〈姫 松〉
 


雪中行軍 小野寺熊治郎 後藤房之助

青森歩兵第五聯隊第二大隊の八甲田山雪中行軍遭難事件は千載の痛恨事として明治時代の平時の国民に悲憤の涙を流させたのであったが、その尊い犠牲は人間性の真価を現わし、後世にまで偉大な教訓を残したものといえよう。

特に姫松の後藤房之助伍長、松倉の小野寺熊治郎伍長の二人が栗駒町出身の関係から、かつての悲惨な物語りはいつまでも郷土の語りぐさとなっている。

ときは明治三十五年一月二十三日、耐寒訓練が目的の雪中行軍である。既にして日露の国交香しくなく、極寒地を仮想した作戦が研究されて、とくに北国の第八師団には多くの期待が寄せられた。

行軍の命令は第二隊長山口少佐に下り大隊長以下二一〇名、この日午前六時五十五分屯営を出発、幸畑で装備を改め、かんじき隊を先頭に二列側面縦隊で田代へ向って行進した。小峠あたりから天候急変し風雪物凄く、寒気加わり携行の米飯は真白く凍りついていた。馬立場に達しかすかに田代方面を遠望することはできたが、積雪のため運搬隊の難行は筆舌を絶するものがあった。鳴沢谿谷に達したところ、進路は甚だ険しく、加えて吹雪も猛烈をきわめ、前身容易ならずとみて、やむなく附近の平沢で一少隊毎に分れて露営することになった。雪塊を積み重ねて雪壕を作った。

炊さんのため雪を一丈近く掘ったが、土にとどかない有様であった。僅かな炭と枯木の枝は雪の上ではよく燃えず、半煮えの飯で飢を凌いだ。分配されてあった丸餅は石のように堅く凍り、それを焙って噛った。炉火は一壕に唯一個だけで、各人交互にあたたまりその他は側壁に寄って仮眠しようとした。

夜半過ぎて吹雪益々激しく、気温は零下二十度以下を示すようになった。みな睡気を催すので、足踏みと軍歌をうたわせて睡魔を破り凍傷を防いだ。

山口大隊長はこの現状を見て、このままでは凍傷を起す危険もあり、既に行軍の目的は概ね達したとして、翌二十四日午前二時半帰途についた。軍歌をうたい勇を鼓舞して前進したが、狂風雪を捲いて天地晦冥、咫尺を弁じ得ないような暗闇となったので、前の露営地へ引返そうとしたところ進路を誤り道に迷い、駒込川渓谷に落ち込み本流に出合って一歩も進むことが出来なくなった。

風雪は怒号し、寒さはいよいよ厳しく、士卒みな銃を負い或は両手を拱き或は外套のかくしに入れても手足は次第に凍傷に罹り、頭髪も眉毛も氷柱となって凍りつき、顔面紫色に変ってきた。かくて凍傷と眠りで路傍に昏倒する者続出したが、救助に策なく残念無念ながら戦友を残して前進するよりほかなかった。指が凍って衿ボタンをはずすこともできずそのまま便をする仕末であった。

ようやく鳴沢西南の窪地に辿りついて露営したが燃料は無く食料も尽き、空腹が迫ってもなんらすべもなく、あしたの天候に一縷の望を抱き、最も凍傷の重い者を取り囲み皆かたまって一夜を明かした。思えば寒気と猛吹雪のため体力は極度に消耗し、加えるに睡魔と空腹で生死の限界に達したものか、この日の行軍は遭難者が最も多く、水野中尉以下実に三分の一を失った。

露営三日目の二十五日、午前三時すぎに行軍隊は一列縦隊で鳴沢渓谷を下った。ところがまた道を間違い、飢餓は刻一刻迫り午前五時半ごろ露営地に戻った時、興津大尉以下三十名は倒れた。山口大隊長も人事不省となり、倉石大尉これに代り屍を集め雪を覆いて弔い、また背嚢の木框を燃やして大隊長を暖め持久策を講じた。

そして、かくてはならじと斥候を出して帰路を発見し、鳴沢窪地から馬立場に出たが、途中登坂多く凍傷に罹った勇士等は先頭部隊から離れて、三三五五になった。先頭部隊は午後五時、中の森の凹地に露営した。しかし寒気は以前としてきびしく飢のため天命を待つばかりであった。

青森の兵舎を出発して四日目を迎えた将兵は、連日の酷寒ですでに凍傷に冒され、胸を没する深雪を踏み踏み進む激しい動きと、不眠不休のため身神衰弱、顔は見る影もなく、心は夢幻の間をさまようているもののごとくであった。二十六日午前一時ごろの人員点検では三十名であったという。山口少佐は四度目の昏倒で遂に動かなくなったので兵卒若干名を添えて出発した。

時々晴れて一同をよろこばせた天候は午前十一時後にまた吹雪と変って暗くなってきた。賽の河原の西北端に出たが、中野中尉をはじめ倒れる者数名、遂に一群は僅かに七、八名となり駒込川の谿谷に陥った。

流れに沿うて下ること一時間余り、青岩附近で両岸断崖が連り、進退ここにきわまってみな呆然としているとき、流れに飛び込み水中に立った者がある。驚いて見れば小野寺熊治郎伍長であった。

倉石大尉は声をかけて励まし引止めようとしたが、一大決心を要するところだときき入れなかった。自分は屍となって流れつき聯隊に死の報告を果そうとしたのであろう。小野寺伍長の悲壮なる決意と分り、今泉少尉は、倉石中隊長より水筒を借り、川岸の上に伏して飲ませたところ、これがこの世の最後の水とよろこんでゴクッと一口飲んだ。もう一つ飲めと中隊長が云うと、もうたくさんと答え、胸まで浸り流された。中隊長は思わず「ばんざーい」と叫ぶとそれに応えてみなばんざいを三唱した。小野寺伍長を送るそのばんざいの声は山谷に響きわたり、伍長の姿は遂に見えなくなってしまった。

一月二十七日歩兵第五聯隊の捜索隊が大滝平まで前進したとき、雪中に佇立していた、後藤房之助伍長を発見し雪中遭難の第一報を知ることができた。これより先一月二十六日午後帰路を発見した神成大尉、鈴木少尉、後藤伍長の三人は一群の先頭に立って行進、ようやく大滝平に達したが従う者はなかった。三人はここで露営に決した時、鈴木少尉は前方を偵察しようと前進した。残った神成大尉と後藤伍長は抱き合って雪中で仮眠した。たちまちに夢醒めたところ神成大尉はお前は比較的元気だからこれから田茂木野村へ行き村民を雇い聯隊へ急報し早く急援隊を出すよう命じた。心残りだが上官の命令なので大尉と分れて前進した。しかし、空腹の上連日の酷寒で手足が凍傷に冒かされ、ようやく七、八十間より進むことができなかった。

今は死を待つばかりとなり意識不明でただ雪中に立っていた時、丁度に救援隊の発見するところとなったのである。後藤伍長は両手両足凍傷の体を本態に運ばれ、蘇生し後方にある山口大隊の遭難の模様を語った。これによって事の容易ならざるを知った聯隊はあげて直ちに現場に赴き救援活動を始めた

もし後藤伍長が昏倒し雪を覆うていたなら、行軍の状況や遭難の模様を知ることができず、救援の労苦は倍加されたであろう。

思えば後藤房之助伍長の功績は我国陸軍史に燦然として光彩を放ったものである。後藤伍長が現地馬立場に記念銅像を建てられ顕彰されたのもむべなるかなといえよう。

かくして青森歩兵第五聯隊第二大隊雪中行軍二一〇名中、生存者はわずか一一名のみ、一九九名の将兵は恨みも深い、八甲田山の雪中に、冬山の大自然の猛威にさいなまれて埋没されたのである。

附記
後藤伍長は一ヶ年後陸軍病院村上軍医の執刀で両手両足の大手術をされた。この立会人は姫松渡丸の泉田稲助軍曹であった(現宮城県教育委員会委員泉田忠雄氏の厳父)後藤伍長は手もなし足もないのに乗馬がすきだったし、小細工物にも精を出し、煙草入れ等を器用に拵えた。

後藤伍長は、後藤為吉氏の三男、明治十二年十一月十四日生れである。後藤伍長のもとにその手足になると決心し、尾松菊地家からお嫁入りしたのが妻のちよさんである。長男は信一氏である。(その長男公佐氏、現栗駒町教育委員会社教主事)

伍長は村会議員にも当選し村政に寄与したが、大正十三年七月三十一日来客と酒汲み交す中に卒去、時に四十六才であった。

墓は姫松 瑞沢山泉昌寺
法号 剛隆院忠鑑勇猛実房居士

小野寺熊治郎伍長は栗駒町松倉三丁小野寺亀蔵氏の二男、明治十二年六月三日生れで、資性剛気であった。田舎には珍しく画家を志し、仙台の画伯真庭竹泉先生に師事して絵画を学び、曲泉の雅号を授けられるほどの域に達した。特に山水をよくしその優れた作品を数々遺した。

八甲田山の犠牲者になって、遺体は汽車で石越駅まで運ばれてきた。駅頭で厳父亀蔵氏と対面となり剛直な父親が寝棺の蓋をあけてジッとわが子を見るなり『熊、帰ってきたか』と一言声かけたところ、堅く氷結していた屍から「ドッ」と鼻血が流れ出たという、親子の縁は全く不思議なものである。

駅から大勢迎えにきた村民にかわるがわる担がれて、小野寺伍長は郷里に無言の帰還をしたのであったが、その夜は父親が抱いて寝て氷の骸を解かしてやったと聞く。この親にしてこの子ありの感まことに深いものがある。

小野寺熊治郎伍長は明治三十五年一月二十六日に殉死 年二十四才
墓は松倉 南中山 長照寺
  法号 勇岳院義貫良清居士
軍神とも仰ぐにたるみ霊である。
  当主 小野寺力男氏
(雪中行軍遭難実記は「青森市史」をも参考にした)

(小野寺敬一)
(斎藤実)


長者原の謎

蛇にまつわる伝説は多いが、いまさら娘道城寺でもあるまい。蛇が人間に化身したという、執念の物語りである。

いつの頃か時代は定かではないが、泉谷沢(現在の渡丸が)から湧き出る酒で、一躍長者になったという豪族がいた。その名を誰いうとなく、泉長者と呼んだ。泉長者には一人の娘がいた。長ずるに従って美しさを増し、何不自由なく幸せに育っていた。永い冬も過ぎて春が訪れた。この頃娘に不審なことばかり起るようになった。娘ざかりを日増しにやつれてゆく不思議な病気の全快を、村の鎮守、新山神社に七日七夜の祈願をした。

やがて満願の夜「娘の病気は妖蛇の物の怪による、妖蛇を殺すには黒鉄針で妖蛇の衣服を縫え」とのお告げあり、このことを娘に伝え、娘はその夜若侍の来るのを待った。草木も眠る真夜中若侍は娘の許に来た。父母に云われた通り、娘は黒鉄針で若侍の裾に糸を縫いつけた。そして若侍は帰った。夜が明けて縫いつけた糸を辿って行くと、富野の大沼に巨大な妖蛇が死骸となって浮んでいた。

その頃栗原館(旧尾松村栗原字館)内繕(代官が)が娘を嫁にほしいと申込んできた。長者は断ったので怒った内繕は、娘を掠奪しようとしたので長者一族は土地には居たたまらず、一夜のうちに手送りで宝物を秋田に移し、運搬しきれない宝物は、地中に埋蔵して移住して行った。

この伝説に基き、明治初年長者屋敷跡を発掘したが、何も出ては来なかったという。今は全く荒廃した長者屋敷跡を、昭和四十年愈々開田することとなって工事中、三月八日数十枚づつを紐で通した古銭二〇Kが偶然に発掘された。いま町の教育委員会に保管してあるが、泉長者のその後の消息は全くわかっていない。

この事について部落の古老はこう言っている。娘の許を離れ難く日中ははた織機の陰に潜んでいて、真夜中になると、若侍となって娘の許に忍び込んだのだと。黒瀬というのも、この蛇の死に因んでできた地名だろうという。一説には執念となってしまった妖蛇にいたたまれず、秋田へ移住したとも伝えられている。

別説には尾松栗原館前にも同じように豪族がいて、両者互角に勢力を争ったが、遂に敗退して秋田へ移住したとも伝えられ、明治も維新の頃、長者原で馬が土中深く足を辷らしたそこには密封された漆が樽のままで埋めてあったという。当時の豪華建築には凡て漆を用い、その上に金箔を張りつけて、華美を極めた貴重な漆とは知らずに、捨ててしまったのか。

当時漆は支那が主産地であったことと、発掘された古銭の大半が支那銭であったことから、或は支那とゆかりのある、普通の豪族とは異った豪族ではなかったか、と古老は言っている。伝説が豊富で根源を掴み難いが、とにも角にも現地を訪うて見ることにした。

芋埣回り築館行バスに乗車、途中の小山崎停留所で下車すると、東方へすぐ宝来小学校があり、曲りくねった町道に沿うて芋埣川が流れている。昔は何とはなしに妖蛇が住んでいた山峡を思わせていたのだったろうが、今はもう人家が点在して、昔日を偲ぶべくもない。麓路を約一Kほど行くとやがて旧富野村へ行く枝道がある。こおから長者屋敷に行く道になるのだが、初めて行くにはこの枝道はかなり判り難く、道しるべがないのがこの上なく不便である。稍々坂道を東方へ二〇〇Mほど行った富野街道傍らに、栗駒町教育委員会が建てた「長者原」の道標がある。その昔の城跡でもあったかのような、一段と高い広い丘は、見渡す限りの段々田となっている。ここが長者屋敷跡で、長者原とも呼んでいる。

長者原に立って、富野街道側を西館、反対側を東館、総じて長者原といい、西館が長者屋敷のあった場所で、西館と東館との中央が古銭発掘した場所で、長者屋敷の入口だったらしい。深く切崩されて、いたるところ山肌が見えているが、埋蔵に使用したらしい変化した土質も認められず、此処に豪奢な住家がなかったとしたら、この伝説もおそらく生れては来なかったかもしれない。

嘗て開田前西館に長者の墓らしい、五輪塔が建っていたというが、荒廃した長者屋敷を憂いて、後日誰かが建てた供養塔であったろう富野街道筋には三〇〇年は経たかと思われる小さな松林があり、傍に墓所もあるが、この墓地には明治時代より古い石碑が立っていないのを見ると、この松林のみが長者屋敷の歴史を知っている最も古い目印である。

長者屋敷とはいつの頃の年代にあったのか、一説には一二〇〇?八〇〇年前ともいうし、発掘された古銭の大半が支那宗銭であるとすると、鎌倉幕府が盛んに輸入したものであり、長者の手中に入る迄にはなお、相当の年月を要したものとみて、一応時代を今より七七〇年前とする。これを七六〇年前とはっきり言いきっている人もいる。然し遠く鎌倉初期の時代に、この地が人が住居するに適当であったかどうか。その時代の文化の片鱗が、どこかに遺っていてもいい筈ではないかと思う。まだ貨幣制もなかった時代、この地で何を目的とした大量の貨幣であったのか。それにしても八〇〇年間も土中に埋没されていて、果して貨幣の字まで識別が、できるものだろうか。いまのところ年代を確証するてだてはないし、長者屋敷に行っても何等年代のきめ手がない。

ともあれ当時であったら巨額であったと思われるこの大量の古銭発掘は、永い間の伝説を立証する唯一の手がかりになったのである。姫松渡丸にのこっている長者原の物語りである。

(近江茂一)


町内の老松

姫松の峠を越えてゆくほどに
 奥の細道衣掛けの松  「姫松」
  その昔奥の細道を通った俳聖松尾芭蕉が片子沢、志戸森の頂上の松の枝に衣を掛けて休んだという老松。

雄悦社に詣る道辺に今も尚
 昔を語るしめ掛けの松  「尾松」
  昔は大鳥町より雄鋭神社に至る道端処々に枝振の優れた老松があり七五三の注連縄を掛けてお詣りしたという。

年古りし八幡の松の頂きに
 いまも変らぬ朝日かがやく  「尾松」
  田村将軍が軍団を屯させ、又源頼義、義家父子が陣取り、後三年の役後八幡宮を勧請したという境内の老松。

秋田越え中山宿のなべこ淵
 知る人ぞ知る峰の松風  「文字」
  南北朝時代、小林修理という侍と、その娘なべことの悲しき物語り、峰の老松のみ知るであろう。

田中森誰が植ゑしか峰の松
 知る人なくも枝葉栄えて  「岩ヶ崎」
  田中館は、足利時代、富沢日向の出城であったという、峰の松は大分古いが今尚緑がおとろえない。

平田森昔の陣屋ありしとふ
 旗を立てしか一本の松  「岩ヶ崎」
  里谷森館の館主平弥平兵衛師門が此処に陣取り、稲屋敷の森館を攻めたという、昭和の始め日蓮上人の銅像を立てた処に一本の老松があり、頂上に世界平和を祈る日の丸が立っている。

山田行く稲瀬のほとりそびえ立つ
 千古を秘めし駒止めの松  「栗駒」
  松倉山田より流れ出る稲瀬川の水を飲ませ岩ヶ崎の桜馬場にて鍜練した馬は戦場へ行っても疲れなかったという、萩荘北部、永洞、田代、山田方面の人達は昔馬市が盛んな頃二才駒を御日市に出す時、此の松の下で駒を止めて休んだ事でしょう。

何処より猿飛び来しと人の云ふ
 松は語らず青雲の宮  「鳥矢崎」
  平泉の藤原清衡の時代、康平年間同社造営の折、駒ヶ岳より一匹の猿が短冊をくわえて雲に乗って飛んで来たという。又猿飛来に、「飛雲」というしこ名の力士もいたことがある

(蜂谷正一)
 


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 2002.8.16
 2002.8.16  Hsato