広辞苑無知

 

本日、11月11日、数年ぶりに、広辞苑の第五版が出版された。周知のように広辞苑は、日本で一番有名な国語辞書である。何しろ「広辞苑によれば」という決まり文句(フレーズ)があるくらいの権威のある辞書である。今回は、1955年に初版が出版されてから、第五回目の改訂にあたる。

今回の改訂では、渥美清や三船敏郎、ばついち、ぽいすて、プッツンなど一万語に上る新語が追加されたようだ。ところで私は、この辞書に、致命的な欠陥?を見つけてしまった。それは広辞苑で、広辞苑という語を調べられないことである。要するに広辞苑には、「広辞苑」の項目が載っていない。日本で一番優秀な辞書を気取っても、所詮広辞苑は、自分を分かっていないのである。

そこで出版元の岩波書店の編集部に電話して「広辞苑ってどんな意味なんですか?」と質問すると、

「特に意味はありません。物事を広く載せてあるというような意味ですね…」

「ところで、第五版にも、広辞苑という項目がないようですが、何故載せてないのですか?」

「ちょっと、お待ちください」どうやら、この編集者は、広辞苑という項目が、載せてあるかないか、知らなくて、広辞苑をまさに今、引いているらしい…。

そして答えにくそうに、「いえ、その広辞苑を読むような方は、そのくらいのことは、知っている方でしょうから…」と苦しい弁解。これからも載せる予定はないらしい。

まったく笑ってしまう。まさにギャグである。広辞苑は、自分を知らなかった。人間で大事なことは、自分の本質をよく知っていることである。素(す)の自分を知ることこそ、人生の最大の目的である。辞書にとってもそれは同じだ。何故「プッツン」が入っているくせに「広辞苑」がないのだ。私には理解できない。自分を知らない人間は、人間として三流と呼ばれる。すると広辞苑もまた三流の辞書と言うことになっていまうではないか。

広辞苑を最初に編集した男は、新村出(しんむら いずる)という人物だが、この人物の名さえ調べられない。おそらく日本人らしく謙譲の美徳と考えて、あえて掲載していないのかもしれないが、自分のことを簡潔に説明できなくて、なにが「21世紀の辞書」といえるだろうか。

以上のことは、ひとつの比喩である。つまり自分がものを知っている。何でも知っていると思ったら、大違いである。実は多くの人間は、自分のことすら、広辞苑のように知らないのである。例えば、毎日自分が通っている道にある看板の文字を、はっきりと覚えている人は少ないはずだ。

その昔ギリシャ時代に、最高の知恵者と言われたソクラテスは、人々が何気なく通り過ぎる神殿の柱に、「汝自身を知れ」という言葉を読んで、悟りを開いた。それは我々が見過ごしている看板に意味を見つけるようなものであった。ソクラテスは、自分がいかに注意力散漫で、ものを知らないか、ということを知り、愕然(がくぜん)とした。

広辞苑の無知さは、まさに現代人の知恵のあり方を、見事に反映しているように思えてならない。要するに人間というものは、何でも知っているつもりになってはいるが、実は自分のことすら知ってはいないのである。広辞苑を笑え!!佐藤
 


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1998.11.11