黒澤と三船

 

1966年赤ひげでベネチア映画祭男優賞受賞した三船と黒澤。

 
人の出会いは不思議である。ある時、それまで何の関係も無い者同士が、無二の親友となり、夫婦となり、同士となる。映画監督黒澤明と俳優三船敏郎の出会いもまた、そのような不思議な縁で結ばれた関係であった。二人はちょうど十年の歳の差があり、二人の父親は、偶然だがともに秋田の出身である。

黒澤が初めて三船を見たのは、彼が監督になって間もない1946年6月、つまり黒澤36才、三船が26歳の時であった。

すごいのが、面接にきているぞ。しかしその男、態度が乱暴でね。当落すれすれらしい」という声を聞いて、黒澤は、興味をそそられて、面接会場にかけ付けてみた。すると、いかつい顔をした若い男が、縛られて、獣のように暴れまわっている。もちろんオーディションのテストだが、その男の野獣のような雰囲気に会場がすっかり飲まれている様子だった。

黒澤自身「生け捕られた猛獣が、そこにいるような凄まじい姿で、しばらく動けなかった」と語っている。そのテストが終わると、三船は「どうにでもしろ」というような形相で、審査員の方を逆に威嚇するように覗きこんでいた。

結果は、三船の規格外の演技が嫌われたのか不合格となった。そこで「ちょっと、待った」と黒澤が、大声をだした。そして審査委員長である山本嘉次郎のそばに行って「彼は面白い役者だと思います。第一あの面構えがいい。何とか監督の力で採用していただけませんか」と言ったのであった。

山本は当時黒澤の師匠であり、山本は若い黒澤の才能を高く評価していた。だからこの黒澤の申し出により、三船は命拾いで補欠合格となった。その後、黒澤は、助監督から監督となり、三船を「酔いどれ天使」(1948年)の中のやくざ役でスクリーンに登場させた。その圧倒的な存在感は、主役の志村喬を食っているとさえ評価され、一躍三船は、黒澤映画に無くてはならないキャラクターとなっていく。

「三船は、それまでの日本映画にはない、類まれな才能だ。ともかくそのスピード感は抜群だ。普通の役者が10フィートで表現するところを、三船は3フィートで表現してしまう。しかも驚くべき繊細さと感覚を持っている。めったに役者に惚れない私も三船には参った」(黒澤の自伝「蝦蟇(ガマ)の油」より)

こうしてみると黒澤映画のスピード感とあの圧倒的な力強さは、三船の持つ、あの独特のキャラクターに負うところが大きい。黒澤は、自分の映像感覚を三船の強烈な個性をもって表現しているのだ。しかしこの個性のぶつかり合いも、1965年の「赤ひげ」を最後に、終わってしまう。

このイキサツははっきりしないが、ひとつの伝説として黒澤が「演技プランを出せ」というと「そんなものはない」とにらみ合ったり、「赤ひげ」の撮影後、酒を飲んだ三船が、日本刀をもって、黒澤の家に乱入、そこいら中のものを叩き壊して帰ったというエピソードもあるくらいだ。

三船自身も、「世界のミフネ」と呼ばれるようになり、映画に対しても、黒澤とは違う意見を持つようになったのかもしれない。それは更に別の言い方をすれば、人生観の違い、人生の目標の違いと言ってもいいだろう。

ともかくこうして三船は、三船プロを旗揚げし、自分なりの映画製作を開始、一方の黒澤は「トラ、トラ、トラ」の監督辞退や自殺未遂などもあり、その後長い低迷期に入ってしまう。

三船という存在は、それほど黒澤という芸術家の想像力を掻きたてる存在だったのである。三船の役者としての個性は、その圧倒的な野獣性にある。この三船との個性のぶつかり合いこそが、黒澤明の中に眠っている映像の才能を呼び覚ましたのだ。たとえ黒澤とて、三船という強烈な存在感を持つ役者なしには、これほどの成功を勝ち取る事は、不可能だった。逆に言えば、もしこの二人が、「赤ひげ」でケンカ別れをしなければ、もっと素晴らしい作品が…と悔やまれる。

後に黒澤は、三船という役者がいたからこそ、私の映画も成功を治めることができた、と昨年暮れ(1997.12.24)三船の死に際して、最大級の賛辞を持って褒め称えている。その黒澤も、その9ヶ月後(1998.9.6)、三船の後を追うように逝ってしまった。出会いとは、何と不思議ではないか。佐藤
 



 

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1998.09.10