古典を読むこと

 
 

本屋の店先を見れば、あらゆる種類の本や雑誌が、山と積まれている。しかしその本の99.9%は捨てられる運命にある。要するに我々は取るに足りない本ばかり読んでいることになる。ベストセラー小説だろうが、タレントの馬鹿丸出しの本だろうが、新興宗教の宣伝本だろうが、ほとんどは、ごみ同然の価値しかないのである。

例えば少し前、春山某というペテン師の「脳内革命」なる本が馬鹿売れした。誰もが、脳内モルヒネの存在を目を輝かせて話していたことがあった。はっきり言って、私はこの本が大嫌いであった。春山という著者の顔を見た瞬間に、この本が、大脳生理学と心理学の最新成果を盗んでいるなと気づいたからである。もちろん私はこの本は読んでいない。読まなくても、春山が言う位のことはわかるからである。

この本は、春山が脱税事件で摘発されるとともに、世の中から忘れ去られてしまった。わずか、3年前のベストセラーがである。もしも本当に価値のあるものならば、「脳内革命」は、現代の古典という形で読み継がれていくはずだ。しかし元々価値のないものは、この春山の本のように、簡単に捨てられる運命にある。

それでも世の中のペテン師作家や出版社は、次々と、どうしようもない本や雑誌を、さも価値のあるものとして、出版してくるのである。だからいつの世も、我々は、偽物とペテン師と詐欺師に囲まれて生きているのだ

我々が、春山のようなペテンに引っかかる理由は、価値のある本とそうでない本を見分けられる審美眼しんびがん=美しいものと醜いものとを見分ける能力。そこから意味を転じて本物と偽物を見分ける眼)が備わっていないためである。

審美眼を磨くためには、いわゆる古典と言われるような本に、多く接して、本物とはどんなものであるかを体感するしかない。内容はたいして分からなくてもいい。とにかく古典の中にある、独特の雰囲気や緊張感のある文章に浸(ひた)ることだ。すると何時の間にか、自分の心の中に、審美眼のベースとなる感覚が身についてくる。その感覚がついてくればしめたものだ。本の最初の行を読んだ瞬間に、どの程度の価値のものかが判断できるようになる

だからこの夏休みには、岩波文庫の中から、一冊でも二冊でも選んで、古典と言われる文章に触れてみてはどうか。ペテン師のような本に捕まって、時間とお金の無駄使いは馬鹿らしい。佐藤
 


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1998.8.4