栗駒村誌

神社

郷社駒形根神社

当社は御駒宮大日社駒形根大明神駒形根神社と云い、栗駒嶽絶巓大日嶽にあるを嶽宮と称し、其東麓に当たる栗駒村沼倉に在るを御里宮と称す。祭神は大日霊尊 天常立尊 国常立尊 吾勝尊 天津彦番邇々芸尊 神日本磐余彦火火出見尊にして創建の年月祥ならずと雖も、延喜式神名帳に載する所の本郡七社の一にして縁記に依れば人皇十二代景行天皇の皇子日本武尊東夷征伐の命を給いし時、軍容堂々として其勢い雷電の如く迎え遮る者無かりしかば巨魁等極力要害の地に立てこもる防ぎしも其勢いに怖れ終に弓矢を捨てて降を請い東陲全く定まりしかば尊自から六柱の神を駒形山の頂なる大日嶽に齋き祀りて東国鎮護を祈り給い且つ祭政一致の主義に因り万民に敬神の念を授け給えるものにて東国に於ける祭神の最初なれば古来東は奥の一ノ宮及日宮と称し人民皆恐れて此山に登る者なかりしと云う。故に玉山と文字の間なる大峯(昔は拝峯とも云う)より参拝せりと、其後桓武天皇の延暦年中征夷大将軍坂上田村麿東夷征伐の節此社に祈願を籠めしに程なく大勝を得て東夷悉く平定せしかば四大門(大鳥町 花山 三島 秋田仙北郡)を建て奉賽し親ら駒形大明神の五文字を書したる大額を掲げ又其額は今伝わり居らざるも門の跡は現存せり。次て文徳天皇の仁壽元年九月辛未神階を進めて正五位下を加え清和天皇の貞勤元年正月二十七日更に正一位を賜う。其頃恵美朝臣勅使として下向あり。其旅舘の遺地と称する處を勅使屋敷、又は高津屋敷或いは其付近を都田と称して沼倉にあり雑記によれば往時安部臣巨勢多冶比眞人及源頼義父子奥羽下向の時朝敵降伏の祈願あり特に藤原三代は当社に崇敬篤く大日嶽に社殿(火災に罹り金具器具、神社の宝物とし現存せり)を建て武運を祈り各兵器祭田の寄進少なからず。奥羽観蹟老聞誌に曰く一・二・三迫西磐井羽州雄勝郡等凡百八十邑の総鎮守として祭りし由載せあり以て当時の盛大なるを知るべし。尚村内風土記に曰く
在山上称嶽宮、在東麓称里宮、山路嵯峨、且秋季新雪埋渓、故造営里宮於東麓、常敬拝之、上古四大宮司、三十禰宜、六十社家、今悉ばつ闕其家各姓氏僅存鈴杵家一人、別当修験観常院、乃東麓大宮司鈴杵宿禰五十九世乃裔孫也    安永六年八月書上 風土記
境内には本殿拝殿長床等あり本殿は享和元年時の肝入清水十三郎の発起にて南部藩の木匠
宮殿の名工なる南部久慈の修作に係り二手洗造りにて細密なる彫刻ありて頗る壮麗を極む社殿は元(昔は長床の虚にありして長床建立のため秋庭神社並びに遷祀)下の段にありしを本殿拝殿改築に当たり肝入清水十三郎が現在の場所に二百坪の地を寄付し建立したり。拝殿は萓葺なりしが昭和四年瓦葺きに改めたり。幄社は大正六年沼倉桑畑前速日神社の拝殿を移築したり。境内は千数百年を経たる老杉を以て囲まれ神荒びたる神域内風致大に佳なり。宝物としては田村将軍奉納古剣十 元文四年人皇百十六代桜町天皇の御宸筆に係(勅宣)扁額一面天文凍御博士土御門安倍泰邦卿(暦学者にして宝暦年中詔により宝暦甲戌暦を作る)筆額面(日宮)一面 吉田神祇官正三位兼雄卿筆額面(駒形根大明神)一面等を秘蔵せり。其他秘蔵の古文書画中には法眼狩野永眞画(雲龍)一幅
近衛其熈公の 志賀の浦や遠きかりほの波間よりこもりて出るあり明けの月
下冷泉為経卿 五月雨の空もととろにほととぎすなにを無なしとやよたた鳴くらん
久我前内大臣惟道公 千はやふる加茂のやしろの姫小松○代○ともいろはわたらじ
色紙各一幅ずつ外に○浮提金の○大の駒一 大日嶽に建立せる社殿の金具数個等を蔵す。例祭は陰三月九月の二十九日の二回にて迫川流域の農家にては講中を組織し参拝者最多し夏季に於いて栗駒登山者里宮に於いて払いの祈祷を受け参拝者是又頻繁を極む。更に古例の示す処により三年若しくは四年に一回必ず御巡幸と称して神輿の渡御あり。格式は頗る荘厳にして元文五年御縁起と共に御下渡しになりたる。祭式の法に依りて行う明治四年十一月二十一日郷社に列す。明治四十五年五月十五日八坂神社(天王坂の上)山神社(川台)明玉神社(玉山)愛宕神社(休石の上宮林)速日神社(桑畑前)を此社に合祀す。
  御宣命写
      宗源      宣旨
       駒形根神社   陸前國栗原郡三迫荘沼倉村
右宣奉授大明神號者神宣乃啓状如件
  元文四年十五日
             神部    壱岐宿禰奉
           神祇道官領勾当長正三位右兵衛督兼侍従
                        卜部朝臣兼雄
御縁起は長文に付謹写せず
    歴代の神官を挙ぐれば
 
初代 鈴杵宿禰・二代 鈴杵宿全・三代 鈴杵宿茂・四代 鈴杵宿大・五代 鈴杵宿衛・六代 鈴杵宿部・七代 鈴杵宿野・八代 鈴杵宿左・九代 鈴杵宿慶・十代 鈴杵宿瀬・十一代 鈴杵宿夫・十二代 鈴杵宿典・十三代 鈴杵宿吾・十四代 鈴杵宿加・十五代 鈴杵宿米・十六代 鈴杵宿彌・十七代 鈴杵宿峯・十八代 鈴杵宿壽・十九代 鈴杵宿東・二十代 鈴杵宿淨・二一代 鈴杵宿圓・二二代 鈴杵宿道・二三代 鈴杵宿陽・二四代 鈴杵宿明・二五代 鈴杵宿教・二六代 鈴杵宿賢・二七代 大昼寺宿眞・二八代 大昼寺宿清・二九代 大昼寺慈光・三十代 大昼寺啓観・三一代 大昼寺盈元・三二代 大昼寺宿秀・三三代 大昼寺宿門・三四代 大昼寺宿鳳・三五代 大昼寺皓常・三六代 大昼寺樹照・三七代 大昼寺鐵岩・三八代 大昼寺恭順・三九代 大昼寺恭隠・四〇代 大昼寺廣正・四一代 大昼寺益泉・四二代 大昼寺宿澄・四三代 大昼寺木通・四四代 大昼寺了巓・四五代 大昼寺蓮随・四六代 大昼寺照林・四七代 大昼寺紫雲・四八代 大昼寺遙伝・四九代 大昼寺宿運・五十代 大昼寺宿隠・五一代 大昼寺朝全・五二代 大昼寺実翁・五三代 大昼寺壁源・五四代 大昼寺養全・五五代 観常院宿栄・五六代 文殊坊碧水・五七代 覚性坊宿潤・五八代 万覚坊宿伝・五九代 観常院宿林・六十代 法壽坊智明・六一代 峰雲院廣純・六二代 鈴杵宿純・六三代 鈴杵一角・六四代 鈴杵大澄・六五代 鈴杵筑麻呂・六六代 鈴杵千蔭・六七代 鈴杵伊識
陸前国栗原郡駒形根神社由来記
             宮城県知事従四位勲三等  勝間田稔題額
     勅宣日宮
昔王政の盛なりし時は、天祖大御神の大神のまにまに神祇をまつらせ給ふこといと厳明なりき。されば延喜式の神名帳に載せて神祇官より幣帛奉りし、神社三千百二十二座に及びて式外の神社はその数を知らず、国人敬神の心篤き故に神亦加護し給ひば。神人合体して世運の盛なるは言うも更なり、天変地妖なく四時順行して凶年来らず、疾疫起らず、人民蕃息して天の益人の称空しからざりき。

ここに本郡の式社駒形根神社は出羽の国をかけて百八十六村の鎮守なるが、霊験日々に新たにして、山の名おう名駒の続きて出づるのみかは、郷村の産物は五穀をはじめとして衣食住のものみなこの神のめぐみにもるるものなし。さて神恩に報い奉るとの事古来朝旨を以て駒形の嶺に神社を建て、天祖天照大神皇孫吾勝々天忍穂耳尊を祭り、又日本武尊をも副へてまつり来しかば、昔蝦夷を征討したる田村麻呂将軍を始めとして皆此の大神に祈らざるはなく、終に夷を北地に追い退けて良民長く憂患を免れたりき、然るに世くだり神道衰へて王政すたれしかば、仏徒ほしいままに此の神を偽りて仏と称して、はては旧典を失ふに至りしを、天下再び治まりて仙台藩の時元文年間神官村民等相議りて藩に訴へ、京師の神道管領吉田家に諜報してやや旧制に復したれども、規模狭少にして古札百分の一に至らず、剰へ祭神のことを私議するものありしかど、是は佐久間翁の観跡聞老誌にも記し、水戸家の大日本史の神祇志にも載する事今は世に疑ふべくもあらずなりぬ。

況や今日維新の大御代にありて、旧説を主張し古札を興して神人合体なりし古風にかへしたらは尊き神霊もいかでか幸福を降して守り給はざらん。故に同志相議り赤心を大碑に表し千載の後に伝へむとす、因て予め事の理由をここに記すになんありける。
            明治二十七年四月
                         正七位 久米幹文撰
                                 佐々木舜永書
 日宮駒形根神社里宮  安永風土記

一、小宮  一ノ宮
一、勧請  誰勧請ト申義並年月日共ニ相知不申候事
一、社地  南北四十間、東西七十間       一、社  東向壱間作
一、拝殿  東向竪三間 横二間         一、石階 長四十八間 幅六尺
一、鳥居  東向                一、長床 東向竪四間 横二間
一、額二ッ 鳥居額駒形根大明神六字吉田神祇官正三位兼雄御筆  一、別当 峯雲院
      長床竪額 日宮二字天文御博士土御門安倍泰邦卿御筆
一、地主  御村空地ニ付地主無御座候事     一、祭日 三月・九月二十九日


秋葉神社
郷社の境内にあり社殿は元狭小の木造なりしを享和元年元駒形根神社の本殿を現地に移転せり。祭神は大鳥神 倉穂魂神 火産霊神を祀る。祭日は旧3月 9月十八日。社殿萓葺なりしを大正十四年瓦葺に改む。

招魂社
大正十三年速日神社本殿を郷社境内に移築し創めて建立したり。狛犬も同社より移したり。合い祀の神を左に

逝去年月日/事由/住所/年齢/階級及び位階勲章等/氏名
明治二八・九・一〇/日清 病死/反目/三二/歩一/芳賀繁治
〃 二八・九・二五/〃/堰ノ上/二三/歩上/菅原鉄三郎
〃 三九・一・二六/八甲田雪中行軍遭難/三丁/二三/歩五/小野寺熊治郎
〃 三八・二・一〇/日露 病死/中財/二三/歩一 勲八/加藤徳之助
〃 三八・三・七 /〃黒溝台城門破壊決死隊戦死/川側/二四/歩上 勲八 功七/小達房冶
〃 三八・六・七 /日露 病死/○森/二二/○卒 勲八/芳賀栄之助
大正三・一〇・一八/日独軍艦高千穂沈没/立石/三八/海軍舩匠長 勲七/炭屋金五郎
〃 七・七・一二 /軍艦河内乗込中沈没/藤柄巻/二一/海軍三等兵曹/菊池栄
〃 七・七・一二 /同/水押田/二八/海軍二等兵曹/菅原直助
〃 七・一一・八 /日独哈兵 病死/屋敷/三三/砲兵少尉正八勲六/芳賀文二郎
〃 九・一・五  /第四艦隊 病死/宮林/二二/歩二/菅原喜一郎
〃 一三・一・二 /日露負傷帰宅病死/法華堂/四八/陸軍一等計手勲七廃兵/高橋安吉
昭和八・七・二六 /上海事変負傷帰宅病死/上田/二四/海軍二機 勲八/狩野三郎
〃一二・一〇・二〇/支那事変三家村戦死/沼倉竹内/二八/歩五 勲七功七/芳賀十吉
〃一二・一〇・二三/同/金丁/三五/歩五 勲八功七/後藤儀
〃 一三・一・三一/同/田尻/三八/同  同 同/菅原一三
〃 一三・五・五 /同/玉山/三八/同  同 同/芳賀繁雄
〃 一三・九・二四/同/馬場/三四/歩曹長勲八功七/千葉道康
〃 一三・九・二七//古屋敷/二二/歩上/中川作治
//硫黄沢/三四/歩伍/芳賀巳吉
//滝ノ原/三七/勲八功七/菅原幸冶


八幡神社
松倉字西山に鎮座す。同社は人皇九三代後伏見天皇正安三年七月松倉城主小野寺忠義、当城守護神として、宇佐八幡大神御分霊を奉祀せるものにして、後人皇百二代後花園天皇の永享三年九月小野寺義尚の代に火災に罹い本社拝殿及び長床等全焼せるを人皇百四代後柏原天皇永正三年九月八日小野寺義植代に本社並びに拝殿を再建したり。拝殿は萱葺きにして狭少なる為め荘厳なる祭式を行うに不便なりしが、昭和十四年九月支那事変に出征せる軍人の武運長久祈願と連戦連勝の御礼願を兼ね瓦葺きに改築したり。明治四年村社に列す。明治四十五年五月薬師神社(前田)不動神社(山田)を当社に合祀したり。

愛宕神社
松倉城址(根岸舘)にあり後伏見天皇正安二年城主小野寺忠義当城の守護神として祀りたり 後人皇百三代後土御門天皇文明元年二月十六代義晴の代に山火災延焼して焼失せるを長享三年九月十八代小野寺義行再建して今日に至る。祭日は旧三月六日、九月二十四日なり。

三吉神社
明治十七年四月八日、松倉鍛冶屋中小野寺徳五郎秋田縣太平山鎮座三吉神社の御分霊を当山に奉祀したり。初めは四尺四面の仮宮に御神体を安置せるを大正七年旧四月八日山田元不動神社の社殿を移築したり。祭日旧四月・九月8日。
寺院

福聚山円年寺
当寺は曹洞宗にして沼倉法華堂七十二番地にあり、人皇百五代後奈良天皇天文八年岩ヶ崎町熊野山黄金寺第六世二三善葩大和尚の開山なり。古は松倉字寺坂に沼倉松倉の檀家を有する寺院ありしが、文明元年山火事にて延焼し廃寺となり数十年の後、天文六年沼倉長竹屋敷(今の役場敷地)袋和泉元法華寺の跡なりし地所一町歩余(今の小林区官舎敷地川岸迄)を寄進し竪八間横六間の殿堂を建立し開山せり。本尊は正観世音一体脇仏は勢至観音、虚空蔵菩薩、不動明王、達磨大元、阿弥陀如来、聖徳太子(大本山永平寺開祖)、○陽大師(大本山総持寺開祖)、常済大師なり。虚空蔵菩薩、不動明王は明治初年駒形根神社より奉遷したる霊仏なり。栗駒山は往古神社と号して祭り、延喜式神名帳に載せありしが中古平安時代に至り仏法盛んとなり栗駒山大日岳を大日如来と虚空蔵岳を虚空蔵菩薩と祀り藤原氏三代は信仰最も篤く羽黒派大昼寺と称し神仏混淆の祭祀を挙げ来たりしに明治維新に際し其の筋の厳命に因り神仏を分離し前記の仏体を円年寺に奉遷せり。後天保三年旧三月二十九日十六世大岩和尚時代に沼倉四十余戸、馬場大手前田畦野火より、の火災の際類焼に罹り殿堂庫裏全部焼失せり。当寺峯屋敷濁沼夘平冶献身的努力にて村内多数の罹災者あるに拘わらず同五年現在の殿堂を建立するのに尽力せり。当寺の各住職は袋和泉を開基功労者とし、濁沼夘平冶を中興の功労者として位牌を寺院の仏壇に祀り長く其の徳を讃え且つ追福せり。前記脇仏の内阿弥陀如来、聖徳太子は元長林寺の本尊なりしが同寺荒廃に依り沼倉字川側狩野永六が自家に奉遷し信仰せるを昭和四年円年寺に奉遷す。 明治三十六年の大洪水にて学校流失せる為同年より大正七年迄十有六年の久しき仮校舎に充てたるため破損の箇所続出し見る蔭もなき有様となりたるため檀家の寄進を以て大正八年天井仕切蘭間等を初め大修繕を施したりしも外回りの建具等迄及ばざりしが現住職山上芳宗師は殿内の装飾は勿論建具等改善造作に熱注し一層の美観を呈せり。

正観世音の縁日は旧三月・九月十七日にて霊験著しく特に馬産の守本尊として願望成就のため村内及び隣村より祈願のため年々多数の参拝者を見るに至れり。境内に白山妙理大権現(石堂)延命地蔵尊(石像)馬頭観世音馬魂忠霊塔(石造)あり。馬魂忠霊塔は昭和十二年以来支那事変のため本村より馬百数十頭徴発により出征したるを以て武運長久祈願と又不幸にして斃したる霊魂を慰むるため産馬取締遠藤良作発起し本村外文字鳥矢崎萩野萩荘の各村より浄財喜捨を受け枢密顧問官従三位勲一等藤沢幾之すけ輔閣下の揮毫に係る石塔を建立し昭和十三年四月十七日除幕式を挙げたり。当住職は昭和十一年栗駒山虚空蔵岳に大日如来堂、虚空蔵菩薩堂を建立し往時の仏法を復活し藤原時代の旺盛に挽回せんと努力し年と共に参拝者の増加を見るに至れり。

栗駒山開発を記念として宮城県知事菊山嘉男より詠歌あり

栗駒山に題して
   任に就きて先ず仰ぎ見る栗駒や
         秀麗神秘心○とるも
虚空蔵岳に題して
    虚空蔵菩薩いますにふさわしき
          麗峯と○○われは仰ぎぬ

歴代住職を挙ぐ

開山 二三善葩/二世 快室文慶/三世 尊庭廣壽/四世 招厳祖鼎/五世 大光祖雲/六世 傳翁恵燈/七世 開禅大會/八世 特厳祖栄/九世 玄綱恵契/十世 天真玉関/十一世 眞龍秀峯/十二世 金剛石梁/十三世 秀英文透/十四世 洞門宗契/十五世 法海探道/十六世 大岩魯雄/十七世 仏門隆禅/十八世 萬芳道音/十九世 東山越音/二十世現在 萬山芳宗

十七世隆禅和尚は西磐井郡永井村蝦島の寺院に転住
十八世道音和尚は越後国東長嶋邑山上家出身父子相続して現住は其孫三代目なり。


南中山長照寺
当寺は曹洞宗大源派にして松倉字中山にあり岩ヶ崎町の末寺にて人皇百六代正親町天皇天正十二年黄金寺九世龍國壽全和尚の開山なり。客殿は竪九間横五間にて開山当時の建物なり。本尊は釈迦如来、文珠菩薩、普賢菩薩の三体なり。

歴代の住職を挙ぐれば

開山 龍國壽全/二世 久山良/三世 松山江/四世 南山領堂/五世 石庵/六世 英白雄/七世 骨似徹禅/八世 智山随天/九世 一行耕雲/十世 佛應東水/十一世 得宗賢禅/十二世 藍外憲悟/十三世 運山賢隆/十四世 道淳仙應


墓地
古来墳墓に付きては何等許可を要せず自由に各々最寄りに墓地を設け、甚だしきは宅地付近に埋葬し来たりしが、明治十八年墓地取締法により寺院境内墓地に埋葬せしむる方針なりしも慣例の久しき直ちに実行せず、明治二十年頃より強制して実行せしむ。後ち忽ち境内墓地狭隘を告ぐると遠隔の地及び川越し所は雨天に際会せば数日間延期して減水(当時完全なる橋なし)を待って埋葬する等頗る不便なため新墓地を設けたり沼倉法華堂、松倉寺下は其境内にて開山当時より墓地となせり。

沼倉法華堂 明治十八年八月二十七日許可  沼倉永洞 昭和六年八月八日許可
沼倉浦田沢 明治二十二年七月十日許可   松倉寺下 明治十八年八月二十七日許可
沼倉玉山  明治二十五年十月十五日許可  松倉西山 明治三十五年四月二十八日許可


阿弥陀堂
沼倉字寺柳長林寺遺趾にあり名蹟誌及び観蹟聞老誌の記する所に依れば堂内安置の阿弥陀仏体は背後に応永二年建つる処也とあり又堂内に義経の馬具を蔵し今尚其鎧兜を存せり。別に古笈あり弁慶の負える物にして中に金襴の袈裟ありと。数百年前火災に罹り僅かに本尊を残すのみにて宝物一切を鳥有に帰したり。後ち一間四面の堂宇を再建せしも自然荒廃傾きたるを以て本尊は付近の民家に奉遷したり。明治三十年乞食の残り火不注意のため火災に罹れり。堂の傍らに広範に亘る多くの礎あり当時の盛んなるを偲ぶに足る。又往昔付近に堂宇多く八幡、菅神、愛宕、薬師観音等数宇を建てたる遺趾なりと云う。境内三十坪官有第三種地なりしが小達慶五郎払い下げたるを以て境内にある茶臼及び石地蔵六基を円年寺に移したり。

永洞不動堂
沼倉字菅谷にあり其由緒詳らかならざるも昔同地中川某京都菅谷不動の御分霊を祀り堂宇を建立し字を菅谷と名付けたりと云う。爾来永洞部落にては鎮守として信仰し境内は数百年を経たる老杉を以て囲み頗る荘厳なりしが明治三十八年沼倉部落有志が学校新築調査を名とし其費用に充てるため濫りて売却し費消して学校を建築せず其儘となれり。 祭日は旧八月二十八日にて其夜は若者相撲あり縣界なるを以て宮城県と岩手県と東西に分かれ頗る壮烈なる勝負を見ることを得たりしが明治三十年頃より自然廃止となれり。


教化

沼倉尋常小学校

明治六年初めて学制施行に方り、円年寺を仮校舎に充て平机寺子屋教育を施したり。明治九年沼倉字川側にある建物(狩野徳三郎と三迫川の間に正月七日川原町市場に充てるため竪五間横十二間二階十五坪)釘ノ子炭屋長十郎より買い受け之れに移りたり。然るに学校前に鍛冶職を営み居たる者小使を申し込みたるに性○悪なるため採用せざるを恨み明治十二年放火の災害に罹り再び円年寺に移りたり。明治十六年九月二十二日の大洪水にて役場と共に流失し役場学校の小使二名溺死したり。依って三度円年寺に移り、同境内に古備荒倉庫(昔は桑畑佐藤弥八方にあるを沼倉萬代役場敷地に移築し流し残りたり)を移築し之れと客殿を教室に充当し明治三十六年十一月二日より大正七年三月三十一日迄十六ヶ年間不完全なる設備の下に準寺子屋教育を施したり。大正七年四月一日統一学校に移ると同時に沼倉尋常小学校は廃止となれり。創立以来の校長を挙ぐれば下の如し

自明治六年   至十三年  山下一氏/自明治十三年  至十四年  和久千代之助
自明治十五年  至十七年  山下一氏/自明治十七年  至十八年  舘脇弥三郎
自明治十九年  至二十年  山下一氏/自明治二十一年 至二十二年 宮澤他吉
自明治二十二年 至四十二年 日野安穂/自明治四十二年 至四十四年 加藤喜代冶
自明治四十四年 至大正七年 千葉柳吉 

附記  大正五年三月三十一日限り沼倉松倉両小学校は統一し栗駒小学校となりたるも校舎落成せざるため松倉は分教場の形にて其儘教授す。


松倉尋常小学校
明治六年の創立にして当時長照寺を仮用して教室に充てたり。同九年松倉三丁(小畑寛一方と三迫川の間今の桑畑)菅原丈太郎の家屋を借りて校舎となす。同二十八年十月松倉中山二十八番地(忠魂碑前)に校舎を新築して之れに移転す。其間に於いて明治十五年松倉初等小学校と称す。同二十二年三丁簡易小学校と称す。同二十五年松倉尋常小学校と改称したりしが大正五年三月三十一日限り統一となれり。然れども新校舎落成せざめため大正七年三月三十一日迄教授し居れり。創立当時より校長を挙ぐれば

自明治 六年六月 至八年八月 宮崎賢哉 自明治八年九月 至二十二年八月 日野安穂
自明治二十二年九月 至大正五年三月 丹野甲子郎


栗駒尋常高等小学校
本村は晨に沼倉松倉各尋常小学校ありしが村経済上両校を統一して一ヶ所に校舎を建て完全なる教育を施すに如かずとの一般の与論に基づき村当局之れに決意したるに松倉五区と沼倉一・二区とが村中央に建設する件は遠路にして通学の便を欠くと云う理由の下に四区も道連れし位置問題に付き大反対をなしたりしが数回の村会に於いて一人の差を以て決議し村の中央なる東貴船を敷地として竪四十間横五間に東より西に1字成りの平屋に建設し上棟式一週間後即ち大正六年四月二十九日の夜大暴風のため倒潰したるため請け負いを解除し村直営として再建し大正七年四月一日両校より移従せり(請負人鴬澤村松本多喜冶請負金五千三百円)当時の学級は両校合わせて五学級・玉山一学級計六学級なり。高等科へ入学する者は岩ヶ崎校へ通学せるも僅かに尋常科卒業者の四分の一に過ぎず年々徴兵検査の成績によれば体格に於いては本縣一の優等なるも学科に至りては頗る劣等なるを嘆き大正十二年高等課を併置し西端に二教室を増築して教育の向上を図りたるため漸く学力の進歩を見他町村と肩を並ぶることを得たり。幾みなくして教室に狭隘を告げ昭和九年更に東端に四教室を増築したり。学校敷地は長野県片倉合名会社の所有田地なりしが新築の際三反四畆二十一歩を四百円にて買受け更に百円の寄付を受く。又本村和久精一郎より田百坪の寄付を受け之れを合わせ敷地となせり。昭和九年増築の際菅原亀治郎菅原直美より田一反八畆二十六歩を買受け敷地となし更に昭和十二年校庭拡張の際再び菅原亀治郎菅原直美より田一反三畆二十七歩を買い受けたり。

御眞影奉安庫は本村松倉出身なる医学博士佐竹武士(満州在住)が金一千五百円の建築費を要したる建物を昭和十二年七月十二日母校に寄付せり。

統一後の校長を挙ぐれば

自大正七年四月 至十二年七月 千葉柳吉/自大正十二年八月 至五年三月 石川一郎
自昭和五年四月 至十年三月 菅原弥太郎/自昭和十年四月 至十六年三月 佐竹馨

現在教員

昭和一〇.三.三一着任 校長 佐竹馨/昭和一三.三.三一着任 訓導 千葉順美
昭和八.三.三一着任 訓導 菅原軍一郎/昭和一二.三.三一着任 訓導 佐藤龍吉
昭和一〇.三.三一着任 訓導 菅原喜助/大正一一.四.一五着任 訓導 高橋仙應
昭和一三.三.三一着任 訓導 寺嶋健治/昭和一三.三.三一着任 訓導 坂本仙三郎
昭和八.一〇.三一着任 訓導 橋本チサト/昭和一二.一二.一四着任 訓導 塙トシ子
昭和一三.五.二三着任 教員 小田功/昭和一四.三.三一着任 教員 菅原静江
昭和一四.三.三一着任 助教諭 菅原良治/昭和一四.三.三一着任 教員 小野よしゑ


玉山分教場
明治十四年滝ノ原民家を借り創立す。同十五年上田狩野弥平所有地(道路より入り口右側)を借り小教室を建て之れに移りたり。明治十六年万代学校新築と同時に玉山字田中十三番の二に民家を移築し校舎に充て沼倉小学校玉山分教場と称す。(滝ノ原の建物は万代に移築し役場となしその後洪水で流失せり)同二十二年学区変更により玉山簡易科となり、同二十五年再び沼倉尋常小学校玉山分教場と改称す。当時児童数十九人(女児は入学せず)尋常六学年迄の単級とす。爾来、発電所の設置其他により人口増加のため校舎狭隘を告げ昭和三年玉山部落の寄附を基本とし村費補助を加え敷地を現在の地に変更して新築し、旧来の不便を排除し教育の向上を図り面目を一新せり。

創立当時よりの教員を挙ぐ

氏名・備考
波多野源七・金成出身/栗村信連/山下一氏・沼倉出身/大槻申平/高橋安吉・沼倉出身/加藤富吉/森下作蔵・金成出身/小野寺壽/中条市冶/佐藤惣三郎/小川明則・仙台出身/佐竹俊雄・尾松出身/鈴木清左衛門・文字出身/白鳥音右衛門・築館出身/高橋忠雄・築館出身/小田功・玉山出身/小田正人・玉山出身

小学校児童 (昭和十四年度)

本校在学児/分教場在学児/本校分校
学級別・男・女・計/男・女・計/合計
尋常科 一・三一・四五・七六/五・七・一二/八八
 〃  二・三〇・三六・六六/四・三・七/七三
 〃  三・三七・三八・七五/三・五・八/八三
 〃  四・三八・三四・七二/五・二・七/七九
 〃  五・四八・三三・八一/四・二・六/八七
 〃  六・三六・三三・六九/一・一・一/七一
計・二二〇・二一九・四三九/二二・二〇・四二/四八一
高等科 一・四四・三一・七五
 〃  二・三〇・一四・四四
計・七四・四五・一一九
本校計・二九四・二六四・五五八
本校分校合計 
男三一六 女二八四 計六〇〇

本村は従来寺子屋時代より男子のみ入学し、女児は士族神官僧侶医師等の家庭のみ入学し、其数僅かに四・五名なり。農家の女子は無学文盲なりしが明治二十二年其筋の強制的勤奨により漸次入学し同二十五年より女児全般の入学を見たり。


栗駒青年学校
明治四十三年八月農業補習学校として沼倉松倉両校に附設したりしが、大正五年四月一日両校統一につき栗駒農業補習学校となり、大正15年栗駒青年訓練所と改称し昭和七年四月一日栗駒村農業補修学校となり昭和十年七月一日栗駒青年学校となり今日に至る。設置と当初は男子のみにて専ら季節教授を施し来たりしが大正十五青年訓練所となりてより毎月四・五日の農林日に集合し軍事教練及び学科並びに農業知識を授けたり、青年学校となりてより女性に対し農業裁縫等の実地知識を与えるなり。校長は歴代の小学校長なり

校長一  実地指導員男一 女一  学科指導員十二  教練指導員五
生徒 男一三二 女九一  計二二三


小学校基本財産
山林
学校後山林拾町歩(小学校基本財産となるも後日如何なる必要生ずるやも計り難く便宜上軍に村基本財産となせり)笹ヶ森官山百四十二町○七畆二十六歩不要存置林として払い下げの広告あるや松倉部落民は三派に分かれ或るは縁故を辿り或るは藩政時代拝領者中村氏と共同し又は旧山守を抱き込み種々なる方法を以て払い下げの競願をなせるため青森大林区署(個人払い下げなれば代金即納の上立木伐採し土地の処分をなす、村にて払い下げをなせば払下代金を三ヶ年に分納するの便あり)の注意により村に於いて金七万三千三百七十三円にて払い下げたり。是より先き、松倉部民は八十八名を以て払下組合を組織したるを以て村にては実際払下の斡旋をなしたるため其報酬として右内より学校後にて拾町歩を控除し百三十二町七畆二十六歩を払下価格を以て組合員に昭和三年三月二十日交付したり。此払下の計画方法に付き時の郡長中島霊円の努力を感謝す。
 
沼倉天王山薬水沢杉植林地五町歩

大正五年当時の収入役菅原巳之吉発起し、書記高橋安吉、村会議員佐藤丈太郎現地を調査し非常なる努力の結果小学校植林として青年団の奉仕労務を受け同年より植え始め後ち年々加植し来たりしが大正七・八年頃よりは歴代の校長並びに教員諸氏及び生徒の奮闘努力により植え付けその他の手入れをなし今日の鬱蒼たる模範植林を見る。


松倉東貴船十一番田二反一畆二十七歩
片倉合名会社の所有なりしが、昭和十一年時の校長佐竹 馨努力して会社を説き金七百三十円を栗駒奨学会より寄附を受け金七百円にて買受け残金は小学校基本財産に蓄積せり。
名所旧蹟

霊岳栗駒山
一名須川岳とも云う。村の西北隅に従える高山にして絶巓を大日嶽と云う。西方の厳窟より清水湧出して迫川の本をなす。此厳に駒形根神社を祀る、更に西に虚空蔵岳あり、此全山を称して栗駒山と云う。

毎年四月頃より八十八夜前後に於いて遠望すれば残雪恰も駒の如く浮かび出で或いは走馬の如く立馬の如く斑馬の如く見る所により数様に変ず。又大日嶽東方に八十八夜になれば笊を提げたる人の形に見ゆる種蒔き坊主と称する残雪現れ、十数年前迄は里農之れを見て苗代に種を蒔くを通例とす。虚空蔵嶽には雪解けて鮪形現れ里人之れを見て初鮪を口にするを喜ぶ。斯くて残雪未だ消えざるに秋の彼岸となれば新たに降雪を見る。当山の誇りとする石南花(シャクナゲ)は毎年二百十日となれば満山紅色に変し、秋は紅葉に全嶽錦繍を織り其美筆紙に尽くし難く、其他種々なる奇草珍木数多く、年々濫りに採取するものあれば昭和十八年営林局に於いて百数十種を選び採取禁止をなし巡視員を置き厳重に取り締まることとなれり。迫川留意機の農家は毎年八・九月の候、沼倉を経て登るを表掛と云い須川口より登るを裏掛と称し山嶽駒形根神社に五穀豊饒の礼願として参拝し又近年学生の登山其他の信者頗る多く其数万人に及ぶ。山麓に山案内者十数人あり。登山の第一日は落合と称する山腹迄自動車の便ありて駒ノ湯にて泊し勇気を養い身を清め翌朝山頂に登り神社を参拝して新湯通り再び駒ノ湯に下るあり。其道筋で大日嶽前に蓙走り運動場(蓙に乗り草上を走る)あり更に下りて天狗の碁盤石を見る。其外山中に名所頗る多し。又山頂より分かれて二里余下り須川温泉に至り一泊して厳美村を経て一ノ関に出づるあり。

村内風土記に曰く

駒形山跨干奥羽両州自坎而東南坤属本州兌乾属羽州峻嶮不可言実東奥第一之高嶽也盛夏宿雪猶在恰似斑馬自東望之南首北尾自西望之北首南尾有斑馬駿々走於雪表之勢故號之駒形山或曰駒形峯日根形根者峯之略訓也或栗駒山也或駒嶽郷称転称日御駒岳御駒山  (安永六年八月書上)

古歌二

夫木 みちのくの栗駒山の朴の木は花より葉こそ冷しかりけれ
同  陸奥の栗駒山の朴の木のまくらはあれときみか手まくら
同  栗駒の松にはいとと年ふれとことなし草そ生そはりける
同  いかてわれ栗駒山の紅葉はを秋は初めとそ色かへてみん   よみ人しらず
同  紅葉する栗駒山の夕かけをいさわか宿にうつしもたらん
   まつしろにあさに見ゆる駒形根かんつよくしてゆきのふかさよ  仙台 伊達吉村

 昭和五年八月二十一日栗駒登山せる湯沢宮城県知事の詠める
   くりこまの 山の小松の実をとりて食べてかくる雲の上の人
   しずかなるもろやまこえてしらくもはみだれかくれりくりこまのやま  みのきち


松倉城
根際舘又は猪ヶ城とも云う。松倉にあり、高さ三十五丈南北四十間東西五十三間にて、昔天喜年中源頼義父子前九年の役に陣所となせる地にして、文治年中小野寺清國なる者葛西壱岐守に従って奥州泰衡征伐の際軍功に依り栗原郡松倉の里近郷千五百貫の地を拝領し、其後引き続き此地に居住す。二十一代の末裔義安(道戒入道と称す)天正十三年伊達政宗と戦い同年十二月二十九日当城落城に及び葛西方敗北に帰するや道戒は羽州仙北に退去せり。此時城下大町其外兵燹に罹れる処多し。 (小野寺家系図書)

萬代舘
古舘とも云う。沼倉にあり高さ十四丈南北六十間東西六十間にして沼倉小次郎高次の居城たり。西北は絶壁にして東南は深谷なり。更に背北に幅十間余の塹壕を以て繞らし堅牢なる城趾にして昔を偲ばるるなり高次の祖恵美太郎すい(打ちミス?)維高なるもの大同年中坂上田村麻呂将軍東夷征伐に従軍し軍功により此地を賜り居住となし後ち藤原清衡に属し累代恩顧を受け十八代の末裔高次に至り源義経と親密なる関係ある為に源頼朝の悪む所となりて落城せりと云う。 (蘇武家に系図ありたるも天保三年の火災の際焼失す)

白岩舘
三居舘とも云い、沼倉にあり高さ三十丈南北三十間東西三十間にして沼倉飛騨守の居城なり。祖先詳らかならざれ共源頼朝に従い藤原泰衡追討の軍功により此地を賜り居城となせり。飛騨守信行なるもの伊達政宗のために戦死落城せり墓地は西磐井郡萩荘村市野々小学校後ろ山にあり墓碑左に

天正十九年八月十四日
忠心院殿前飛州秋山道洛大居士
正心院殿貞恵誠女大姉
天正十九年九月二日

墓碑裏に

三迫沼倉邑主沼倉飛騨守藤原信行天正十八年八月十八日葛西左京大夫平晴信没落後自去舘沈淪翌十九年8月十四日桃生郡深谷糠塚山戦自殺沼倉飛騨守藤原信行行年四十九


岩ノ目舘
沼倉俗称岩ノ目にあり高さ三十丈、南北六十間東西六十間にして恵美小次郎高次の祖先の古城趾なりと云う。名水あり、岩の亀裂より涌出し舘主の御膳水と称せり。

小倉舘
松倉字小倉にあり、高さ八丈東西三十間南北三十間にして昔小倉右近頭の居城なりと云う。東は断崖にして西南は深谷なり。北に人工を加えたる塹壕ありて中央に高さ丈余の五間四面に築きたる桝形の高地あり。之れを本丸と称せり。規模小なりと雖も城趾たるを認むるに舘内に五輪の塔あり右近頭の墓なりと云う。

判官森及び弁慶森
沼倉字河子田学校の後山にあり。判官森は五間四面の土塚を築き其上に五輪の塔一基並びに古碑一基あり。五輪の塔は高さ二尺五寸古色蒼然として一見数百年前のものたるを知る。古碑は高さ三尺余極めて古風にして甚だしく苔むして文字等容易に読む能はず注視して漸く下の文字を知れり。

大願成就
○ 上拝源九郎官者義経公
文治五年閏四月二十八日

而うして其側面にも文字があるが如けしも判じ難し。周囲には老松六樹あり、景色最佳なり弁慶森は其上部にあり以前義経の陣所なりとて弁慶以下六勇士の腰掛石と云う巨石あり古松を以て囲む。村内風土記名蹟誌観蹟聞老誌平泉志等曰く三迫沼倉邑万代館主沼倉小次郎高次なるもの義経と親交あり、義経自刃後遺骸を此地に葬り墓碑並びに五輪の塔を建て篤く祀れりと云う。亦一説に義経蝦夷地に遁れ杉ノ目小次郎行信義経に肖たるを以て替わりて自刃し、高次は兄弟の義縁により遺骸を此地に葬りたりとも云う。真偽は読者の判断に任ずべし。

北海道の人(元当小林区官舎担当人)吉田徳太郎なるもの義経の事績研究に没頭し調査に従事すること前後六ヶ年、偶大正十四年六月当地に来たれり時恰も該地は不要存置林として里人に払い下げられたるを村長と共に青森大林区署に請願し史跡名勝天然記念物保存法により三十坪の地を存地せられたり。之れにより吉田徳太郎は更に縣廳に対し発掘願を提出したるに宮内省より縣廳に対し発掘相成らずとの指令を下附せられたり。其後発掘希望のもの往々来たるも断然同意せず今後も斯かる旧跡は発掘を禁ずるを良法と云うべし。


勅使屋敷
沼倉にあり一名高津屋敷人皇五十六代清和天皇貞観元年正月二十七日駒形根大明神の神階正一位を賜りたる節勅使として下向したる恵美朝臣の旅舘の跡なりと云う。付近を都田と云う。

関所跡
封建時代秋田領との国境枢要の地に置きたる関所中栗原郡に属するもの鬼首(古は栗原郡に属す)・花山・文字・沼倉の四ヶ所なり。沼倉の関所は御境守と称して代々木鉢千葉太郎左衛門方に関守を命じ旅宿を兼業せしめて常に他藩への往復者を視察せしめたり。

御国境塚
秋田縣雄勝郡に属する田代長根にあり形大ならずと雖も往古塚の中に大なる河石を遠く運搬して埋め以て永く其跡を保たしめんとしたるものにて今尚存せり。

岩ノ目名水
沼倉岩ノ目舘にあり堅岩の裂目より涌出して頗る冷水なり。昔舘主の御膳水に用いたと云う。後沼倉村の領主伊達家の祐筆和久半左衛門が揮毫の節は必ず此水を用ゆるを例とせり。

稲瀬川名水
松倉字山田川の源なり。往古より此水を飲み、岩ヶ崎町の櫻馬場にて訓練せる馬は戦場に於いても疲労せず抜群の軍功を現わせりと云う。されば頼朝の愛馬池月摺墨を初めとし江戸洪水の際安部豊後守が濁流を乗り切りたる駿馬等何れも稲瀬川の水にて飼い櫻馬場を疾駆したるえつ逸物なり藩政時代は岩ヶ崎町櫻馬場にて訓練する多数の馬は月に三回は遠乗りと称して稲瀬川の水源に来たり水を飲ましむるを例とせり。故に古来関東関西の馬喰連は國道澤邊村を通過するものは稲瀬川末流なる迫川に態々下りて牽き来たる数頭の馬に水を飲ましむるを例とせり。

石宮及び石碑
神仏/建立年/場所/昭和十三年より年数/摘要
南無阿弥陀仏/宝永 七年/沼倉桑畑大明神跡/二二九/宮地弥太郎建立
智恵福神弁財天/正徳 三年/松倉八幡神社境内/二二六/
南無阿弥陀仏/享保 二年/同/二二二/
同/享保 三年/沼倉荒屋敷下/二二一/
同/享保 四年/滝ノ原濁沼文作脇/二二〇/
梵字/享保一八年/木鉢山神社境内/二〇六/
梵字/享保一九年/木鉢山神社境内/二〇五/
山神牛王加護/享保二一年/沼岩ノ目坂入口/二〇三/
梵字/寛保 四年/沼倉大明神跡/一九五/
同/延享 四年/滝ノ原新掘後/一九二/
同/宝暦 二年/玉山供養石/一八七/
天神宮/宝暦 九年/松倉八幡神社境内/一八〇/佐竹養之助建立
湯殿山/明和 五年/松倉行屋/一七一/
南無阿弥陀仏/安永 五年/松倉八幡神社鳥居脇/一六二/
巳己供養/寛政 二年/松倉行屋/一四九/
巳己供養/寛政 十年/玉山供養石/一四一/
山神碑/文化 二年/松倉仮松邊/一三四/
弁財天/文化 六年/沼倉馬場/一三〇/
南無阿弥陀仏/文政 元年/松倉宮林/一二一/
庚申塔/文政 四年/松倉仮松邊/一一八/
天照皇太神/文政 四年/松倉三丁/一一八/三丁清四郎建立
大神宮/文政 五年/沼倉日照田/一一七/
庚申/文政 五年/同/一一七/
金毘羅大権現/文政 九年/松倉行屋/一一三/
若木大権現/文政一二年/同/一一〇/
牛頭天王/天保 五年/松倉仮松邊/一〇五/
山神社/天保 七年/松倉一本杉/一〇三/
無縁塔/天保一四年/沼倉日照田/九六/
若木大権現/弘化 三年/松倉若木/九三/
金毘羅大権現/弘化 五年/松倉仮松邊/九一

表彰
大正天皇皇后両陛下御結婚満二十五年御祝典の際御思召により全国の孝子順孫節婦儀僕等を表彰せられ本縣より五名なり
 篤行表彰
栗駒村沼倉  織江くまよ

表彰大略

くまよは織江重治郎の長女に生まれ、一八歳にして夫東五郎を迎えたり。東五郎は軍籍にあり日清日露の両役に従軍し日露の役に病気の為兵役を解かれ帰還し後ちくまよは懸命の看護其のー効なく明治四十二年遂に没せり。親族は家政の衰えたる憂い後夫を迎えることを勧めるも二人の子供の身を考え独身を主張し副業として水車を建てて米麦の賃槝及び製粉に専念して父の中風病北海道別居の長男重行の重病長女みさをの長病等医薬療料に多大の費用を要したるのみならず売却せし田地を買戻し極度の貧困と戦い家産を増成し且つ夫病没後十七年の間貞操を全うし婦徳を具えたる等他の模範とするに足るなり。

 
 自治功労表彰
栗駒村書記  鈴杵玉城
表彰の大要

大正二年四月栗駒村雇に就職し翌年二月書記を命ぜらる。爾来勤続二十一年に及び恪勤精励克く法規に通暁し先に財務に隷属し現在会議土木勤業選挙統計学事等を分担し常時吏僚の中堅として村長を補佐し納税の成績向上賛迎交通の発達就学児童の奨励等に尽くしたる功労顕著なり依って置き時計一個を授与し之を表彰す

昭和八年二月十一日 宮城県知事従四位勲三等 三邊長治
 

 自治功労表彰
栗駒村長  菅原巳之吉

表彰の大要

大正三年四月栗駒村収入役に就職、同七年七月助役に挙げられ、同十三年七月村長に当選、今日迄在職二十一年に上る。其間鋭意事務の整理に当たり、小学校の廃合、統一高等科の併置、校舎の増築を完成し一般設備の充実等を行う。又、部落有財産の統一及び財産造成を図り村経済の基礎を確立し又伝染病予防救冶衛生思想の普及向上、産業交通の振興発達及び各種教化団体の助成、産業組合の組織等百般の施設に尽力し熟れも優良なる成績を収め村冶の発展を図りたる功績顕著なり。依って置時計一個を授与し之れを表彰す。

昭和十一年二月十一日 宮城県知事 従四位勲三等 井野次郎


雑事

名石屎石

松倉西山共葬墓地下にあり廻り十尺五寸にして地上突出せる分五尺一寸あり。亀頭陰茎宛然実物の形相を具ひ一見人工を加えたるもの如く見ゆるも実際の天然物なり。昔は子持たず及び陰部の疾患者は此石に祈願を籠むれば忽ち子を授かり陰疾直ちに平癒し陰萋病の如きは即時活動の作用を起こし霊験顕著なりしが現下の如き生めよ殖やせよと奨励の場合信者に忘れられ居る為地方民は再興に汲々として信者を蒐るに努め居れり

姥石
松倉西山八幡神社西道路下にあり横四間縦四間の三角形の大石にして地上五尺余あり、上部中央に長さ六尺五寸の陰部形の小割れあり。此石も婦人の陰部疾患に祈願を籠むるときは霊験顕著なり。古より以上の両石を夫婦石と称して採取を禁止せり。明治十年頃、姥石を岩ヶ崎町の石工より(米一石三円のとき)百円  採取を申し込まれたるも由緒ある名石なるを持って応ぜざりしと云う。右二石は史跡名勝天然記念物として保存し信行するの価値ある名石なれば将来共に堅く採取を禁止して保存すべきものなり。

法師ヶ原衣石
沼倉川臺にあり往昔数人の行者が迫川の上流行者瀧に山籠し修行中瀑潭より二十尋の大蛇現れ衆僧を呑まんとして追い来たるに驚き当所迄逃げ来たり倒れ死したる僧の化石なりと云う。

附言 該石は、法冠法衣の法師が座禅したる姿に似てるを以て行者が其付近に倒れたるを其侭言い伝えたるべし。以前通行人悪戯に頭部頂冠の姿を欠壊し今僅かに其形を存するのみ。


強盗の墓
沼倉字鴻ノ巣囲にあり。  年十月  日奥羽の大盗赤萩彦兵衛の子分なるもの、沼倉字宮ノ下遠藤銀右ェ門方に強盗に押し入りたり。弟義惣太は納戸と称する小室に寝て居たるに早くも強盗と悟り身支度をなし平素用意の六尺棒を構え居たるに強盗二人は其室入口に来たり抜刀をして渡り合い格闘し居るを病で伏中の兄銀右ェ門は之れを見て重病なるにも拘わらず長押より六尺棒を押取り一人を引き受け是又格闘せり。

義惣太と格闘中の賊は過ちて傍らにある大豆入れの瓢箪に躓き大豆を散乱し豆に足を滑らせ倒れたるを義惣太巴は之れ神の与えと眞向より六尺棒にて打据えたれば極悪非道の賊も遂に立つ能はず、其侭苦悶呻吟せり一方家人(老母)は隙を窺い隣家一国―之宮に走り急を告げしかば、直ちに半鐘を叩き鳴らし法螺を吹きたれば、悪党等は村人の駈け集まるを懼れ苦悶中の僚賊に最後の水を呑ませ打殺して其侭逃走せり。翌日村中大騒ぎとなり検視の上身元不明故組合中打寄り悪党ながらも僧侶に引導を託し該地に埋葬せり。翌年西磐井郡赤萩の妻なりと称する者子供を背負い来たりて焼香し去りたり。因に賊は本村に赤萩より婿に来りたるものの手引きにて数日前夜中庭前にある榧の木に上り暫く様子を見極め置き行きたりと。又、格闘中、中間に大坊主が現れ思う存分働くこと出来ず帰りたると或者に語りたると云う。其大坊主なるものは御駒様の出現と聞くもの一層崇敬の念を起こしたり。


博奕窟
沼倉岩ノ目舘の下岩井沢の奥にあり。岩石の突出せる所にて畳四畳敷程の広さなれば如何なる降雨も凌ぐことを得る。昔博奕の法度厳重なる際、博徒此窟に集まり勝負を争いたる所なり。古より官山にて峯には松の巨木繁茂し沢の両平には千古斧鉞を入れざる雑木枝を連ね昼尚暗き深山なりしが明治八年不要存置林として留岡菅原慶吉、武田安右ェ門に払い下げたり(立木共金百円)。

造り瀧・股内瀧
造り瀧は迫川川臺地内にあり両岸より岩石突出し、其間六尺程あり之れに丸太を横たえ、柴等掛け人工を以て瀧を造り、春季川鱒が遡登する際水勢の反動にて打ち返され空を飛んで下り又遡りては打ち返さるる為適当な処に網を張り置りば網の中に打返さるるを捕獲する処なり。毎年其数百尾を超える漁なり。

股内は造り瀧の上流天狗橋の下にあり之れ又両岸より岩石突出して自然の瀧をなす。恰も股の間を流るるに似たるを以て其名あり。之れ又造り瀧と同様春季網を張りて春鱒を捕獲す。其数造り瀧に劣らざるなり。股内は人工を用いざる便宜の場所なるを以て好漁者は春季先きを争って場所の獲得に力めたり。近年、鉱毒及び板倉堰止め等の関係漁族遡らず従って捕獲者も其跡を断つに至れり。


年中行事

旧年中行事
 

正月元日
元朝参りと称して、未明より新しき妻子鞋を穿き氏神の鎮守並びに檀那寺を参拝し一ヶ年中の三朔日の一にて雑煮餅を食して一ヶ年を祝福す。
 四日
働き始めにて細工人炭焼等は八日物とて七日迄製作し又川原町と称して本村に臨時市場を七日に開き製作物品を之れに出して販売し各自「ほまち」となす。買い受けたる商人は直ちに築館八日市に運搬す。


 七日 五節句の一にて七色の菜を粥に入れて食す。入日と云う

 十一日 

農始めと称して朝鶏鳴と共に起き少量の午厩肥を前の田に運び後荷縄及び馬具用藁細工をなし、元旦に献じたる御供え餅を戴き午前中終わる。
 十四日 
中の年越しと称し内庭の牛柱に相撲の取廻りし様のものを藁にて造り誥付け藁を交差し交差点に餅を巻き付けて供え(藁交差は木の年越にて当夜前玉を作り献納す)、夜は「させご」とて子供連が各戸を巡り餅等を貰い之れを食せば健康に成育すると云う。又田打と称して大人共年祝いに当たりたるものを中心に五、六人にて各戸を廻り田打歌を歌い米を貰い之れを食せば当年の厄年は無事経過すると云いしに近年は物貰いを本文に廻る弊害となれり。
十四日夕方○伐りとて一人の子供が山刀を以て果樹に対し「ならざらきるぞ、ならざらきるぞ」と其樹を伐る真似をなし一人の子供は後ろから「なります、なります」と云う。之れは樹に対し多くの結実を約束し警戒するの意味なり。又当夜○っ切りとて、結婚数年後妊娠せざる婦人方へ近隣の大人男女五人行き俄に産室を拵え其婦人を入れ腰拘き産婆婦人科医様各係りを定め模擬出産をなし目出度く男子分娩したる状をなして後援会に入る。之れをなせば数ヶ月にして妊娠すると云う。
 十五日 
朝、暁粥とて小豆粥を食し後、子供達は筧などを叩きながら鳥追の歌をさけぶ。「苗代漕ぐ鳥を頭割りて塩付けて籠へ入れて絡んで遠島へ追ってやれ、遠島が近からば江ノ島へ追てやれ、向かい方の餓鬼奴等当木に尻付き掛けて納豆鉢ねばるとも起きて鳥追いにこい」


 十六日 寺参りと称し檀那寺へ行き参拝す。

 十八日 御十八夜と称し沐浴斎戒して精進を厳重にし餅を搗きて出月に供え拝礼す

  末日 末の年越と称して餅を搗き祝う。藁を交差し牛柱に結び付け供える。

二月二日 不成就日にて薪伐等山に行かず、毛羅造り等藁細工をなす。

  九日 壷団子を食し、山に行かず藁細工等をなす。

 十二日 山の神の木調べと称し、薪伐等山に行かず藁細工等をなす。

 彼岸入日 水稲種子に少量の水を掛け、小豆飯を供う。中日は団子を供う。御帰り餅を供う。

  社日 田の神天より種子を持参し人間に授くる日故、夜着くので夜団子を供える。彼岸より社日迄精進料理。

三月三日

五節句の一なり。草餅を搗き之を食す。新婚者は夫婦揃い里方へ節句礼に行く。各戸にて濁酒製造の頃迄は一升樽に取り餅を持参したるも、近来廃止せるものの如し。上巳と云う。
  五日 
三峯精進狼祭とも云う。古来狼繁殖し馬匹へ害を加うる故に退散のため行う。近年狼の跡を絶えたるに付き廃止するもの多し。五日夜講員宿元へ集合赤飯と御神酒を供え小高い山に登り「ホーエ、ホーエ」と叫び御供物を頂き夕飯を食し御開きとす。十九日もあり一定せず。


 十二日 

山の神精進五人乃至十人位の講中を結び順番に宿元を定めもち米襦米1升ずつ持ち寄り当夜は沐浴斎戒して餅を供え宿泊し翌日参拝後酒者を整え御精進揚げと称して若者の慰安を兼ね宴を開く。其費用各自負担とす。
 十七日 
正観四音祭日村内勿論近村より善男善女の参拝者頗る多し。円年寺にては寺総代及び有志の手伝い受け御守札の配布其他のことをなし頗る多忙を極む。


 十五日 村社八幡神社祭典、村内は勿論近村より参拝者あり時局に際し最も多し。

二十八日 御駒精進、同夜講中集合沐浴斎戒宿泊し大体山の神精進と同じ。

二十九日 

郷社祭典、村内の老幼男女は申すに及ばず近村より参詣者多し。殊に他町村の講中参拝者年と共に多く、社務所にては多忙を極む。


四月八日 

釈尊誕生の日にて村善男善女打揃うて寺参りをなす。薬師神社、松倉前田区に安置のときまでは参拝者多し、特に前田区にては当日迄葱の芽を食せず、九日より食するを例とする。


五月五日 

五節句の一にて四日夕方菖蒲と蓬にて屋根を葺く、之れは悪魔を除く意なり。夜は菖蒲を風呂湯に入れ浴す(万病を治す)。五日は柏餅を食す。端午と云う。


 一八日 正月の御十八夜と同じ。

六月一日 三朔日の一にて朝は餅を搗き又歯堅め餅と称して氷餅を食す。

  五日 

虫追いと称して沼倉は玉山より貴船迄、松倉は貴船より石崎迄村人惣出で太鼓を打ち鐘を鳴らし法螺を吹き猟師は空砲を発し追立てたり。害虫駆除


  十日 厄神追とて是又虫追と同様の行いをなす。

 十五日 牛頭天祭典は餅を搗き之れと各栽培の胡瓜を供え食膳とす。

 二十四日 愛宕神社祭典稲作の司神故参拝者多し。

七月七日 五節句の一にて、赤強飯を食し、竹に五色の紙を結び付け庭前に樹つ。七夕と云う。

 十四日 

孟蘭盆とて前日棚を飾り五色の紙を思い思いに切り吊るし、祖先の位牌を安置し霊を迎う。
十四日は赤飯を供え又赤飯洗米に切茄子を混じたるもの及び茶を墓所に献じ参拝して中食は切り麦素麺を例とす。


 十五日 餅を搗き土産餅を供え夜送り盆とて庭先より墓所道筋へ焚火をなし祖先諸仏を冥土に送るの意味なりしも害虫駆除の一方法なり。

 十六日 寺参りとて檀那寺へ村の善男善女参詣す。

八月一日 三朔日の一にて餅を搗き祝う。

 十五日 

村社八幡神社祭典、村中は申すに及ばず近村より参拝者多し。夜は茄大豆(枝豆のこと)を明月に供え月見をなす。


  彼岸 入日、中日、御帰り。春に同じ、社日は田の神天へ種子を持ち行くため朝団子とす。

九月五日 三峯精進、春と同じ。

  九日 五節句の一にて餅を搗き大いに祝う。重陽と云う。

 十三日 山神精進春と同様。

 十八日 御十八夜、正月・五月と同様。

二十八日 

御駒精進、三月と同じ、但し西向留岡組講中秋の二十九日朝神社に詣て元文年中よりの古例に則り生き魚の供え物にて神職荘厳なる祈祷をなす。
二十九日 
郷社の祭典、近郷よりの参拝者頗る多し、秋は花相撲の余興を献じ体育奨励の場合近郷の壮者力士腕を磨き集まる。又講中団体参詣者も頗る多し。


十月一日 刈り上げの朔日にて餅を搗き祝う。

 十日 大根の年越しにて米飯魚類料理にて祝う。当村は雪の関係上年越後に大根を摘むことあり。

 二十日 二十日講とて生き鮒を恵比寿大黒様へ供え祝う。商人は得意を招き大いに祝福す。

十一月三日 

御大師様とて団子を拵え塩味のなきものを供える、弘法大師を祀る意にて十三日・二十三日の三回にて何れも団子を供える。


十二月一日 

川這餅とて餅を搗き神に供える。此季節は乱吹くため外出者を警戒し且つ無難を神に祈り小切りの餅四本の小串に差し爐の四隅に立て一番先の外出者持ち行き川に流し遭難の身代わりを意味す。
  五日 なかの年越しとて赤飯を供え祝う。
 
  八日 八日吹きとて例年乱吹あり。餅を食して警戒す。

  十日 大黒様の妻迎えとて股大根を供え多種類の豆料理をなし豆粉飯と共に献ず。

 寒明け 

節分に煎り豆を空に向かって撒き「福は内鬼は外天打ち地打ち鬼の金玉打潰せ」と叫び撒くなり。元宮中の行事にもあり鬼遣(おにやらい)と云う。たつくり魚を豆木に挟み戸の口の壁に差し置く。
二十七日 煤払とて家屋内の煤払い掃除をなす。

二十八日 

正月用の御供餅前玉及び正月食用の餅を搗き又年越正月用の魚類其他の準備のため岩ヶ崎へ行く。
  末日 
神明棚を清掃し歳徳神を祭り恵比寿大黒様の御姿を飾り出来得る丈の膳部を整え献膳し大いに祝い越年をなす。当夜昔は悪魔払いとて猟師は空砲を発したり。


年中三朔日 正月元日、六月朔日、八月朔日

年中五節句 正月七日(入日)、三月三日(上巳)、五月五日(端午)、七月七日(七夕)、九月九日(重陽)

大物引木遣音頭  (明治十二・三年頃より費用の関係行うもの絶えたり)
大物引なるものは居家屋根葺終わりし晩に行うものにて、糠俵二俵を俵装し大物綱と云う篠竹を芯にいれて太く七尋に造りし三繰綱を俵に結び付け、引く方四尋を元綱と云い後の方三尋を追掛綱と云う。主人又は相続人大黒様に変装して俵に座し、大黒様の妻に変装したるもの行器(ホカ井)を担き付き添い大勢にて内庭より引き始め、追掛綱を四・五人にて持ち加減を取りて進め内庭にて一・二の音頭、台所にて三・四の音頭、「おかみ」にて五・六の音頭、納戸に入り七の音頭を掛け燕節(ツバクラブシ)を歌い終わりて宴会に入る
音頭掛前口上
柳此家の四方の隅を見てやれば、四方の隅に御俵を積み俵の上に御大黒様が只莞爾としておはします之れを見ては只はなるまい若衆共音頭でも掛けて引こうではないか


初段   ○はヨイッの略

追掛けやー追掛けヤー追綱も元綱も「ヨイッ」 一同に声掛けはやさいなー 一同に声掛けはやしたら「ヨイッ」 サラバ語りて聞かしょうが 其の昔其の昔○天神七代地神五代神代の時の事なれば○人間とていあらずして 伊奘諾や伊奘再と云う神が○宝の扇を持ち来たり南に立ち向き仰がれて○男子を一人招きよせ北に立ち向き仰がれて○女子を一人招きよせ男子と女子が出でけれど○夫婦の縁故知らずして天笠の天笠の○南蛮国の名鳥に せきれい鳥が天降り○夫婦の縁故教えける せきれい鳥の其名おば○いなわせ鳥と申すなり 段々月日が重なりて○御若一人出て給う さても見事な御若よ○十五夜御月の有明で かすみに似たりしまなざしの○たんかのくつひるうるわしく 十はらとうのさしまても○るりをのべたる如くなり此うら語れば長いぞよ
二段
今の語りの語り掛け 又も語りて聞かせよか○名が何と付け候 十六七と付け候○十七が十七が今年初めて家を持ち○屋敷を語り聞かしょうか 南下りに北上し○東西南北しかとして 東に立ちたる下屋を建て○先ず伐らはせうらとめて 面角揃えて削り立て○正月吉日と申す日に ちょうな立てをなさりけり○偖棟梁の装束衿で結び上げる○千人余りの御手伝い 思い思いの装束で 壷金尺を手に持ちて○出で立ち給うは千本桜にさも似た理 とうとうし六見得にけり 此うら語れば長いぞよ。
三段
今の語りの語りかけ 千年こたくし槻の木を○忽ち伐らせてうらとめて縦は十間横五間 高さ一丈五尺なり○それに劣らぬ柱共 四ッ面揃えて建てにける○先ず一番の柱をば一ノ宮と飾り置く○二番の柱をば二宮と治め置く○三番の柱をば讃岐の金毘羅大権現と治め置く○四番の柱をば塩竈大社の大明神と立たせたり○五番の柱をば牛頭天王と申すなり○六番の柱をば陸奥八幡と治め置く○七番の柱をば七福神と申すなり○八番の柱をば八幡宮と治め置く○九番の柱をば熊野大権現と治め置く○十番の柱をば位高倉十禅寺○守らせ給う之れ迄も此末語れば長いぞよ
四段
今の語りの語りかけ 物の上手に建てられて○切り込みよければすき間なし まどいひしまど銭しだれ○銭のめどから朝日さし 朝日かがやく御座敷が○畳へりをば何々と れんけん紫こうらいへり○錦の糸でとちられてたんたんもってなかれたり○それよりもそれよりも奥の座敷をみてやれば「おっとせ」「ラッコ」虎の皮置く○それよりもそれよりも都ではやらせ給う応挙和尚の書せ給う墨絵の観音○三幅一対はらと掛けとうとうしくは見えにける此末語れば長えぞよ
五段
今の語りの語りかけ 偖又欄間を見てやれば○飛騨の甚五郎殿に四節をとりてほらせたり○東の方のほりものは春の体よと打ち見えて○梅と鴬ほらせたり 南の方のほりものは○夏の体よと打ち見えて牡丹と唐獅子ほらせたり○西の方のほりものは秋の体よと打ち見えて○菊に蝶々ほらせたり 北の方のほりものは○冬の体よと打ち見えて 君末代の五葉の松○雪の降りたる体もあり金銀鋲鉄打たれけるほりものとお得見えにける 此末語れば長いぞよ
六段
今の語りの語りかけ 東の方を見てやれば○御米の蔵も七つあり倉の棟を見てやれば○今にはい立つ若木山

西の方を見てやれば○黄金の倉も七つあり 倉の棟を見てやれば○今は茂りし小松山 北の方を見てやれば白金倉も七つあり倉の御棟を見てやれば○千年木が見えにける 南の方を見てやれば○霧が立ちたる大川に天の反り橋掛けられて○橋の下を見てやればとうなんかんぢゃの うつほ船○浦島太郎の釣魚船 あいの糸や五色の糸に繋がれて○ようやく く※じょうの風吹かばねききわによれどつながれる此末語れば長いぞよ

七段
今の語りの語り掛け一重の日はひえいの山から○俵を積んで戌亥の隅に刈込まる 戌亥の隅を見てやれば○泉の御酒湧き出でて飲めども汲めどもよもつきず○御大黒を始とし七福神は居ならびて○飲めや大黒舞え恵比寿出でて酌取れなかの神○出でて酌をばとりたいが俵を積んで暇がない○ようやく俵を積み重ねほこり払うて出て祝う○月が重なり日に増して扇の如くに末広く○柳の如くに五葉長く團扇の如くに世い丸く○芭蕉の如くに葉は広く千鶴萬龜萬々歳子孫長久限りなし 此末語れば長いぞよ


燕節

燕が此家のはふに巣をかけて夜明くれば金ふけ金ふけとさえずる。
   
あとがき
私が生まれたのは、曽祖父が三期目の村長を辞した翌年昭和十二年である。それから、曽祖父が亡くなるまでの二十年間、栗駒の家で共に過ごした。思いでも数限りなくある。私の幼児期・少年期の体験はほとんどじいさんから教えられたり、していることを見たことに基づいている。

お駒様のお祭りの日には、中間の箪笥の前に座って、小遣いを貰うのが例であった。小引出の鍵を「ガチャガチャ」とあけ、小行李をおもむろに取り出し中から新札を出し、「無駄に使うなよ」と言って渡されたものだ。お金はいつでもきまってその場所にあった。

ある時、岩ヶ崎に遊びに行くのに小遣いが足らず、箪笥から数枚盗んだことがあった。そして、買って来た物の中に魚取り用の網があった。どう作ったらよいか一人で思案していると「どうりぁ、おせっか」と言って作ってくれ、さらに、川に行って瀬の作り方を教えてくれた。それまでは、釣りだけだったので、網で大量に採る快感を初めて味わった。数日後、「盗んだ銭で網買ったのか」と言われ、はじめて「ギクッ」とした。じいさんは、全てお見通しだったのである。取り調べ風の眼は、さすが元警察官であった。

当時の農村では自給自足の生活であり、野菜の苗も種から育てるのが常であった。茄子・トマト・胡瓜すべて種から育てていた。朝早くから起き出し、家の前の畑を一回りしてから朝ごはんを食べるパターンで生活していた。
畑から帰ってもまだ寝ていると布団を「ばっさり」とはがされびっくりしたことが、懐かしく思い出される。

将棋を教えて貰ったのも、じいさんからである。縁側に座って「一局やるか」といって駒の歩き方から教えられた。飛車・角を外して貰っても小学生には歯が立たなかった。じいさんの散髪と髭の手入れも中学生頃の私の仕事になっていた。切れないバリカンは古葉書の上で油をつけて擦り、カミソリは研石で研ぐとか今風に言うと体験学習を中心にしたものであり、後の生活に大いに役立った。

昭和三十二年三月、大学受験で東京に行っている十日程の間に、呆気なく旅立ち、葬儀も一切終わっていた。受験生に心の動揺をさせまいとする父の配慮だったのだろうが、何か呆気ないようなことがわだかまりとして残った気がした。

「栗駒村誌」の原本は「昭和堂製」の「産印半紙」を使って本文八十四枚(一六八頁)にわたり複写で書かれている。全部で五冊位作ったのではないかと思われる。今、実家にあるのは、この原本だけであり、消滅防止と当時の郷土史として貴重な意味もあるので広く人目に触れる機会を得べく、読解しやすいようにワープロで、旧仮名遣い等も少しは直しながら打ったが、じいさんの達筆なくずし字には悪戦苦闘の場面もあった。生誕一二六年・没後三八年の今年、思い立って、印刷に着手した。

郷土の諸兄に「ふるさとの昔」を思い起こす一助になればと思いつつ。

平成七年三月
髭鬚老人の曽孫 石越在住 菅原信雄
 

発行者 菅原信雄
昭和十二年栗駒村沼倉馬場に生まれる。
栗駒小学校卒業 栗駒中学校卒業
宮城県岩ヶ崎高等学校卒業
明治大学文学部史学地理学科卒業
県内小中学校・養護学校・聾学校勤務
現在登米郡中田町立宝江小学校長
 

                                      完》 




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