〈鳥 矢 崎〉

 


鳥矢ヶ崎古墳を発掘

古墳の学問的なことは別として、何故そこを発掘したかについて、尾松菱沼、伊藤喜一さんの口述等にも聊かふれてみよう。

明治四十四年というから今を去る六十三年前の六月十三日、旧尾松村八幡の大工、小野寺久五郎さんが、青雲山を越え源四郎道にさしかかった際、つつじの株につまづき下駄を探していた時、土中から刀の折れ端のようなものが五寸ほど露出していたのを堀起して家に持ってきた。その夜枕神が立ち「あれはおれのものだから掘り出せ」とのお告げにより、翌朝早く現地に行き掘った処、唐くつわ(鉄製衣馬のくつわ)その他鎧、かぶと、刀、須恵器の茶碗、皿等約四キロが出土したので屋根裏に保管していた。内唐くつわは東京国立博物館へ納め、その他のものは屋根替えの際、子供が田で焼捨てたという。

それから五十年の星霜が過ぎた。その時のつつじ株もまだある筈だというので、昭和三十七年十一月二十七日、もう八十八歳になっているその時の大工、小野寺久五郎さんの案内で再び訪れたが、樹木も成長して、その時の道とは余りにも変り果て、つつじも生え変って、正確な地点を知ることはできなかったのである。

その年の十二月九日、このことを東北大学の高橋富雄教授、東北学院大学加藤孝助教授に詳細報告して来町を仰ぎ、調査を依頼した処古墳であることが初めて確認され、昭和四十六年三月二十日、両教授に二十余名の考古学研究学生が加わり、地元部落民の協力にて大がかりに発掘をしたのである。

猿飛来から尾松に通じる村道を登りつめた頂の眺望は実に素晴らしい。そこから左へ折れ、昼尚暗い松林の山道に入り、二百メートルほど行った奥まったところに、今回発掘した二基の古墳があるが、現在は松樹の大半が伐採され、遙か向うに二ヶ所柵が回されているのが見える。

下の柵が一号墳、上の柵が二号墳で、外に発掘されないで土饅頭になっている古墳が、周辺に三十三基も群がっている。よく見ると土饅頭の上には、恰かも何かの目印でもあるかのように太い松樹の切株があるが、自然に生えたのであろうか。勿論当時からの松樹ではない。

当時大工の小野寺久五郎さんが、村道からこの松林に入ったのであろう。とすると車は通れない細い一本道だから、最初に突き当った古墳を発掘したのであったろう。それが一号墳である。発掘した結果、棺も副葬品も発見されず完全に盗掘にあっていたという。その盗掘とは曽て大工の小野寺久五郎さんが発掘したのは副葬品で、その跡を更に心ないものが発掘したのであろうか。或はそれ以前既に盗掘されていたのかもしれない。

二号墳からは土師器、須恵器に混って刀片も出土され、年代も一号墳より百年古い何れも奈良時代のものであると発掘に当った各教授が説明している。

勿論三十五基もある古墳のうちの二基を発掘したのみで、何れも千二百年も前のものであり、従って形態も失くなっていたし、盗掘にあってもいたが、もう少し何かが出土して、ものの歴史をもっと今の世に見せてくれてもいいのではなかったかと残念に思っている。いづれにせよ今後の研究に多くの課題を遺しているのである。

この古墳群がこの度、県文化財に指定された。

(近江茂一)


磯乃浦物語

上野の磯さんと言えば、近郷近在で知らぬ人はないと言う程有名な人で、明治大正昭和と三代にまたがって、破乱万丈の波を乗り越えた人である。名は久治郎姓は浅野と言い、久太郎氏の次男として尾松栗原浦の沢と言う処で生れた。

長ずるに従い短躯ながら筋骨逞しく力量抜群であったせいか、志を立て明治四十年郷関を出て、東京大相撲尾車部屋に入門した。時に年齢二十歳であった。以来切磋琢磨技倆を伸ばし、幕下までに進んだ地方出身の草分である。帰郷後は東京大相撲協会の世話役に委嘱された。大正十二年十月十七日付で、東京大相撲協会取締役高砂浦五郎関より免許状を受けている。又宮城県相撲会の取締役に就任した。
爾来郷党青年の育成強化に精進し、斯道の普及に尽すこと実に四十有余年、仍って磯の浦「シコ名」の名声を遠近に広めたのである。処々にて相撲会が催された時に磯の浦と猿飛来出身の「飛雲」との初切相撲は実に面白く見事なもので、当時の花形でもあり今でも時折話題になることがある。

昭和十二年日支事変起るや軍に徴せられ、本県岩沼、福島県原町、双葉郡熊野町等の飛行場建設に従い、丸磯浅野組の親方となる。任侠の土磯の浦を慕い参加する者数千人に及んだと言う。その人格は高潔にして無欲恬淡、人を容るるの裁量があった。為に世の人の絶大なる信頼を受け、推されて鳥矢崎村々会議員二期当選し、隅々岩ヶ崎高等学校設立の議会に於て準備委員に選任され、敷地の撰定と用地買収の任に当り、遂に今日の学校と一万坪を擁する敷地の獲得を見たのである。

又栗原電鉄田町駅の誘致に地元有志と相謀りこれを実現させている。今日田町駅乗降客は栗駒駅をはるかにしのぐ盛況ぶりであるのも磯さんの努力の結晶に他ならない。

昭和三十二年病を得て同年七月二十日没した。在世七十一年その仁徳は余りにも高い。故に発起人、世話人達が相謀り有志各位の拠金に依り磯さんの頌徳碑を浅野家の門前に建立した。碑文は斎藤実氏の撰文によるものである。

墓は力士磯の浦にふさわしく、台座共丈余(三、五米位)の大石碑にして

力士
磯乃浦
浅野久治郎夫婦之墓

とあり法名は

久光院剛與輝勇清居士、と贈られている。一見何者をも寄せつけない様な精悍な顔だちでもある半面、笑えば赤子をも慈むに足る柔和さがあった。又独立心に強く上野に居をかまえ、妻を片子沢浦の沢熊谷家より娶り、農業を営み馬力による運搬の業務等も行う傍ら、子弟の養成に努めた。

初代なる故に家名を揚げる事も忘れず除々に耕地等もふやし、夫婦仲も至極円満にして二男二女をもうけている。広い屋敷には大きな家を建て、こよなく庭を愛し、つつじ、どうだん等見事な木がたくさんある。これを受けついだ二代目盛義氏も庭を愛し、植木珍石等を集め町内でも屈指の見事な庭園を作り上げている。

又最近町の夏祭りの際青年達の相撲大会が催されているが、斯道奨励の為、昭和四十九年度より磯の浦賞を制定し、盛義氏は立派な優勝カップを寄贈している。地下の磯さんもほほ笑んでいる事であろう。

尚没する迄断髪せず相撲髷に結っていたのも有名であった。

(蜂谷正一)


金比羅講物語

鳥矢崎に猿飛来という変った名の部落がある。土地の人には判るが、遠来の人は何と読むかと不思議がる。その中央部漆沢部落の南側丘陵に、金比羅神社という石宮がある。無格であり、その名はあまり知られていないが、苔むした石鳥居の跡、燈籠に文化十四丁丑年(一八一七)九月十日奉納茂想太とあり、神社と同じに建立したものか、後で建てたものかは判らない。石宮南側には平内、次助、吉太郎、喜平、幸八徳右ェ門、弥市北側には吉太郎、彩○、百○、知○、角○、伊太郎と十三名の名が微かに読みとれる(○は判読できない。)

古老のいい伝えによれば、次のような物語がある。その昔お伊勢参りとともに、金比羅参りも亦その頃の念願であった。ある年この部落の有志数名が、金比羅参りに旅立った。今のように汽車も、バスもなかった時代のことで、家族と水盃をして出発した。無事四国琴平町象頭山の中腹にある金比羅宮に参詣した。

金比羅様の御祭神は大物主尊で海の守護神、農業殖産の神として信仰の厚いところである。帰途瀬戸内の海の中央にさしかかるとどうしたことか、舟の底に穴があき浸水甚だしく一同大いに心配して、今はこれまでと観念、南無阿弥陀仏、金比羅大権現と唱え、その内の一人は着ていた羽織を脱いで塞ごうとしたが、海水の勢が強くどうしても防ぎきれずにいると、あーら不思議、海水が自然に止ったので神の恵みとみてやると、大きな蟹が一匹ぴたりと背をつけて、その穴を塞ぎ助かったという。

一同はこれ金比羅様の御加護と相はかり、地元有志の賛同も得て、ここに金比羅神社を建立し「金刀比羅宮」の御神号を受けて金比羅講を発起、春秋二回お精進を続けていたという。

それから原家では代々蟹を食べない家例になっており、堀に魚捕りに行っても蟹は捕らず、全部放してやることに言い伝えられており、明治、大正、昭和になっても十三名の講中があり、昭和五年には菅原豊之助、原惣太郎、工藤寛治、千葉浅之助、及川熊治、工藤健太郎、千葉辰太郎、及川宗男、及川米吉、工藤捨右ェ門、三浦丑太郎、菅原喜男、千葉房喜の十三名が石の玉柵を奉納しているが、殆ど故人となっている。

戦時中暫くとだえていたが、昭和三十八年四月復活して今は七戸で、春秋お精進を続け、昭和四十二年七月、四国琴平に金比羅参詣を行い、仝年十月に神楽を奉納している。危難を免かれるという意味が戦時中は出征兵士がよく参詣したが、この頃は近所の旅行に出掛ける人が一路平安を祈り、受験生なども時折参詣でしている。

(楳原惣市)


猿飛来の地名

栗駒町鳥矢崎に猿飛来と言う部落がある。現在戸数二百戸余りである。永承五年五月源頼義父子安部貞任征討の際二迫八幡村屯ヶ岡に滞陣し、青雲権現に立願した為に勝利を納めたので、藤原清衡に青雲神社の建立を命ぜられたと伝えられている。

康平五年十一月二十九日同社造営中、猿が一匹短冊をくわえ雲に乗って飛び来り再び蛟竜となって昇天したので、以来猿飛来と称するに至ったとの説である。

短冊に「魔成下海涼」の五字が記してあったと伝う。


御産前

前九年の役(一〇五一−一〇六二)に源義家が阿部貞任を追討の折、当地に於て義家の奥方が出産されたので御産前と称し、御子を洗った池を「御産の池」と称して現存している。御産前より一キロの処に貞沢という処があり、昔阿部貞任の隠れていた処という。貞沢の地内に、見つけ嶽、十畳敷、牛殺橋という地名がある。

義家が阿部貞任の隠れていた家を、高い山の上から見つけた山を、見つけ獄と称している。十畳敷は、貞任が戦に敗れて落のびて小屋を建て、隠れて居た処である。牛殺橋は、見つけ獄より義家に発見されたので牛に財宝を積んで逃げたが、或る小川の橋にて牛を転ばしてしまったので牛殺橋という。御産前には、山神社を祭った年代不詳の昔からの石宮があり、その地に大正九年、新に御堂を建立して祭った。

御堂  南向五尺造
祭神  木花咲耶姫の尊
祭日  三月、九月各十二日

(粕川金男)


大同桜

鳥沢大同地内にあり、周囲一丈五尺、大同年間(八〇六−八一〇)生じたのでその名になったという。通常の桜と異り、花の芯なく一輪づつ花弁より落花して実を結ばない。日本三名桜と(京都、新潟、大同)称せられたと伝えられている。

枯れた空洞の立木が明治末期まであったが一夜農民の夜水引きに空洞内にて寒さを凌ぐための焚火から焼失、現在の桜はその代木と伝えられている。当時の大同桜の根の一部が、現在阿部長一郎氏宅にある。今は代木の桜と、苔むした古碑があるが、その文詳らかでない。古老の伝承によると、かつて此の地に大同寺という寺があったとも聞く。


旧跡月山堂

昔月山堂権現社地(現在の養昌寺地内傘松附近)に建てられた。天台宗の修験附行寺という虚無僧寺があった。しかし大永年間(一五二一−一五二八)野火のため焼失し、のち慶長十年(一六〇五)再興したのが現在の養昌寺である。

月山堂跡にある老松、傘松は不動の森の杉と共に、年月を経て廻り十五尺、高さ五丈余、その容姿は、鳥沢を物語るにふさわしい。

(粕川金男)


泉沢

深谷に泉沢という地名がある。深谷大日向、鈴木はつみさんの家がそれである。当家は寛治年間(一〇八七−一〇九四)大原木釜ノ河城主鈴木三河守重家が桃生郡深谷の陣に於て滅亡した際、深谷に落のびて土着したとのことである。

寛永年間(一六二四−一六四四)には、深谷七軒のうちの一軒であり、建物は深谷最古のもので、建築方式は石場建、木材は「チヨウナ」掛であったが、昭和三十年旧一月十一日夜全焼し、系図も焼いてしまった。

現在当家で使用している井戸(泉)は、弘法大師おさずけの井戸と伝えられている。昔弘法大師が諸国修業の折、当家に立寄り水を所望された際、遠く行って水を汲んできたのをみてあわれみ、持っていた枝で、ここに泉ありと教え、枝を抜くと不思議に水が湧きだしたものだという。現在はつみさん宅で使用している井戸がそれである。

(粕川金男)


玉の井館の伝説

人皇第百三代後土御門帝の明応年間(一四九二−一五〇〇)世は室町幕府の中期、今より約四八〇年程前、中野の里に玉ノ井館と言う小さな山城があり、館主は玉ノ井半内と言った。(場所は中野玉ノ井菅原勝男氏宅の後山)この館にまつわる伝説である。

当時、玉ノ井館は飲料水に乏しかったので、館より東南一粁位の処に(現在粕川盛夫氏宅の後)不動清水と言う、世にも希なる名泉があったのでこれを使用していた。その昔日本武尊蝦夷征伐の砌、のどをうるおしたといわれているよい水であった。これを館主は毎日のように下女に汲ませて茶の湯として愛用していた。いつものように下女が水を汲んで館の近くまで来た時、何かに躓いて転び桶の水が無くなってしまった。下女は、また戻って汲むのも面倒と思って側を流れている小川の水を汲み、そしらぬ顔で、湯を沸かし、茶をたてて館主に差し出した。館主はいつもの茶の湯と味が異うので、下女を呼び聞き糺したところ遂に隠しきれず小川の水であることを白状した。烈火の如く怒った館主は、下女を生き埋めの刑にした。その時金のうつき(仏器)一ヶと、干柿百ヶも埋め毎日一ヶの柿を食い、生きている間は鐘を鳴らせといって埋めたとか。それから百日の間、鐘の音が土中から寂しく聞えたという。生き埋めしてから三十三年後の、天文二年に供養碑を建て懇に弔ったといわれている。

石碑は小さいが、当時としては珍しい稲井石を用いて居り、今は雨風にさらされ判読もできないが、碑面には次のように彫刻されて居るのが見える。

 ○○一如 天文二年
     敬
○道秀禅定尼  卅三年
     白
 皆是○○ 六月九日

後年になって金の袿を探そうと墓所を盗掘した者があったが、見つからなかったという。その後墓所が山くづれとなったため、昭和の始めになって館の麓を屋敷にした菅原幸一郎さんが、自分の家の後方、館の麓に祭り替えて現存して居る。

また以前、中野上区長の菅原一さん宅の持仏堂の釈迦如来は先代が玉ノ井館址を開墾の時のものと言われ、金仏で見事なものである。館址は現在山林と、一部畑となっているが、築濠の外は何も残っていない。近くに雲南社、山神社、愛宕神社等があり、いづれも館の守護神と言われている。玉ノ井半内の末裔は其後どうなったか知る由もない。

(蜂谷正一)


新山神社と美林

鳥沢川を源とする不動の滝は、滝倉山より流れ、一の滝の高さ四丈幅四間、二の滝の高さ三丈幅二間、三の滝の高さ二丈幅一間で、滝の瀬音が山にこだまして、まさに秘境の感があり、不動明王を祭るにふさわしい。不堂動境内には古杉二本(廻り一丈七尺と一丈五尺)が天に聳えて立っている。他に一本立っているのが、幹の表皮は捩れていて神秘的である。これを「捩れ神木」と言っている。

新山神社境内には樹齢七〇〇年の老杉が苔むして聳えて、昼尚暗く神神しく尊厳である。雄大な栗駒山を背景に、十町余に渡る不動堂森の杉は、累代氏子のたゆまぬ植林管理によるもので、また敬神崇祖の表れでもあるのである。

この杉は、鳥谷小学校増改築、室内体操場の建設に、或は校庭拡張、寺の屋根替、町村合併時に於ける林有財産処分に対する氏子への助成等つねに部落民の肩替り財源となって今日に至っていることは、深く神社に感謝の意を表するところであり、累代神職である岩ヶ崎の岩本社掌の指導功績は誠に大である。

今やこの神秘的な不動の森は、新山公園として脚光を浴び、広く青少年ハイキングコースとして又、キャンプの地として、春は若草の森、夏は涼を求める憩の場、秋は清流ささやく紅葉の滝として更に広く人人に利用されることであろう。

祭神は天之手男の神で、勧請の年月は詳らかでない。伝承によれば、源氏没落の際の土井伊予守の守り本尊であったといい、今でも土井氏の子孫が当社の御鍵持を代々奉仕して居る。

(粕川金男)


中野村の肝入佐竹佐助

中野地内に佐竹姓を名乗る家が多数あるが、当主佐竹得政氏の家が佐竹家の草分けであろう。祖先は慶長年間まで、常陸の国の領主佐竹氏の一族と言われる。佐竹氏が徳川家康によって、秋田に所替の際、一族の何者かが此の地に落つき帰農したものと思われるが、詳らかな事は知る由もない。然し昔は古文書や、刀、槍など多くあったそうだが、年代を経るに従い方々へ逸散し、又昭和二十二年、二十三年の大洪水の時、古文書類を入れた長持が水浸しとなり、殆ど失ってしまったので今は参考になるものは何も残っていない。徳川八代将軍吉宗の時代、享保元文の頃中野村の肝入りをした人に、佐助と言う人があった。相当の人格者で村民を愛し、良く村を統治した事と思われ、苗字帯刀を許された家柄でもあった。中野村では百姓家が門を作る事が出来なかった、処が佐竹家では特に藩より許されて門を作る事が出来た。四つ足門と言う切妻屋根の萓ぶきである。作りは決して精巧なものではないが、素朴ながっちりした門である。その門が二百二、三十年も経た今日、尚佐竹家の門として現存している。文化財にも匹敵する建造物である。肝入佐助夫婦の墓は大石に彫も深く左の様な法名が見える。

  寛延三年五月      日
覚叟亮知信士佐助 八十五歳
玄證妙談信尼    七十歳
  元文五年      月  日
        人足御村中寄進

そして前の方に地蔵尊や五輪塔寺が建っている。当時としては相当な格式だったと思う。人足村中寄進とあるのも石碑が大きいばかりでなく、如何に村中から敬慕されたかがうなづかれる。

(蜂谷正一)


春日玄■(王+宗)

藩政最後の医師である。登米郡石越村生れ、玄■(王+宗)の祖は上野と称し父は佐仲と言う。
佐仲の子徳治の代、姓を春日と改む。玄■(王+宗)伊達家の御典医庄司玄宅の門に入り医学修習に丹精をこめ、十九歳にして良医に選ばれ、一方漢学十呂盤書道、技術も又群を抜き門弟数百を数えた、後居を鳥矢崎深谷に移した。門弟玄■(王+宗)の徳を讃えるため、深谷長徳寺山門に碑を建立した。

玄■(王+宗)は明治七年十一月二十一日没した。

行年 六十六歳
玄■(王+宗) 辞世

多年落魄幾回秋  漸鬼弧昔伶■愁
予也墳螢占後嶺  嗟常埋骨在遠陬
玄■(王+宗)長男  讃之助鉄道員となるも山形県酒田駅長を最後に現地に没した。

(斎藤実)


後藤元城翁伝

後藤元城翁は、弘化四年(一八四七)六月十日、登米郡石越村、小野寺嘉右ェ門の三男に生れ、幼少より温良にして学業に優れ、鳥矢崎猿飛来村にて代々医者をしていた。のちに後藤三育の養嗣子となる。

明治六年二月養父三育は、自宅の長屋を教場として、猿飛来小学校を創設、多くの子弟を集めて、学問の道を教えた。明治十三年四月この学校は青雲寺に移転したが、これが鳥矢崎小学校の前身である。この頃使用した小机二ヶが、猿飛来漆沢の高橋家にのこされている。

元城翁は、明治四年東京の大学東庫に入学、明治八年石越村仮教師、同九年大原木、駒崎の二等訓導となる。明治十一年栗原郡医務取締、自宅に医院を開業するかたわら、同十七年県会議員となり、取得税調査委員、十八年郡会議員となり、以来当選四回、その政治的手腕は高く評価され、縦横に活躍した。

明治二十二年四月自治制が実施されるや、選ばれて初代鳥矢崎村長となった。村長に就任するや、道路を開き橋梁をかけ、又水路を造る等、鋭意村勢の発展に尽力した。自己の所有地に役場を建て、無償にて使用させ、前後五回、二十年間しかも無報酬にて勤め、自治の精神をあますところなく発揮して、名村長の誉高かった。

明治二十五年から村会議員も二期勤めた。明治三十二年には再び県会議員となり、前後四回当選し、地方の実情をつぶさに見て廻り、必要と認めた事項は的確迅速に処理して、住民の信頼を一身に集めた。明治三十三年には県土木委員にも当選した。

明治三十六年六月、東京にて撮影した写真が残っているが、長髪、羽織、袴にて、稍痩形の美男子であった。夫人は三育の一人娘でれい子といい、内助の誉高かったと聞く。大正七年鳥矢崎小学校火災に遭った折にも、村長に推されたが、七十二歳の高齢の故をもって、これを辞退した。晩年は、猿飛来の自宅にて悠悠自適の生活を送り、酒は殆ど嗜まず、煙草は「朝日」をよくのまれたという。

趣味は読書と作詩であり、石山と号し「後藤石山歌道集」等を出版した。大正十五年四月より九月までに、和歌千二百首、詩四十六を詠じた。

みやぎのの杜の宿屋をたづぬれば
 秋の庭かげすずむしのなく
教へ子をあまた引連れ小松野に
 たけがりするも楽しかりける

回顧故山鳥矢里古碑確立感慨深五村論人争人知否有客間予語誠心
行程坦々濃秋雲香稲啄余鳥雀群郷村人知我否古今治績慇懃

また書をよくし、依頼を受ければ快く承諾して、大きい筆を走らせ、好んで「知我者也」と揮毫した。又鳥矢崎小学校に後藤文庫、図書館を設置して、多数の蔵書を寄贈した。桜の咲く頃には、よく部落民一同を招待して花見を行わせた。花見は大体自宅近くの、青雲寺門前の桜の古木ある広場に、幔幕を張り廻らし、早朝から、近所の婦人達の手伝を受けて、折詰を作り、大々的に振舞った。

部落民はこの御礼にと、自宅の庭にて獅子舞を御覧にいれた事もあった。この花見を楽しみにしていた人々も多かったという。孫達には厳格ながら、優しいお祖父さんだったらしく学校の行き帰りには、必ずお祖父さんのお部屋に御挨拶を行い、又墨をするお手伝いをしたものには、必ずお小遣いを出して、その労をねぎらわれたという。

昭和三年春入浴中、老衰のため発作を起し四、五日病床にあて、同年四月二十日八十二歳で没した。法号は、富岳院殿学堂法華大居士、猿飛来青雲寺の参道を上りつめた、高台に静かに眠っている。撰文と法号は、生前親交のあった、当時の鳥矢崎小学校長佐藤伝治氏これに当り、筆者はこの墨すりを命ぜられたことを記憶している。

元城翁の長男、省吾氏は、東京田端病院の院長を長らくやられたという。

(楳原惣市)


鳥沢の傑物大萬

大場萬三郎氏を人呼んで大萬と称した。

猿飛来鍛治屋(現当主沢辺利貞氏大叔父)の長男として明治七年に生れた。頭のよさで長男でありながら家系を姉に譲り、上京して明治法律学校(今の明治大学)に入学し、卒業後弁護士事務所等に勤められた。帰郷後鳥沢の大場家に入婿した。その頃まで酒造業であった。

この時代大学を卒業したのだが、猿飛来の生家でも学費を貢いだようだ。

鳥矢崎村々会議員、栗原郡会議員にも当選 大萬氏の存在価値が高かった。

変わり種の質で酒なくて暮されない方で毎日の様に岩ヶ崎に出入した。呑む程に相手を様とも君とも言わない。呼び棄てを常とした。あるたわけた人が「大萬さんあんだは岩ヶ崎に一年のうち何百日位来るのシャ」と尋ねたら、大萬氏は「俺か、俺は一年に四百日は来るナァ」と答えた。なる程六日町から末町に行って又戻ること度々であったから一年三百六十五日を四百日と計算した。変ったと言えば夫までだが、この計算は誰にもできない大萬氏だけの計算と見てよいと思うのである。

世相も変り町村も一町一ヶ村ではやり繰りも出来なくなり町村合併の話題が出できた鳥矢崎と岩ヶ崎と栗駒は隣保共助の立場から時の町長間でも話合い、県庁でも勧奨したものである。
昭和の初頭岩ヶ崎の代表議員が、鳥矢崎の議員と談合すべく鳥矢崎に赴いた。ところが、議員のうち大萬議員が見えない。そこで鳥沢の自宅に迎いに小使が行って間もなく大萬議員がやって来た。

先ず案件の合併問題として、三迫川筋の一町二ヶ村合併の件を岩ヶ崎側が提言した。然し鳥矢崎側議員から誰も応答する声もなく黙して語らざる様なので、鳥矢崎の議員から大萬議員におそるおそる「大萬さんどうでがす」とたずねた。然し大萬議員もしばし黙しておったが、少々時をおいて「合併、そんなこと、駄目だ反対だ」との発言であった。岩ヶ崎側の議員から駄目、反対とだけでは県に報告の仕様がない。駄目反対の理由を具体的に話しを願いたいと申し入れた。所が大萬議員は反対だから駄目だを繰り返しこれ以上話が進捗せずにトウトウ会合を閉じた。勿論鳥矢崎議員は大萬氏の鼻息をうかがうだけで終ったらしい。

実に痛快、そして大場萬三郎氏の人物の大きさを知るに足る話である。

大萬を知る人は今では尠いが、筆者はよく接したので分っている。

大萬氏の逸話は沢山ある。殊に鳥矢崎の人々にはこの種の話題なら序の口であろう。

今の世に変り種と言うてもこの様な人材が無くなったことに聊か寂しさを感じざるを得ない。

昭和三十年一月没した。年八十三歳

(斎藤実)


先陣争いの名馬

源平の昔、くりから谷に於て、平家の大軍を打ち破った源氏の大将木曽義仲は、勢いに乗じて京都に上り、天下を手中に治めんと自ら旭将軍と名乗り平氏を西方に追いやり、その勢力は朝日の昇る如く、実にものすごいものであった。

然しその家臣等余りにも横暴なる振舞多く、故に、朝廷は勿論京都の住民にもいたく嫌われた。そこで朝廷は先に鎌倉で旗揚げした源氏の嫡流頼朝に命じて、義仲を打つことにした。頼朝は奥州平泉の藤原秀衡の館で成長した弟義経を総大将として、大軍を授け京都に向けた。

これを知った義仲勢は宇治川に対陣してこれを迎えた。折しも宇治川は名だたる急流に増水して渡ることが大変困難であった。義経は部下を激励して、川を渡り敵陣に攻め込む様下知した。

それより先に鎌倉出陣の際頼朝公に願って第二の愛馬池月号をもらった梶原源太景季、それを知った佐々木四郎高綱いづれも豪の若武者共、高綱は頼朝公に願っても第一の愛馬摺墨号をくれるはずはないと思い馬舎より如何なる手段を用いてか摺墨号を盗み出しそれにまたがり源太景季を追った。

宇治川に至り義経の下知により吾こそ先陣の功名をと、真先に源太景季名馬池月に一むちあて、急流にざんぶと乗り入れ逆茂木をよけ、流し綱を切り前へ前へと進んだ。これを見た四郎高綱、遅れては一大事と名馬摺墨に一むち二むちあて景季を追った。景季も追い越されてなるものかと懸命に馬を追う。高綱はなんとかして追い越し先陣の名乗りを揚げ様として五、六米位まで追いつめたが仲々追い越すことが出来ない。

そこで高綱一計を案じ、「梶原殿きけんでござるぞ馬の腹帯がゆるんでおる。しめ直さざればくらもろ共流れに落ちようぞ、不覚を取って敵に笑われ給うな」と、うそを言った。景季それではならじと馬の手綱を引きしめ腹帯をしめにかかる、高綱今ぞと馬にむちあて景季を追い越した。

景季その時になって気がつき、しまった計られたか残念と馬にむち当て懸命に追えども高綱の馬は頼朝第一の愛馬摺墨号、はるか前方を進んでいて追いつけない。その中に高綱、川を渡り敵陣にさっと踊り上った。そして声高らかに敵、味方にも聞えよと佐々木四郎高綱宇治川の先陣と一番名乗りを揚げた。それに続いて梶原源太景季残念乍ら二番名乗りを揚げた、これに勢いづいた源氏の軍勢吾も吾もと川を渡り敵陣に攻め入り大勝を得た。

名馬池月号は玉造郡の池月で生れ、摺墨号は鶯沢の駒場で生れたと言われ、そして当時の大商人金売吉次の手によって鎌倉へ送られ、頼朝公の愛馬となったものである。その頃岩ヶ崎に桜馬場があったか、松倉の稲瀬川の水を馬に呑ませたかは知る由もない。

余談になるが金売り吉次の父は金成、畑の住人炭焼藤太にして、母は京都の公卿三条道隆郷の息女於見弥の前と言う。三人の男児があって、吉次、橘六、橘内と言う。成長して金成畑に於て砂金を取り、平泉の秀衡公に送ったり、又京都、鎌倉にも上り商をした。都に行く時は兄弟力を合せ、人足をかり集めて多数の馬を買い受け、砂金の外奥州の産物を馬に積み、良馬は軍馬に売り産物は都に売った。又帰りには京、鎌倉の文化品を船に積み、海路をはるばる北上し、石巻より北上川を上り、平泉に運んだと言われる。
炭焼き藤太夫婦の墓は金成畑に現存している。

(蜂谷正一)


深谷礼謡所

伊勢流神礼所

元祖伊勢平氏武蔵守溝忠朝臣長川宮内忠親亘理左仲義明、荒木田右斎朝明、佐藤兵蔵義彰、伊藤兵蔵義定、中川伝三郎義孝、千葉卯太郎義秀、香梅堂義胤、博愛堂義正、厚徳堂義智

他流には小笠流、今川流の元祖あり
二十二巻之内極秘五行成就の巻並に大極

伊勢流礼法、諸礼法巻物二十二巻
一、 躾方百ヶ条目録之巻
一、 諸礼法百三十ヶ条の巻
一、 女礼法百五十ヶ条の巻
一、 平五行之巻
一、 真五行之巻
一、 水引百十ヶ条目録秘■之巻
一、 水引極秘の巻
一、 平五行の巻
一、 四季礼法年中例式之巻
一、 仏法僧大秘之巻
一、 俗要葬送行列順序之巻
一、 村社祭典供奉行御輿御巡幸之巻
一、 神膳部之巻
一、 婚儀正式神膳之巻
一、 躾方諸献之巻
一、 四季嶋台の巻
一、 科理五行之巻(真釆板の事鶴庖丁の事)
一、 饗膳式録之巻(天遍地遍)
一、 五行隠陽成始之巻
一、 大秘書礼儀印可之巻
一、 大極秘鑑一切之巻
       以上二十二巻

謡曲
中尊寺謡曲師 大蔵流祖師代々不詳
高橋養吉師 金野良三郎師 香梅堂義胤 授愛堂義正 厚徳堂義知 修徳堂義政 深徳堂義昭 義高 義昿

曲種
観世流 宝生流 今春流 金剛流 大蔵流 高安流 喜多流 春藤流
八流ありて足利時代より徳川時代まで
八流共官録されあり

謡曲端書
夫今世に行わるる処の謡曲は神代より行はれたる曲にして婚姻の式及何れの慶賀の式に挙げる事古今の礼節となし、最も謡曲は、人倫の邪気を散し或は愁傷の意を忘れ随って臓腑を補う故に往古より遊楽にして天下舞曲の元祖たり、然れども幕府の昔より謡をはげまし給う事あきらかなり又喜多流の元祖たる幕府の頃庭上に於て謡曲「鉢の木」を舞遊びし所晴天俄にかき雲り雪降りたりという。
大倉流の祖師高橋養吉先生が岩手県巖美村五串の滝にこもり「養老」曲を歌へしに彼の水音しづまり流木足を漂うと聞く謡曲は五行の道世に尊敬せられる限りはあまねく道尽ざるなり依而依而予等其の大蔵流の美声を慕い今に流布せし所なれば今後の青年諸氏尚々奮励して流布せられん事を

謡曲目
高砂 養老 羽衣 竹生島 春栄 玉の井 弓八幡 月宮殿 邯鄲 志賀 松風 難波 加茂 嵐山 田村 佐保山 鉢の木 三十日 猩々 富士山 八嶋 船弁慶 敦盛 老松 融 井筒 鞍馬 盛久 熊坂 湯谷 松風 花月 六浦 誓願寺 半 蓬来 玉津嶋 福禄寿 初夢 七福神 金銀 立田 酌取 兼平 金礼 蟻通 平壊 成歓駅 鶴亀 蘭曲 三井寺 初春 白楽天 羅生門 源太夫 放生川 呉服 御裳濯 春日竜神 玄花 東方朔 西王母 天狗 大国天 岩舟 舞姫 草薙 蔦

(菅原時)


鳥沢古堂の由来

当部落の氏神若宮八幡宮は往時安藤家古堂屋敷に鎮座してあった。

又その当時川向いの山際の高台に安藤嘉平家があった。然し神社として俗家より一段低い処にあり、雨降り毎に洪水になると神社一帯は水浸しになるので、氏子有志相諮り明和五年九月九日、若宮八幡宮を現在の地に遷宮し今日に至っている。以来祭祝日を春は三月十五日、秋は遷宮の日を記念して九月九日に定めたのである。

その後若宮八幡宮の鎮座せし社址へ鳥沢の若宮安藤萬寿家より安藤金輔分家して一戸を構え所謂初代となる。以来古堂と呼ばるる様になった。現代七代目に当る。

安藤清人氏過去帳の巻頭緒言

想うに此の身とて虚空より変現したものでもなければ又大地より生じたものでもない。依って親や祖先に感謝の念がなくてはならない。この世に自分一人で生きているのではない。即ち凡ゆる有形無形の因縁に拠って生かされているという自覚を基にし、感謝の念を持てば生活も充実し不安は自然に解消するものである。

私達はこのように、先祖の恩徳を享けて生活しているのであるから、仏祖を尊崇し、代々の御法名を過去帳に明記してその徳を追慕顕彰し感恩の心で追善供養を怠ることなく血縁の情を深くし、以って家門繁栄子孫長久厄災消除を祈念し、現当二世の安楽の加護を給はらんことを。
合掌
昭和四十八年 甲寅 春三月

(安藤清人)


山中に鍛治屋の跡

中野貝ヶ森地内俗に沢口山と言う処の山中に、昔鍛治屋をした跡が残っている。何時の時代に如何なる人がおこなったかは詳かでないが、昭和になってから、部落民が開墾中に発見したものである。昔百姓や町人が力や槍等を持つ事を許されなかった時代、山中で人目をさけて刀類を作り、かくし持っていたものか。或は贋金を作ったものとも思われる。
昭和三十年頃、郷土史研究家の熊谷輝雄先生が中野小学校長をしていた当時、其の場所を堀りおこし、フイゴの口先(ねん土で作ったもの)二本堀り出している。附近には金かすや、灰等が残っている。近くに鍛治屋の地名が残っているのも、何か関係あると思われる。

(蜂谷正一)


田代温泉

鳥沢に温泉があり、宮城中央交通諏訪橋停留所より北方六キロ徒歩で一時間四十分かかる。途中名所大同桜を通り鳥沢川不動橋を渡り不動坂を登り新山の中腹にかかる。

神々しい神城に百八十段の石段を登って境内に入る。町文化財指定の天然記念物不動の杉が天をついて居るのを右に眺めて湯守の自宅につく。これより三十分で温泉につく。この間に高端山の断崖と新山の絶壁の間を流れる渓流に一の滝二の滝三の滝があり、両端はあたかも嶽山の風景を思わせるような所である。

上流は田代川にそって十三戸の部落があり、この奥地に温泉がある。此の温泉は佐藤倉太郎が発見者である。大正五年、春山稼ぎに行き昼食の際に飲水をさがした時、田代川の上流に温湯の湧出するを発見したものである。

酷寒でも凍らず、水蒸気が出て居る。味もなく無色透明で呑んでも害にならない。そこで山稼ぎ相手の菅原運三郎氏に宝物を見つけたと話し、其の後菅原善六氏と三人共同で温泉宿を始めることになった。特に試験の結果子供の吹出物などの治療に効果ある薬湯である事を確認したので、昭和十二年ささやかな湯場を建設して隔月交替当番を原則として始めた。

其の後世の変るにつれて無届は禁じられ許可制となり、若柳警察署並に保険所に手続を申請し、昭和二十二年許可された。浴槽を設備旅館二階建十四室、収容人員四十人の近代的な温泉旅館に完成して現在営業中である。

公衆浴場用石炭等消費実績調査許可
浴名   田代温泉
鉄分質 鉱泉
温度   摂氏二十五度
物質名 含有量(一キログラム)
溶存物質  総量 ○○○グラム
遊質炭酸  〃   ○○○グラム
総黄硫    〃   ○○○グラム
重炭酸曹達 〃   ○○○グラム
分析者  試験技師
経営者  現在 佐藤善喜

(菅原時)


鬼首と鬼死骸

その昔延暦年間大和朝廷より派遣されたときの征夷大将軍坂上田村麻呂が、先に大和朝廷に従順したかに見えた伊冶公呰麻呂が反乱を起したのを、多賀城に於てこれを鎮め、尚処々の蝦夷を征伐して上野原(屯ヶ丘)に軍団を屯させ、岩手県西磐井郡萩荘の自鏡山に進出した。

その頃たまたま西磐井達谷の岩屋に、悪路王(別名大武丸)という賊がいて大和朝廷に従わなかった。悪路王は当時世の人々に鬼と呼ばれ恐れられていた。田村麻呂がこれを討つべく策をめぐらし、一ノ関方面におびき出して悪戦苦斗の末、遂に今の有壁の北方に於て大武丸の首を切り落した。

すると一天俄にかき曇り、雷鳴とどろき渡り大粒の雨が降り始めたかと思うと、間もなく車軸を流す勢いの大雨となった。首は血しぶきをあげて中天高く舞い上り西をさして飛んだ。とぶもとんだり陸前玉造郡鳴子の奥の高原に落ちた。

それよりその地を鬼首と呼び、首が落ちた地点より湯が吹き上り今は間けつ温泉として名高い。また悪路王の死骸は有壁の北方までころがったので「鬼死骸」の地名が残っている。

首が飛ぶとき丁度栗駒の上空をかすめ秋法を通ったとか、それから後、秋法が曇ると雨が降るぞと中野方面の人達はいまでも言っている。また首がとぶ時の血しぶきが全部「ヌカガ」となり悪路王のうらみが今なお人の生血を吸うのだとは古老の話である。

(蜂谷正一)
 
 



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