衣川絶唱


ー 西行が愛した冬の衣川岸辺の風景ー

衣川の冬

衣 川の冬

(佐藤弘弥 2003年12月31日撮影)


  衣川の冬は厳しい。衣川は敵味方を分かつ川だ。ある人が中尊寺との間に おいて、たった10mほどに狭まるこの川を「ヨルダン川のようだ」と表したことがある。

中東にあるヨルダン川もまたパレスチナとイスラエルを分ける7mほどの小さな川だ。しかしこの川をどれほどの人の血が流れ落ちたことだろう。

衣川の冬の静寂さは特別だ。衣川は西行ら歌人たちの憧れの地だ。敵味方を分かつこの地が、何故歌人たちの郷愁を誘ったのか。

拾遺集の恋の部にこんな歌がある。

袂 (たもと)より落(をつ)るなみだはみちのくのころも川とぞいうべかりける よみ人しらず


古より、衣川は戦場だった。だからこの歌は、戦の悲しみを恋の歌に代えて歌ったもののようにも思える。

そう言えば、奥州の雄「安倍貞任」と京の雄「源義家」が最後に交わした歌問答も、また恋の歌のようでもある。

前九年の役(1051ー1062)と呼ばれる合戦の最後の局面で、衣川を馬で北へ敗走する宿敵貞任に向かい、義家は、大声で「衣のたて(館)はほころびに けり」と叫んだ。すると、後ろを振り向いた貞任は、不敵な笑みを浮かべながら「年を経し糸の乱れの苦しさに」と声を返した。

これは、義家の発した「衣のたて(館)はほころびにけり」を下の句(7・7)と見て、即座に「衣のたて(館)はほころびにけり」上の句(5・7・5)を返 したものである。

それほどの阿吽の呼吸が、この二人にはあった。まさに好敵手と呼ぶべき二人だった。

この二人の即興の歌を恋の歌として解してみれば、どのようになるだろう。

年 を経し糸の乱れの苦しさに 衣のたて(館)はほころびにけり

この「糸」は、衣に係る言葉だが、「意図」とも解釈できる。男女の仲というものは、恋が燃え上がっている時は、一瞬で、それぞれの意図・思惑が交錯して、 心が別々の方向に行きがちなものだ。戦後、小説家の野坂昭如が、野太い声で、ぼそぼそと歌った歌謡曲に「黒の舟歌」がある。確かこんな歌詞ではなかった か。

「男と女の間には深くて暗い川がある。それでもやっぱり会いたくて、やんやこら今夜も舟を出す・・・」

奥州の貞任と京都の義家、それは戦の最中で、互いの力量を認め合いながら、反目し合う恋人のようでもある。

確かに、奥州と京都の意図、もっと言えば、よって立つアイデンティティがまったく違う。奥州はこの頃も、さしずめ京都の公家の支配を撥ね付ける独立国の様 相だった。

それに対し、京都の権力は、地政学的にも、それから金を算出して軍事力を強化していた奥州の雄安倍氏に対し、為す術がなかった。また奥州の列島を挟んで西 側になる出羽の地域には、清原氏という大豪族が、これまた強大な武力を抱えて対峙していた。

結局、再三何年にも渡る攻防で、辛酸を舐めた源頼義を総大将とする京都軍源氏方は、この出羽の清原氏を担いで、安倍氏の強大な軍事力と戦い、ついに衣川の 館を攻略することができたのであった。

それから100年の歳月が流れ、ひとりの青年僧が、衣川の攻防を思いながら、冬の衣川に立つ姿があった。名を西行法師という。元の名を佐藤義清(さとうの りきよ)と言った。京都の院の御所を警護する北面の武士の要職に付きながら、道ならぬ恋に身を焦がして、若くして出家の道を選んだとされる人物だ。

先の貞任と義家のことを思いながら、

とりわけて心も滲みて冴えそ渡る衣川見に来たる今日しも

と詠んだ。私はこの歌の、「とりわけ」を「殊更」という意味を含みながら、ふたつの陣営(奥州と京都)がこの衣川を境にして相争っていたことを指して「取 り分けて」と詠んだのではないかと解釈する。さらにこの歌には、若い頃に、初めて奥州に来た時の、寒々とした情景を見た時の歌という説と、老人となり、二 度目に奥州に来た時の感慨を詠ったとする説がある。

二度目の時は、この地にあの義家の末裔である源義経が、奥州藤原氏に匿われていた。おそらく、この時西行と義経は、何らかの形で会い言葉を交わしているは ずなのである。

このことを感じさせる西行の歌がある。

西行は、追放された僧侶ということで、長い詞書きのあるこんな歌を遺している。

奈良の僧、とがのことによりて、あまた陸奥國へ遣はされし に、中尊寺と申す所にまかりあひて、都の物語すれば、涙ながす、いとあはれなり。かかることは、かたきことなり、命あらば物がたりにもせむと申して、遠國 述懐と申すことをよみ侍りしに、

涙 をば衣川にぞ流しつるふるき都をおもひ出でつつ 

西行は、「奈良の僧」と断っているが、私はこの僧が義経の可能性があると考える。罪科(つみとが)で中尊寺に流されたとある。義経は奈良の吉野山から姿を 消して奥州に逃れて来ているから、西行は誰かが、後の世にこの歌が義経のことを詠ったものであることを知らせるために、奈良の僧という言葉を敢えて入れた 可能性がある。また都での物語を語って涙を流した僧で、しかも西行は、この物語にを、「かたきこと」としている。(これには別の本もあり「ありがたきこ と」と「あり」を入れているものがある。この場合は「あってはならないこと」と解される。)「敵こと」とは「恨み言」のことである。もっと言えば、これは 義経の兄頼朝に対する恨み言を聞き、感銘した西行は、いつかこれを物語に書こうとまで、思ったのである。西行をしてそれほどに思わせる人間というものは、 それほどいないはずで、やはりこれを義経と会った際の述懐の歌とする説はかなり有力だと思うのである。

それから、まもなく義経は、奥州藤原氏を名君藤原秀衡を継いだ泰衡により暗殺されてしまう(1189)のである。そして義経の最後はこの衣川の袂にあった とされる衣川の館であった。西行は、そのことを予期しているかのように、冴え渡る冬の衣川のを見ながら、先の歌を詠ったに違いない。それにしても冬の衣川 は神々しいほどの美しさがある。


2007.12.19 佐藤弘弥

義経伝説
思いつきエッセイ