日米・「銃」による凶悪事件を考える

−それは過剰な競争社会の暗部か−


佐藤弘弥

 はじめに

 社会の暗部を照射するようないやな銃器による殺人事件が日米で相次いで起きてしまった。

 ○アメリカ バージニア州ブラクッスバーグ 州立バージニア工科大学構内。
現地時間 4月16日午前7時過ぎ、学生寮で男女二人の学生が銃によって 殺害される。
午前9時45分頃、ドイツ語の授業がはじまった教室に加害者が侵入。教授を殺害後、教室にいた学生に発砲。29名を殺害。合計32名の人間が犠牲となる。
 ○日本 長崎市大黒町選挙事務所前 
日本時間4月17日午後7時52分頃、現職の伊藤一長市長が選挙運動を終 え、事務所に戻ってきたところを背後から発砲され殺害される。
 
 図らずも同時期に起きたこのふたつの事件の背後には、人間の心の奥にある深い闇を垣間見るような怖さがある。このふたつの事件の第一報に接した時、私は ただあり得ない異常な事件であると思った。しかし、内容をよく吟味しながらじっくりと見ていくと、最初の印象とはかなり違う感慨が湧いてきたのである。

 1 銃による凶行

 アメリカでの犯行は、韓国から移民してきた23歳の学生が、あろうことか学生の聖域である大学構内で、2度に渡って32名もの学生や教授を射殺するとい うアメリカ史上最悪の乱射事件となった。バージニア工科大学の広い敷地内という特殊事情も、警察側にとっては、緊急逮捕の障害となったことも考えられる。 それほど前例のない事件だった。

 1回目の犯行後、容疑者は無口だったという平常時とはまったく逆に、自分の犯行を正当化する発言をビデオカメラに収め、さらには英雄気取りとも取れる自 分の写真数十枚を添付した小包をテレビ局(NBC)に送りつけるという念の入りようだった。

 このビデオの中には、1999年に起きたコロンバイン高校銃乱射事件を起こした2人を殉教者と呼ぶなど、容疑者の反社会的な犯行動機を裏付ける重要資料 が含まれているようである。

 一方、日本での犯行は、全国的な統一選挙期間中の出来事であり、選挙運動中の長崎市の現職市長が選挙事務所に帰って来たところを至近距離から射殺される という前代未聞の事件だった。

 容疑者は日本最大の暴力団の山口組の幹部(59)だった。理由は市発注の工事現場で自動車事故を起こしたが、市側の対応に納得できない。あるいは自分の 関係する建設会社が市長の横やりで入札できない、などというものであるそうだが、自己正当化の屁理屈でしかなかった。考えてみれば、この犯行の裏には、そ のような屁理屈とは全く違う動機が眠っているようにも感じられる。

 2 ふたつの事件の3つの共通点

 ところで、この2つの凶悪事件に共通するものは、第1に、「銃」による犯行であること。第2に、格差拡大にあって「負け組」に位置するマイノリティの人 間による犯行であること。第3に、はじめから暴力を用いて人を殺害すると決めてかかっている「確信的犯行」でしかも「反社会性」を帯びていること。以上、 3点になると思われる。

 <a 銃社会>
 第1の「銃」の問題である。アメリカでは幾度も銃規制が叫ばれているのだが、その度に銃規制に反対する圧力団体(全米ライフル協会)の政治力によって一 向に進まない。何しろ彼らは「アメリカ憲法」の「武器を保持し携帯する人民の権利は侵害されてはならない」(憲法修正2条)という条項を楯に取った上に、 各界に拡がる人脈を最大限に活用して、規制案をことごとく潰してしまうのである。

 ちなみに人口3億人(2006年統計)のアメリカ社会では、約2億5千万丁(2000年米司法省統計)を越える銃がどこかしこに存在し、銃による殺人犠 牲者数は、2005年のFBIの統計によれば年間10,100人を越える状況となっている。ここで留意すべきは、銃による暴力行為が起こる背景かもしれな い。アメリカでは、多くのアメリカ兵が、内戦状態にあるイラクに常駐している。彼らは常に命の危険に曝される暴力の局地ともいうべき戦争の最中にあり、あ らゆる側面から見て日本に比べ死は遙かに身近に感じられるところにある。

 日本においては、もちろん銃の所持は違法である。しかし違法を承知でこれを所持できる闇ルートがあると言われる。したがってなかなか規制も難しい。どん な規制も、確信犯には勝てないということだ。

 <b 負け組>
 今回の2つの犯行には、市民社会そのものに対する反社会的な動機があるように感じられる。アメリカでの犯行には、特にその色合いが強い。今回の事件を引 き起こしたとされる容疑者の大学生が韓国系アメリカ人(23歳)であるという点も妙に引っかかる。米バージニア州は、韓国系移民の市民が多く居住する地域 で、バージニア工科大学だけで、1000人の韓国系学生が学んでいるという。

 現在アメリカには110万人の韓国系アメリカ人がいる(2000年米国勢調査)と言われるが、韓国の外交通商省の統計(2003年)では215万以上と いう統計もある。一般に韓国系アメリカ人は、韓国での資産を持って移民した富裕層だけではなく、自国での生活苦のために移民に活路を見出す層も多いといわ れる。今回の事件の容疑者一家も、後者に属し、両親は彼が8歳の時に姉と4人でアメリカに夢を託して渡った家族だった。しかし、容疑者の言動からは、アメ リカ社会は彼の夢を否定していると感じたようだ。容疑者の中には、何か屈折した心理が芽生えていたことも考えられる。

 日本は戦後平和憲法の下に平和で比較的均質な社会が出来上がってきた、ところがここに来て均質な社会から、アメリカに似た競争型の社会に変質しつつあ る。小泉政権の経済政策は、強いものをより強くする政策という側面もあった。結局、弱いと見なされるものは、排除され、疎外され、負け組と呼ばれる社会層 ができあがる。これが格差の問題である。

 別に私は今回の市長射殺犯をかばうつもりは毛頭ないが、暴対法によって公権力の管理下に置かれる指定暴力団もまた社会的には負け組に位置する社会的少数 者(マイノリティ)なのである。かつて暴対法(1992)が成立しようとする時、組の構成員の家族たちが、この法律は「自分たちの生活を根本から否定する もの」とデモ行進したことを思い出す。

 彼らは、ある者は組織を解散し、市民社会に戻って更生した人間も存在しただろう。しかしそれはごく少数で、多くはその後地下に潜み、違法を承知で、一か 八かのし上がって行こうとする。そこでは当然市民社会との軋轢が生じる。2003年に起きた山口組五菱会(ごりょうかい)によるヤミ金融事件はその典型で あった。負け組の階層の中でも「勝ち組」と「負け組」に否応なく、より分けられていくのである。今回の市長殺害までに至る人生の負け組の中の負け組とも言 える容疑者個人の人生の機微を正確に分析してみれば、長崎市長という公人を殺害するまでにエスカレートしていく心の葛藤が必ず見えて来るはずだ。

 思うに、容疑者は自分をここまで追い込んだ社会に復讐を挑む気持で、象徴的な意味合いを込めて長崎市長を選び、自己の犯行に箔をつけるようにして刑務所 に逃亡をはかったということになりはしないか。逃亡とは、上層部に対する上納金からの逃亡、自分の債務(借金)からの逃亡、日本社会そのものからの逃亡、 などの意味が込められていたと思われる。もっと言えば、容疑者にとっては、市民社会そのものが、「勝ち組」に映り、その象徴として名のある長崎市長を狙っ たということだったかもしれない。そこに今回の事件の根深さがあるのではないだろうか。だから、単純に組織暴力を排除するということでは、解決できない社 会構造あるいは経済問題が横たわっているということではないかと思うのである。

 <c 反社会的確信犯>
 では、彼らはどうして今回の凶行に走ったのか。そのヒントを私は今回大学構内で大量殺害に至ったビデオでの犯行声明を資料として考えてみたい。

 まず毎日新聞の現地レポートによれば、

「チョ容疑者はある日、英語の授業で音読する順番が回ってきたのに沈黙。 教師から不合格にすると脅されると、何か口に入れているような変な声で音読したという。同級生の一人は「彼が音読し始めた途端、クラス中が大笑いした」と 振り返り、韓国出身の容疑者に対し「中国へ帰れと言った」という。別の同級生は、「チョ容疑者が一言二言しかしゃべらず、殻に閉じこもっているため、先生 たちも次第にあきらめ、彼を無視するようになった」と話した」

「高校時代の複数の同級生によるとチョ容疑者は高校時代からほとんど周囲と会話しなかった。ある日英語の授業で教科書の音読をした時、おかしな太い声だっ たため、クラス中が笑って『中国へ帰れ』とからかったという。また、中学校時代にもチョ容疑者の英語がうまくないことから、笑いものにする同級生がいた」 (「米大学乱射:高校時代にいじめ受ける…当時の同級生証言」 4月20日付毎日新聞)とある。

 これを読むと容疑者はイジメを受けていて、学校というコミュニティにスムーズにとけ込んで行けなかった人間だったようだ。

 容疑者は、NBCに送ったビデオで、あたかもジョン・レノンがステージでシャウトするように叫んだ。

 「その時がきた。だからボクはやった。やら なければならなかった。

 お前たちに避け るチャンスは無数にあった。しかし、お前たちはボクに血を流させることを選んだ。お前たちはボクの心臓を破壊し、魂をレイプし、良心を踏みにじったのだ。

 お前たちはただ 単にある哀れな少年の一生を消し去ったと考えるだろう。ボクはお前たちに感謝をする。何故ならば、ボクは、力なく、弱い人々に勇気を与えるため、イエス・ キリストのように死ねるのだから。

 ツバを吐きかけ られ、のどにゴミを押し込まれる気持が、お前たちに分かるか。自分で自分の墓を掘る時の気持ちが分かるか。左耳から右耳まで、首を切り裂かれる時の気持ち が分かるか。

 お前たちの道楽 のために十字架に架けられ、突き刺され、屈辱を味わい、血を流し、死んでいく気持が分かるか。

 お前たちはあら ゆる物を手にしていた。ベンツを所有しても足りないのか。金のネックレスを下げても足りないのか。お前たちは投資信託の資産にも満足せず、ウオツカとコ ニャックを呑んでも足りないのか。あらゆるものを持っているというのに。

 これでおしまい だ。もうどん詰まりだ。とんでもない人生だった。お前たちはボクがこんなことを本音でしたかったと思っているのか。それは絶対にそれは違う。ボクはお前た ちのために、これをやった。弱く、無防備な未来の世代のために。ボクはモーゼのように海を割り、ボクの民、あらゆる時代の弱く無防備な子供たちを導く……」 (朝鮮日報JNSより一部意訳し佐藤が構成)

 それはまるで自分が最初で最後のステージに立ったロックスターのような姿だった。彼にしてみれば、晴れ姿だったのである。敢えて言えば、反社会性を顕わ にし、悪魔に成りきることで、およそかけ離れた存在のキリストを気取ったのである。 

 この中には、犯人の異様に高ぶり屈折しきった反社会的な心情がある。その上で、犯行を肯定し、自分を殉教者にすることで、社会に自分の存在を誇示してい る。このアジテーションを読みながら、アメリカというあらゆる人間の欲望を肯定する過剰な競争社会にあって、どうしてもその社会にとけ込んでいくことので きない人間の激しい絶望と孤独がある。

 このアジテーションの根本に眠るものは、日本において現職市長を殺害した犯人の心に通じる何かがある。それは市民社会にどうしてもとけ込んで行けず弱く 歪んでしまった心である。

 読売新聞(4月18日朝刊)によれば、市長を殺害した犯人城尾容疑者も、市長を批判する犯行声明文とカセットなどをテレビ朝日宛てに送ったと伝えてい る。詳細については報道されていないが、大雑把な内容は「伊藤一長市長を許せないのは、市民のため県民のため、不正を許すことができないからです」などと 記入。消印は4月15日付けで長崎中央郵便局の消印があったということだ。やはり、城尾容疑者も、チョ容疑者同様、あくまでも己に正義があるごときレト リックを使い、マスコミに自分の存在を誇示しながら、止むに止まれぬ思いがあることを世間に知らせたかった心理が見て取れる。

 こうして考えてみると、このふたつの凶悪犯罪が、表面上どのように異常な犯罪に見えようとも、市民社会に馴染んで行けず、追い込まれ、人として越えては ならない市民社会のルールという第一線を踏み越えてしまった「負け組」の屈折した孤独で悲しい心情が見えてくることは明らかだ。

 と同時に、ふたりの犯罪者の己の殻に閉じこもったような頑(かたく)なな形相を見ていると、「怪物」とか「鬼」とか「悪魔」とでも罵詈雑言(ばりぞうご ん)を並べたくなるのであるが、このような人間をつくり出したのは、他ならぬ私たちの過剰な競争社会であることをけっして忘れてはならないのである。

 3 結語 ハード・ソフト織り交ぜた解決策の必要

 私はこの日米で相次いで起こった「銃」による事件を目の当たり見ながら、事件の直接的な犯行の動機とは別に、日米に市民社会に深く進行している格差とい う問題があるのではないかと感じる。そうした社会的背景にも十二分に焦点をあてて、この犯行の背後にある人間の深層心理の暗部にも、メスを入れて行かなけ ればならないのではないだろうか。

 別の言い方をすれば、32名の尊い命を殺害した犯人の韓国系アメリカ人「チョ・スンヒ」(23)も、長崎市市長を殺害した城尾哲弥(59)も、精神を病 んでいるというよりは、私たちの身近にいる隣人と何ら変わらない人間なのである。但し彼らは、日米の市民社会にはどうしてもとけ込めず、社会から自分は見 捨てられていると疎外感を膨らませ、徐々に追い詰められて、自己の内部に眠っている攻撃的本性に身をゆだね反社会的凶行に走ってしまったのである。それは 一面勝ち組に対する仇討ちの側面もあるかもしれない。

 最後になるが、社会には、このような凶暴に走る資質を持った人間をも含めて柔軟に受け入れて、悩みを聞き、これを解決する仕組みがどうしても必要だと痛 感した。アメリカにおいても、自殺の怖れがあるということでカウンセリングを施したが、残念ながらこれが明確に機能しなかったために、今回の凶行が起きて しまったようだ。

 長崎市においても、単に「組織暴力はこれを撥ね付ける」というハードな解決だけではなく、もちろん警察とも密接に連携をした上でだが、トラブルを仲介す る第三機関やセクションを創設しソフトな解決をはかるシステムがあれば、あるいは今回の凶行を未然に抑止できる可能性もあったのではないかと思うのであ る。(07年4月20日佐藤弘弥記)

 ふたつの不幸な事件で亡くなったすべての御霊に心から哀悼の意を表します。合掌 >


2007.4.18 佐藤弘弥

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