栗駒町誌より
 

第一編

  1. 地理的環境
第六節 栗駒町内の地名考
  1. 栗駒町内の大字名の由来
1  尾松の地名(略)

2  稲屋敷の地名(略)

3  八幡の地名(後述)

4  栗原の地名(後述)

5  桜田の地名(略)

6  岩ヶ崎の地名(後述)

7  鳥矢崎の地名(略)

8  鳥沢の地名(略)

9  猿飛来の地名(後述)

10 栗駒の地名

栗原郡の西北部に位置する旧栗駒村は、昔の吾勝郷の地域で沼倉村と松倉村との二村に分かれていた山間の大村であった。明治四年廃藩置県の際、両村ともに岩ヶ崎村戸長扱いに属し同六年には再び二か村に分かれ、七年には沼倉村に戸長役場を置いて松倉も兼ね、事実上一村をなしていたが、二十二年の町村制実施の時、正式に併合し、栗駒山の麓に位置していたので、その名に因んで栗駒村と称した。

栗駒山の名は封内風土記にあるように、「盛夏にもなお雪を宿し、山の形があたかも班馬に似ている。東から見れば、南に首、北に尾、西から見れば、北に首、南に尾、班馬が雲表を奔走している形である」というので、駒ヶ岳の名が生れた。そして駒ヶ岳の山名は所々にあるので、他と区別するため、栗原郡の北方に聳える名山なので、栗駒山と呼ぶようになったという。

11 沼倉の地名

沼倉は岩ヶ崎町の西北約十二粁(km)、三迫川の上流の渓谷にある山間の山村で、山田・日照田・滝ノ原・都田・玉山などの集落がある。明治二十二年四月、町村制実施の際、下流にある松倉部落と合併して栗駒村と称した。越えて昭和三十年四月、岩ヶ崎町町中心の大合併に際し、新設された栗駒町の一地区となった。

沼倉の地は、奥羽観蹟聞老志によれば、「源義経の墓が沼倉村に在る。義経の死後、沼倉小次郎高次がこの地に墓を建てた。この地には高次の古館があり、之を弁慶峰といい、昔、武蔵坊の経歴の地云々」とある。また安永風土記書出の古館の項に「白岩館(高二十五丈)があり、この館主は沼倉飛騨守であった」と記されている。したがって沼倉の地名は、沼倉氏と何らかの関係があることが推測される。

これを高清水本陣の沼倉家の記録によって見ると「沼倉氏の先祖は清和源氏の後裔で、天仁二年(1109年)源義経が誅せられた時、東国に下り、栗原郡沼倉の郷に住した。里人は郷名に因んで沼倉殿と呼んだので、沼倉姓を名乗った」(注1)とある。更に「文治年間に沼倉太郎が出て活躍し、南北朝時代に入ると沼倉隆親が出現した。彼は北畠顕家が義良親王を奉じて多賀国府に入ると、早速これに馳せ加わった云々」(注2)と伝えている。この記録により、沼倉の姓は沼倉の地名から出たものであることが推考される。

思うに沼倉地名は、この地方の地勢から出たものと見られる。この地方は四方嶮しい山々に囲まれた山間の村落で、所々に池沼を湛えている。現に新倉沼とか鞍掛沼などがあって特色ある景観を呈している。沼倉の倉は黒川郡宮床の七つ森とか宮城郡の大倉と同様に、嶮しい山岳の意味を有しているので沼倉の地名が生まれたものと思われる。この地には岩倉の小字名もある。

次に沼倉の下流に松倉の地名がある。この地に松倉山という山名がある。この松倉山につき安永風土記には「安永七・八年に松倉山崩れ、数百間に及ぶ」との記録もあるので、年代は明かでないが松倉の地名はこの山名から生まれたものとみられる。なおこの地の山岳一円には赤松の大木がよく生い茂っていたので、松倉の地名が起こったと推測される。

12 文字の地名(略)

13 片子沢の地名(略)
 

第四編 交通・通信

第一章 栗駒地方の交通

  1. 明治以前の道路
  1. 古代交通の発達(後述)
二.藩政時代の交通制度(後述)
  1. 明治以後の道路(略)
 

第十一編 伝説・物語より

鞍掛沼伝説(栗駒)

(後述)

 


注1:天仁二年(1109年)とあるが、天仁二年は1108年であり、しかも義経が自害に及んだ年は文治五年(1189年)であり明らかに錯誤が見れれる。

注2:沼倉太郎が出現とあるが、表現が曖昧で妙。しかも文治年間は、先の義経自害の年(1189年)で終わっている。このような信憑性の低い文書の町誌掲載には、もう少し慎重さが必要ではなかったか。佐藤


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