関東における義経伝説のメッカを訪ねて

相州腰越ノ浦探訪の記


佐藤弘弥


腰越の浜から江ノ島を遠望

腰 越の浜から小動神社と江ノ島を遠望する
(2007年6月17日 佐藤弘弥撮影)

腰越探訪の記

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久しぶりに江ノ電に乗って腰越駅に向かった。かつて腰越周辺は、今のような住宅地というものではなく、都市鎌倉へ入るための門のような役割を担う要衝の地 であった。また弁財天を祀る祭儀の島ともいうべき江ノ島へ通じる地でもあり、周辺には刑場もあったとされる。まさに腰越は、生と死が混在する境界の地で あった。そのせいか、今でも腰越周辺には、多くの寺が点在している。

この6月17日は、たった2日前に、梅雨入りしたとは、俄に信じられないような晴天の日曜日だった。藤沢から満員の江ノ電に乗り、腰越駅で降り、左に折れ る。まずは、満福寺には、寄らず、しらす料理の店が並んでいる前を通り、腰越の浜にでる。しらす干しをしている浜を守るようにおいてある消波ブロックを越 えて、七里ヶ浜の方にゆっくりと歩いた。今から818年前、文治5年6月13日に行われたという義経の首実検のことが偲ばれた。

この腰越の地は、義経伝説で特に有名となり、今では多くの人が、日本全国から、義経を偲んで訪れる聖地となっている。私はふたつの理由で、この腰越から片 瀬海岸周辺、そして藤沢の白旗神社周辺までの地域に惹かれ、何度も訪れているのである。

ひとつは、義経の首実検された場所が、どの辺りであったかということ。もうひとつは、奥州から鎌倉の兄頼朝の下に馳せ参じた百名に及ぶと推測される義経主 従の連中が、寝泊まりをしていたとされる義経の鎌倉の館と思われる場所がどこであったかということである。

ひとつ目の点について、「吾妻鏡」に、記している事柄を拾えば、「文治五年6月13日」、「腰越の浦」、「立ち合いは、和田義盛、梶原景時」とある。腰越 の浦という記述であるが、そもそも「浦」とは、一般に浜辺や水際のことを指すが、海辺や湖が水によって浸食され入り組んだ地という地形も考えられる。この 腰越周辺は、環境や地震などの影響によって、かなり変化していると言われている。

かつて、波打ち際は、国道134号線より、さらに奥の龍光寺の方にあったとされる。ここが入り江になって、「浦」特有の地形を形成していたことも考えられ る。周知のように龍口寺には、日蓮が幽閉されていたとされる洞窟があり首を刎ねられようとした刑場跡がある。いわゆる日蓮の龍の口の法難と言われるエピ ソードだ。その時には、突然光が現れて、刀を振り上げた侍の目が眩んで難を逃れたというものである。

また少し奥の常立寺(じょうりゅうじ)には、蒙古の元からの使者として日本に開国を交渉に来て、北条氏に処刑された5人の人々の元使塚(げんしずか)など もある。

このことから類推してみると、義経の首実検されたところも、日蓮の刑場跡と言われている周辺であったという説がかなり有力かもしれない。

ふたつ目の点については、まったく推測の域を出ないが、現在の遊行寺周辺から龍口寺にかけての一帯にあるのではないかと私は考えている。というのは、義経 が腰越状を書いたとされる満福寺や義経を祭神として祀る藤沢の白旗神社界隈に、義経を慕う里人が多いのは、生前において、何らかの接点があって、義経の首 を弔うことを認められて、白旗神社に鎮められたと見るのが自然であると思うからである。


夏の満福寺全景

夏 の陽射しを浴びる満福寺
(2007年6月17日 佐藤弘弥撮影)
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腰越の浜から七里ヶ浜の方角にゆっくりと歩く。さまざまな光景がそこにあった。波打ち際に椅子を置いて、遠くを見つめている若者。サーフィンに興じる中年 の女性。高校生の男女が隊列を作り狂ったように踊っている。海辺を走り回る少女と子犬。めいめい、この世に生きていることを満喫しているようだ。砂浜を離 れ、国道に上ると、梅雨とは思えないような鋭い夏の陽射しが、江ノ島からこの腰越一帯を浮き立たせるように照射している。

ふと、平泉のことを思った。都市平泉にとって、腰越に当たる場所は、どこかと考えた。平泉に源義経が入城する時、停泊した栗原寺(りつげんじ)が思い浮か んだ。確かにかつてはそこには、大伽藍が立ち並び、荘厳さを極めていた。しかしそこは十数万を数える日本第二の都市平泉の玄関口に過ぎなかった。

おそらく、京都育ちで、京都の大寺院を見慣れている義経にとっても、栗駒山の山懐に忽然と姿を現した栗原寺の豪奢な造りに目を見張ったことだろう。そこ は、単なる祈りの寺というものではなく、平和を祈念して造られた都市平泉に戦禍を及ぼさないための、前線基地(砦)の役割を担う寺院であった。そのため、 栗原寺は、多くの僧兵たちを抱え、周囲には延々と空堀などを廻らした壮大な寺院であった。またこの寺の周辺には、奥州の平和の大都平泉を守るためと考えら れる館がそこかしこに配置されていたと考えられている。まさに栗原寺は、平泉に入って来る人々を検閲する関所のような場所だったと思われる。

義経もまた、この栗原寺において、さまざまなことを聞かれ、身支度を整えて、屈強な僧兵たちに周囲を固められながら、奥の大道と呼ばれる平泉への道を向 かったのである。

平泉と鎌倉を比較すれば、平泉が山の中の平地に作られた都市であるのに対して、鎌倉は海辺に作られた都市である。単純なようだが、この違いは大きい。その 中で、「切り通し」という手法は、鎌倉を特徴付けている。これはまったく平泉では考えられないことだ。平泉では、割と自然に、湿地があるとすれば、そこを 池にして寺を建てるようなところがある。それに対して、鎌倉は道がなければ、そこの岩を強引にどけさせて、道を通すようなイメージがある。もちろん切り通 しは、容易に敵を鎌倉に侵入させず、場合によっては、その切り通し封鎖することも想定して作られたものだ。平泉では、そこまで敵と味方を選別し、侵入を防 ぐという思想はないように思える。これはもしかすると、平泉と鎌倉の決定的な文化の違いと言えるかもしれない。

そんなことを思いながら、ここから山を越して満福寺に辿り着けないものかと、あてどなく迷路のような道を歩いてみたが、遂に行き止まりであることが分かっ た。さすがは武家たちが拵(こしら)えたところだ、などと感心しながら、諦めてしばらく坂道を龍口寺方面に下り、神戸川(ごうどがわ)沿いの道を左に折れ て、やっとの思いで再び腰越駅に戻ったのであった。


満福寺から江ノ島を遠望

満 福寺の本堂裏の展望台から江ノ島方向を見る
(2007年6月17日 佐藤弘弥撮影)


せっかく、腰越に来たのだから、シラス料理を食べようと思うのだが、とにかく、どこもかしこも店が混んでいる。日曜日、それも昼近くになると、並ぶのが当 たり前のようになっている。並ぶことの大嫌いなせっかち者の私は、たまたま比較的空いていたそば屋さんに入る。それでも入口の直前の二人掛けのテーブルし か空いていない。早速、「シラス下ろしソバ」を注文し、やっとのことで出てきたソバを、ズルズルと啜って満福寺に向かった。

急階段の参道を登ると山門の前の青いあじさいが真夏の太陽に照らされて輝いている。何となくあじさいは梅雨時の花のイメージが濃く、雨の日にこそ映えると いう感じがするが、好天の中でもなかなか美しいと思った。

まっすぐに本堂に向かう。お賽銭を上げて、義経さんに手を合わせる。このところ、年に一、二度満福寺にやって来ているが、来る度にどこかが変わっていて、 小さな驚きがある。奥には、トンネルが掘られ霊園のようなものが造成されている。また本堂の上には展望台ができ、その奥には喫茶室が建てられている。今回 の驚きは、本殿のブロンズの慈悲観音の横に、大きな子供の石像が置かれたことだ。おそらくは水子供養のための像であろうか。

本堂には上がらず、本堂の裏の展望台に上る。そこから片瀬江ノ島の方をみる。腰越付近は、高い建物がないために、ここから見ると、片瀬海岸(東岸)から片 瀬江ノ島、遠くに富士山までを一望することができる。

片瀬江ノ島駅前周辺に建てられたマンションが、本来の美しい景観を損なっているのが目立つ。この地域は、鎌倉市と藤沢市に行政が交差する地域な訳である が、どちらの市も周辺を風致地域としてしっかりした景観法を策定し、高層化を防いで行かなければ、たちまちのうちに日本有数の観光客が訪れる景勝地の景観 が、見るも無惨なものとなってしまうことを忘れてはならないのである。

いつもここに来ると思うことがある。それは、兄頼朝に向かって、有名な腰越状というものを認(したた)めた頃の義経の思いである。兄頼朝の執拗なイジメに 遭遇しながらも、自分には兄に逆らうつもりは微塵もないことを、切々と訴えている。それでも、ついに鎌倉に入ることを許されず、鬱々とした気持で、美しい 江ノ島や富士山を眺めていたはずである。そのことを思うと胸が張り裂けそうな気持になってしまうのである。

小動神社から江ノ島を遠望

小動神社から腰越漁港越しに江 ノ島を見る
(2007年6月17日 佐藤弘弥撮影)


満福寺を後にすると、船宿「秋田屋」の横丁を入り、浄泉寺の参道の前から、国道134号を渡って、小動神社(こゆるぎじんじゃ)の参道を進む。明治政府が 神仏分離令(1868)を出すまでは、浄泉寺と小動神社は、一体のものだった。寺は、「小動山浄泉寺」と呼ばれ、神社は八王子・三神社と称していた。腰越 の突端に突き出た感じの小動山は、昔から腰越の鎮守の森だったのである。

参道を進むと木漏れ日が心地よい。大鳥居の前に立つと、太陽が丁度その上でギラギラと輝いていた。本殿に参拝すると、江ノ島のよく見える展望台に向かう。 波間に陽射しが反射して眩しい。若い女性が、勇ましくコンクリートの上に立って、江ノ島をカメラに納めようとしている。その格好が何故か、弓を射る武者の ように思えて妙に微笑ましい。


ここで少し、腰越と義経を廻る話しをしてみよう。

吾妻鏡によれば、元暦二年(1185)5月15日、捕虜となった平家の総大将平宗盛父子を相具して、義経一行は、茅ヶ崎の先の酒匂(さかわ)駅に到着す る。

京都を発って7日目の鎌倉入りであり。そこから義経の家来である堀弥太郎景光という人物が、鎌倉に使者として入り、「明日、鎌倉に参じたい」との申し出を 行う。

ところが頼朝は、直ちに舅(しゅうと)である北条時政を酒匂の義経の許に使わして、「宗盛卿は受け取りまするが、鎌倉入りは待たれよ。」とのことを言うの である。平家物語では、この辺りの描写が微妙に違う。

義経は、現在の江ノ電七里ヶ浜駅から山伝いに登ってほど近いところにあったとされる金沢の柵で鎌倉方に、宗盛父子を引き渡したとなる。

私はここに義経伝説の生成過程を見る思いがする。平家物語の頼朝の行動が面白い。何重にも護衛の兵を随えた頼朝が、周囲の者に、「一同義経は、感覚の鋭い 男だから、この畳の下からでも、侵入して来るようなところがある。注意するにこしたことはない。この頼朝は、そうおめおめとヤツの思うようにはされるよう なことはないがのう。」と言うのである。臆病で猜疑心の強い人物に描かれている。

これはおそらく、平家物語の作者が、頼朝が弟の軍事的才能を相当に怖れていたということを強調するために付け加えた劇的誇張であろう。ここには紛れもなく 判官贔屓の心情が宿っている。

私は吾妻鏡の記述の中で、酒匂で着いた義経が鎌倉に使者にやったという堀弥太郎という人物に注目する。平治物語の中に、確か「堀弥太郎と申すは金商人とぞ 聞えける」という一文があるのだが、ここから掘弥太郎という人物は、義経を奥州に送ったとされる伝説の人物「金売吉次」のサムライ名(本名)ということが 伺える。

つまり、金売吉次という商人と思われていた人物は、れっきとしたサムライで、しかも義経の家来もしくは奥州藤原秀衡の子飼いの重要人物であった可能性が浮 上するのである。

実際に京都の西陣に近い上京区の今出川通りに首途八幡神社(かどではちまんじんじゃ:上京区智恵光院通今出川上ル桜井町)という神社がある。ここはかつて の金売吉次の京都屋敷だったと伝えられる場所だ。

首途は、義経が奥州に向かう時、あるいは平家追討に向かう時に、この神社の水を使い縁起を担いで出立したことから、首途の八幡社と名付けられたものと推測 されている。

またこの近くには、藤原秀衡の孫の義空上人が開創したと伝わる大報恩寺(千本釈迦堂の別名あり:上京区今出川七本松上ル寺前町)があり、歴史家の角田文衛 (1923− )氏はここが「平泉第」(ひらいずみだい)ではないかという仮説を立てている。

「第」とは館のことであり、簡単に言えば、この周辺に「平泉大使館」のようなものがあったとしているのである。となると、義経という人物は、単純に平泉に 逃げて行ったというものではなく、平泉という当時日本第二の都市が、義経という人物を平泉に匿うことによって、何か政治的な思惑があって、そうしたという ことが伺えるのである。

そうして考えると、堀弥太郎という人間は、表向きには、金を商う商売人という顔をもって歴史に登場したのであるが実は平泉のかなり重要な外交官ないしはそ うでなければ冠者(スパイ)というような存在だった可能性が出てくるのである。

片瀬海岸から江ノ島を遠望

左の小さな神戸川(ごうどがわ)が片瀬と腰越を分かつ境界となる
(2007年6月17日 佐藤弘弥撮影)


金売吉次とくれば、どうしても武蔵坊弁慶に触れない訳にはいかない。さまざまな事実と伝承と伝説と研究成果を綜合すると、世間が期待するような弁慶は浮か んでこない。

世間で言う(というより義経記による)弁慶は、熊野別当弁正の子。ガキの頃から手が付けられない乱暴者で、後に延暦寺西塔の僧侶となる。大柄で、色浅黒 く、三井寺と延暦寺の抗争の折は、三井寺の巨大な釣り鐘をひとりで引きづり、周囲のものをあ然とさせた。縁あって鞍馬山に匿われていた幼少の牛若(義経) に出会い、その家来となり、終生を義経に尽くす。

特に注目すべきは、義経の運命が反転し、平家追討の一の功労者ながら、兄頼朝に執拗に疎まれ、ついには反逆者の汚名を着せられると、弁慶の存在は、俄然輝 き出す。

義経は思案の挙げ句、京を逃れ、西海(九州豊後?)に渡り、兄頼朝打倒の体制作りを画策する。ところが夜の大物浦の海は激しく荒れ、海原には平家の亡霊ど もが義経一行を海中深く沈めようと憤怒の形相で現れる。すると弁慶は数珠を揉み真言を唱え、亡霊を追い払う。また奥州平泉へ向かう冬の北国街道安宅の関で は、弁慶の一瞬の機転によって、関所で待ちかまえる富樫某の追求を交わし難を逃れる。また平泉での義経最後の日、弁慶は雲霞のように現れた泰衡一味の攻撃 をかわしながら、「ここが死に場所」とばかりに、自刃する義経をかばい、雨あられと放たれた矢を受けてハリネズミの有り様となりながら、義経と妻子の死出 の旅路を背中で見送ったのである。


さて、こうして弁慶の生涯を思っても、何か浪花節を聴くような爽やかな気分になってくるのだ。その理由は何故か。おそらくそれは日本人の心に「弁慶の忠義 心」というものが、しっかりと刷り込まれ、根付いてしまっているためと思われる。ユング心理学で言うところの、「元型」あるいは「集合的無意識」と呼ばれ るものだ。もっと言えば、「弁慶」というイメージが日本人の中に「文化」として固着しているという言い方もできる。

あるいみでは「弁慶」は「義経」を凌駕するほどのイメージを持つ存在になってしまっているのである。実は満福寺には、「義経弁慶雪中行軍の図」 (1981)というふすま絵がある。雪深い北国街道を義経と弁慶二人が道行きをしているような構図である。満福寺には他にも、腰越状を書こうと思案をして いる義経とか、静御前と義経、弁慶の衣川合戦の図であるとか、数多いふすま絵の中でも出色の出来映えで、作者である漆画家宮本忠作(1946− )氏の最 高傑作ではなかろうか。

この絵に私が注目するのは、義経よりも弁慶が先を歩いていることである。普通、弁慶は山伏修行もしているはずだから、先を歩いて道案内をするのは当然と思 うかもしれない。しかし私はどうではなく、弁慶という虚像が、実像としての義経の先を歩いているというところに象徴的な意味を見出したから、そのように言 うのである。

冒頭私は、世間が期待する弁慶は浮かんで来ないと言った。心地よく響く弁慶物語は、すべてほぼ義経と弁慶が亡くなって、200年から250年ほど経って創 られた「義経記」というものをベースにした弁慶像である。だから弁慶という存在に限りのない浪漫を感じている人の夢を壊すようで申し訳ないのであるが、実 際にはあのような弁慶は、どこにもいなかったのである。ある意味で、私は弁慶は義経の「影」であると考える。ユング心理学の「影(シャドウ)」の概念を少 し説明すれば、「影」とは、自分の中にある他人に触れられたくない否定的な自己ということになる。義経記にあるように、弁慶の幼少時よりの乱暴狼藉振りは 目に余るものがある。しかし実はそれは義経の中にある天才児特有の狂気のようなものである。つまり弁慶はもうひとりの義経の影ということになるのである。

私はこの「義経記」というものの生成過程において、熊野の修験道との深い結びつきに注目をする。もっと言えば、熊野の修験者たちが、義経伝説を私的に熊野 に引き寄せたのだという見方を取る。つまり弁慶という存在は、熊野別当弁正(べんしょう)の子ということになっているが、これは現実に存在した熊野別当湛 増(たんぞう:1130−1198)を連想させるように創られている。

実際の湛増という人物は、気を見るに敏な人物で熊野水軍を率いて、はじめ平家に味方していたが、義経の工作によって、源氏の味方となり、屋島、壇ノ浦の海 戦には、船戦に不慣れな義経を助けて、勝利に決定的な役割を果たすことになった。承久の変以降、武士の政治が強まると、熊野人々は、危機感をもって、組織 を改革し、熊野修験の先達たちが、全国を行脚しながら、熊野信仰の御利益を伝え、熊野曼荼羅を抱え、また武士から農民、庶民にいたるまで、巾の広い層に興 味を惹くための娯楽作品として、義経一代記としての義経記を創作したと考えられる。全国津々浦々義経が歩いたとされる道中の正確さは、修験道の先達たちが この物語の制作に積極的に関わったことの何よりの証拠である。

つまり義経記という物語は、明らかに義経への追慕の情と義経伝説を利用して熊野に人々の耳目を引き寄せ、熊野詣を奨励するための物語として制作されている ことになる。それでも結局それは、日本人の魂の中に「義経・弁慶幻想」とも言うべき「集合的無意識」を形成し、一般にそれを私たちは「義経伝説」と呼ぶの である。

片瀬江ノ島駅前の弁天橋から境川をみる

片瀬江ノ島駅前の弁天橋から境 川上流を遠望する
(2007年6月17日 佐藤弘弥撮影)


では、実際の弁慶は、どのような姿だったのだろう。おそらく、今日で言えば、予想に反して体育系というよりは、文化系の人物で、書斎に籠もって仕事をコツ コツとこなしていくタイプの人物ではなかっただろうか。つまり義経の秘書か右筆(ゆうひつ)のような目立たない存在だったと思われる。

腰越の満福寺に、弁慶の下書きと呼ばれる「腰越状」の写しがある。日付などの筆記もなく真偽はさかだではない。同じように一ノ谷合戦の後、平家軍の平敦盛 らの首実検をした須磨寺にも、弁慶の真筆と呼ばれる文書が遺っている。但し筆跡はかなり違っていたように記憶する。

ところで実際の歴史書に弁慶は、どのように登場するのであろう。

まずもっとも信頼にたる文献である「吾妻鏡」には、二度記載がある。一度目は、文治元年11月3日の大物浦から西海へ向かう一行の中に名が見え。二度目 は、それから三日後の11月6日の記述で、難破して散り散りになり、義経に従っていた4人の中に、名が見える。因みに4人とは、源有綱(伊豆守源仲綱の子 で祖父は源三位頼綱で義経の娘の婿)、掘弥太郎、弁慶、静である。これ以外に、弁慶の記述はない。

いずれにしても、弁慶が義経の極めて近くにいたことは確かである。しかしその他公家の日記の「玉葉」や「愚管抄」などにはには弁慶の記述は一切ない。

平家物語には、以下の7回登場する。

1.巻第九の「三草勢揃」で場面で名前のみ紹介。
2.巻第九の「老馬」のシーンで、鷲尾三郎の父の猟師を連れて来る。
3.巻第十一の「継信最期」での名乗り。
4.同上で、能登守教経の矢弾から義経を守るために集まる。
5.巻第十一の「鶏合、壇浦合戦」で義経と梶原景時が先陣を争った時に名が末尾に登場。
6.巻第十二の「「土佐坊被斬」で京の館に土佐坊を連れてくる。
7.同上で、土佐坊と戦った郎等の末尾に登場。

以上7回の登場の中で、目立った行動と言えば、2にある一ノ谷への道案内を探して鷲尾三郎の老いた父を連れてきた下り。それから6で頼朝の刺客の土佐坊を 義経の前に連れてきたくらいであろうか、これが現実の弁慶の存在感なのだ。ここから類推されることは、法師、弁慶という名をうまく、この人物を熊野育ちの 荒法師と仕立て上げることによって、義経物語としての義経記を義経と弁慶の物語とすることに成功したのである。

「義経記」という物語の全体の構成を考えて見ても分かるが、義経の輝かしい功績はどこにも記述されていない。これは実に不思議だ。この理由をズバリと言え ば、日本の民衆の興味の方向が、どちらかと言えば、輝かしい武勲を上げて稀代の英雄と祭り上げられていた義経よりも、落ちぶれ果てて日本中を逃げ回る弱き 義経の最後の姿に惹かれていたということである。もっと言えば日本人は、義経の悲惨なその後の人生に限りのない浪漫と「もののあわれ」を感じているという ことになるであろう。

まさに義経記は、その悲惨な義経の生涯を誇張した物語だ。日本人は、義経の強さではなく、弱さをこそ愛したのである。だからこそ、義経の運命が反転して以 降、ひたすら日本中を逃げ回る稀代の英雄義経の姿にハラハラドキドキしながら、その弱き義経を助ける弁慶のような強烈なキャラクターの弁慶に限りのないが 創作されたのである。

司馬遼太郎のいうように、義経は日本史上最初に登場した「スター」だった。またスターが稀代の英雄になるには、義経記にあるように兄頼朝に疎まれ、虐げら れ、長い逃亡の果てに自刃までして果てるという史上稀なる壮烈にして悲惨なる人生が必要だった。それはヤマトタケルの人生にも、光源氏の人生にも、共通す る高貴なる者の放浪物語(貴種流離譚)である。

おそらく、義経の人生は、弁慶という熊野信仰に通じるキャラクターを得て、はじめて日本人の琴線に触れる”義経伝説という民族譚に昇華”したのである。

江ノ島から腰越の浜を遠望する

江ノ島から腰越の浜を遠望する

(2004年5月7日 佐藤弘弥撮影)
7 
小動神社の参道を下っていくと、木漏れ日が程よい憩いの地を作っていた。この真っ直ぐに伸びる参道を、どれほどの人々が通り過ぎたことだろう。

その中には、行基、義経、頼朝、西行、日蓮、一遍などがいた。ここを通り過ぎた無数の人々たちも、今はみな亡者となり、この腰越の地の伝説として語り継が れている。

国道134号に出て、腰越漁港に向かう。雑然とした雰囲気の小さな漁港だが、大好きなところだ。休日には、この漁港の結構広い駐車場が車でいっぱいにな る。人々は新鮮な魚を買いに、あるいはサーフィンに、海水浴にと、江ノ島の海を満喫しに来るのだ。わずか4、5mの神戸川が腰越と片瀬を分けている。

かつては龍口明神をめぐり領地争いのようなこともあったと聞く。この点については、呉文炳(くれふみあき)の「江島考」(「鎌倉考」理想社 昭和34年刊  所収)に、龍口が腰越の別名であること、何故腰越、津村両村の鎮守として、龍口明神が片瀬の地に鎮座しているかということが、歴史的に考証されていて面 白い。

片瀬と腰越の境界争いは、何度も起こっているが、最後の紛争は、安永2年(1773)から文政(1830)12年にかけて紛争があったようだ。事情として は、片瀬村は、片瀬海岸の浜を生かして地引き網漁だったのに対し、浜の広くない腰越(津村)側は、沖網漁で、利害が対立していたための境界争いであった。 結局、龍口明神と龍口寺、常立寺などは、神戸川によって片瀬村領としての裁定がお上より下って、以後現在に至っているのである。

近場同士というものは、国家同士でも、お隣でも、そうだが仲が悪いと相場決まっている。

そんなことを露も知らぬ幼子たちが、片瀬と腰越の境界である神戸川の小魚を、小さな網を持って追いかけている姿が、実に長閑である。しみじみと平和である ことの大切さを実感させられた。



「一遍上人絵伝」と呼ばれるものが、時宗の総本山藤沢の遊行寺(清浄光寺)に伝わっている。この「絵伝」は、描写は、写実的で正確であることで定評があ る。例えばそのことは、一遍(1239−1289)が祖父の河野通信(四国伊予の河野水軍を指揮した人物)の墓を訪ねて奥州に詣出たことが描かれているの だが、その「絵伝」の風景から、近年岩手の北上市でこの人物の墓所と思われる場所が発見されたこともある。

「絵伝」の中には、満ち潮時の片瀬江ノ島付近の海を描いたと思われる絵がある。これを見ると、海が随分と広く見える。

その他にも時の権力者北条時宗(1251−1284)と鎌倉で出会った場面(1282年3月)や、片瀬周辺の浜で、念仏踊りを催した様子なども活写されて いる。

馬に乗って丸々と太った時宗に対し、日本中を捨て聖として念仏を唱えて極楽浄土を説いて歩いた一遍は、背が高くがっしりとした体型だが、真っ黒く日焼け し、眼の奥が鋭く光って一目で並みの人物ではない様子がありありと伝わってくる。

その隣では、小舎人(こどねり)と呼ばれる時の警察官に追われて逃げる旅芸人や乞食の姿が写実的に描かれていて、この時代の世相がよく分かる。時宗と会っ た一遍であるが、結局、鎌倉に滞在することを許されず、腰越から片瀬の御堂に入り、断食修行をしたという。この時、奇瑞(きずい)が現れ、滞在地の空に紫 雲が現れ、そらから散華が降り注いだとある。この時、一遍は「花のことは花に聞け、紫雲のことは紫雲に聞け」と事もなげに呟いたとされる。

片瀬の浜の地蔵堂(現在江ノ電駅に近い藤沢市片瀬3−7に片瀬の地蔵堂の碑が立つ)で、鉦鼓を打ち鳴らしながら念仏踊りを披露し、地元のさまざまな階層の 人々が、この大宗教家の来訪を、まるで芸能人に接するようにして眺めている図がある。このような一遍の念仏踊りというものが、私には単なる宗教というワク 組を越えて、ある種の娯楽的な意味合いが、念仏による救いと混じり合って、庶民に受け入れられているのを感じる。

江ノ島と海を描いた絵は、とても海が広い。一遍の来訪を聞きつけて、庶民が彼を一目見たさに小舟を駈って駆け付ける場面である。満潮の時と思われるが、当 時の片瀬海岸は、龍口寺の辺りまで、海があったようである。それで、やはり日蓮の龍口の法難と言われる処刑場も龍口寺の前にあったということが合点がいく のである。


江ノ島より富士山を遠望する


江ノ島より富士山を遠望する
(2003年1月5日 佐藤弘弥撮影)


江ノ島は、日本三景には入ってはいないが、日本を代表する景勝地であることに変わりはない。腰越の方角から江ノ島と海の向こうに富士山を拝む景色は絶景 だ。数年前まで、片瀬江ノ島の周辺の港湾工事がすすめられていたが、これが最近パタリと止んだのは、詳しい理由は知らないが、江ノ島の景色ということを考 えれば幸いなことである。

この島には、古来より、悪龍の伝説が伝わっている。「新編相模国風土記稿」には、神話の時代、「景行天皇の世」、「安康天皇の世(5世紀中頃か?)」、 「武烈天皇の世(5世紀後半?)」に「龍が暴悪をなす」と記されている。

特に武烈帝の時代には、龍鬼が大伴金村という大臣(政治家)に憑いて世情を悩まし、五つの頭を持った龍が、津村(腰越と一体だった村名)の湊(みなと)に 出入りして、人の子を喰らった、とある。またこの時、津村の長者の子供たち16人が、龍に呑まれてしまい、これを弔う塚を長者が西の里に建立したとある。

欽明天皇の御代(治世13年)には、4月12日から23日にかけて、大地が振動し、天女が雲の上に現れて、その後、忽然と島が現れたという。これが江ノ島 であった。その後、12羽の鵜が島に降り、鵜が来た島ということで、「浮島」と言ったようだ。こうしてこの島に天女が舞い降りて、遂に悪さをする龍と夫婦 になったという。

この伝説を綜合して再考すれば、「悪龍」とは、大波以上の津波を指すと思われる。この周辺地域は、地形からも類推できるように、津波の常襲地帯であったよ うだ。「津村」という村名も、どこか「津波」を連想させる。もしもこの地の沖に、海から突如として江ノ島が隆起して、防波堤の役目を果たしたとすれば、そ れはこの地に住むものにとっては、とんでもない吉事であったに違いない。これを天の助けとみて、15羽の鵜とと共に天女が舞い降り、悪龍が悪さをしなく なったというのは、面白い伝説だと思う。

考古学的にみれば、江ノ島からは、縄文時代早期の土器や後期の堀の内式土器なども出土していて、少なくても欽明帝の時代に、島が突如として、浮き上がって きたという伝承は、科学的ではないようだ。ただ江ノ島という場所は、昔から風光明媚なところから信仰上のアジール(聖域)として、徐々に素朴な「江ノ島信 仰」のようなものが形成されて行ったことと推測される。その過程でさまざまな伝説伝承というものが混入したのであろう。

元々江ノ島は岩窟が多いが、これは江ノ島全体の形状から見ても、女性のシンボルの子宮を連想させるに十分である。「「新編相模国風土記稿」に掲載された江 ノ島の図絵は、江ノ島が子宮と片瀬江ノ島から続く江ノ島橋は膣口のように描かれている。まさに江ノ島は、女性のシンボルへの信仰とも考えられる。同時にこ れに「龍」とくれば、龍が象徴するものは、男性のシンボルの男根であって、日本の神話時代のおおらかな時代の名残が偲ばれる。要するに龍口寺の東の七面山 に鎮座する龍口明神は、祭神が龍神で男性を象徴、江ノ島明神は、女神を象徴しているということになる。

奇妙なのは、龍口明神社の祭神が、どうしたわけか、女神である玉依姫命(たまよりひめ)となっていることだ。但し、この神様は、五つの頭をもった悪龍の 「五頭龍」とされ、江島神社の弁財天と夫婦(めおと)でありと地元では伝承されている。このことから私は、元々この悪龍だったとされる龍口明神は、津波の 神としての男神ではなかったかと推測するのである。

日本に仏教が入って来たのが、西暦538年年とされる。そこから江ノ島に、元々根付いていた岩窟や浮島に神が宿るという素朴な信仰(アニミズム)から、仏 教の洗練された信仰と混じり合って習合し、今日では辻褄が合わないような話しまで含めて、さまざまな伝承が、伝えられてきたということではないだろうか。

まず山岳修行者の役行者(生没年不詳:えんのぎょうじゃ)が訪れたとされる。この人物が伊豆に流された年が699年であるから、この頃の話しであろう。次 に白山信仰の開創者で「越(こし)の大徳」と異名のある泰澄(682?-767?)。次に道智。さらに真言密教の空海(774−885)。天台宗の円仁 (794−864)などが来たとされる。まさに日本宗教界のスーパースターばかりのそうそうたる人物がこの地を訪れている。

つづく


腰越探訪スケッチ(写真集)
2007.6.18- 佐藤弘弥

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