怖いモノの不在

やはり鬼は必要



瀬戸内寂聴さんが、今朝のNHKニュースに出演して次のように言った。(瀬戸内さんは、この度、「源氏物語」十巻を見事な現代語に翻訳した。)

平安時代というものは、神や仏に対する怖さ(こわさ)や畏れ(おそれ)という感覚があった。だからプレーボーイの光源氏でも、出家した女性に対しては、絶対に手を出さなかった。要するに千年前の日本では、仏教というものは、それほどの権威と威光(いこう)を持っていたのです。一転して現代の日本社会を見た場合、政治家のおごった態度や官僚の汚職などを見るに付け、何も怖いものや恐ろしいものがないとしか思えない振る舞いばかりが目立っている。本当に困ったことです。やはり人間は、神や仏とかは別にしても、何か得体の知れない誰かに見られているという感覚が必要なのではないでしょうか。

平安時代は、確かに「たたり」という事を異常なほど恐れた社会だった。多くの神社の仏閣は、たたる霊を鎮めるために建築されたケースも多い。例えばこの時代に、菅原道真(845〜903)という人物がいた。彼は藤原氏全盛の平安時代に、飛び抜けた学問の才能を持って、異例の出世を遂げていった。しかし、余りの出世振りに藤原時平というライバルが、道真を陰謀にかけて、九州の太宰府に流してしまった。この時、菅原道真だけではなく一族郎党ことごとく、官位や位も奪われて日本全国に島流しにあってしまう。都落ちする時、次のような歌を残している。

東風(こち)吹かば、匂いおこせよ 梅の花 主じなしとて 春を忘るな

(佐藤解釈:愛しい梅の花よ、お前を置いたまま、この都を離れるのは辛いものだ。どうか、花の咲く季節になったならば、この私のことを忘れずに花を咲かせて、その香りを東の風に乗せて送って欲しいものだ

やがて道真は失意のまま、九州の粗末な屋敷で59歳の短い生涯を終える。その後、平安の都ではたたりとしか思えない怪奇現象が次々と起って人々を恐怖のどん底にたたき落とすのである。

まず雷が、頻繁に起きて、落雷事故が続出した。時を同じくして道真をざん言によって追いやった藤原時平一族が相次いで早死してしまうという奇妙な出来事が一層人々の恐怖心をかき立てた。ついには宮中への落雷によって、宮中の人間が数名死亡する事故が起きる。余りのことに醍醐天皇は、北野に道真の霊を鎮めるための北野天満宮を建設することを決意する。しかし最後には、その醍醐天皇までも、原因不明の病に冒されて亡くなってしまう。まさに異常事態である。あわてた朝廷側は、全国に島流しにしていた菅原一族の罪を許して、道真の名誉を回復し、全国に天満宮を建設して道真を神として祀ったのである。これが「天満宮」のイワレである。

たたりを避けるときの言葉に「クワバラ、クワバラ」という言い方がある。このクワバラ(桑原)とは、実は平安の都の地名で、元々菅原一族の所有していた土地で、何故か、この土地には落雷しなかったことから、雷が鳴ると、いつの間にか、都の人が「クワバラ、クワバラ」と言って逃げるようになったということである。
 

今や菅原道真と言えば、学問の神様ということになって、受験シーズンには、全国の受験生がその御利益にあやかろうと、お祈りをするシーンがよくニュースに登場するが、その根底には、こんな怖い話が、眠っているのである。

怖い者が無いような世の中には、抑制というものが利かなくなってしまう。国家でも組織でも学校でも家族の中でも、政治権力の中でさえ、とにかく怖いモノ、得たいが知れないモノ、ビビるようなモノがあるからこそ良いのである。

その意味でも、私は瀬戸内寂聴さんの「怖いモノが無くなった社会」という現代日本に対する鋭い指摘に同意するものである。

最近、中学生の「キレル」というような不可思議な現象が全国で起きているが、これは、怖いモノがいなくなった社会の典型的な事件である。もしも、そんなことをしたら、何をされるか分からないような怖い人間が、そのガキのそばにいたならば、そんなことは絶対に考えもしないであろう。この際、誰かが、鬼のような怖い存在とならなければならないのではあるまいか?!佐藤
 


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1998.3.31