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柿の木御番所

旅には当時は駕籠が唯一の交通機関であったが、要所要所には関所があり、街道と庶民は自由には通ることができなかったのである。関所という大袈裟なものでなかったが、各藩で至る所に設置して関所と同じ役目を果していたものに番所がある。抑々関所とは何時の時代から、何故にあったのであろうか。鎌倉幕府は関所、番所は交通の障害であるといっていたから、凡そそれ以前からあったようである。世は戦乱の時代、軍事警察の必要から通行人を調べたことに始まるが、のちには藩の経済苦境を補う一手段として通行税を徴収することとなった。避けて間道を抜けるものには関所破りの重刑を課していたのが、当時の厳しい関所の掟であった。

宮城中央バス文字行終点に近い湯船停留所に下車、道を二〇〇メートルほど戻ると、道路から少々引込んだ南方に柿の木ご番所がある。木碑には大略次のように説明している。

仙北領内二十七ヶ所の一つで、通行人の荷物、手形等を検査し、不審あれば代官所(現在の宮野)に連絡して指示を受けた。同番所は十一代源左ェ門より四代に亘ってお境目守の役を勤めたが、故あって屋敷を捨てたので長四郎が役目をつぎ、明治廃藩置県にいたり廃止された。備荒倉は約三百年も経てきた籾の貯蔵庫である。天明、天保の凶作時、餓死者が絶えなかったため、百姓の耕作反別に応じて籾を出し合い、各村毎に倉庫をつくって凶作に備えさせたもので、今は町の文化財である。

側に東向きの小さな門がある。これが番所門で土壁を塗った部分が異るだけで四足門(花山ご番所と同じ)らしく、門の両袖は近年造り加えたものだという。
門を潜るとすぐ母屋(十六代菅原専助氏住居)があるが、当時からの建物ではないらしく、右側の空地は曽ての厩跡で先ず納屋があり、その後方に草葺屋根をトタンで覆葺した十八坪の平屋土蔵がある。これが備荒倉である。その前方は現在空き地になっているが、曽ては二室の広間があった検断所(通行人を喚問したところ)跡だったという。

寛文元年(一六六一)六代目の時、仙北お境目番所を命ぜられてより三百年間伝承してきたという。以下は十六代当主菅原専助氏の口述によるものである。

柿の木ご番所は天明、天保の大飢饉に物資が藩外に出るのを厳重に取締った領境の往還口であり、秋田に行くには必ずこの門を通行しなければならず、通行人があると門前で棒などを持ち威嚇したのであろう。然るに番所門が当時のままであるとすると現在四面田圃となっているなかから、厳しかった番所路をどのように求むべきだろうか。

全て番所門を通り小安(現在の小安温泉が)へ抜け秋田へ行った旧道が、畑の片隅にいまでも遺っている。不審あれば直ちに宮野代官に連絡した代官所番所であったから、代官より指示受けるまでは尚宿泊も余儀なかったであろう。水沢県知事の旅宿許可書もあったが、その古文書もいまはない。賄賂、収賄はもとより番人の意のままで「番屋の陰に連れて行き」とは山奥の番所にはつきもので、検断所とはそんな目的にも使用されたのであろう。

十二代阿部源左ェ門(代々名主阿部源左ェ門を襲名したらしい)となり、引続き、お境目守の役を勤めていたが賄賂、収賄の露見を恐れてか夜逃げしたものの如く、十三代は同村別当の長四郎がこれを受けつぎ、間もなく明治廃藩番所取潰しとなり、辛うじて番所門と備荒倉が町の文化財として遺ったのである。柿の木ご番所から更に十キロ奥の荒砥沢にも境目番所があったとだけで、資料は何も遺っていない。

斯くして柿の木ご番所は備荒倉とともに、三百年の歴史を経てきた町の文化財であるが、栄枯盛衰は世のならいで、やがて建物が朽ち果てるのも、そう遠くはないであろう。柿の木ご番所を名ばかりのものとしてこのまま眠らせてしまうのでなく、もっと、もっと大事な保存を考慮したいものである。

(近江茂一)


茂庭綱元の奥方の墓

文字の人達が茂庭綱元の奥方の墓と言っている場所は、文字上原(正しくは中山神囲山林中)菅野長三郎氏宅地に引続いている山林中である。東北方約百米位離れている小高い丘があり、その中頃が平地になっていて其処に、高さ五尺余もある大きな自然石の墓碑が立っている。碑の表面には法名『真如院定巌禅慈大姉』と刻まれて北方に向って建てられて居り、その側には立派な石燈籠が六、七基程今尚現存している。この石燈籠に刻まれた文字から献納者の氏名も判読出来ないものもあるが、当時の士の奥方などからの寄進である事だけは確実に読みとられる。

この墓を地元の人達は茂庭綱元の奥方の墓と言い伝えて来たが、明確な記録がない為か松山町関係の人達によっても現在尚判然としないままとなっている。

この事に就いて多くの人達によって色々と検討されて来ているが未だにきめ手がないのが実状である。

洞泉院に今保存されている古文書『茂庭了庵様御記録』の中に真如院定巌禅慈大姉様の御位牌の記録が見られ、現にこの御位牌については綱元(了庵様)の御位牌と同格のものが現存して居りこれからみて当時茂庭家の中でも相当地位の高い方であった事が想像される。

尚又『綱元君記』の中に綱元の家臣土屋孫右ェ門は綱元が死亡して一年後の一周忌の法事の日殉死し、記録の中に『妻子は奥方へ御機嫌伺いに出し跡にて切腹す』と記入されてあるのを見ても、当時奥方と称する人が居た事だけは判明している。しかしこの奥方とは誰の妻であるかが明確でなく決定的な結論までには至っていない。

松山町でも茂庭家の歴史研究では第一人者とも言われている鈴木重郎氏(先祖代々茂庭家の家臣の子孫に当る人で長く特定郵便局長を勤め現在は退職されているが郷土史の研究でその功績を認められて昭和四十七年文化の日に宮城県教育委員会より特に表彰を受けた人である)は茂庭大蔵茂行の奥方の墓ではないかと言っている。

結局色々の方面から綜合判断して見るき綱元(了庵様)の奥方の墓ではなく茂庭大蔵茂行の奥方の墓が正当ではないかと考えさせられる点が多い気がする。

茂庭大蔵茂行の奥方の墓と結論づけるに至る茂庭家の記録の一部を抜粋して次に載せる事とする。

茂庭大蔵茂行
元和二年丙辰(一六一六)生れ童名源太郎後大蔵と称し下総と改む。
実名は利綱茂元と改め更に茂行と改名した。母は成田氏、寛永四年十二月證人として江戸へ登る。
寛永十八年辛巳(一六四一)叔父茂庭正次郎実元の嗣となった。

茂庭正次郎実元
正次郎と称し天正十七年巳丑(一五八九)生れる。政宗から栗原郡岩ヶ崎において采地百貫文を賜って御膳番を命ぜられた。

元和元年大坂夏の役に政宗の御膳番として御隠居に在ったが、抜けがけして敵陣に入って馬上一騎と組打して首と旗を取って引返して来た。

どんなはずみか間違って敵の旗を差したので先手片倉小十郎重綱の陣から一斉射撃を受けた。差し換えたけれどもなおやまない。政宗これを見て正次郎の指物だ鉄砲を揚げよと下知した。

実元を政宗の前に召して首と旗を見て其の働きを褒美した。

それからのち陣中での働きを許された。

実元には子がないので忠宗公の命によって兄茂庭良元の二男茂行を嗣子とした。

大蔵(下総)茂行
幼名源太郎後大蔵と称し下総と改め実名は利綱茂元茂行と改めた。

元和二年生、実は松山初代良元の二男で母は成田氏である。

寛永四年の十二歳から二十七歳まで證人として江戸詰生活をした。

寛永十八年兄良元三十八歳で盲目となって家督から除かれたので、茂行が家督に立てらるべきところ病身で口許もゆがみ手も不自由であるから家督にかなわないとして、弟の大隅延元がかって片倉小十郎重綱の家嗣となっていたのを家に返し家督相続者とした。

然るに茂行は『病身とはいえども証人として江戸詰をも勤めている。御用立たないわけはない。兄を差し置いて弟を以て家督にするは甚だ不審千万なり』とて父子互に不和となった。

忠宗公この由聞込み、もっともの事と思ったが、良元の家督に成し難く、丁度叔父の正次郎実元に子がないので実元の家督に立てるように忠宗公から知行百貫文を与えられた。その上兄の良元からも百貫文分分知仰付けられて正次郎実元本知と合せて都合三百貫文の知行とするから勘忍せらるべきの旨仰渡された。

この三百貫文の加増知は栗原郡門地を中心とした領地である。


綱元逝去後茂庭大蔵殿茂行門地を拝領し玉ひ気仙郡釜谷の内平岡より移らる。

因って洞泉院を牌所となし阿弥陀堂妙覚堂の修復を加へらる。且綱元(了庵)の御墓の次に大蔵殿御家の墓所を築かると云々。

右のこと網元君記録にあり。

茂庭家系譜
                                
       喜多子(片倉小十郎景綱の姉となる)
        │  母は本沢刑部の女で良直君と結婚 喜多子を連れ子し片倉藤左ェ門へ再婚して景綱を産む                             
        │
初代    二代
良 直──綱 元 ───────-┬安 元(西磐井郡赤萩城で死去年二十四歳)
         母は信天郡福島城主 │ 母は新田遠江守義宗女   
         牧野刑部           │
                                                 │三代                四代
                        ├良 元───────────定 元
                        │ 母は安元に同じ           母は良元公後室 塩九右ェ門女
                        │
                        │      (分家創立)
                        ├実 元───────────良元公二男
                        │ 母は安元に同じ(子なし)     大蔵茂行(栗原郡文字を中心として   
                        │                             三百貫文の知行を受ける)
                        │                             叔父実元の家嗣となる
                        ├女(原田甲斐の母である)
                        │  母は太閤秀吉公より賜る香の前
                        │
                        └宗 根(登米郡佐沼城主亘理家祖)                    
                            母は上に同じ
      

(菅原常雄)


遊女鍋子

南北朝から室町へ、二百年間に亘る国内の内乱は、国中の津々浦々にまでも及んだ戦国の時代、三迫の合戦に敗れた南朝の忠臣、新田義興の郎党小林修理は、逃れ逃れて文字村三日市の宿場に辿り着いた。まだら川辺を彷徨していた時は、空腹と疲労で最早歩行さえ困難となり、此の上は潔く切腹して果てようとしているところを、通りかかった真山村(岩手山町)宿場の弥五作に救われた。

弥五作には鎌子という孫娘があった。いつしか修理と仲睦ましくなったのを見て修理と結ばせた。間もなく修理は農兵に刈り立てられてしまった。鎌子はその時十六歳で身籠っていた。

それから十七年の星月が流れ、下真山村の磯田に母の手一つで養育され、長じて旅人の一夜を慰める宿場女となった。その頃修理が妻を訪ねて行ったが、娘が生れたというだけで家は荒廃し、母娘の所在すらもわからず途方に暮れ、三日市の宿場女鍋子の一夜の客となった。

その夜の女こそ、修理が捜しもとめていた娘だったのである。肉親の父だったと知った鍋子は、驚きと悲嘆に身悶え、明徳二年(一三九一)八月十九日まだら川に身を投じて、十七歳の生涯を閉じた。その後この淵を誰いうとなく、鍋子ヶ淵と呼ぶようになった。

発心して僧となった修理は、半生を諸国行脚し、淵の近くに一寺を建立して娘の菩提を弔ったが後老朽して廃寺となるや寺跡には碑を遺し、墓を移葬して開山したのが、隣町鶯沢町早坂にある、鶯沢山金剛寺である。

「金剛寺開基、金剛院殿正外了体大姉」黒塗の位牌が鍋子だという。百年否もっと古いのかもしれない。本堂正面に安置してある高さ五〇センチ程の彩色した、若い尼の坐像が鍋子だというだけで、何時誰が作って弔ったのか詳かでないし、父修理のその後の消息も全く判っていない。

宮城中央バスに乗車、中山停留所に下車するとたんに、文字富士が眼前に覆い被さるように屹立する。その間をまだら川(文字川とも、小手川ともいっている三迫川上流)が水音たてて流れ、恰かも一幅の絵を見るような山峡である。すぐ川向うには重要無形文化財「正藍染」本家がある。

北方の麓路は曽ては三迫の合戦に終始した往昔の三日市(三の日に市を開いたので、此の名になったといい、大町、日向、三日市といまでもこの地名が遺っている)で、当時千戸の炊煙が立ち昇っていた宿場だったという。もともと駆り立てられた兵士であり、戦争を忌避する逃亡兵士もあったであろうし、戦傷者も絶えなかったであろう。

こうした兵士が寄り集まり、いつしか集落となって栄え、旅人の一夜を慰める宿場女もいて、繁昌したのであったらしい。斯くして前後二百年に亘った戦乱時代も、世が泰平になるに従って三日市も漸次衰え山峡の不便もあって、やがて平坦な地岩ヶ崎へと接着していったと思われる。

中山停留所からまだら川に沿って五〇〇メートルほど下ると小さな断崖があり、淵には一メートルほどの碑が立っているのが遙かに見える。鍋子の供養碑である。碑のそばは一〇メートルほどの断崖で、真下は青々と水を湛えて流れている。この断崖から鍋子が飛込んだのである。

百七十年余、風雪に堪えて立ってきた供養碑に微かに遺っている銘から判読すると、寛政七年(一七九五)四月三日金剛寺十一世海山師が、鍋子五百年忌供養のためこれを建てたとあり、鍋子死して四百年にしかならないが、恐らくその年忌までを追善供養したのかもしれない。いまはあたり一面田圃になっている碑の此処に曽て寺があったのであろうか。鶯沢山金剛寺はそこから約二キロメートル東北方の山の中腹にあるが、鍋子の墓は果してどうか。戦国時代が生んだ悲劇の物語である。

(近江茂一)


文字甚句

旧文字村には古くから南部神楽系の文字神楽があり、上文字の菅原信一氏ら若い人たちがうけ継いでさかんなころ、秋田県から芸人が来て、「おいとこ」「秋田おはこ」「秋田音頭」「甚句」などの民踊を神楽師たちに教えたのが、文字甚句のそもそもの発祥であった。いまから四十五年くらい前だったと記憶する。

お神楽の終った後の一幕には、必ず所望されてこれらの踊りを踊って見せ大変によろこばれたものである。お神楽のおまけ分に踊るばかりでなく、菅原信一氏が指導者となり、「文字おどり」と称して地元はもちろん近郷近在の娘たちに伝授したのが大いにうけられ好評を博した。

その中の「甚句」が文字村の山あいの純朴な環境で、「文字甚句」となって美しく育ち、独特なあじのある民謡とその踊りが、郷土色ゆたかに成長したものということができる。

隅々、NHKラジオ番組「あの町この村」の取材が文字村で行われ、その中で「文字甚句」を取りあげて放送してもらったのが、一躍全県下に普及するきっかけとなったのであった。「文字甚句」を最初に音盤に吹きこんだのは、桜田出身の鈴木仁一郎氏だったと思う。嶺岸とし子、加賀徳子らの唄い手もレコードにテレビに紹介してくれ、太鼓、鉦、尺八、三味線の伴奏の賑やかな唄としてみんなに親まれ唄われるようになった。

「文字甚句」が有名になるにつれ、地元の保存会の人たちは各地から請われて、実演にいとまないほどであり、放送局、仙台青葉祭、或は東京まで行って出演するなど次第に全国的となり、栗駒町からの「ふるさとの歌まつり」では「文字甚句」の踊りでフィナーレをかざった。

「文字甚句」はもともと秋田から移ってきたので、曲調は猿倉人形芝居の囃子に似ており、また別な秋田の盆踊唄が元唄かもしれない。しかし、こちらの方は「アラ」で一節の中を分けて唄うのが特徴で、節々になんともいわれないニュアンスをかもし、素朴な土の匂いがぷんぷんと出てくるようである。

このごろ各レコード会社で売り出しているレコードや、テレビ放送の「文字甚句」をきくと地元の唄とはいろいろ変ってきている。たとえば適当に前奏をつけたとか、「ハイハイハイハイチョイサ」の間奏を取ってしまったり、節回しにも一寸した変化があるが、唄そのものはききよくなっている。だが昔からの味はなるたけ残しておきたいものである。

歌詞も最初は

甚句アラおどりのはじまるときは
  野でもアラ山でもサアサ甚句ぶし
花とアラもみじはどちらも色よ
  花はアラほころぶもみじは染る
姉もアラしめたし妹もしめた
  おなじアラ博多のサアサ帯しめた

などであったが、観光栗駒と文字地区の人情に合せた、または座敷踊りに適した歌詞を新しく作って唄っているのもよいことだと思う。たとえば

川のみなもと栗駒山に
  残る白雪駒すがた
わたし文字の山中生れ
  山で生れて沢育ち
文字奥山沢中さえも
  住めば都の風が吹く
甚句でたでた座敷がせまい
  せまい座敷も広くなる
甚句踊り子お嫁にほしい
  わけて文字のおどり手を

その他ほかの唄の歌詞など採って唄ってもよいようである。

踊りは、近ごろは秋田の民踊のように楚々とした絣の作業衣に前掛姿で踊るが、最初のころは長袖の着物でおどったものである。この踊りは京都祇園祭の一種であるから、優雅な振袖姿で踊った方がより効果的であると、郷土史家の三原良吉先生は言われている。

「文字甚句」がこのように多くの人々から愛好され、代表的な郷土芸能としての地位を確保出来たのも、創始者菅原信一氏の偉大な功績であり、すでに物故された氏のりっぱな文化遺産ともいうべきである。

(小野寺敬一)


三界萬霊塔

文字荒砥沢、三浦憲男氏屋敷後の杉林の中に、一基の碑がある。

碑面に
安政五午年
三界萬霊塔
七日…………清三良

とある。自然石で高さ八十糎、巾四〇糎である。この地は旧秋田越えの道路であり、木立、冷を経て、秋田小安方面と、花山温湯温泉方面行きとの分岐点である。

仙台領内に一粒の米も稔らぬと言われた天明、天保の大飢饉の餓死者の霊を合祀したものと言われ、食うに食なく、難民諸所にうろつき、食を求めて秋田越の途次、死んだ人達の霊を供養したものであると伝えられている。

(菅原真治郎)


茂庭石見綱元

栗駒駅前から文字新田行のバスに乗り、文字高橋停留所で下車、町道山口線を四、五百米程行くと、右側の山麓、小高い丘に石で刻んだ大仏様が見えてくる。これは茂庭石見綱元(茂庭了庵)の墓である。

茂庭石見綱元は伊達家譜代の臣で、伊達家に代々仕え、政宗公の家老として数々の功績をのこしたばかりでなく、政宗公の五男摂津守宗綱公(幼名卯松公)の後見人となって、この大役を全うして多くの業績を残した。

宗綱公が十六歳という若手で病死されてから綱元は、宗綱公の菩提を弔うため、高野山に登り、成就院を再興し名を了庵と改め、宗綱公の三回忌法要を済ませて仙台に帰った。綱元が仙台に帰ってからも、政宗公から殊の外信望篤く、家老としての重責を果してきたその模様が、綱元記にはよく現れている。

寛永十三年(一六三六)五月廿四日政宗公が江戸屋敷に於て薨去されてから、茂庭了庵(綱元)は直ちに愛子村栗生の屋敷から、文字へ退去されたのであったが、文字に於て普門山洞泉院を開基して、政宗公と宗綱公のために綱元終焉まで五ヶ年間に渉って菩提を弔った。寛永十七年五月廿四日政宗公の薨去と月日を同じうして、文字の地に於て逝去せられたのであった。

綱元を知るために、茂庭家の蔵書「綱元君記」より一部を抜粋して次に載せることにしたが、内容はできる限り原文のままとした。

綱元君記よりの抜粋
姓は藤原氏鬼庭後茂庭と改め玉ふ左ェ門と称し石見と改め玉ふ、御実名綱元と称し玉ふ、鬼庭周防良直の御子なり。御母は奥州伊達郡福島牧野刑部殿某の息女なり。天文十八年(一五四九)奥洲伊達郡鬼庭村赤館に於て誕生し玉ふ。

永禄十二年(一五六九)二十一歳
御室新田氏、新田遠江守殿義綱の息女なり嗣君御誕生、御童名不知、後左ェ門安元と称す。

天正三年(一五七五)二十七歳
是より先、御父良直君大君輝宗公へお願いあって、御陰居君御家督を続玉ふ、出羽国置賜郡永居郷米沢川井の城に住し玉ふ、鬼庭村を合せて領し玉ふ、此時御知行貫高に直して、二百貫余に充れりと云々、川井村に伝て君、此時御知行二千五百石を領し玉ふと云。

天正四年 二十八歳
御女子御誕生、御名南後守屋伊賀殿貞城へ嫁し玉ふ。

天正七年 三十一歳
御二男御誕生、小源太と称し後主水良綱と称し玉ふ。

天正九年 三十三歳
此の年川井より米沢の御城へ出玉ふ。

天正十三年 三十七歳
人取橋の合戦始まり、政宗公御本陣を本宮表観音堂山に備へ、敵の連合軍佐竹、須賀川、岩城、今津、白川、石川、相馬の七将を相手として対陣した。仙台伊達家の浮沈を決する最も重大な戦いであった。

天正十四年 三十八歳
政宗公より御奉行職を命ぜらる、この時より石見綱元と称せらる。

天正十五年 三十九歳
石見綱元並松木伊勢殿某を、安積宿普請の御使を命ぜられ、御鷹を拝領し玉ふ、政宗公より綱元の御母君へ、左月君御隠居分の通直々これを賜ふ御朱印あり。

天正十六年 四十歳
三春領築山、百目木両城悉く自落す、是三春の家臣石川弾生某相馬長門守殿義胤へ志を通ずる品あるによって御退治として、去る十四日政宗公米沢御出馬右両城へ御自身に御馬を出さるに就て、同時に自落し弾正は義胤の方へ引退と云々。此年御二男小源太君、八幡藤八郎殿宗実の家嗣となり玉ふ、宗実の息女に配して家を継しめらるべき約なりと云々

天正十七年 四十一歳
此年御三男御誕生正次郎と称し御実名実元

天正十八年 四十二歳
此以後百目木に於て奥方より出火あり、風激しく急火故、御系図御重代の寸切丸光忠の御刀及御代々の御道具焼失すと言々。此日頃大崎葛西の地に一揆起と言

文禄元年(一五九二)四十四歳
伝て云、鬼庭と云は卑しき苗字なるによって相改むべきの旨上意あり、鬼庭村の本名なるを以て、茂庭と改め玉ふと云、政宗公京都御出陣、綱元御供なり、筑前国博多浦に御着、此後肥前国名護屋に御着陣、綱元は名護屋御留守居仰付られ、此地に留り玉ふに就て御在陣中太閤殿下御陣屋に於て、綱元へ御料理を給、且御相伴を仰付らる、其後御茶事等の節召出され、御相伴をも命ぜらると云、

文禄三年 四十六歳
太閤殿下綱元へ御妾一人を賜ふ、是殿下の十六人の御寵愛の一人なり、名は種(お種又は香の前姫なり)歳は十八伏見町に居住の侍、高田次郎右ェ門某の女なり、是後又次郎宗根を生む。

文禄四年 四十七歳
政宗公伏見より岩手山へ御下向あり、綱元は御供し玉ふ。

慶長二年(一五九七)四十九歳
太閤殿下政宗公へ御意には、茂庭石見は相登せられずや、久しく見玉はざるの間御目見仰付らるべきの由仰出さる。

慶長三年 五十歳
御女子御誕生、後原田甲斐殿宗資に嫁し玉ふ。

慶長五年 五十二歳
綱元政宗公より栗原郡三迫に於て、御知行三百貫文を賜ふ、記録其外によれば御知行八百貫文と云、此年御三男御誕生、御童名又次郎伯耆宗根と称し玉ふ。

慶長六年五十三歳
此月仙台御城御普請あり、此時より綱宗へ仙台御留守居仰付らる。是より以前は、屋代勘由兵工殿景頼岩手山御留守居たりしを免され、綱元へ仰付らると云、此外三迫へ取移御家中不和、足軽六十人取移す。これは茂庭御普代の二男、三男を御前の武士と名付玉ひて御弓を持せ玉ふとなり、後松山に取移す、今の松ヶ崎御足軽是なり。一説采女(遊佐道海)は慶長年中、次左ェ門死去の後代として御家老仰付らると云遊佐氏其家に伝て云、伊達の中遊佐館に住すと云、采女(後外記)弟伊豫両人初て綱元の家臣となる。伊豫は後故あって御家を立除たると云。

慶長七年 五十四歳
三月仙台御城廻り御普請あり、綱元政宗公より仙台に御屋敷を賜ふ、大手西脇にあり、御屋敷は川向山下に於て賜る。

慶長八年 五十五歳
政宗公伏見より御帰国、仙台御城御普請成就に就て直々御移徒あり

慶長九年 五十六歳
三月政宗公の御愛子卯松公(宗綱公)御年二歳にならせらる。綱元へ後見仰付らる、卯松公へ三迫に於て御知行五百貫文遺され、岩ヶ崎の館をお取立御作事ありと云。

慶長十一年 五十八歳
此年又次郎君亘理美濃殿重宗の家嗣となり玉ふ。

慶長十七年 六十四歳
此年栗原郡三迫に於て、浄土宗円鏡寺を御造営あり、御役人日下藤兵ェ清重仰付らる。是は種子(香の前姫)御宗門浄土宗なるによって、浄土寺御開基なされたき旨御願に就てなり、寺領一貫文寄附せらると云、三迫に於て御開基並御再興の寺院左に載す

一、御寄附壱貫文 真言宗音羽山清水寺
一、 御寄附壱貫文 禅宗洞家 黄金寺
一、 御寄附七百文 明神別当真言宗福正院

明神別当と云は何の明神なるや不詳、栗原郡二迫に於て、青雲の地蔵堂、稲屋敷の阿弥陀堂建立あり。

慶長十九年 六十六歳
六月三迫岩ヶ崎に於て、馬売日市を相立らる。宗綱公御取移以後綱元より願玉ふによって、仰付らると云。此時馬九百頭余出たり、不残売たりと云。

天満町より出火総陣より馳集る、此時御小姓但日野半三郎某二十一歳、八巻惣七某二十二歳両人申合敵陣に駆入る。半三郎深入して敵一人を討捕と雖遂に生捕られ城中に牢舎す。天満町出火の節狐出走る。諸国の者陣中より出て追懸撃留んとす、遊佐伊豫某兼て武芸達者のものなりしが、切留んと追掛行く綱元御覧あって、狐に構うべからずとお声をかけ玉ふと雖聞入れず、追懸行き狐広堀を越諸人越かねたるの所に伊豫飛越狐を切留たり、綱元御覧あって、御氏神稲荷明神なるによってお家にては狐に手を付けざる所に御意をも聞入ず切留たる事不届に因て、直々御追放仰付らると云々。

寛永二年(一六二五) 七十七歳
御四男御誕生、長門盛元と称し猪苗代越後殿盛次の家嗣となり玉ふ。

寛永三年 七十八歳
御五男御誕生、次郎兵ェ常元と称し後五右ェ門と改め、軽部隠岐殿某の家嗣となり玉ふ。

寛永十三年 八十八歳
五月二十四日政宗公、江戸御屋形に於て薨去し玉ふ、尊骸は瑞鳳寺に移し奉る。六月良綱君(良元君)へ御書を以て貞山公(政宗公)御位牌の儀仰進せらる左に記す。

一書申入候然者於爰元二七日之御茶等金剛寺東当申入候、明後三七日も同申入候御茶等をも上可申候左様に候へば、三十五日御茶等上申ために誰そ頼入、御位牌板江成共為書申二十五日に、五郎介に為持指越可給候、而家をたて御位牌をも立可申候。
其間之事に而候恐々謹言
 六月十三日         了庵綱元御書判
  茂庭周防殿   
此御書は栗原郡門地村よりの御書と見へたり、金剛寺は鶯沢にあり。

寛永十四年 八十九歳
此年栗原郡門地村に於て寺を創造し玉ふ。洞泉院と称し山を普門山と号す、同郡鶯沢村鶯沢山金剛寺綾南和尚を請して開山の初祖となし、住せしめらる。造畢(つくりおわり)即貞山公の御位牌を安置せらる。此の御位牌、寛文年中松山竜門山石雲寺へ移し玉ふと云々。

寛永十五年 九十歳
九月貞山公御菩提のため、門地村に於て別に地を開阿弥陀堂を建立せらる。葺三間四面なり、今日阿弥陀、二尊を安置せらる。立像二尺八寸なり。此地洞泉院に属す、阿弥陀堂の別当は山伏縁覚に命ぜらる。伝て云此時より毎年五月二十四日阿弥陀堂の前に於て神楽を奏すと云々、阿弥陀堂へ石燈籠二基献納し玉ふ。

寛永十七年 九十二歳
五月廿四日門地に於て逝去し玉ふ。御法名「了庵々主前石洲籌外全勝大居士」と号し奉る。御墓所は阿弥陀堂の側にあり石を以て大仏を刻して安置し奉らる。座像なり、長さ九尺五寸洞泉院に伝て綱元の御影なりと云。

以上で「綱元君記」よりの一部抜粋を終り次に綱元君御先祖記録より抜粋したる「自行元君至元実君記録」

行元君或実良、姓ハ藤原氏ハ、斎藤蔵人ト称シ玉フ、山城国八瀬尾原ニアリ、八瀬ニ住居シ玉フ、君御子ナシ多田氏ノ御子将監基良君ヲ養玉ヒテ、御家嗣トナシ玉フ、君八瀬ニ於テ逝去シ玉フ、基良君八瀬良、将監ト称シ玉フ、下野国那須ニ於テ逝去ス、実良君監物ト称シ基良君ノ御子ナリ、建久三年(一一九二)此年基良君ノ御年忌相当ルト雖、御貧乏ニシテ仏事御供養ノ御経営モナリ玉ハス、御家臣紺野図書(宮内ガ子)是レヲ憂ヒ、奥洲ヨリ人買ノ来ルヲ聞テ、我妹ヲ売其金ヲ以テ、基良君ノ供養ニ奉セント妹ヲ売スト云。

此人買ハ奥洲伊達郡鬼庭村ノ百姓、山刀振屋敷ノ文五郎ト云者也、是ハ同郡飯田村ノ山上ニ沼アリ飯田沼ト云、彼ノ沼ニ大蛇アリ、祟(タタリ)ヲナスニヨッテ伊達信夫並余目十八郷ノ者共身年貢ト称シテ三年ニ一度処女一人ヲ蛇ノ飼ニ具フ、当年ハ文五郎人買ニ当リ、伊達信夫余目ノ者ノ償金(ツクノイ)ヲ持テ上方ヘ走(ヲモムキ)シガ、彼女ヲ買取ル値ハ目買ナリ、女ヲ秤ニカケ女ノカカリタル目数金子ヲ渡スト云。

図書此金ヲ実良君ヘ奉リ、基良君ノ供養ニ奉セン事ヲ願フ、実良君御不審アリ深ク詮議シ玉ヘハ妹ヲ売リタル金ナリ旦奥洲ニ下リテハ蛇ノ飼トナルノ由聞召サレ、此金ヲ以テ御考(チチ)ノ祭リヲナシ玉ハン事甚心安カラズ、早速彼女ヲ取返スヘキノ旨仰付ラルト雖、巳ニ奥洲ニ着スヘシ、仮奥洲ヘ馳下ルトイフトモ容易ニ相返スマシキノ旨申上ク、然ルニ蛇ノ飼ニ具ルハ、九月十九日ナリト聞召サレ、然ラハ数月ノ間ニハ御術アルヘシトテ夫ヨリ御氏神、稲荷明神ニ御立願アリ、兼テ御精兵ナリシカ奥洲ヘ下向シ玉ヒ、彼大蛇ヲ射殺玉ヒ度ノ旨御祈願アリシニ、御夢相ニ御矢ヲ授リ玉ヒテ、紺野図書鈴木帯刀御供ニテ御下向アリ

六月十三日伊達郡湯村ニ下着シ玉フ、文五郎始鬼庭村ノ者共並伊達信夫ノ老人等ヲ召集ナラレ、彼蛇ヲ射玉フヘキノ旨御談合アリ、所ノ者共射損シ玉ハハ如何ナル崇カアラントテ恐懼シ肯(ウケカ)フモノナシ、又鬼庭村文五郎カ宅ニ御出明神ノ奇瑞等品々仰聞ラレ、御矢ヲ見セ玉フ所ノ者相集リ吟味区(マチマチ)ニシテ決セズ、時ニ天ヶ森ニ光リヲ放テ飛付モノアリ、所ノ者共是ヲ怪ムノ所、実良君明神ノ吾ヲ擁護シ玉フ験ナリトノ玉フ、何モ明神ノ降臨ナラント一同疑心ナク射サセ奉ルベキニ定ルト云、今湯村ニ茂庭畑ト云所アリ、是時仮屋ヲ構テ御座アル所ナリト云、昔ハ鬼庭畑ト云ヒ、鬼庭村ト改ムルノ後コレモ茂庭畑ト云来タルナルベシ、天ヶ森ハ鬼庭ノ内北原ニアリ、文五郎カ宅山刀振屋敷ノ東ニ当レリ。

九月十九日天ヶ森ノ後ニ大櫓山ト云山アリ即テ菅沼ノ上ナリ、彼山ニ櫓ヲ構ヒ女ヲスヘ置、実良君ハ其後ニ控玉フ、御供並所ノ者皆々櫓ノ後ニ相詰ル、菅沼ハ鬼庭村ノ山上ニアリ、大蛇常ニ此沼ニ通フニヨッテ女ハ此ニテ具フト言、一説山刀振屋敷ノ文五郎身年貢ヲ具ルノ由鐘太鼓ヲ打テ呼カケ、皆々北ニ去リヌト云、大蛇菅沼ヨリ現出テ櫓山ニノホラントスル時、水霧ヲ吹立、形サタカナラス、時ニ白キ鳥一羽飛来テ其上ヲ舞シカハ、霧忽チ晴レ蛇身アラワレタルニヨッテ、御矢ヲ放玉ヘバ、蛇ノ口ニ入、舌ヲ射抜胴ノ中チニ止ル蛇ノアラワレタルヲ見テ、所ノ者悉クニケ去リ又、然ルニ紺野鈴木帯刀畑中金七郎大枝ノ参河山刀振ノ文五郎此五人居止リ、始終ヲ見届奉ル、此ヨリ此五人ヲ別シテ重ク召使ハルト云、一説ニハ矢射ヘバ沼ノ中ニテ其狂タルニヨッテ、ニノ矢ヲ射玉ヘバ、其所ニタマリ兼退タリト云、大蛇夫ヨリ飯田沼ニ行ントシテ高松山ト云山ヲ越兼、ココ二三日止ル、因テ此所ヲ三日尻ト云、腰懸沼、肱衝沼アリ、遂ニ其辺ノ沢ニ下リテ死ス、今ニ此所ニ蛇骨アリ此所ヲ茂庭沢ト云、夫ヨリ蛇ノ首ヲ捕リ、鬼庭村ノ内田畑屋敷ト云所ニ埋メ、其上ニ宮ヲ立、御嶽蛇玉権現ト云、蛇ヲ射玉フノ時、白キ鳥来リシニ因テ白鳥明神ト尊称シ奉ル、六月十三日、(御下着ノ日)九月十九日(大蛇御退治ノ日)ヲ以テ祭礼ヲナシ、年中両度ノ祭礼アリ

以上は「松山叢書」第一巻より一部抜粋したものである。

(菅原常雄)


文字三山

文字三山と云えば、大土森、中の森、ひつ森の三つの山でその奥にある揚石山と共に、二の迫川の水源地でもある。この三山はそう高い山ではないが、町内の山としては、栗駒山は別として、揚石山につぐ高い山であろう。

大土森は別名文字富士とも云われ、遠くより眺めるその姿は実に、気高く見え、櫃森は屋根形をした山で四国の屋島によく似ている。中の森は丸やかな、どこか落着のある、どっしりした感じの山である。この三山を遠く、尾松方面或は、猿飛来、里谷方面から眺めると、廻りの山々より一きわ高く、くっきりとうかび上り、一幅の絵を見る様に美しく、文字甚句にも唄われている。里人は何百年、何千年と長い間喜びにつけ、悲しみにつけ、この山を眺めこの山に教り、この山の恩恵に浴して来た事であろう

私はこの山に伝わる話を、私なりに書いて見よう。昔々大昔の事、大土森には大土彦と云う神様が金堀りをして居り、櫃森にはおひつ姫と云う神様が居て、機織をしていたと云う。だがお互いに高さを競ってゆずらなかった。ひつ森はもっと先のとがった高い山で、大土森は今より少し低い、なだらかな山であった。ところが大土彦の神は自分の山を高くしようと、大勢の眷族共を使い、その辺の土をどんどん盛り上げて今の様な、恰好の山を作った。そして勢に乗じてひつ森に攻めこみ、相手が女である為、制止も聞かず眷族共を励まして、山をくずしてしまった。それでひつ森は上部を切り取られた様な恰好の山になった。

それを見ていた奥の揚石山の神様が仲に入り、お前達は喧嘩をしてはいけない、高さくらべなら、わしの方がずっと高いぞ、然し奥の方には駒ヶ岳と云うもっともっと高い山があるんだ、お前達の及ぶところではないから、喧嘩はやめなさい。喧嘩をすれば何時までも、お前達が損をするばかりで、決して幸福にはならない。それよりは、お前達は男女である。お互い良く理解し合って、夫婦の契を結びなさい。私が仲をとりもってやるからと云われた。初めは仲々承知しなかったが、度々説得されたので、遂に承知して夫婦となった。その後は夫婦仲も至極円満にして、出来た子供は中の森太郎と云い、丸々と太った大きな子供であった。

そして親子三人変ることなく、何時までも仲良く過して、今日に至っているとの事である。それでも父親の大土彦の神が少し、きびしかったので、子供の中の森太郎は、母親のおひつ姫の神の方にしっかり寄りそっているのもうなずかれる。

又大土森を高くするとき、その辺の土石を皆かき上げたので、大土森の沢は岩石だらけで耕地がなく、ひつ森の方はくずされた土が葛峰附近まで落された為、沃土と化して良く樹木が伸び、今は見事な美林をなしている。ひつ森前は開拓されて人家が建ち並んでいる。これも禍転じて福となるのたとえで、くずされた土が風化して開墾に適したものということができる。

中の森もかつては木炭の産地として、ひと頃炭を焼く小屋が、二、三十棟も建ち並び煙たなびいて、実に見事な風情であった。

大土森は金の山として、今尚堀り続けられている。何づれにせよ、里人はこの三山の恩恵に浴している事は云うまでもないことである。

(蜂谷正一)


収入役追はぎに逢う

明治二十二年町村制が布かれた。何処の町村でも役場を置いた。

栗原郡の中心は築館町、郡役所も築館町にあった。随って税金は郡役所まで駄送した。馬に銭を積み口取人夫が口輪をとり収入役が付いた。この銭は銅銭所謂ビタ銭で真ん中に穴があり麻縄を通し一円づつの一連で(ビタ銭一枚一文)あるから何十円とかの税金になると可成り重みがある。当時は「ワラジにキャハン」それにカッパを着た道中姿である。築館までの順路は尾松を通り姫松(旧街道)を歩かねばならない。

文字村収入役だった後藤市三郎が人夫と共に姫松へさしかかった時、ヌット二人のならず者、(追はぎ)が現われ、その馬に積んでいる銭を下せとどなる、再三のゆすり言葉なので収入役は落ちつき払ってこの荷は銭ではない、銭は俺が持っている。いくら欲しいソレとビタ銭を財布から出して握らせた。収入役の態度と度胸に追はぎ連も頭を下げ雲を霞とスタコラスタコラ逃げたとサ。
後藤市三郎はその後助役等を勤めた村の重鎮であった。市三郎は文字下文字田中の人である。

(斎藤実)
 


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 2002.8.7
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