきた小さいサボテンの鉢を大事に育てていました時に、居なくなってから、 こんな小さな赤い花がポツンと咲いたんで す。それを思わず見て、それを書き留めて作ったのが、今の歌なんです。そういうのが、少しあるんですが、恥ずかしながら、あちらにある「めぐみお母さんが きっと助けてあげる」という本に何首か載せさせていただきました。

 ◆キリスト教への入信について

 本当に悲しい中で、私はイエス・キリストの救いに預かりました。私は京都生まれなものですから、小さい頃から、神 社仏閣の京都市で育って、父は天照大神(あ まてらすおおみかみ)という日本の神仏に一生懸命祈りをもっている人でしたので、どうしてあなたがキリスト教にって、誰もが思うんですけど、言葉では言い 表すことができない、表現できない精神的な良い意味での精神的なショックを聖書から受けたことで、私は本当に生まれ変わらせていただいたと思っています。

 本当に何にも分からない、何もできない、何の取り柄のないものが、こんな大変なことの中で、皆様に支えられなが ら、最近ではあちこち、痛い痛いと言いながら も、毎朝元気で起きて、そしてまた今日一日の仕事をやり遂げさせていただけるということは、これは自分一人の努力とか、力ではない、祈りの中で、支えてく ださる方がが、いつも守って、そしてこの時は大丈夫だ。たじろぐな。怖れるな。私があなたの神なんだから。心配しなくてもいい。という御言葉を与えられた り、本当に色んな時に、聖書から学んだ言葉が、いつも、9月17日の時もそうでしたけども、自分が努力して言っているという思いがまったくなくて、いつも そうなんです。ブッシュさんにお会いした時もそうなんですけど、すごい方とお会いして、すごかったですね、と言われるんですけども、私は本当は、そんなこ とができる者ではないんです。非常に気が弱いし、恥ずかしがりで、人様の前でお話しするような者ではないんですが、本当に不思議な力を、あなたが話せな かったら、私が話させるんだから、とおっしゃってくれる神さまがいることを信じて、いつもこうやって、(皆様の前)座らせていただいています。

 ◆誰も人の親でありますから

 31年間北朝鮮に翻弄され続ける拉致家族
 本当に大変な中でしたけれども、先日から日朝協議の中で、非常に私たちが、今度こそと期待しているとダーンと落と され、いつもいつも覆されてきま した。今度こそはと思っていると、また違った方に流れていく。どうして北朝鮮問題というのは、こういう風なことになるんだろう。ということを色々な意味で 学ばさせていただいております。

 日朝協議に行ってくださっ た斉木アジア太平洋州局長は、本当に長い間、私たちの拉致問題を共に、背負ってくださって、本当に 強いメッセージを出 してくださって、あちらの人と対しても、机を叩いて、いい加減にしないか、と言ってくださる珍しい方なんです。

 私たち家族会は、みんな信 頼しておりますし、今回の時も、信頼して頑張ってきますから、と言って行ってくださったので、非常に信頼して いたところが、あんな風に、どうして簡単に、万景峰号の一部入港を解除するということになったんだろう、と思っています。

 これは今も分からないんで すが、私たちは斉木さんを信じていますけども、本当にこれは総理の最終的な判断でなさったのか、それとも外務 省のもっと 上の方達との話の中で、こういう風になっていったものか。斉木さんご自身も、こんなつもりではなかったと思っているかも知れません。何か私たちには言えな いような北朝鮮との制裁を解除できるような良いメッセージを北朝鮮から、貰ったからこういう風になったのかということなのでしょうか。それならよろしいの ですが、私たちには今も分からないです。そこに何があったんだろうと。

 万 景峰号は悪の船
 万景峰号という船は、皆様もご存じなように、本当にあれほど、悪い船はないんですね。新潟港に入ってきて、ずっと そうでしたけれど、色々なものを 運びます。修学旅行生たちが、皆乗っていきます。でそういう中に、お菓子の袋なんかを持っていく、その中の一番下に必ずたくさんのお金が入っていて、みん なそれを収めるように持って、それは見逃しにされていたということが、たくさんありますし、そして色んな日本の機器が行きますね。そういうようなものも、 向こうは全部それを解体して、その中の大事なものを、軍備の器具に使うために使う。お金は、あの飢えに苦しむ国民には、行ったことがない。もらったことが ないと脱北してきた人たちは、皆言っています。それほど苦しい生活に苦しんでいる人たちがたくさんいらっしゃるわけなんです。

 それなのに、平壌の中の一 部の指導者の人たちは、全部それを自分たちのものにして、やっている国であるということを、脱北してくる多く の人たちと か、そのことを証明していらっしゃいますけど、(その中には)「戦争をしてでも、この国は変わって欲しい。変えて欲しい」と言っている人がたくさんいるん です。

 北 朝鮮で行われている人権侵害
 そういう北朝鮮の本質というものは、歴史的な問題もありますし、あちらの民族性という問題もありますけど、この平 和な日本の中で、何でもありま す。何でも買えますし、何を言っても自由です。そういう中で、平和で良かったというように暮らしているモノの考え方とは、まったく違った国で、ちょっと世 界に類のないような独裁政治、恐怖政治というか、ちょっとでも上の人たちに反対すれば、すぐに強制収容所に放り込まれて二度と出てこれないような罪なき人 が、今でも政治犯として棒で叩かれたりしているんです。

 その人たちは、がりがりに 痩せて、お粥をやっと一杯、朝いただくぐらいが精一杯で、後はもの凄い労役で、骨が出て、バラバラと皮膚が垂 れ下がって いるような人たちです。棒で叩かれ、労役で死んでしまえば、もうそんなものは人間ではないと、どっかに放り投げられてしまうような人が、累々といらっしゃ るわけですね。そういうような国と今外交をしているわけなんです。そういうことが日本は分かっていない。私たちも分からなかったんです。

こんなことがなければ。そんな国がもうご存じなように、核を作っていたんです。あれ は軽水炉とかいうのを、アメリカとかみんなで支援を したわけで すけれど、それでも核は絶対にしないと、約束していたにもかかわらず、それを裏切って、核を作っていたということが分かったわけです。それ以外にも拉致も していますし、偽ドル、それから麻薬、麻薬をあちこちの国に渡していると聞いています。

 娘 めぐみのニセの骨について
 2002年9月4日、不審船が入ってきて、銃撃戦で、日本側が初めてこれを沈めました。今までは、日本は「銃撃し てはいけません」ということに なっていますから、向こうが撃ってきて、こちらが死んでしまいますから、やっと撃って、沈めて、初めて、上げて皆さんに見えるように陳列しています。それ ほどにして、自分の国のことを一切外に知らせない。見せない。そして拉致をした人たちを利用する。だけども絶対に見せない。死亡したとして、骨まで見せ て、外務省の前の局長が、白いテーブルクロスのような布にくるんで持って帰られました。そしてこの骨を私たちに公表してもよろしいでしょうか。と言われま した。聞かなくてもいいことです。何でこんなことを言うのだろう。と私は思いました。そんな人を欺くことぐらい北朝鮮は平気なんです。こんな大変な思いを して、生きていると思っているものを、死んだこととして、持って来たのであれば、誰に聞かなくても、すぐに鑑定に出して、それをはっきりと、国民の方全部 に、明らかにしてくださいと、私は本気で思いました。

 DNA鑑定をしてくださったお陰で、これがめぐ みの骨ではなくて、ふたりのまったく違う人の遺骨だったということが、発表されました。 それで、や はりめぐみは、そんなにまでしても、隠さなければならない。そして後、残された人は、死亡と言われた人は、どういうことになっているのか、分かりませんけ れども、死亡として、洪水で骨が流されたから分からない。まったく分からない。見つからないとして、そういう形で向こうは言ってきて、これで拉致問題は、 終わりですと、言っているんです。

 これは違う骨だと言った ら、北朝鮮は日本の鑑定が間違っていると主張しだしました。そしてその骨を返しなさいとか、言っています。勝手 によその国 に土足で入り込んできて、何の罪もない子供たちを、無理矢理目隠しをして、猿ぐつわをして、ぐるぐる巻きにして、袋を被せて、曽我さんも、蓮池さんも、地 村さんも、みんなそうですけども、船に二回も乗せられて、母船に移されて、そして日本海を運ばれて行ったんですね。本当にどんなに怖ろしい思いをした分か りません。

 拉 致された事実が分かっていても救出できない国日本
 何の罪もない者が、30年も経って、まだ助けてあげられない。こんな国があるでしょうか。私たちはそのために、一 所懸命にこうやって訴えてきまし た。けれども、今回の日朝協議でも、あんなに措置をして、日本の情報を全部持って帰っては、また持っていく。そして向こうの国会議員であると言う人が堂々 と日本に入り込んできては、また秘密を色々と知って持って帰るというようなことが、明らかなはずの船「万景峰号をどうか早く止めてください」と私たちは、 何度、新潟の埠頭で雨の日も、風の日も、暑い日も、救う会の方々、そして多くの国民の方々と、一緒になってメガホンを持って、「帰ってください。」、 「入ってこないでください。」と、どれだけ、叫んできたか、知れません。

 ようやく安倍首相の時代に なって、やっとあの船が止められた。それで随分圧力になったのに、向こうは日本の美味しいメロンだとか、そう いうもの を、向こうの指導者が喜んで食べるものが、まったく入って来なくなったという、大変な圧力がかかっているのです。ですから、これだけは、最後のカードとし て、解除しないということを、私たちは言い続けてきました。それなのに、今回何も分からない中で、一部人間は入れないけれども、物品だけは、自由にしても いいというような形で、一部解除されたわけです。その物品というものがクセ物で、それをどれだけ、監視できるかということですね。今まで見ていても、ホン トにルーズなままで、何十年きたわけですね。

 で、今度、それをするのも 人間です。監視するのも人間です。その監視する人が北朝鮮に買収されれば、利権を入れれば、見過ごしていくわ けですね。 そうすると、何が入っているか分からない。何がくるか分からないという状況が、起きるんではないかと、私たちは非常に懸念しています。こんなに大変な問題 だけは、どんな思いで私たちが、国民の皆様と一緒に、阻止できた圧力となるものを、(放棄して)「これだけは解除しないでください」と、この間、町村さん にお会いした時も、私は申し上げてきました。これから先、向こうがどういう形で、行動を起こしてくるのか、どういう風な形で、調査ということをはっきりし てくるか、分かりませんけれども、今まで、調査しますと、言っては、そのような拉致した人は、国内にはいませんと、言うことでした。

 拉 致された子供たちの父母としての意地
 私たちは、そんな人はひとりも見たことはありませんと。調査の時、まずそんなこともありましたし、また次の調査の 時は、今度は調査の結果、このよ うな形で、みんな死んでいました、というような色んな死に方を表してきました。そして最後にウソの骨を出してきました。そのようなことを堂々とやっている 国だということが、世界中に分かっているのに、何で世界中の人が、こんなことは間違っているんですよということを。そして、あなた方をいじめているんでは なくて、これを直して、本当にみんなを返して、そしてちゃんとしたことを根幹にやれば、あなたたちの国も幸せになるんですよ、ということを、みんなの国が どうして、一時危機的なことがあっても、口を揃えて、六者協議の中でも、言えないんだろうかと、私はそれが不思議でしょうがないんです。

 人間として当たり前のこと なんです。日本の子供がそうなっていて、六者協議の場に赴かれたとしたら、絶対に何かおっしゃるはずなんで す。誰もが親 でありますから、親の心を持っていれば、「私たちの子供をすぐに返しなさい」と強いメッセージは言えるはずだと、みなさんにお願いしているのです。ブッ シュ大統領にもそのように申し上げました。そのようなことで、これからも、この後の北朝鮮の動き行動というものを見て、日本も色々動きます、ということで すので、皆様と共に、日本が騙されないないように、足下を掬われないように、しっかりと見守っていただき、これからも応援していただきますように、お願い 致します。


聞き手鈴木
 早紀江さん、どうもありがとうございました。私は滋さんとは、昭和31年 以来の付き合いですが、早紀江さんとは昭和41年以来の付き合いです。かわいいめぐみちゃんを連れた早紀江さんにお目に掛かってそれ以来ですが、今の早紀 江さんの切々たる訴えはひとつの主張だと思うんですね。拉致家族のひとりひとりのみなさんの声を代表しての主張だと思いました。感動をもってお聞きしまし た。そして今早紀江さんが皆さんに訴えられたことは、実は覚えてらっしゃると思いますが、最初に滋さんがおっしゃったことと、同じなんですよね。今拉致被 害者の家族は、何に悩んでいるか、それは先般久しぶりに開かれた日朝実務者協議でですね、北朝鮮が再調査を約束した。それを受けて万景峰号の寄港を認めよ うとか、それ以外にも経済制裁を一部緩和しようとか、そういうことを言いだした。これはね、家族会の皆様、横田ご夫妻にとっては、悪夢の再来だと思いま す。だって第一回の協議の後、「再調査をします」と言って、今早紀江さんがおっしゃたように、偽物の骨を出してきたんですから、しかし再調査という言葉に まんまと引っかかって、あの時は食料品や衣料品を人道支援とか言って、出したんですからね。その時の悪夢の再来を家族会の皆さん横田さんご夫妻は、今一番 心配しておられることだと思います。

 で、早紀江さんは、先般アメリカに渡って、アメリカの下院の公聴会でお話しをされた。その後、ブッ シュ大統領にもお会いしてます。そしてその時の、感触を含めて、そんなに簡単に向こうの口車に乗せられて、経済制裁を解除する、あるいは悪の枢軸として、 色んな経済制裁をアメリカも加えていますが、それを簡単に解くなどということは、考えられないということを、お二方はおっしゃっているわけなんですね。早 紀江さん、アメリカに行った時の経験も踏まえて、家族会も悩んでいると思うんですが、もう一度、そこのところをお話しいただけませんか。

アメリカ下院公聴会での証言とブッシュ大統領との懇談

 アメリカに何度も行きました。議員の方がたくさん付いてきてくださって、何度も議会の方 にもお願いしたりしてきましたけれども、下院の方で、公聴会がありま した時に、今のようなお話しをさせていただきました。これこそは世界中が、声をひとつにして、北朝鮮という本当に怖ろしい国、その国が核を持ったというこ とを、本当に怖ろしいことで、核はどうしても、それを止めさせなければなりませんけれども、核を申告するといっても、誰も見えない、見せない国ですから、 それをどこまでホントのことを言っているかということが分からない。そうしたからと言って、(制裁を)緩めた時に、もっと違うところに、もっと大きな核を 持っているかもしれない。違うところに核施設があるかもしれない。それを誰一人、見ることが出来ない国と交渉するわけですから、そういう国だということを 分かって、世界中の国々がひとつになって、メッセージを出してくださいということを私は申し上げて来ました。みんなそれぞれが、母親、父親でありますか ら、人間の命が、どんなに大事なものか、それを分かってくださいと、言うことでお願いをしてきました。

 まさか、ブッシュ大統領お会いできるとは思っていなかったんですけども、本当に思いがけなく、前の夕方に明日ブッ シュさんがお会くださるそうですよ、と加藤駐米大使がホテルまで、迎えに来てくださって、長男の拓也と一緒に、行きました。

 拓也は、めぐみが向こうに連れて行かれて半年くらい経った時に映された悲しい顔をした写真が、あそこに掛かってあ りますけれども、白いブラウスを着たあの時 のままの写真を息子がぶら下げて入ってきまして、それを上に掲げて、ブッシュさんに見せました。これは私の姉です、こんな悲しい目をした姉は見たことがあ りません、本当に何も悪いことをしていない。一生懸命に勉強をして、バドミントンの練習をして帰ってくる時に、自分の家のすぐ近くで、工作員に連れて行か れて、で30年も経っているんです、これは半年くらい後に映された写真だと思います。どうか、姉を助けるために、協力ください、とブッシュさんにお見せし ました。

 その時、ブッシュ大統領は、非常に悲痛な顔をなさいまして、許せないことだ。この子の体がこの部屋にはないけれど も、この写真を 私たちと一緒に写してもらいましょう。とおっしゃって、テーブルのところに立てかけてくださって、私たちと一緒に記者の方々に、写真を写していただくこと ができました。その時、ブッシュ大統領は、ひとつの国の国家の指導者が、他の国の何の罪もない者を拉致をしてこいと指令をするような国があるなんて、信じ られないとおっしゃいました。そしてこのお母さんは、何も欲しがっていない。ただ自分の娘を返して欲しいと、この胸に返して欲しいと言っているだけなんだ から、その指導者は、すぐにたくさんの子供たちを、その親の元へ返しなさいと、新聞記者がたくさんいらっしゃるカメラの前で、言ってくださったんです。本 当に感動的な出会いでした。私はその時は、ブッシュさんが大統領だとか、あんまりそんなことは、考えておりませんでした。私はひとりの母親であり、ブッ シュ大統領も、ひとりの父親であるんだと、父親として、母親として、感じていただければいい、という思いだけで、ここで話している時と同じように、普通に お話しをさせていただきました時に、何とかしなければいけない、必ず取り戻せるように何とか頑張りましょう、と言って、(ブッシュさんは)短い祈りをして くださったのです。本当に感動的な思いで帰ってきました。

 ◆核廃絶と拉致問題は表裏一体の問題

 けれどもこういった大きな国際問題として、色々な国と国との外交の中で、国益というものがあって、その中で、核の問題、拉 致の問題、ミサイルの問題、色々な ことを含めて、流動的に動いている中で、まず核は世界にとってもの凄い脅威なものですから、何としてもこれだけは、日本を含めて、阻止しなければなりませ ん向こうはそれを作らないで破棄するようにし向けなければいけませんけれども、先ほども申しましたように、それが果たしてどこまで、本当にどこまで全部破棄したのかという ことは、絶対に分からないんですね。

 中に入っていくことができない国ですから。だからそれでも、援助をして緩めてという外交が、本当に 良いのかどうか、ということは、私たちは今分からないんです。ホントに良いのかしらと。後でどんなことが起きてくるのかなと。少しずつ国益に利すること が、 あっても、もっとそれ以上に大変なことが起きるのではないかと、非常に不安な思いを持っております山崎拓さんをはじめとする70名を越えるよ うな人たちが、日朝友好議連というようなものを立ち上げまして、拉致議連とは、真反対の考え方をした人たちが、動き出しています。

 そして(日朝)国交正常 化をまずやるべきだと、その人たちは、言っています。そうすれば、中に入っていって、色んな交流が出来て、拉致被害者 も分かるという考え方なんですけども、とんでもないことです。

 ちゃっとした大使が向こうに常駐の人が居ても、北朝鮮ではある範囲から出られないという(横から滋さんが「範 囲は35キロと示唆)ことが あります。そういう決まりがあって、絶対にそのワクから出られないんですね。だからその人たちが(友好議連)が行ったって、隠しているもの(核)を見つけ ることなどできませんし、むしろ国交正常化が先になされれば、拉致被害者の人たちは、こんな人たちはまったく居なかったということで、完全にもう抹殺され てしまうと私たちは、非常に危惧しております。

 ですので、これ(拉 致問題)は、強いカードとして、日本のカードとして、これをちゃんとしな ければ、絶対に支援は行かないんですよ。 お金も行きませんよ、ということで、世界の国国と一緒になって、言い続けなければいけないことだと、私たちは運動してきましたし、このことはどうしても合 点のいかない問題なんです。皆様方は、どういう風にお思いになられるでしょうか。長くなりしたが、私の意見を言わせていただきました。

韓国における拉致問題の動向

滋さん
 拉致問題というのは、日本だけと思っていましたら、韓国では、もっとたくさんの拉致被害者がいると分かったわけで すが、その後の調査の結果、現在では12カ国の人が拉致されていると言われております。

 しかし国によってはひとりとかふたりのところもありますから、実質的に数の多いのは、韓国です。朝鮮戦争が始まっ たのが、昭和25年ですから、その時北が南 の方に攻め込んだんですけど、アメリカが介入したので、北の方に退却したんですけど、その時に約9万人の人を連れていっているわけです。

 それも広い意味で拉致と言えますが、しかしこの方達の子供たちが家族会を作っていますけど、非常に皆さん高齢なわ けです。前に日本に来られた方でも「私の父 はもし生きていれば94歳だ。だからもし生きているんだったら、すぐ返して欲しい。死亡しているんであれば、骨を返して欲しい」と言っていましたけど、年 齢的に言って、かなりの方が亡くなっているということが家族の方も、想像しているわけですけども、それ以外でも、日本と同じような条件の人でも480人く らいの人が拉致されています。

 非常に多いのは漁船員の人です。その中でも船長と機関長を残して、後の方は帰って来ています。そういった方 は、テレビに出演して私たちはスパイでしたなどと言わされています。それから拉致されたことは分かっているんですけど、現在どうなっているか分からないん です。そういう方は、おそらくスパイに仕立てられて、自分の国に戻ってきて、スパイをやっているだろうからということで、はじめの内は仕事はしているだろ うけど、やっぱり家族に会いたいと思って家族のところに来るだろうから、家族を監視していれば、逮捕できるだろうということで、家族などというのは、日本 の場合は、初めの頃は無関心な人は居ましたけど、迫害を受けたことはないんです。

 韓国なんかの場合は、スパイの家族だみたいなことを言わ れて、日本と一番違うのは、政府や議員の方が、拉致に対する関心が非常に薄いということ。これは離散家族の家族なんかと比べれば拉致された人の数は少ない ということがあるのかもしれませんけど、政府の方は扱うのも、とうし省とかいう省で、国内の問題を扱う省が担当で外務省が扱っているわけではないんです。

 特に、二代前の大統領からはそうだったんですけど、まあ今度(政権に)は、皆さん非常に期待していたわけなんです けど、我々も、本来であれば、今月の23日 か25日まで、韓国で初めての(拉致問題の)国際会議が開かれる予定で、日本の家族会からも、参加するだったんですけれども、今韓国は、牛肉の輸入問題 で、毎日デモが行われていて、とても今そんなことができる状態ではないというので、9月くらいまで延期するということになってますけど、日本と一番の大き な違いというのは、被害者が多いですから、家族会が大きな団体で、「シンガンス」のミレニアム恩赦時なんかでも、反対運動をして、警察と対立したなんてこ ともありましたけど、一般の支援者というのが、ゼロなわけなんです。

 ですから特に朝鮮戦争の時の被害者なんていうのは、韓国の人でも知ら ない人が多いと言われてますし、非常に感心が薄いですね。ですから今日のような、色んな別の団体が主催してくださって、拉致の話を皆さんに聞いていただく ということが出来るわけですけど、韓国はそれができない。できないということは、昔の日本と同じように、一般の方がよく知らないわけなんですね。

 昭和63年にも国会に取り上げられた時、3件のアベックの略奪事件と1件の未遂事件とか、大韓航空機を爆破したキ ムヒョンヒに、日本語を教えた「リウネ」に ついて、国会で質問がなされてますけど、これがサンケイと日経にちょっと小さく出たらしいですけど、それ以外の大新聞には出なかった、テレビの中継もな かった、親も我々が心配したと同じように、自分たちが騒ぐと子供たちに危害が加えられるということで、黙っていた。

 そしたら結局誰も知ら ないから、全然運動が起きなかった。これと同じような状態があるんです。だから韓国の方々が日本に来ると、羨ましいと言います。皆さんが整理してくださる し、安倍さんなんかの場合は、総理大臣が韓国の被害者の方とも会ってくれるし、外務大臣も会ってくださる。日本が羨ましいって言ってましたけど、やはり日 本もここまで盛り上がったのは、一般の方々が関心を持ってくださって、政府の動きなんかを、見てくださるので、ここまで来たわけだと思っております。

 韓国では政府が取り戻した人はひとりもいません。脱北した人は何人か居るらしいんですけど、ですからやはり拉致問 題の解決のためには、皆さんの世論というのが最大の力となるのだと思いますので、是非引き続き、解決まで関心を持ってくださいますよう、お願い申します。

会場からの質問(省略)

以上採録は佐藤弘弥


拉致問題全面解決への世田谷アピール

 平成二十年六月二十一日、第7回 世田谷フォーラム(世田谷区民集会室)に於いて、横田滋・早紀江ご夫妻をお呼びし「拉致問題」について、さまざまな角度から討議した結果、以下のアピール が、同フォーラム参加者(243名)の総意により、満場一致にて採択されました。

 本文

 昭和五二年十一月十五日新潟の街から十三歳の少女が、あたかも神隠しにあったかのように忽然と姿を消しました。

 少女の名前は、横田めぐみさん。当時13歳の明るく朗らかな中学生でした。ご両親 は、「めぐみが、事情もなく居なくなるはずがない」と、毎日我が子の 行方を探し回りました。

 そして夜床に就くと、幾度も「こんな悲しい目に遭うならば、いっそ死んでし まいたい」と、枕を濡らした、ということです。そのめぐみさんが北朝鮮という国家の工作員によって拉致され、多くの拉致被害者と共に平壌で生存しているこ とが分かったのは、二十年後の平成九年一月のことでした。

 その後、横田ご夫妻は、悩んだ末に、めぐみさんの名前を実名で公表し、世論に訴えること を決め、この ことは全国で大反響を呼び起こしました。ご両親の懸命な行動が、世論を動かし、政府も動き出しました。やがて、ご夫妻をはじめとする拉致家族のみなさんの 奮闘は、日本だけではなく、世界の世論をも、動かし始めています。子を思う親の心は万国共通です。

  現在、残念ながら、国際政治の中で、この拉致問題は、少し棚上げになったようにも見受けられます。これではいけないのではないでしょうか。現状では、 拉致問題の全面解決は見えて来ません。

 そこで、私たちは日本政府と北朝鮮政府に次のように訴え ます。

 「第一に、何の罪もない、日本人を拉致した北朝鮮政府は、国際法の精神に則り、まず拉致 被害者を即時無条件で解放すべきである。

 北朝鮮政府は、一日千秋 の思いで、拉致された家族との再会を念願している家族の思いを汲み取るべきである。

 第二に、日本政府は、自国民が自国内において「拉致」されるという犯罪行為があった事実 に鑑み、拉致被害者およびその家族に何らかの救済補償を実施すべきである。」

 以上のアピールを発し、私たちは、本日の胸に迫る横田ご夫妻の話を持ち帰り、家族や近 隣、また友人・知人に伝え、いっそう世論が喚起していくように努めます。

 最後に、私たち世田谷フォーラムは、本日の拉致問題全面解決への世田谷アピールを発した 後、それぞれの立場に応じて、世論を喚起し、一日も早い救出が実現するように努力することを、ここにお約束申し上げます。

平成二十年六月二十一日

世田谷フォーラム

  代表 鈴木淑夫

他参加者 一同

尚、本宣言は、6月25日夕、内閣拉致問題担当補佐官中山恭子氏に提出されまし た。


2008.7.4 佐藤弘弥

義経伝説
思いつきエッセイ