〈発刊のことば〉


栗駒町史談会の前身は栗駒村独自の会であった。昭和四十年町内同好の士の集いを得て栗駒村史談会の発展的解消をみ、町史談会と改称した。

以来十年を閲したが、昨四十八年度の総会に於て、町内の伝説、伝承、物語を纏めて見ようとの話し合になり、本年四月からボチボチ原稿が蒐まった。

会員各位の熱意と努力とによって「物語り」に相応しいものばかりで、労作と云うても過言ではない。而して監修、校閲を斯界の権威、三原良吉先生に依嘱した。先生も快くお請け下すったので悦び一杯の気分に浸っている。

三原先生に対し敬意と感謝申し上げる次第である。
世は正に今日から明日へと、よどみもなく去る。吾々は日々新な世界に生きている。
そして真の自由を求める。
生き生きとした心は毎日同じであるが、同じ考えに人間をとどめはしない。

この一瞬の新な発見にこそ一日の成長がある。今かえりみて「物語り」の上梓を迎え無量の感がある。何故ならこの物語りは拙くとも吾々の先祖或は先輩たちの言い伝えを結集しているものであり、吾々の子孫への遺稿の一コマとなればこれに越した悦びはないからである。水のように流れて止まぬ心と、深く地に泌み通る力を以ってすれば、明日の栗駒町の繁栄と平和が必ず訪れると思うと自ら心のやすらぎさえ覚える。

詩人白鳥省吾先生は、
生れ故郷の栗駒山は 富士の山よりなつかしや

の名句を残された。私は座右の銘にし日日口ずさんでいる。郷土をこの栗駒に持つ人はこの名句に親しみを感じ絶讃するであろう。

悠揚と聳え立つ霊峰栗駒山、その裾野に生を享けている吾々は、こよなく故郷を愛し続けるものである。私は懐古の情緒を求めるのを趣味としている。独り私だけでない誰もが過去を探ねんとして飄飄乎を楽しみにするであろう。拙いペンを以って発刊のことばとする。

  昭和四十九年十二月
  栗駒町史談会々長
   斎藤 実


 
 


〈序〉

 

仙台藩歴代の執政の中で前期を代表する人物茂庭石見延元と、後期の代表的人物中村日向義景の両者は奇しくも栗駒町に墓があり、これも政宗公の執政として外政に功のあった石母田大膳宗頼の墓もこの地にあることは栗駒町の人々にとって、わが町の誇りといってよい史跡である。加えて中世の国史に登場する前九年役の史跡営ヶ岡や東鑑に現れる栗原寺跡があり、環境もまた霊峯栗駒山を背景とする塵外の境である。わたしはこの点に心をひかれて戦前から幾度となく訪れ、岩ヶ先の旧邑主故中村小次郎翁や斎藤実氏の一方ならぬお世話になった。その間、洞松院に天保飢きんの県内切ってのすばらしい供養塔を発見して町の人々の注意を促し、只野真葛の「奥州噺」で著聞する上遠野伊豆の墓の存在を黄金寺に確かめることが出来、戦後間もなく県立自然公園指定調査のため栗駒山に一週間ばかり入ったこともあり、それこれわたしにとっては生涯の思い出である。

このような栗駒町に、郷土愛にもえる人々が他町村に先んじて逸速く史談会を創立し、大先達斎藤実氏を会長として着々業績をあげられつつあることは当然とはいえ敬服にたえない次第で、今回会員各氏が長い間の蘊蓄を傾けられ、それぞれの分野で、埋れていた郷土史を堀り起して「くりこま物語」を刊行するに至ったことに深く敬意を表するとともに宮城県の郷土史研究にとって大きな悦びといわなければならない。

収録された凡そ百篇の史話は、一つ一つが珠玉の如く楽しく、地方史のみでなく民俗学や考古学の貴重な資料もあり、立派な文献として将来に残るであろう。その中で秋田領に対する口留め番所である木鉢番所と柿ノ木番所は、享保の仙台領遠見記にも記されていない貴重な資料であり、九戸政実が謀殺された九戸神社の報告、菱沼と色麻の往生寺の円光大師木像の争奪事件も、わたしはかって故佐藤辰蔵先生の紹介により桜田の肝入文書で見たことはあるが報告されたのは今回が初めてである。茂庭氏記録から丹念に抄録された了庵延元の編年史形式の伝記資料もありがたい。民俗関係では松倉館にも白米城伝説があったことがわかり、稲昨の予祝芸能である田打ち唄の詳細な報告も光っている。木ブナの話は仙台にも伝えられているが同じ話が杉橋にもあったことを知った。

この本を読んでいると冬の一夜、炉をかこんで皆さんから話を聴くようで興趣尽きることを知らないわたしが先年洞松院の法要に列した時、となりの年寄が汁を吸って「しょッぺいな、まるで切支丹のけツつなめたようだ」とつぶやいたので問うたところ、昔、切支丹類族の家には藩の切支丹改所から年々塩を支給し、類族が死んだ時、検視の役人が出張するまで死体がもつようにしたとあるが事実であることを知った。岩ヶ崎は切支丹の多かった事は有名であるが今にこんなたとえが残っていることに驚いたことがある。こういう話にも注意され、引き続き第二、第三の続篇を期待して止まない。特に常民の前代の生活記録としての民俗の採訪記録に一段のお骨折りを切望したい。最後に文字三山の山争いの伝説で知られる大土森、中ノ森、櫃ヶ森のお伽の世界のような美しい山容を彷彿と思い浮かべながら拙文のペンをおく。 

(昭和四十九年十二月)
  三原良吉
 
 

民話とか伝承或は伝説のように、どこの町にも古くから言い伝え語り伝えられているお話があるものです。

そしてそれは当然その地域の歴史や地形、気候、人々の生活や人情風俗などと密接なつながりをもつばかりでなく、独自の地域的な特色や味わい面白さをかもし出しております。

遠い祖先からの生活なり、生活の知恵の蓄積を歴史とか文化というのだと思いますが、これらのことは祖先の心ともいうべきものでありますから大切にして子孫に伝えていきたいものです。

我が国近代における思想文明の先達であった内村鑑三先生の「大いなる遺産」という本の中にも、子孫に対して恥かしくない文明思想を産み出し伝えいくことが人間として最大の努めであると書かれています。

この度、史談会が十年余りに亘って自由に話し合い、あます所なく見てまわった郷土の姿と心を「栗駒物語」として刊行されましたことはまことに喜びにたえません。

これは、昭和三十八年に刊行された栗駒町史に集録されていない伝説や物語、異色な郷土の人物などを会員の皆様が、長い時間をかけて苦労されしかも楽しみと願いをこめて作りあげた、素朴で古拙ともいうべき風格をそなえた郷土伝承の集積だと思います。

その意味で、栗駒町も合併二十周年を迎えている今日でありますので、地域社会の連帯感を更に一層深めてくれるでしょうし、必ずや読者に郷土を見なおす機会を与えてくれるものと期待しております。

公民館といたしましても、この四月懸案であった芸術文化協会の発足をみましたが、その有力部会である史談会の今後の発展をお祈りすると共に、会員や編集委員の皆様に衷心から敬意と謝意を捧げて序にかえます。

  栗駒町公民館長
   高橋盛夫
 

私共幼い頃、秋の夜長の囲戸裏ばたで、また、木枯の吹く寒い冬の炬燵の中で、おばあさん等からぼそりぼそりと聞いた昔ばなしや、郷土の民話がいつまでも忘れ難い楽しい思い出になって居りますが、いまの子供達はテレビ、ラジオ、新聞、雑誌等により情報化時代で郷土の昔ばなしをゆっくり聞くことが殆どなくなって来ました。

このままですと、先祖から伝承された貴重な遺産が消え去る運命にもなりかねないのでしたが、今度、常に郷土を愛し郷土の歴史を探究して居られる史談会の皆さんの苦心して集められた数々の民話が「くりこま物語」と云う立派な本となって出版されることは本当に喜ばしい限りであります。

社会を明るく発展させるためには、まず自分の郷土を愛することから出発するものと思います。本協会の構成メンバーである史談会が、この素晴らしい仕事を達成されました業績に対し、心から感謝と敬意を表し私の序と致します。
  
  昭和四十九年十二月
  栗駒町芸術文化協会会長
   高橋栄一
 

静かな世であれかしと祈り続け、こうと云う奉仕もなく齢九十に垂々とする自分、省みて残愧に堪えない。

神に仕えて六十五年を閲し、今は退いて、自適の身、でも常に生れた土地は一入愛着の情は限りを知らない。

この度栗駒物語りが刊行された、何れも先祖や先輩が口から耳へと語り伝えたものの結集で誠に貴重なものばかりである。

物語りは会員皆さんの必至の努力の賜もの労作で敬意と感謝の意を表す次第である。

もって序文とする。

  昭和四十九年十二月
  栗駒町史談会 名誉会員
   八十八翁 岩本守穂
    (熊野神社里宮神祗閣に於て)
 


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