高野山歩きながら考えたこと

森の 人・空海


−空海の心は森から創られた?!−



高野山大門付近からの山容

高野山大門付近からの山容
(05年7月15日 佐藤弘弥撮影)

生き生きて高野の奥の山陰にその 人御居す森の人かな ひろや


何故空海が高野山で亡くなったか、という問題を考えていたら、森あるいは山の思想というものに行きついた。人間の DNAが森や山で鍛えられた。裸の猿と言われる人間は、肉食獣にとってそれこそ美味しい美味しい御馳走だったに違いない。

宮沢賢治に「注文の多い料理店」という童話がある。あれは山猫が、人間を美味しく食べるという寓意を含んだ怖い話だが、まさに人間という生き物は、毛皮を 剥いで立って歩いているようなもので、山猫にとってみれば、最高の食材であった。

人間はそこで木の上に栖を見つけた。木を登ることで、手と腕が発達した。このこととどのような因果関係があるかは不明だが、脳の容積が異常なほどに膨らん だ。脳は思考を生み、知恵が生まれた。裸の猿としての人間は、知恵を蓄積して、文化を育んだ。

猛獣のカゲで小さくなっていた人間は、道具や武器を考案して、逆に彼らを捕獲して食料とするまでになった。こうして人間は森をハンモックのようにして生き ていたが、平地にまで進出するようになる。森と比べれば、遙かに危険な場所だが、人間はそこで農業を発明し、定住の生活を覚えた。

このように考えてみると、人間にとって、森や山は魂の故郷ともいえる場所なのである。若い頃の空海は、森や山の霊気を浴びながら、自分のなかにある神秘的 な生命エネルギーのようなものに異常なほど興味を持った。空海は我々からたかだた1200年前の人物である。私も子供の頃、超能力というものに異常なほど 興味を持ったことがある。空海も同じだ。彼は先輩に当たる山岳修行者から、ある呪文を百万ベン唱えると、読んだ本はすべて理解でき、暗記できると言われ た。それでは自分も実践してみよう。ここが空海の並みでないところだが、彼はそれを信じ切って、実行したのである。空海の非凡は、信じる力である。

そして間もなく奇瑞はおきる。四国の室戸岬で瞑想をしていると、目映い明星のような光が海の向こうからやってきて空海の口のなかに飛び込んだというのであ る。神秘体験である。そこから空海は、日本中の森や山を歩いて、人間の持つ力というものの奥にある神秘の根源を見つけようとした。勉強すればするほど、疑 問が湧いてくる。そこで空海は、町に出て、先端の学というものを学ぼうとした。しかし日本には、自分の学びたいことを満足するレベルの学がないことを強く 思った。そこで、空海は世界最高の都市であった唐の長安に渡るのである。当時の長安の人口は100万とも言われるような大都市であった。

そこで空海は、恵果という密教の師匠と運命的な出会いをした。恵果は空海を一目見て、これは我が教えを伝える者と感じ、空海に異例の灌頂を行う。灌頂と は、キリスト教の洗礼にも似た儀式であるが、密教はこの灌頂によって、師匠から弟子に伝えられるもので学問とは違って、書物を読んで、学べるものとは違う のである。

恵果は、空海に意を伝えた後、間もなく亡くなってしまう。空海は二十年に渡って、中国で学ぶ予定だったが、恵果の遺志でもある日本の民に密教を伝えるとい う思いをもって、僅か二年で中国を離れる決意をするのである。空海の肩には、日本という国家を世界最高の水準の文化国家にするという自信があった。

問題は人の心が根本から変化しなければ、文化国家は存在しえない。そこで空海はありとあらゆる学問と芸術や技術の書物を積んで日本に帰るのである。

空海は一躍、日本一の知識人であり文化人となった。空海は圧倒的に忙しく働いた。国家のため日本のため、しかし空海は自分が人間であり、働き過ぎれば、寿 命は短くなることを知っていたが、国家は彼を森に返すことを許さなかった。それでも空海は、今森で、エネルギーを回復しなかればと強く思った。それが空海 が高野山を開いた理由であった。彼は森の人、山で育った人物だったのである。

空海は弟子たちに亡くなる前年、このように言って諭した。
「生期、今幾ならず、汝等好く住して、仏法を慎み守 れ。吾永く山に帰らん」(「空海僧都伝」真済著 読み下し:宮坂宥勝 弘法大師空海全集第八巻 筑摩書房より)と。

現代語にすれば、「私の生きている時間も、もういくらもない。君たちは立派にここに住み、そして仏の教えを慎みをもって守りなさい。私は山に帰って永(な が)の眠りに就こうと思う」(佐藤訳)となる。

最後の「吾永く山に帰らん」が実に胸にしみる・・・。

 生き生きて高野の奥の山陰にその 人御居す森の人かな


2006.3.3 Hsato

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