黒澤の「だまし」

 
 
 
 
 
まったく人間と言うものは、知っているつもりになっているが、実は何も知らないものだ。昨夜、テレビが、馬鹿番組を割いて、黒澤の「椿三十郎」(1962年)を上映するというので、急ぎ辺りの照明を暗くして、真剣に見させてもらった。

多分自分が小学生の頃、この映画の派手なチラシが新聞に入っていたのを覚えている。しかし期待して見にいったと思うが、チャンバラ映画の感覚に毒されていた私は、この黒澤作品に、あまりいい感想を抱けなかった。理由は、実に単純で、派手なチャンバラシーンが少なかったからである。

あらためて、この「椿三十郎」を観て、その完璧な内容に驚かされた。まずこの映画が、忠臣蔵の伝統を踏まえた「だましの戦略」を含んだ映画であること。その「だまし」とは、敵である相手の戦略を読んで、相手を欺き、ついには本懐(ほんかい)を遂げるという弱者の戦略である。

もはや日本の古典ともなった「忠臣蔵」という物語の基本は、弱者が本懐を遂げるための「だましの戦略」にある。主人公は、もちろん赤穂藩の城代家老(江戸に行っている主君の留守を守る藩のトップ)大石蔵之助である。主君の仇を討つために、大石は、自分の心を隠し、愚図を装い本意ではない京都の花街で遊興にふけり、同士の気持ちを確かめながら、江戸に入る。そして仇である吉良の家の構造を探り、タイミングを見な
がら、吉良邸に押し入り、一挙に敵の首を上げるのである。

映画「椿」の中には、目に見えない形で、この忠臣蔵に通じる「だまし」の伝統が、随所に散りばめられている。

この映画のストーリーは、実に単純である。ある小さな藩がある。その中では、汚職が行われていた。その事実を知った若者(加山雄三演じる伊織)が、仲間7、8人を集めて、決起をする。そこで叔父(おじ)である城代家老(大石蔵之助と同じように、江戸に行っている主君の留守を守る藩のトップ)に相談する。しかしその叔父は、事実関係をもっと調べてからという深慮から、伊織の書いた文書を破いて、捨ててしまう。

浅はかな若者は、「叔父さんは、話しにならない」とばかりに怒って、大目付である菊井という人物に相談する。ところがこの菊井こそが、汚職の黒幕そのものだった。この菊井は、自分自身を切れ者と信じこんでおり、自分で藩を牛耳る野心を懐に隠している。だから伊織に相談を持ちかけられた瞬間に、反対派を一網打尽に潰してしまおうと、「分かった、君たちとすぐに相談したい」と話しを聞くふりをして、会う約束をす
る。

若者は、期待に胸を膨らませて、菊井に自分たちの意見を述べようと待っている。それが菊井のだましの陰謀だとも知らずに…。これが、冒頭の古い神社の境内である。ところがこの場所をねぐらにする浪人がいた。それが主人公の「椿三十郎」である。ふとしたことで若者たちの話しを聞いてしまったこの浪人は、若者に自分の知恵と勇気をもって、正義を実現するのに一役買うことになる。浪人は、若者に諭すように話す。「本当
に悪いヤツは、意外なところにいるものだ」と。外を見れば、すでに菊井の一味によって、境内は囲まれてしまっていた。この時点で初めて、若者は、大目付の菊井にだまされていることに気づくのである。

そこから椿の痛快なだましの才能が発揮される。椿は敵に囲まれた情勢の中で、若者を奥に隠して、「ここには自分しかいない」とハッタリをかまして、敵を追い払ってしまう。このように圧倒的な敵の力に対して、三船演じる椿三十郎は、折りを見ながら、次々とだましの策を、縦横無尽に使って、局面を自分方の有利に展開させていく。そしてついには、たったの7、8人で菊井という悪党の一味を潰してしまうのである。それが
実に小気味よくて、リズム感があり、わくわくするほど痛快である。

時には、だましによって、敵に自分を味方と思わせ、相手の内情を探り、相手の戦略をかく乱し、しかし相手には、こちらの内情、人数などは一切探らせない。このようにだましの戦略を使って弱者は、自分の意図した方向に自らの運命を意図した方向に運んでいく。

考えてみれば、映画そのものが、だましの芸術かもしれない。つまり有りもしないようなことを画面上で、さも本当のことのように正当化してしまうのである。その意味では黒澤自身がだましの天才と言えるかもしれない。しかしここまで痛快にだまされると実に心地いい。

我々は、本当に知らないことが多い。知識では黒澤の「椿三十郎」のことはミミタコ状態で知っているつもりだった。ところが、昨夜のように真剣に目を通すと、その内容が、まったく違って見えてしまうのである。今後は、もう一度、黒澤の一作品、一作品を真剣に観てみようという気がしてきた。
佐藤
 



 

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1998.09.9