小笹鮨のこと

商売繁盛の法則

1.小笹頑固おやじ

「味覚」それは、食感という感覚であり、料理人の命である。味覚が、衰えれば、料理人としての 命は絶たれる。音楽に絶対音階という概念があるが、料理の世界にも絶対味覚というものがある。絶対味覚という舌感覚がなければ、初めから一流の料理人にな ることはできない。料理の才能は、味覚の才能である。味覚の才能にも、おのおのレベルというものがある。若いときに、優れた味覚の持ち主も、いつの間に か、その味覚が衰えて、どうしようもない凡人になってしまうこともある。逆にこつこつと己の味覚の才能を磨いて大料理人になる人物もいる。

私が、絶対味覚を持つ「大連」のチーフ伊藤さんを「小笹に行きましょう」と言ったのは、伊藤さ んが「天才」と考えていた料理人(杜さん)の舌が衰えて、がっかりしていたのを、慰めたかったからではない。元々杜さんの才能は、天才というレベルではな く、一時の花に過ぎなかったのだ。料理は年齢ではない。この世には、年齢などに左右されない最高水準の味覚をもった本物の料理人もいる。そのことを伊藤さ んに知って欲しかったのである。小笹の主人岡田さん(74歳)は、そんな稀代の料理人である。

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では小笹寿司とはどんな店か。少し書いて見よう。

小笹寿司の主人岡田さんは、絵に描いたような頑固オヤジである。生まれついての江戸っ子で、曲 がったことが大嫌い。禿げた頭に、ねじり鉢巻き、きりりと巻いて、年から年中、ぱりっと糊の利いた半袖姿で決めている。その昔、銀座の寿司屋を皮切りに、 鮨を握って、早50年。いつの間にか、小笹寿司は、知る人ぞ知る名店に数えられるようになった。

小笹は本当に小さな店だ。カウンターが、三軒半ほど、十人も座れば、いっぱいになってしまう。 入り口を入ると、岡田のオヤジが、土佐犬のような目つきで、入って来る人間をジロリと一瞥する。例えば、私が入って行ったとすると、口をへの字に曲げ、渋 く低い声で「いらっしゃい、はい、佐藤さんだよ」と決まったように言う。

すると奥よりオヤジさんとは正反対の優しさの固まりのようなオカミさんが「どうもいらっしゃい ませ」とおしぼりを右側に置いていってくれる。

ここでなじみのない客の場合は、選別され、カウンターの奥の方に回される。奥にはこの道二十年 近くの弟子に当たる職人が気さくに応対してくれる。以前奥にいた職人の寺島さんは、四年ほど前、銀座八丁目にのれん分けで「小笹寿司」を開店させている。

小笹にくると、まず岡田のオヤジの所作に合わせることを暗に求められる。座れば、すぐに箸紙を 取り、横に置く。皿に落とすしょう油は、ほんの少し。おまかせはなく、卵は最後にしゃりを付けない。

どんな人間も最初は、オヤジの口による所作指導の洗礼を受ける。私も最初は、頑固なオヤジの言 葉に「なんだ、このオヤジは?」と思ったものだ。ところが一回この小笹の寿司を食べると、どうしてもまた食べたくなる。すると頑固オヤジの顔が、気になら なくなるほど、小笹の寿司の味が、どうしても恋しくなる。こうなると、もはや病みつき、小笹のオヤジの魔法にかかったも同じだ。しっかりなじみになって、 所作なども覚えてしまうと、こんな居心地の良いところはない。まさにフェラーリの座席に腰掛けて、エンジンをかける瞬間のような気分になってしまう。

小笹の寿司で、珍しいものはない。ごく当たり前の江戸前の寿司である。奥にオヤジが墨で書いた 札が掛かっている。鯛、シマアジ、こはだ、車海老、タコ、シャコ、やりイカ、すみイカ、アジ、スズキ、赤貝、青柳、ハマグリ、ホタテ、ウニ、いくら、きじ 焼き等々。ネタがなくなり次第、札は返される。

ごく当たり前ということが大事だ。最近は寿司屋もプライドがなくなって、ネタに手を加えること がなくなった。卵は、玉子屋で焼いてもらい。こはだなどもよそでしめてもらう寿司屋もいるというからあきれかえる現実だ。

江戸前寿司の特徴は、ネタの良さだけではなく、そのネタに手間暇をかけて加工する職人技にあ る。例えば、昔、江戸前寿司のハマグリと言えば、しょう油で、薄味で甘辛く煮て下ごしらえをし、握りのネタに使うものだが、今ハマグリを握りネタに使う寿 司屋は少なくなった。もしも江戸前の古い形を味わいたければ、小笹に行けばよい。

さて小笹のオヤジは、ただの古典的な江戸前寿司を食させる男ではない。オヤジの才能は、古い江 戸前のネタだったアナゴを、岡田風に工夫したことだ。小笹のアナゴは、生のアナゴを煮込んで柔らかくせずに、生のまま、きつね色に焼くのである。そこに塩 と薬味を付けてそのまま食べる。これが歯ごたえが適当にあり、香りが香ばしくて絶品中の絶品だ。

この岡田のオヤジが焼くアナゴを称して「小笹のアナゴには、宇宙を感じる」と言った作家がい る。岡田のオヤジの古い仲間であった故山口瞳氏である。この一文を見て、十年ほど前「本当かよ、じゃその宇宙を食してみよう」と行ったのが、佐藤が小笹に 足を運んだきっかけである。同じようにホタテやイカのゲソを塩で焼いてもらってもこれまたうまい。この焼きの妙味こそ小笹が名店と言われる由縁である。

さて小笹の岡田さんも当年とって七四歳。結構な歳になった。今年の初めに風邪をこじらせて体調 を崩し、三ヶ月ほどお店を休業した。不思議なことに夫唱婦随のオカミさんも一緒だった。その間、奥にいる職人さんがお店を守っていたが、オヤジからは「お まえに任せたからしっかりやれと」と言ったっきり、何も言わなかったらしい。頑固だが、実にすがすがしい岡田さんらしい態度だ。

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大連から小笹まで、下北沢を三軒茶屋沿いに茶沢通りを歩いていくと、7分ほどの距離である。私 は、夕方5時半にチーフとママと大連で待ち合わせて、小笹に向かった。

のれんをくぐり、格子戸を開けると、「いらっしゃい」いつものオヤジの低い声が聞こえてきた。「佐藤さん、一人かい?」「いや今日は三 人です」すでにオヤジの前の特等席には先客が来ていた。「はい、じゃー奥に」ということで、奥に座るハメになった。

行く前に、電話を入れて置けばよかったかもしれないが、あえてそうしないことに意味がある。いつも運命はいきなり動き出すのだ。この 後、大連の伊藤さんの運命が、どう動き出すかは知らないが、これから体験する僅か二時間で味覚に対する感性が変わってしまう可能性だってある。

「飲み物はどうします?」とオカミさんが、いつもの優しい眼差しで聞いてきた。

「チーフどうしますか?ビールでいい?」

「いや、僕はだめ、お茶でいいよ」

大連のチーフ伊藤さんは、2年まえに脳の手術をしたので、酒はあまりやらなくなった。ビールが少し入っただけで、頭がふらつくことがあ るそうだ。実はこの伊藤さんの病気は、くも膜下出血で、普通なら80%は死んでしまいかねないほどの重傷だった。何とか九死に一生を得たが、医者は伊藤さ んの生還は奇跡に近いと言ったそうだ。

「白身からお願いします」と奥の職人に頼むと、皿に鯛、シマアジ、ヒラメが乗ってきた。伊藤さんの生まれは、千葉の海沿いの街である。 彼の威勢の良さと気っぷのよさは、こんな所からきている。少しずつ味を確かめながら、口に運んだ。

私は食べると、伊藤さんの顔をのぞき込みながら「どうですか?」と聞いた。

「うん、うまい」

伊藤さんの手元を見れば、小皿にあふれんばかりのしょう油がたらしてある。しまった、オヤジに注意されるぞと、思ったが後の祭りだ。ま あ目の前でなかったのがせめてもの救いだ。以前、有名な女優が「あんた、しょう油の付け方がちょっと異様だよ。もっと粋につけないと、色気がなくていけね えな。しょう油は少し、ほんの少しでいい」と散々いたぶられたのを見たことがある。このしょう油の加減も小笹の所作のひとつだ。

普段は、大きな目をぎらぎらさせながら料理をしている伊藤チーフだが、今日はニコニコと食べ続けている。オヤジは、これが同じ料理人だ ということを意識したのか、こちらに一言も話しかけずに目の前のお客の寿司を握り続けている。明らかに佐藤が連れてきた二人を意識しているようだ。

そこで今日連れてきた二人を紹介しようと「オヤジさん」と声をかけると、オヤジは「はい、今は忙しい。忙しい時は話は聞かない」とわざ と素っ気なく頑固を通す。始まりやがったな、このオヤジと思うと、なぜかおかしさが腹の底から湧いてきた。

あぶったホタテが出た。ママが急に「チーフおいしい、このホタテおいしい」と声を出した。伊藤チーフも「おお、うまいね」と感心したよ うにいった。そばで日本酒をちびちびやっていた私も「これお酒でやると最高ですよね」ときつね色に焦げたやつを口に運んだ。確かにうまい。何度食ってもう まい。

次はづけだ。づけとは、赤みをしょう油で少しの間、浸して味が程良く染み込んだものを言う。今はトロを多くの人が好むようだが、昔は赤 身が最高だった。要するに定番ってやつだ。だから小笹でもマグロの品札は掛かっていない。

「これ、絶妙だね、いいね本当に」チーフが感嘆の声を上げた。

「そのままじんわりしょう油の味を楽しむのも良いですけど、少しわさびを乗っけてもうまいですよ。やはりこの辺が江戸前の寿司の妙味か もしれませんよね。鮮度もさることながら、職人が微妙に手を加えるところが、江戸前寿司の江戸前たる由縁なんですよね」こういいながら、小笹のオヤジが、 こっちを意識しているのを大いに楽しんだのである。

いつの間にか狭いカウンターは、いっぱいになった。いっぱいになるとカウンターの後ろにある狭いテーブルでしばらく待たされることにな る。小笹の客は、通常込んでいるからと帰るような客はいない。オヤジの言われるままに、平気で肴をつまみに酒をちびちびやって待っている。

奥で食べていた中年のご夫婦がいたが、奥さんの方が、

「卵握っていただけます」とやった。端っこから、すかさずオヤジの声が響く。

「ウチじゃー卵は最後、奥さんいいかい、卵はデザートと一緒、最後だよ」

「駄目じゃないか。君は前にも、そのことでオヤジさんに叱られたでしょう」なんとその奥さんは、小笹のオヤジだけでなく、自分のオヤジ にも叱られる始末。かわいそうだが、これが小笹の所作なのである。

隣にいた伊藤さんが小声で奥さんに助け船を送る。自分の店では鬼の顔をしている伊藤さんもよその店に来ると優しくなるらしい。

「好きな時に、食べたいですよね…」と言って、にやっと微笑みかけた。その声が聞こえたのか、オヤジは、ジロリとチーフをのぞきかけ た。まずいよ、まったくまずい。私はママと顔を見合わせて、顔をしかめた。そんな心配をよそに伊藤さんは、隣の奥さんに話しかけている。

「でも奥さん、ここの寿司は最高ですね。私も料理人なんですが、どっか違いますね」まったく岡田のオヤジも現金だ。その声を聞いた瞬 間、素知らぬ顔で前の客に、

「はい何を握りますか。好きなものを言ってくださいよ」とやり始めて、どうやらもんちゃくにはならない雰囲気だ。

小笹のオヤジも豪傑だが、大連のチーフも気性が荒い。この前こんなことがあった。一人の若い女性が、五目焼きそばを食べ残して、うとう と眠りこけていると、伊藤さんは「ちょっと、お客さん。眠かったら、家に帰って眠ってくれ。こっちは、命かけて作ってんだよ。そんなところで眠られ ちゃー、たまったもんじゃない」とたたき出してしまった。何しろ伊藤さんは習志野空挺隊の出身。昔からその腕っぷしには定評がある。「大連」の壁には、修 復した跡があるが、これも生意気な客を叩きのめした時にできた名誉の穴である。

そんなことをしているウチにいよいよ、小笹のメイン穴子の生地焼きがでてきた。前にオヤジに聞いたことがある。「オヤッさん、なんで穴 子を焼いて、キジ焼きって言うんですか?」

「そりゃー、佐藤さんを、なんで佐藤さんって言うんだって、聞くようなもんだ」と言って黙ってしまった。おそらく生の穴子を生地(き じ)から焼くから生地焼きというのだろう。通常江戸前の穴子の作り方は、蒸気で蒸してから、煮るやり方で柔らかくしている。蒸す所はウナギと同じだ。そこ を天才岡田は、生地から焼く技を編み出したのだ。

2.寿 司の歴史

江戸前の寿司というものは、高々二百年ほどの伝統しかないが、元々寿司は、「酢し」と言って、 酢に浸した食べ物を言った。日本における「酢し」の起源は以外に古い。紀元905年の延喜式(えんぎしき:その時代の年中行事や制度などを書いた当時の法 律集)によれば、近江(現在の滋賀県)の住人たちが、天皇家へフナ酢しを献上した記録が残っている。どうやら現在の寿司の元祖は、琵琶湖周辺にあるフナ鮨 あたりに行き着きそうだ。フナ鮨の作り方は、フナをさばいて酢を利かせ、酢飯の上に載せる。そこに重石をかけて、しばらくすると、酢が発酵して、酸味を生 じた絶妙な風味を出す。これが京都や大阪に伝わって、バッテラなどの押し寿司となったのである。要するに、鮨という字そのものが示すように、「魚」が 「旨」くなるまでまって味わうのが、鮨である。

鮨を寿司と書くのは、もちろん後世の当て字である。昔の言葉に寿詞(ほきごと、じし、よごと等 と読む)というのがあるが、長寿を記念して言う祝詞(のりと)のごんべん(言)をとって寿司となったと言われている。現在日本人が、赤ん坊が誕生したと言 えば、鮨を食べ、老人が天寿をまっとうして亡くなったと言えば、鮨を食べるようになったのは、このような寿司にまつわる祝いの習慣が、元々日本人にあった ためかもしれない。

現在の江戸前寿司は、江戸っ子たちの気の短さから誕生したファースト・フードである。イギリス 人が、サンドイッチを編み出して、仕事をしながらでも、食べれる食物を工夫したのと同じかもしれない。江戸時代も中頃、江戸町人文化が花開いた元禄時代に は、寿司屋台のようなものが日本橋界隈にはあったようだし、粋な格好で寿司桶を肩に担ぐ、寿司売りも街を歩いていたようだ。それがお店となり、今日のよう な洗練された寿司屋となっていくのである。

そんな寿司という日本人の食文化の伝統を、守りそして発展させていく使命を持って生まれて来た のが、小笹のオヤジ岡田さんだ。彼の持つ強力な頑固さ、というものはそんなところから出ているに違いない。
 

おそらく小笹で初めてその穴子を味わう者は、「これが穴子か?」と考えてしまうはずだ。舌触り が、常識の中にある穴子とは、まるで違う。ウナギでもなく、そこらの寿司屋で食べるあの甘いだけの穴子でもない、どこにもない絶妙な味がする。しかしそれ が、いつかどこかで食べたことのあるような懐かしい味がするのだから不思議である。

小笹のオヤジさんの話では、昔からウナギというものは、大衆魚で穴子は、高級魚だったようだ。 それがいつの間にか、ウナギが高級魚化してしまって穴子の価値は落ちてしまった。そこで小笹のオヤジの岡田さんが、穴子を生地から焼くことで本来の味を引 き出したのである。

その江戸前寿司の新しい伝統を、「大連」の伊藤さんが口に入れた。

「どうですか?これが小笹のメインの穴子です」と言いながら私は、彼の表情を窺(うかが)っ た。

「…な・る・ほ・ど…」と言うが早いか、すぐにもう一切れを口に運んだ。

「ホタテもいいけど、これもおいしいね!」ママが、本当にうまいという風に、そう言った。チー フの方は、ただ黙々と食べ続けている。私はその伊藤さんの表情に、ただならぬものを感じた。おいしい物を味わっているというよりは、むしろその味と格闘し ている雰囲気なのだ。

そして急に隣のママの飲んでいたお猪口を取ると、「ちょっともらうよ」と言うが早いか、一気に 日本酒を飲み干してしまった。

「大丈夫なの?」驚いてママが、チーフの顔を覗き込んだ。

「大丈夫だよ、このくらい…」

おそらく小笹の穴子の味をかみしめているのだろう。ぬる目のお酒を一気に飲み干すと、無言で 「うん」と、うなずく仕草をした。その時、小笹のオヤジさんの視線が我々の方に向いているのを痛いほど感じて、何故か可笑しくなった。

3.自 分のを創る

小笹で勘定を済ませて、外に出ると、チーフの伊藤さんは、ママを置き去りにして、一人で遙か向 こうを歩いている。小笹ののれんの前で待っていたママが深々と頭を下げて言った。

「佐藤さん、今日はどうもありがとうございました。高かったでしょう?」

「いやとんでもないですよ。チーフによろしく言ってください。今日の小笹のオヤジさん、少しテ ンションが高かったですね。やはりチーフが来たんで、何かしら感じるものがあったんじゃーないですかね?今度は、是非二人で行ってみてください」

「そうですね。今日は本当にすいませんでした。うちのチーフもあの通り頑固なものですから、佐 藤さんにもずいぶん気を使わせてしまいました」

ふと見ると、チーフの姿は、霧で煙った闇に消えていた。
 

さて数日後、「大連」に行った。

すぐにママが出てきて「チーフ、佐藤さんが見えましたよ」と厨房のチーフに向かって言った。

「やーどうも佐藤さん、この前は、すっかりごちそうになってどうも」とやたらニヤニヤしてい る。よっぽど小笹の味が、いい意味で刺激になったのか、どうやらチーフは元気になったようだ。以前、新宿の中華料理シェンロンの味にがっかりしていたのと 大違いの表情だった。

「どうでしたか?何か感じるものはありましたか?」

「いやーあのオヤジも変わってるね。俺がごちそうさんって挨拶して、出ようとしたら、よそを向 いて、これだよ。(プイと顔を背けて)ありゃー普通じゃない。頑固の固まりだ。参ったね」と言葉は、小笹のオヤジへの文句だが、目が笑っている。おそらく 岡田さんという一人の頑固な料理人に大いに触発される何かがあったようだ。

「あれが小笹の商売のやり方なんですよ。最初は、私も何だこのオヤジ、という感じでしたが、二 回、三回と通っているうちに、すっかり病みつきになってしまうんですよ」

「それにしても、あのオヤジの態度は、頭にくるね。でもね佐藤さん、あの後、小笹の味を盗んだ からね。今度来たらあれと同じ穴子作ってごちそうしますよ」

横からママが話に入ってきた。

「いや、あの後、チーフが穴子とホタテを買ってこいって、言ってね、散々作って食べたのよ」

「どうでした?味の方は?」

「それが結構おいしかったわよ。穴子もだけどホタテもおいしかった」

可笑しくなった。小笹でチーフが深刻な表情をしていたのは、あの味を盗もうと、神経を集中して いたせいだったようだ。これだから職人は油断にならない。

「佐藤さん、ホント来る前に言ってよ。同じ味出してみせるから」

「そうですか、ただチーフ味については、シビアに言わせてもらいますよ」

「望むところですよ。あのオヤジには、絶対負けませんよ!」

この言葉が聞きたかった。ついにチーフは「負けたくない」という青臭い言葉を吐いた。さすが は、「大連」の伊藤さんだけのことはある。普通なら、あの穴子を味わってショックを受けていると思いきや、元気になっている。それもとびきりテンションが 高くなっているではないか。

「チーフ、どうですか、小笹のオヤジさんは、今年74歳ですよ。舌が衰えるどころか、あのオヤ ジの作るものはますますすごくなっています。どの分野でもそうだと思うんですが、あるレベルのところまで行った人にとって、年齢なんて、関係なくなるんで すよね」

「確かにそれはあるようですね」

「例えば、黒沢明だって、80歳を越えて「乱」という代表作を撮っていますよね。また北斎は、 90歳を越えてから、70歳前の自分の作品なんて、全然つまらない。もしこのまま歳をとって100歳を越えたら、鳥は、そのまま飛びだして来るように見 え、山や川は、本当にそこにあるように描くことができるようになるはずだ、というようなことを言っています。要するに歳を重ねることはすばらしいことなん です。チーフ目標を持ってください。もっと高い目標を持ってください。日本の中華料理の味を変えてやるくらいの強い目標を持ってください。杜さんだの陳健 一だの周冨徳、そんな小さな目標ではなく、伊藤茂という自分だけが到達できる高い山を目指してくださいよ」

「自分だけの山か!いい言葉だね」

「そうです。チーフ、はっきり言わせてもらいますよ。チーフと小笹の岡田さんの違いは、目標の 違いなんです。しかしその目標の違いが、最後にはとてつもない違いになってしまうのです。あの74歳の岡田さんは、いつからかは、知りませんが、江戸前寿 司というものを自分なりに背負う覚悟をした。そしていつの間にか、誰もがマネのできない自分だけの「小笹の寿司」という世界を持ってしまったのです。それ はもう単なる食物というものを越えて、文化や芸術のレベルまで到達しているすごいものです。

「あのオヤジは、つまり芸術家って訳か?」

「そうですね。チーフも、今すぐ心を決めて、目標さえ定まれば、『大連の世界』というようなも のが創造できるはずです」

「ずばり、佐藤さんは、俺にも味の芸術家にでもなれとでも言うのかい?俺に、そんな才能あるの かなあ?」

「何を気の弱いこと言ってるんですか。さっき小笹のオヤジには、負けないよ、と言ったじゃない ですか!気持ち一つですよ。大体才能もない人に、私がこんなこと言うと思いますか」

「…」

「じゃーそのことを証明して見せますよ。チーフ、では何故、あなたが、くも膜下出血という大病 を患いながら、奇跡的に一命を取り留めたのですか」

「それは運がよかったということですよ」

「違います。ただ運が良かっただけではありません。それはチーフが、まどこの世にあってやり残 したことをやってきなさい、という神様の愛情だとは思いませんか?」

「神様の愛情?」

「そうです。あんな大病をして、味覚が変わらず、鍋が振れるというのは、チーフがこの世での使 命を果たすまでは、来るな、という天の意志が働いているのです」

「そんなもんかなあ…」

「あのタケシだって、バイクで死に損なってから、映画監督として、本当に注目されるようになっ たでしょう。死の淵から還ってきて、本当にすごい仕事をするようになる人って多いんですよね。まあ私はタケシの映画なんて認めませんけどね」

そんな会話をした後、何気なく作ってくれた海老シュウマイを久々に口に入れた。口いっぱいに海 老の甘みが広がった。やはりチーフの作り出す味は、本物だ。素直にそう思った。

「チーフ、やっぱりチーフのつくる海老シュウマイは最高ですね。穴子は小笹の岡田さんに任せ て、チーフはチーフで、自分の味の世界を作ってくださいよ。味は個性と言うでしょう」

しばらく間を置いて「佐藤さん、わかった。…俺の人生がわかった。俺はあのオヤジには負けない よ。冗談じゃない」(終わり)
 

以上「小笹寿司」と「中華大連」について書いてきた。もちろんそれぞれの店には、店主なりの考 え方があり、商売の仕方というものがある。違っていても当然だ。しかし商売というものには、絶対に変わらない「商売繁盛の法則」というものがある。それはズバリ「個性」ということだ。

どんな評判のいい店でも、時代を超越するぐらいの強烈で絶対的な個性がなければ、永く存続し続 けることは難しい。流行に乗って一時的に繁盛したように見えても個性がなければ、たちまちのうちに廃れてしまうのがおちである。

個性。それは食に関する商売で言えば、そ の店でしか味わうことのできない味である

(佐藤 弘弥記)


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1998.10.21