中尊寺 金色堂の夏

中尊寺 金色堂
(07年8月13日 佐藤弘弥撮影)

金色の寺に詣でて清衡 の祈り触れねば行くも意味もなし ひろや


2007年夏 中尊寺の写真スケッチ

中尊寺 の夏 

中尊寺供養願文と世界遺産の精神
中尊寺蓮 蓮田

中 尊寺蓮 蓮田
(07年8月13日 佐藤弘弥撮影)

8月13日、猛暑の中、平泉中尊寺に向かった。さすが、お盆とあって、中尊寺には多くの人が見えていた。意外に若い人が多いことに気がついた。境内を歩き ながら、中尊寺がこの地に建てれてから、この方ずっとこの地に存立し続けていることを思った。


中尊寺が創建されたのは、寺伝によれば、嘉祥3年(850)慈覚大師円仁(794−864)によって開基された寺である。当時は弘台寿院(こうだいじゅい ん)と呼ばれていたが、その後、貞観元年(859)清和天皇の勅によって、中尊寺の字号を賜ったとされる東北随一の古刹である。山号の関山(かんざん) は、かつて平安の頃より、関所が設けられていて、そのことから関の山が、山号として残ったものと思われる。

弁天堂

弁財天堂
(07年8月13日 佐藤弘弥撮影)

さて「関」と言えば聞こえは良いが、この東北の地に視点を落としてみれば、別の思考が生まれてくる。この地は、奈良や平安の権力者からは、蝦夷(えみし) と侮蔑の言葉で呼ばれていた先住民族の土地だった。

しかしある日、この地に黄金が発見されたことをきっかけに状況は一変する。聖武天皇(在位:724-749)の時代のことだ。さながら、ゴールド・ラッ シュの様相ではなかったか。軍事力に勝る大和権力は、形振り構わぬ奥州への侵略行為を続けてきた。

桓武帝(在位:781−806)の時代に、京都平安京に都を遷都(794)し、黄金の産出する東北はいよいよ是が非でも領土とすべき土地となったのであ る。朝廷方は、北へ北へと領土を拡大し、関というよりも国境線とも言うべき地域が、東北で言えば、白河、多賀城、伊治城(栗原)、平泉、というように移っ てきたものである。

芭蕉の奥の細道の記述にも、「まず高館にのぼれば、北上川南部より流るる大河なり。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落ちいる。泰衡等が旧跡 は、衣が関を隔てて、南部口をさし堅め、夷(えぞ)をふせぐとみえたり」とある。

つまりこの中尊寺のあったところは、1200年以上も前から、先住民族と朝廷方が対峙してきた紛争地帯だった。

芭蕉翁銅像前

芭蕉翁銅像前
(07年8月13日 佐藤弘弥撮影)

今から920年前、藤原清衡は、図らずも前九年・後三年の役(1051−1087)と呼ばれるふたつの戦争の最後の勝利者となった。彼は蝦夷の血を引く安 倍氏と平安貴族である藤原北家藤原秀郷の流れを汲む混血児である。仏教に深く帰依していた清衡は、東北を舞台に延々と36年間もこの周辺で続いた戦禍を憂 い、二度と戦争が、起きないようにとの願いを込めて、この中尊寺を再興した。

清衡が起草させた「中尊寺落慶供養願文」には、そんな清衡の強い非戦へのメッセージがある。

その中に、鐘樓を建て、大きな釣り鐘を懸けたことの意図を次のように語る。

この鐘の一音が及ぶ所は、世界のあらゆる 所に響き渡り、苦しみを抜き、楽を与え、生きるものすべてのものにあまねく平等に響くのです。(奥州の地では)官軍の兵に限らず、エミシの兵によらず、古 来より多くの者の命が失われました。それだけではありません。毛を持つ獣、羽ばたく鳥、鱗を持つ魚も数限りなく殺されて来ました。命あるものたちの御霊 は、今あの世に消え去り、骨も朽ち、それでも奥州の土塊となっておりますが、この鐘を打ち鳴らす度に、罪もなく命を奪われしものたちの御霊を慰め、極楽浄 土に導きたいと願うものであります。」(現代語訳佐藤弘弥)

実際、この戦争において、清衡自身は、その目前で愛妻と子どもたちが、焼き殺されるという悲惨な目に遭っている。この戦争は、軍記物の先駆けといわれる 「陸奥話記」や「前九年合戦絵詞」や「後三年合戦絵詞」のような絵巻として、語り継がれてきた。


白山神社 能楽殿

白山神社 能楽殿
(07年8月13日 佐藤弘弥撮影)

しかし一向に戦争というものは、無くならない。それどころか、武器の進歩は、地球そのものを死の惑星としかねないほどにまで、エスカレートしているのであ る。

7年前、平泉が世界遺産の候補としてノミネートされたとの報に接した時、すぐに先の清衡起草の「中尊寺落慶供養願文」を思い出した。それは、この願文その ものが、ユネスコ憲章の前文にある「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」という言葉の先駆けで あると強く感じたからだ。

さらに言うなら、平泉は、ジュネーブ条約(1949年)第一議定書に規定された「無防備都市」の先駆けのような都市として建設された可能性がある。

この条約は戦闘に加わらない住民の保護、戦争に於ける戦病者の保護・捕虜の取り扱いなどを定めている条約だ。同時に、無防備都市とは、すべての戦闘員なら びに移動兵器・移動軍用機材が撤去されていること、当事者または住民によって敵対行為がなされていない地域を指すのである。

弁天池

弁天池
(07年8月13日 佐藤弘弥撮影)


確かに、中尊寺のある都市平泉は、清衡の願文での誓い以来、人間はおろか生き物を殺傷してはならない聖地(非戦闘地域=一種のサンクチュアリ)となったと 思われる。そのためか、義経が泰衡によって襲われ、自害したのも、衣川館であった。また泰衡は、中尊寺のある平泉の寺院に戦禍が及ばないように、北の地に 逃亡を計っている。また平泉地域内においては、頼朝の鎌倉軍が侵攻して来た時にも、一切の抵抗はなく、戦闘行為は行われなかったのである。

今後、中尊寺落慶供養願文から浮かび上がってくる恒久平和を祈念して建都された都市平泉の全容が、考古学や歴史学の進歩によって、解明されていくはずだ。 その時、全世界の人々は、藤原清衡(1056ー1128)という人物が実は、非戦の誓いを900年以上も前に行って、この都市を築いたと知って、その先取 の精神に驚くに違いない。

大池蓮

大池蓮
(07年8月13日 佐藤弘弥撮影)



中尊寺の帰り路、金色堂と讃衡蔵(さんこうぞう:宝物館)の間を下って、もう盛りを過ぎた感のある中尊寺蓮と大池蓮を見ながら山を下った。

中尊寺蓮とは、数年前に、金色堂に納められた泰衡の首桶と呼ばれるものから見つかった古代蓮の種が800数年振りに発芽して咲いている奇跡の蓮だ。また大 池蓮は、かつてこの地に掘られていた大池の発掘調査で、見つかった古代蓮の種がやはり発芽して、年々増えているものである。

平和を祈念して建立された関山中尊寺にまた新たな伝説が加わったことになる。現在世界中で、暴力と戦争の脅威が、依然として猛威をふるっている。それだけ に、平泉の地が、一日も早く世界遺産となり、世界中の人々が、関山中尊寺にやってきて、清衡の祈りに触れ、人類の永遠の夢である恒久平和が一日も早く実現 される日が来ることを、共に祈りたいものだ。(佐藤弘弥記)


2007.8.17 佐藤弘弥

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