〈尾 松〉
 
 

栗原寺のあと

境内から掘出された仏像が、上品寺に多数保存されてあることから、鎌倉幕府の吾妻鑑や室町時代の義経記の古い文献或は仙台藩の風土記にまでも記録されてある。平安時代の栗原寺ではないかと、東北大学高橋、大塚の両教授を先頭に、地方の方々、研究学生など五〇〇人も参加して、大がかりに上品寺境内を発掘した結果、栗原寺に略間違いなしと立証され、幻の寺だった一千年前の昔話が事実となって、栗駒町の一角から遂に発掘されたのである。

今回の発掘で仏像は発掘されなかったが、保存されている多数の仏像の内、等身大の一本立像は、奈良時代から平安中期までの築館町双林寺にある、杉薬師如来と同時代の観音菩薩であると確認された

当時は栗原寺の大伽藍に安置され、庶民の加持、祈祷等に盛んに信仰されたと思われる。栗原寺一千年の栄枯盛衰を伝えてきた仏像であろうが、仏像の顔面が見定めもつかなく腐蝕しているのが惜しんでも余りある。

その外にいつ誰が発掘したとも詳かでなく保存されてある泥色の仏像は、形容が仁王像であったためここの地名になったと伝えられている。山の中復にある栗原寺から、一キロも距っている現在の仁王田から、何が故に仏像だけが発掘されたのだろう。

嘗て東北の地につくった堂塔、伽藍は幾百千あるやも知れずと豪語した、藤原三代の間で建立した一堂塔が、この地にもあってそこに仁王像が安置されてあったとすると、これを栗原寺に結びつけるには凡そ三〇〇年余の時代のずれがある。

附近には、蝦夷が住居したと思われる珍しい堅穴住居跡がある。そこから完全な食器までも発掘され、須恵器を焼いた釜跡も発見される等々意外にも高度だった古代人の生活の跡は、実に見事なものであった。東北の蝦夷征伐の記録は古く、天平九年(七三七)睦奥国山岳地帯に住む蝦夷が、再び反乱を起したのに備えて多賀城が築かれた。

この住居跡は栗原寺が未だ存在もしなかった奈良時代に、蝦夷が住居した堅穴住居跡ではないだろうか。富野城生野には伊冶城址があり、沢辺には蝦夷穴と伝えられる古跡もあり「伊勢物語一四」にある姉歯の松の由緒は、丁度平安のこの頃の時代の都の人との女性哀話である。

この時代の栗原寺は、陸奥国分寺址のような規模ではなかったにしても、草堂ではなかったであろう

中尊寺より三〇〇年も古い平安期に戦火で焼失したとも、朽ち果てたとも伝えられるが、もし焼失したとしたら、これほどの数多の仏像が発掘もされないであろうし、もしも朽ち果てたとしたら、栗原寺の存在がもっと以前に溯るのではないだろうか。

いずれにせよ古い文献にだけあって、幻の寺だった、栗原寺の実在を立証した貴重な発掘であったことにまちがいはない。そのうち栗原寺の復元図もできることだろうし、とも角一千年前の生活を伝えた古代人の、貴重な遺跡であり、文化財である。

(近江茂一)


真似牛物語

陸前国二迫郡栗原村六番地(今の栗駒町尾松字菱沼竹林六番地を言う)浄土宗鎮西派石垣箱根山金光往生寺は、今から七百六拾年前、土御門天皇の承元三年(一二〇九年)に金光上人が開山したものであります。寛文五年二月(一六六五年)火災になり、一時中絶しましたが、延宝二年(一六七四年)野州大沢山円通寺蓮社良偏南的上人がこれを再興したと伝えられています。

この往生寺は、二迫郡下の霊地として宝物等もあり、信徒も非常に多く悪病退散わけて難産の苦からのがれるとして、遠近の善男善女が往来し門前市をなしました。この寺は別名真似寺と呼れますが、この真似牛について次の伝記があります。

今から七百六十年前、菱沼に与左ェ門と言う大怠者がいて、何時も何かうまい金儲けはないかと考えていました。

いっぽう陸前国遠田郡牛飼村(今の小牛田町)にすごく真面目で正直で神仏の信心が深いが貧乏な百姓がおりました。(名は不詳)この百姓がある冬の夕暮れ、旅僧(金光上人)に一夜の宿を請われました。しかしこの百姓はその日暮しの生活をしていましたので再三ことわりましたが、その旅僧は是非泊めてほしいと言って聞き入れませんでした。遂にこれに応じ草靴をぬがせ、奥の座敷へ通して休ませました。

百姓夫婦は親切をつくし心をこめて御馳走をつくり、おもてなしをしました。ところがこの旅僧は、数ヶ月たつのに帰る様子が少しも見えませんでした。それにもかかわらず百姓夫婦は相変ずのおもてなしをしていました。

ある夜突然旅僧は百姓夫婦を呼んで言いました。長らく御世話になりました。その御礼に明日朝までには牛になっているから、これで駄賃をとって繁昌して下さい。それが私の宿の償いですと言いました。

百姓夫婦は驚きました。一体この旅僧は何を言うのか、人間が牛になるものかと思いながらもその夜は床につきました。

翌朝未明に奥の座敷で牛の啼き声がするので行ってみました。すると昨夜の話の通り旅僧は大きな黒牛になっていました。百姓夫婦は早速この牛で駄賃とりをはじめました。雨の日も風の日もいとわず辛抱しましたから二、三年で牛飼村での大富農となり、楽しい生活を送るようになりました。このことを聞きつけた菱沼の与左ェ門は、俺も旅僧をとめて牛にさせ金儲をしてやろうと考え、毎日旅僧の来るのを門に出て待っていました。

ある吹雪の日の夕暮、みすぼらしい仕度の乞食僧(これが金光上人です)を門に迎え是非わが家にお泊り下さいと申入れました。するとその旅僧は暮れでもあるので、もう少し歩いてその先で宿を求めるからと言うてことわりましたが、与左ェ門夫婦はしきりとこれをとめ、遂に旅僧も与左ェ門夫婦の言うことにまけ、宿を請うことになりました。

早速と草靴をとき奥の座敷に行って見ると畳は表を替えてい草の香がし、障子は張替えてきれいになっていました。

その夜は風呂から食事といたれりつくせりの歓待に旅僧も驚きました。旅僧は翌朝早々旅の仕度をしようとしましたら与左ェ門夫婦は、むりにこれをとめ、旅仕度をとりかえし奥の座敷から出しませんでした。そうしているうちに三日たち四日たちとうとう一週間になりました。

与左ェ門夫婦はここらあたりで旅僧も牛になってもよいものだと毎朝毎晩祈り始めました。しかしなかなか牛になりませんので、ある晩まだ牛にならないかと襖や障子のすきからのぞいて見ました。ところがその晩突然与左ェ門は苦悶をしはじめ、見る見るうちに人首牛身に変じ、額の上には雙角があらわれ、面相は与左ェ門ではあるが、体には毛が生え尾がでて手足には爪が生え、すっかり牛に化してしまいました。

旅僧(金光上人)も驚き事情を尋ねました処、与左ェ門夫婦は、悪行前非を悔いながら一切の事情を言いました。これを聞いた金光上人はいたく憐み頻りに念仏唱道に努めましたがその効果がないので、老師法然上人の助けを求めるためはるばる京都に上り、この事情を詳細に話し老師に奥洲にお下りになるように懇請し、人首牛身の与左ェ門を済度せられたいと切願しました。

ところが老師は「我これより奥洲に赴きその頑夫を済度すること易けれど今京都をはなれんか京都の念仏唱道半途にしてすたる、よってこれより自らが鏡に向かい自からの像を刻むによって金光汝自らが刻める像を携えて奥洲に帰りその頑夫を諭されよ」と申されました。

法然上人は自分の像を刻み終って木像に入心し「源空、源空(本名)」と呼んでみましたが何の返事もありませんでした。そのため再び刻み直し入心の後「源空、源空」と呼びました。ところが、「源空此処にあり」とお答になりました。

金光上人は法然上人の御木像を背負って京都から奥洲菱沼に帰り法然上人の像を与左ェ門に拝ませ妻子親族を集め改悔念仏を唱えさせました。すると見る見るうちに、人首牛身の与左ェ門の額の上から雙角が落ち脱毛して元の姿になりました。与左ェ門はもとより妻子親類村人にいたるまで天を仰ぎ地に伏して喜びました。

与左ェ門は教化の妙応を信じ、たちどころに髪をそり念仏三昧の僧として仏門に入り、南部の遠野市金光山善明寺の住職になり正牛坊と改名し、生涯を御仏に仕えて世を終りました。

金光上人はこの菱沼に寺を開山し、石垣箱根山金光往生寺と名づけ一名真似牛寺として角、爪等保存していましたが、寛文五年二月の大火にあいかろうじて角だけが残りました。

その后、大崎義隆の妻が(名は不詳)熱病に羅り医薬の効もなく、此の上は神仏に頼る外はない状態になった時、重臣の一人が栗原郡往生寺の法然上人像に祈願をするよう進言した処、それよりは菱沼から御木像を移し申して朝夕念仏を唱えることがよいと言うことになり、菱沼の往生寺から大崎義隆家に移し病魔退散のため朝夕念仏を唱えたところ、たちまち熱もなくなり一命をとり戻すことが出来ました。大崎義隆は法然上人の御木像を京都に送り届けましたら、処法然上人はこれは私の身変りにやったものだから陸前の国菱沼の往生寺に安置するようにと送り返しました。

ところが陸前国往生寺(栗原郡栗原村往生寺)と陸前国王城寺(加美郡色麻村王城寺)の間違から王城寺に届きましたので王城寺壇徒はこれを安置していました。

此処から有名な本尊争が起きました。これを聞いた菱沼の壇徒は怒りだし何度となく交渉をしましたが返してくれませんので盗んで来ました。そしたらこんどは色麻から大勢揃って来て盗み返されました。そこで泉沢の嘉左ェ門と言う豪快男がこの御木像を盗み出すため、王城寺の小僧になりそのすきを見ていました。

ある大嵐の晩を利用して御本堂に忍び込み法然上人の御木像を盗み出しこれを背負って来たのですが途中荒谷附近まで来たところとても重くて耐え切れなくなり御木像に向い御願いをいたしました。「お軽くなって下さい」と御願いをいたしましたら軽くなられなんなく菱沼の往生寺に着いたのです。

そしてしばらく菱沼往生寺で安置していましたが加美郡王城寺から数百人の壇徒がおしかけ大乱斗の未遂に盗み返されました。

後で嘉左ェ門は法然上人の御本尊を盗んだ罪により法の裁きを受け処刑されました(肝入文書にあり)これが真似牛の物語りです。

(伊藤広人)


雄鋭神社の御神体

雄鋭神社は、尾松稲屋敷高松にあり、延喜式神社で権現様として、地方の人達にあがめられている。御祭神は素盞鳴尊といわれている。昔は御殿山と云って今の三沢山の奥の方に社殿があったそうで、足利時代の永享の頃(一四二九?一四四〇)山火事により社殿が焼けた。その時火消しに駈けつけた御身体を出そうとして、御神体の腕をつかまえた処、片腕だけ残した御神体は空に舞い上り西南をさして飛んだ。

それが山形県最上郡の或る処に鎮座して○○権現として祭られているそうである。こちらの雄鋭神社の御神体は片腕だけで、毎年四月、十月の各十七日の春秋の御縁日には、山形より御神体が帰って来るので、御縁日前後の三日間には必ず曇るか雨が降ると云われている。

(蜂谷正一)


山神社の御神木

この神社通称、山の神という。尾松桜田に鎮座その建立も古く先年にもなる社である。山一帯は杉が最も多く老杉亭々としている。中でも九〇〇年の樹齢を保つ巨木が、社の右側に生いていて、周囲六米以上もあり、高さ三十米もある。これが即ちご神木として崇敬が高い。

祭日は、三月十二日、九月十二日春秋に執り行う。


荒神様の御精進

稲屋敷高松梅田地内に於て、となり組五軒で荒神様の御掛図を祭って毎年十一月二十八日に御精進をしている。この御精進の謂れはつぎの通りである。

何時の頃か年代は不詳だが、昔栗駒沼倉山田の附近に鍛治屋があったそうである。或る年の旧十一月二十八日に不幸にも火災にあって家が全焼した。その時鍛治屋の作業場に祭ってあった三宝荒神様の御掛図がとんだ。高松の方では半鐘の音を聞き、沼倉方面が火事であることを知ったが、唯遠くの火事として眺めるだけであった。「ところが火事場の方から何やらひらひらと、飛んで来るものがある。それがだんだん近づいて、高松梅田の高橋家の庭先にある年古りた大きな梨の木のうらにかかった。何んだろうと思って高橋家の主人が、木に登ってそれを手に取って見ると、一幅の掛図である。大事にして木から下ろしてそこに居合せたとなりの人達と一緒によくよく見たら、三宝荒神様の御掛図であることが分った。しかも不思議なことに廻りの白紙の部分が焼けて、御姿のみ残り又、焼け残った御姿を裏打して良く作り直し、五軒で順番の宿に毎年十一月二十八日を縁日として、御精進をする事に定め毎年かかさず今日に至っていると云う。尚その梨の木は枯れて今はなくなっているが、そばに石宮を建てて祭っている。(奈須野寅治翁の話による)

(蜂谷正一)


花立お花と粕喰の白狐

昔、昔、稲屋敷村といった前のこと、花立お花と粕喰白狐という二匹の狐が住んでいました。

花立お花という狐は、とても利巧な狐で旅人が道に迷っていると、いつの間にか現われて道案内をもしてくれるという狐でしたので、土地の人や旅人から大変に可愛がられ、ほめられていました。

それにひきかえ粕喰奴は実に悪い狐で、真昼から旅人や土地の人々をたぶらかし、買ってきた魚を盗ったり、川の中に入れたり、お風呂とだましては、肥料溜に入れたり、散々の悪さばかりで手のつけられない悪狐でした。

しかも夜になると「粕くえだい、粕くえだい」と地獄からでも聞こえてくるような薄気味の悪い声で終夜鳴きつづけるものだから、土地の人達も気味悪がって、夕方になると人っ子一人通るものもない有様だったといいます。

丁度その頃仙台藩に本田左五平という居合抜の達人がいました。身の丈がわずか三尺位しかないので、三尺左五平と呼んでいました。この左五平は自分の体より長い刀をさし鐺に少さな車をつけて、引きずって歩いたといいますから、その姿は誠に滑稽だったでしょうが、しかし腕は抜群で、抜打ちの早業は目にもとまらずただ“パチン”という鍔音が聞えるだけだったといいます。左五平の早業については面白い逸話がたくさん残されていますが、余りにも早業のため間違いあっては大変と、平素は木剣をもたしたと何かの本で見た事があります。

ある時両親が新しい下駄を買ってやったところ、矢庭に宙に投飛ばし落ちてくる間に三つにも四つにも切ったといいます。

江戸勤番中のあるとき、左五平が芝居見物に行ったところ、後の席で江戸でも評判のよくない親分が、大勢の子分共と酒を飲みながら騒いでいました。そのうちにふざけて煙管の灰を左五平の頭の上に落しましたが泰然自若“ジーッ”と我慢の左五平でした。そこで左五平が「これ町人静かにせぬか」と注意すると、親分は小兵と侮り「何をぬかすこの小人三ぴんめ、てめいの頭は灰皿にもってこいだ」と罵ります。

やがて芝居もはね見物人もぞろぞろ木戸口に出てきました。左五平が木戸口で待っているとも知らず傲然と出てきた親分へ、“パチン”と鍔音がしたかと思うと親分の首が前に落ち、どーっと倒れました。人殺しと大騒ぎになり役人の出張となりましたが、沢山目撃者があるのに誰がやったか皆目判りません。

仕方なく刀改めとなり、数人を調べましたが判りません。最後に左五平の番になりました。左五平は、「今刀を抜くからよく見よ」と、いったかと思うとパチンと鍔音がするだけで、役人が改めるどころではありません。役人は、貴殿の刀改めはとても早くて判らないから、少しゆっくりやってくれと、頼みます。これもお役柄致方もあるまいと、ではと再度抜きましたが、相変らず“パチン”と音するだけで役人も諦めて引揚げたといいます。

左五平が化け地蔵を退治した話はたくさん伝えられています。粕喰奴の話しを耳にした左五平は、畜生の分際で何事かと、例の長い刀を引きづりながら、当地にやってきました。

今でも粕喰道は淋しい所でありますが、当時はきっと狐や狸の通り路だったと思います。そこで左五平は時のたつのを待ちました。やがて夜も更け、針の落ちる音も聞こえるという丑三つ時、コトリと音がしたかと思うと、変にしやがれた声でもの淋しく「粕くえだい、粕くえだい」と鳴き出したので、辺りを見たが何一つ見えません。よく見ると高さ五尺に巾三尺位いの石碑の中頃からきこえてくるのです。そこで左五平は巳れ妖怪めと一刀のもとに斬り捨てると一声「ぎゃー」ときこえたきりで何も聞こえてはきませんでした。翌朝行って見るとその石碑はものの美事に、袈裟がけに切りつけられていました。

それから後は、誰一人一度も化かされるものもなく、「粕くいだい」という声を聞くこともなく、元の静かな平和な村になったといいます。

袈裟斬りにされたその時の石碑が執り矢崎貝ヶ森の菅原琢氏の門の入口右側の石垣の上にあります。

(菅原豊)


忠四郎の話

今から百拾年ばかり前の話である。当時八幡村の髭ヶ坂に忠四郎という虚弱な男が住んでいた。暮しが貧しかったにもかかわらず、大の酒呑みで、毎日酒を呑んではふところに手を入れて八幡街道をぶらぶら歩いていた。忠四郎は幼い頃から虚弱で、親達は百姓には不向きだからと云って、金華山に神官修業にやった。しかし忠四郎は毎日の厳しい修業にたまりかね、中途にして金華山を逃げ出してしまった。其の時忠四郎は金華山の御神体を盗んで来たという。

その頃髭ヶ坂の実家には、姉と忠四郎の二人暮しだった。忠四郎は妻も子もない一人者だから、朝から晩まで毎日酒ばかり呑んでいた。そして、ふところに手を入れて、八幡街道を上ったり下ったり歩いていた。ある時忠四郎は松原の豆腐屋で呑んでいた。そこへ館の旦那様長井運五郎爺さんが来たので二人で呑みはじめた。一杯(二合五勺)二杯、三杯と呑んでいるうちに種々の話になった。

その時、運五郎爺さんは忠四郎に「お前は毎日酒を呑んではふところに手を入れて、八幡街道を上ったり下ったりして歩いているが、いったい何のためにふところに手を入れているのか」と尋ねた。

すると忠四郎曰く「俺のふところの中には金華山から盗んで来た、御神体があるのだ。だから、ふところに手を入れて、落さないようにしているのだ」と答えた。そして忠四郎はふところからぼろ包みを出し、中から一体の御神体を出して見せた。酔がまわるにつれ忠四郎は、運五郎爺さんに、此の御神体を買ってくれと話をもちかけた。運五郎爺さんは喜んでこれを買受け家に持帰り神棚に置き、そのまま百年が過ぎてしまった。

私は昭和四十五年十月、先輩の白鳥重孝氏の御焼香に行った時、お爺さんの甚右ェ門さんからこの話を聞いたので、早速伊藤喜一先生に話して、御神体を探してもらうよう頼んだが何分にも今の主人公は長井菊雄氏で、三代も前のことで、先代からは何も聞いていないと云う。然し菊雄氏は時折枕神にたたれていたが、何のことか全く判らなかったと云う。それから暇をみては、家中探していたが、遂に神棚の隅に、ぼろに包んであるのを見つけた。それが金華山の御神体である。

(伊藤広人)


開けじの扉の神様

菅原家というと、尾松きっての旧家で二百年か三百年も続いている稲屋敷の草分けである。この旧家も最近改築され、昔の面影はない。僅かながら裏に味噌蔵があり、前に板倉などがあって昔を偲ばせている。屋敷の奥深くに明神様(荒神様雷神水神様とかを祠る処を総称して明神様という)十基程をまつり、苔むした石塚によって、古さを感じさせている。これが菅原家の守り神であり、氏神様でもある。

この家には種々と禁じられた食物がある。例えば当主は梅干が食べられないし、一家は四ッ足(牛馬豚の肉類)を食べることは、絶対に禁じられるという家憲があった。万一家族の誰かが、この四ッ足を食べると忽のうちに明神様の一基が倒れているのである。すると当主は羽織袴をつけ、恭しく照明をあげ、塩と水で清めるという恐懼ぶりだったものである。当時は毎日掃き清められていたが、今ではそうはいかないようである。

この旧家には、代々開けじの扉の神棚が、奥座敷に、古色蒼然とまつられている。何時の代のものか詳かではないが先祖からのいい伝えでは、家督相続人以外は見ることが出来ない、もし外の者が見ると目が潰れると語り伝えられている。

この神棚には次のような秘話があると部落の古老が洩らしてくれた。

明治の初年の頃、隣の造り酒屋から火が出て大火になったことがある。大方火をかぶったので当然丸焼けになることを覚悟し、僅かばかりの家財を出し、呆然と見守るしかなかった。ところが突然奇跡が起こった。この時屋根の棟を見ると、猫くらいの小人が何百倍もあるような大団扇をもって、盛んに火の粉を払いのけている。その内風の向も変り焼失を免れたという。気がつき座敷に入ると、今まで開いたこともない神棚が、十文字に開かれてあったので、神官を呼び神鎮めの祈祷をやり、今まで通り扉を閉じ以後は開かじの扉となり現在に至っている。此の旧家は当主菅原隆志氏であり開けじの扉の神棚も十二月三十一日赤い布を必ず取替えて昔のまま残っている。

(菅原豊)


百姓と雨乞い

雨は農民にとって、かけがえのないものであることは、今も昔も変りはない。昔、百姓が春から夏にかけて田圃の作付をする時、何日も雨が降らず、日照りが続くと、田植えをすることができなかった。今のように揚水設備のない時である。昔は何事にも信仰心が強く夜になると、部落毎に雨乞いをした。まず氏神様とか、高い山に登って火を燃やし、太鼓を叩き、ほら貝をふき、天に向って大声で、雨が降るようにと叫んだのである。そうすると三度に一度ぐらいは、願いが叶ったものか、偶然にか、翌日までには、必ず雨が降ったともいわれた。

一迫川、三迫川の水源地の栗駒山と違い、二迫川沿い尾松地区の水源地は、荒砥沢奥の揚石山(アグロスと云う)で、日照りが続くと極度に水不足となり、夜水引きは勿論、水引き喧嘩などもあり、尾松地区では雨乞いのために、揚石山に登って祈願をしたものである。揚石山の頂上には、水神様の小松神社が祭ってあり、高松の雄鋭神社の先代の宮司高松左権さんは、短躯で小柄な人であったが、部落の雨乞いには、いつも足駄ばきで登ったものである。

藩政時代は二迫川地域を、小の松の荘といい、稲屋稲、八幡、菱沼、栗原、桜田の各村が合併した時尾村の村名も、小の松の荘から生れたものとも伝えられている。今は栗駒ダムの完成によって、水も三迫川より引いているので、昔のような水引き喧嘩もなくなり、何処からも雨乞いの声を聞くことはなくなった。

(蜂谷正一)


杉橋の木鮒様

昔々杉橋(現在の栗原杉橋二十七番地)に木鮒さまと言われた人がいたとさ。木鮒さまは至極勤勉な上に、経済観念が旺盛な人だったとさ。木鮒さまは、自分で木鮒を刻み、三度三度の食事は勿論、酒の肴にもこの木鮒を舐めていたとさ。木鮒さまは木鮒に味噌を塗り、火に焙ってデンガクにして御飯を食ってはデンガクを舐め舐めして御飯を食っていたとさ。このようにして五十魚屋(いさばや)から魚を買わないで生活をしたから、忽ち部落一番の金持ちになったとさ。ところが何代も続かないで破産したとさ。昔の譬に「マテマタスル」と、これは今から百七、八十年ばかり前の実話である。

木鮒さまが破産してこの土地を去ったあと清水(しづ)と梅の古木が残っていた。そして毎年春を忘れないで咲いていたものだ。又後ろには差渡二尺から三尺ぐらいの松の木などもあり、十基ばかりの墓石もあって、そこで私達も遊んだものだ。

家では畑にして長い間作っていたが、昭和六年頃、佐藤健治翁の息子さんが分家となり、屋号杉橋として現在に至っている。

この話は父と畑作業に行ってタバコ休みの時に聞かされた話である。

(伊藤広人)


九戸神社の由来

南部九の戸城(岩手県福岡町)の城主左近将監政実は南部藩唯一の豪者と呼ばれた勇将であった。南部家(盛岡)は第二十六世の後継者選定につき二派に別れていざこざがあった。結局後継者は田子九郎信直に決定したことにより、九戸政実と南部信直との反目が深刻となり、天正十九年三月(西暦一五九一年)政実は遂に南部信直に大志謀叛するにいたった。

信直は大いに驚き直ちに京都に急使を遣し、前田利家を介して豊臣秀吉に救援を乞うた。秀吉はこれを取り上げ急ぎ九戸討伐軍の編成を命じた。討手大将に蒲生氏郷。総奉行に浅野長政。武者奉行に堀尾吉晴。横目付に石田三成、等を選定し尚九戸の軍が強剛の場合は、三好中納言秀次並徳川家康も奥州に下向させることになった。

青森、秋田、山形、及松前(北海道)の大名、小名合せて六万五千の兵力をもって九戸城攻撃に当らせたのである。これに対し政実は僅か五千の城兵をもって防ぐのであったが、勇敢奮斗よく抗戦し攻撃軍をなやませなかなか落城する様子もなかった。

一方攻撃軍は狭い土地に六万以上の大軍であれば雑踏甚だしく軍送の不便もあり、又兵糧も乏しくなり日増し損害多く不利に陥って来た。そこで諸将がいろいろと相談の末一計を見出した。

即ち、九戸政実の菩提寺である長興寺の住職薩天和尚を呼んで説き伏せた。曰く「九戸がいつまでも籠城して敵対することはいわれがない。天下を敵にしてどんなに戦っても九戸が勝つ筈がない。結局は落城して皆殺にされ九戸の一家一族の断絶することは火を見るよりも明である。大体九戸は南部に叛くのであった天下に対しそむくのではない。南部から加勢を願われて上方軍が来たのである。その事情がはっきりすれば秀吉公もこれを了解し、九戸のみならず他の諸将も許されることになる。一刻も早く降参して九戸一族の継続を考える方がよいと思う。貴僧がこれを取次いでやる様にしてはどうか」と。和尚は成る程と思い、九戸を救うはこの時とばかり喜んで九戸政実にその旨を伝えた。

九戸城内は早速幹部が集会しこの評議となった。大勢は之に賛成したが、只一人政実の弟彦九郎実親は反対であった。その理由は「兄上は幼い子をあわれと思い降参する考えをもつだろうが、然し上方勢はその手がくせである。謀略によって敵を亡ぼしている。近い例には昨年北条親子も恰かもその謀略にかかり小田原城は落城したのではないか。だまし討ちされるよりは死ぬるが武士の本懐でないか」というのであった。然し多勢が降参に賛成であり弟実親の意見は通らなかった。

遂に降参したのである。攻撃軍は直ちに九戸政実を筆頭に櫛引氏の兄弟久慈備前の兄弟、七戸彦三郎。大場四郎右ェ門、大里修理の八勇将を捕虜とした。

又政実の奥方と十一才になる一粒種亀千代丸は、混雑の中を右往左往している処を荒武者に引き捕えられ蒲生氏郷が命じて首を刎ねさせようとした。その時奥方が一寸まてと声をかけた。「斬られることは決して拒まぬが、お願いがある。何せ年端も行かぬ子供なれば母が先に斬られると子供の心が乱れます。順序は逆なれど子供を先に斬って下さい」と叫んだ。亀千代丸は母の注意をよく守り西の方に向いモジのような手を合せ、南無阿弥陀仏を唱えているうちに首は落ちた。そのさまを見守っていた奥方は心を乱す様子もなく、直ちに自らの守り刀をもって切腹し果てたのである。

一方城内は城兵を悉く二の丸に終結させて押し込め城の四方より火を放った。火は秋風にあおられて見る見るうちに火勢強まりざんこくにも全員焼き討ちにされてしまったのである。時は九月四日であった。

先に謀略と知り評議の際反対意見を述べた弟実親の残念の程が察しられる。又薩天和尚は、この謀略にかかり悲惨極まる九戸城の最後を望見し後悔する術なく只々お詫の外なく定めし血涙をしぼって奥方と亀千代丸を懇ろに弔い冥福を祈ったことであろう。

さて九戸政実以下八名の降将は囚人の取扱を受け護送され、九月十二日花巻を経て十七日栗原三の迫に到着上品寺に預けられ滞留することになった。

時恰も大崎、火災の兵乱治まり南部九戸の叛乱も終ったので、福島二本松まで下向し滞在中の三好中納言秀次は黒川より馳せ参じ、伊達政宗の道先案内で、二本松より栗原三の迫に下向せられた。堀尾帯刀吉時、石田三成等がその陣屋に参向し九戸城攻略の状況を詳細に報告した。秀次はこれに殊の外満悦し、なお九戸徒党をば速やかに誅戮し政実の首は上方に送り豊臣秀吉の実検に供するようにと命じた。

政実等八名の武将はいよいよ上品寺より引出され奥州の秋深い九月二十日全員首を刎ねられたのである。政実の首は附近の泉水にて洗い清め、命に依り京都に送り豊臣秀吉の実検に供したとの事である。

上品寺とは現在の岩ヶ崎高等学校附近にあった天台宗の寺で愛宕神社の別当寺であったが、大崎、葛西の没落、亦政実一行の処置など終った後廃寺になったと言う。その后元和五年(西暦一六一九年)岩ヶ崎清水寺の相雪和尚が附近に法蔵寺を建立し、天台宗を真言宗に改め愛宕神社の別当寺にしたという

岩ヶ崎高等学校の南方山手附近にも現在も墓石が散在し田畑に開拓された附近を含めて小名上品寺と呼ばれている。

愛宕神社は延暦年中坂上田村麻呂将軍が東奥に下向の砌り愛宕大権現を勧請して戦勝を祈願したといわれ、その後康平五年(西暦一〇六二年)陸奥守頼義の下向の際も亦戦勝を祈願し社殿を修築したと伝えられている。その社殿は附近の小高き丘の上にあり、明治十二年尾松村村社に列せられたが、明治四十二年三月高松の雄鋭神社に合祀されている。

明治初年遠田郡の行者某が霊夢によってはるばる当地方に訪ね来り、荒れ果てた草むらに塚を見つけ此処に碑を建て九戸神社として祀り日夜祈祷を続けた。世にはやり神さまとして信仰する者多く、或は軍神として崇め或は、頭部(目、耳、鼻、口)の病に霊験あらたかなりとして祈願するなど、近隣は勿論隣郡など遠くは岩手県方面よりの参詣人も多かったと伝えられている。

白旗氏の宅地内に建立されている祠が即ち九戸神社である。

註 この由来記は南部史要、仙台叢書風土記、伝説等より抜粋した。故佐藤辰蔵翁の遺稿より

(伊藤広人)


八幡神社の宝者

尾松屯岡八幡の甲冑は前九年の役(西暦一〇六二年)に源頼義が安部貞任らと戦った折に、頼義が神社に戦勝祈願に奉納したものである。全国的にも珍しく、甲冑の権威者、山上博士、日本で最有力の甲冑師、明珍宗恭氏たちも正に国宝級のものと鑑定しておる。

頼義の子は義朝、源頼朝、義経は孫に当る。

御三年の役の時作られたという八幡神社北方の空堀が未だにその昔を偲ばせている。

(佐藤東岳)
 
 


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 2002.8.9
 2002.8.15  Hsato