薫風の意味を引きながら


物事は、何事も単純なように見えてそう単純ではない。人はいつも第一印象というイメージ付けによって、理解が非常に浅くなりがちだ。 

そんなことを何故思ったかと云えば、「薫風」という一語を、「何が薫風なのだろう」と考えたことから始まった。 

一般的に、薫風は、俳句の夏の季語と受け止められている。俳句と言えば、江戸期になって、庶民の言葉遊びのようなものから花鳥風月と季節を読み込む形式をもって生まれた短い詩のことである。それがわずか、300年の時を経て、芭蕉のような天才の出現をみて、一大勢力となり、「結社」なる日本的な組織を形成するに至る。各結社は、銘々に「歳時記」を作り、「季語」、「季寄せ」と称して、四季折々の、季節を織り込む言葉を集め、季節毎に分けたのであった。 

薫風は、広辞苑によれば、「南風。温和な風。かんばしい風。南薫。青葉の香りを吹きおくる初夏の風。青嵐アオアラシ。薫る風。」となる。日本最大の俳句の結社「ホトトギス」の季寄せ(稲畑汀子編)によれば、見出しには「風薫る」とあって、「南風が緑の草木を渡って、すがすがしく匂うように吹いてくるのを讃えた言葉で薫風ともいう。」と説明されている。 

そこで「風」が「薫る」という言葉に、少し時を置いて、何故か、忠臣蔵で無念の死を遂げた若き赤穂の殿様の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の辞世の句を思い出していた。確かそれは、風薫るではないが、「風さそう花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとやせん」である。彼が余りにも呆気なく、江戸の田村藩邸の庭先で亡くなったのは、元禄14年の3月14日である。もちろん陰暦であるから、おそらく桜が散って、それでも尚、その花の香の名残がそこかしこに漂っていた時であったろう。 

内匠頭は、まだ死にたくない。死ねないと考えていた。まさかその日の内に腹を切ることになるなど想像だにしていなかった。自分の中に残っている若き情熱と生命の力を発揮出来ぬままに死んで行く無念が、この歌に込められている。だからこの歌には、この自分の無念を晴らしてくれ、という強い気を感じるのである。そこで私がこの歌を解すればこのようになる。 

「このやさしい春風が、私を美しく桜の花のように散ろう散ろうと誘うのだが、私はやり残したことがあるのだ。この若い身空で、あの世へ旅立つことをどのように伝えたらいいのだ。」 

さて、薫風の出典と云えば、一般的に「唐文宗」の「薫風自南来 殿閣生微涼」(薫風南より来たる。殿閣は微涼を生ず」の漢詩からとられていると説明されている。またこの薫風の漢詩は、一休禅師の書としても有名である。しかしこれだけでは、どうも意味一休が書くほどの詩でもない、と思われた。そこで調べると、この漢詩は、実は「唐文宗」という皇帝が、臣下の「柳公権」という者と交わした問答らしいということが分かった。 

まず唐文宗帝がこのように云った。 

人皆苦炎熱(人は皆炎熱に苦しむも)             
我愛夏日長(我は夏の日の長きを愛でむ)    

それに柳公権が答えて云った。 

薫風自南来(薫風は南より来たる)     
殿閣生微涼(殿閣に微涼の生ず)    

要するに、王様が「世の中の人間が、熱い熱い夏にふうふう苦しんでいるが、私は日の長い夏が大好きなのだ」、と云えば、臣下が、「いや本当にいい南風ですね。この城に微かな涼さを呼んでくれます」と何のたわいもないことを云ったに過ぎない。 

これを禅的に解釈すれば、感じ方によって、同じ風でも「炎熱の風」つまり「熱風」と感じ、嫌いになってしまうものであるが、夏が好きだと思って、同じ風を受ければそれがまるで違ったものに感じる、ということになる。別に臣下の柳公権は、王様にゴマをすっているわけではない。熱風を薫風と言い換えて、それは南より自(おの)ずから来た風と云ったのである。この「自」という言葉の意味は重い。単に南「より」というような意味ではない。これは「自然」の「自」であり、「自ずから」の「自」である。この自然に自ずから吹いて来た風を薫風と感じることによって、世界は一変する。普通の人間が、炎熱と感じる風を「微涼」として受け取ることができるのである。すると世界はまさに自然の恩恵に充ち満ちていることになる。 

これは禅の名著「碧巌録」(へきがんろく)の中の第四三則「洞山寒暑廻避」の「滅却心頭火自涼」(心頭滅却すれば火も自ずから涼し)に符合する言葉である。この四三則の深い意味は、自ずから吹いてくる風というものを避ける術などない。それを肯定的に感じる精神を持つことによって、世界を一変したものとして感じることができると云っているのだ。 

と、考えると、自分の若さに故に招いた厄(わざわい)の風を、無念と感じて散った内匠頭の辞世の句の精神は、精神の未熟を顕す以外の何ものでもない。と同時に、我々が俳句の季語として、単純に受け入れて、表面的に捉えている「薫風」も実はまったくの間違いだったと気づかされることになる。南風が心地良いのではない。風を心地よしと感じる唐文宗の感受性に、心地よき薫風を臣下の柳公権が感じたに過ぎない。このようにして私は「風」の意味ひとつ知らない無知の者である自分を知ったのであった。佐藤 

 


2002.5.22
 

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