栗原郡誌

 

栗駒村

一 沿革

栗駒村は、往古吾勝卿沼倉村、同松倉村と称せるの地にして、明治四年、廃藩置県の時、両村とも岩ヶ崎村戸長扱に属したりしたが、明治六年に至り、更に又二ケ村独立となり、各戸長を置きて支配せり、明治七年沼倉村に戸長役場を設けて、松倉をも兼務し、後ち明治十五年に至り沼倉村外一ケ村戸長の支配となり、明治二十二年町村制実施に際し、両村を合併し、栗駒山の名に因みて栗駒村と改称し、以て今日に至れり。 二 地理 位置及び面積 栗駒村は栗原郡の西北隅三迫川の上流に位し、西北の一隅は栗駒山を以て秋田県に界し、北は岩手県西磐井郡厳美村に接し、東は岩ヶ崎町、東北より東南は岩ヶ崎町を挟みて鳥矢崎村に接し、西は文字村の一部に界する東西二里、南北約七里の広袤(こうぼう)と、十五方里七九の面積を有する栗原郡第一の大村たり、(略)

地勢 略

下流及び瀑布 三迫川は源を栗駒山に発し、東流して北上川に注ぐものにして、其上流に行者滝、窓ケ滝、女滝の三瀑布あり、窓ケ滝は其高さ五丈余、女滝は高さ三丈余あり、行者滝は直下十六丈余にして壮観云ふべからず、夏日此地に至れば炎威忽ち去りて肌に粟を生ずるが如し。

温泉 本村字沼倉、国有林栗駒嶽の中腹三迫川上流河岸に新湯、駒の湯の二温泉あり、何れも硫黄泉にして効用著しと雖も、道路険悪の為浴客常に多からず、(中略)駒ノ湯は元和三年八月鶯沢村川倉屋敷の人小野寺輿左衛門の発見にして、翌年開湯せしものといふも文化五年火災に遭ひ、旧紀悉く焼失したるを以て詳細を知るを得ず、主に湿疹、疥癬(かいせん)、傷疵等に特効あり、新湯は寛政年間里人清水某の発見せるものにして、その効能は駒の湯と同様なり、(中略)沼倉より駒の湯まで四里、新湯まで四里二十余町、須川温泉へ山道三里、栗駒の頂上へ二里。

湖沼 沼地の大いなるものは沼ケ森(或いは三角森とも云ふ)の麓に鞍掛沼あり、周囲約二里余、樹木鬱蒼として周囲を覆ひ、水清くして魚族多く、秋日紅葉の時に於ける其景の美名状すべからず。

水利 灌漑用水堰としては三迫川の上流下流に掛けて上田堰、穴山堰、二の堰、馬場堰等あり、何れも同川より上水せるものにして、川の沿岸南北水田の灌漑を便にしつつあり。

三 交通 道路 県道は字桑畑より岩ヶ崎町に通ずるもの(約二里二十五町)あり、其他里道としては隣村鳥矢崎村字鳥谷の通じるもの、岩手県西磐井郡萩荘村並に通じるもの、秋田県雄勝郡に通じるもの等あり、内県にては桑畑より窓ケ滝に通じる林道を開きたれば、山林伐採等の為には最も利便となれり、(略) 四、産業 (略)

五、教化 (略)

六、官公署其他(略)

七、神社

駒形根神社 本社は御駒宮、御駒社、大日社、駒形根明神、駒形神社とも云ひ、駒ヶ嶽の絶嶺大日嶽に在るを嶽宮と称し、其東麓に当たる当村沼倉にあるを里宮と称す、祭神は大日霊女尊(オオヒルメ)、天常立尊(アメトコタチ)、國常立尊(クニトコタチ)、吾勝尊(アカツ)、天津彦番邇々芸尊(アマツヒコホノニニギ)、神日本磐余彦火火出見尊(カムヤマトオハレヒコホホデミ)にして、創建の年月詳かならざれども、延喜式神名帳に載する所の本郡七座の一にして、縁起に依れば人皇第十二代景行天皇の皇子日本武尊東夷を征伐そ給ひし時、軍容堂々として其勢雷電の如く、迎ひ遮(さえぎ)るもの無かりしかば、巨魁等は一時は要害の地に依りて防ぎしも其勢に怖れ弓矢を捨てて降を請ひ、東陲ことごとく定まりしより、尊自ら大日霊女尊、天常立尊、國常立尊、吾勝尊、天津彦番邇々芸尊、神日本磐余彦火火出見尊の六柱の神を駒形の項なる大日嶽に齋き祀りて東国鎮護を祈り給ひ、且祭政一致の主義により万民に敬ぶ所を知らしめ給へるものにて、東国のおける祭神の初めなれば、古来東奥の一の宮と称し、人民怖れて此山上に登るものなかりしと云う、  

続く 


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2000.1.28