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金色堂建立の謎?!

−世の中謎があるからよい−


 エジプトのピラミッドが、何のために造られたのかは永遠の謎である。古代エジプトが学問として取り上げられた当初、それは王の権威を示すモニュメントとしての墓であると思われていた。それが研究が進むにつれて、どうやら墓としての機能は、王家の谷と言われる別の場所にあり、ピラミッドには、別の宗教的な役割があったのではないか、と言われるようになってきた。また最近では、当時の古代エジプト社会を支える公共事業としての役割があって、エジプトの民衆に仕事を与え、資本を国の内外に広めるような機能を果たしていたのではという考え方も提示されるに到っている。でも仮説は仮説であって、エジプトのピラミッドに纏わる謎は、深まる一方である。

でも、謎は、謎だからいい。という考え方もある。心霊現象が科学的に解明され、火の玉の正体が、燐が燃えるだけとか、プラズマ現象として、簡単に片づけられた場合には、世も末だ。何故なら、世の中に謎というものがあるからこそ、そこに定かならぬもの(謎)に対する畏敬というものが生じて、神や仏に対する感謝も生まれてくる。神や仏という表現が嫌であれば、「自然」という言い方でもよい。とにかくこの世から一切の謎が消えて、すべてが解読可能な物理現象と解釈された時のことを考えると、私は幽霊に遭うよりもよりもっとぞっとする思いがするのである。

平泉の中尊寺にある金色堂も謎の建築物だ。金色堂は、三間四方に収まるような小さな御堂(巾5m50cm四方、高さは8mほど)ではあるが、何しろ皆金色(かいこんじき)と言われるような豪奢な建物である。そのようなものを奥州の人間が九百年近くも前に建立したのである。本来、堂の須弥壇中央に阿弥陀仏が安置されていることから阿弥陀堂とされているが、奥州藤原氏三代の御遺体ををミイラ処理(?)して須弥壇の下に収めていることもあり、葬廟(霊屋)の役割も果たしている。いったいどちらに重きを置いて造くられたのかは、はっきり分かっていない。永遠の謎と言ってもいいかも知れぬ。しかも中尊寺の他のすべての建物が、火災によって焼失してしまった中で、ひとりこの金色堂だけは、奇跡的に延焼を免れ、数多くの修復を繰り返えされながらも、見事なまでの輝きを保ちながら、今もって我々の前にその圧倒的な迫力をもって迫ってくるのだ。これもまた実に不可解な事実ではないか。

周知のように金色堂を建築した人物は、奥州藤原氏初代藤原清衡公(1056−1128)である。古代の奥州の政治的混乱(1183−1187:後三年の役と云う)を源義家公の援助の下に収束に導びいた武将だ。彼は自らを「俘囚の上頭」(ふしゅうのじょうとう:大和朝廷に従った安倍一族の血を受け継ぐ者のトップほどの意味)であることを、はっきりと公言するようなざっくばらんな人柄を持っていたようだ。

金色堂は、皆金色といわれるように、堂全体が目映いほどの金箔で覆われた文字通りの黄金の堂である。この堂に入って誰もが思うことは、「何だのこれはいったい」という得体も知れないような圧倒的な荘厳な雰囲気に包まれていることだ。

ある人物は、この金色堂に初めて足を踏み入れた時の印象をこのように語った。
「これは所謂日本人の感覚ではない。エジプトの王家の谷で見いだされたツタンカーメンの黄金文化に通じる感性が感じられる。」と。
哲学者梅原猛もこの金色堂に入って、日本文化の奥の深さのようなもの。を感じると語った。
画家の岡本太郎は、「これこそが、縄文文化だ」と興奮して語った。

皆一様に思うことは、それまでの日本文化として考えられた来た既成概念の枠をはみ出した感性がこの建物を造った清衡公の頭の中にはあったということだ。もちろん東北は、日本で初めて金を産出した土地であり、それが奈良東大寺の大仏建立には使用されたのであった。

以後黄金の地奥州は、遠い奈良と京都の為政者にとって、黄金を搾取するためには是が非でも服従を強いる必要があった。ところが奥州の民は、執拗に南から侵入してくる征服者を簡単に「はいさようですか」と従うようなことはしなかった。

奥州の民は、常に南から来る連中の中に味方となり得る者を見いだし、それと血脈を通じることで、独自の奥州文化を形成してきたのである。そんな最初の味方となったのが安倍氏一族であり、彼らは記紀で語られる遠い古代に都を追われてきた一族が、奥州の土着の長(おさ)の娘を嫁にとって、安倍氏を一族を形成した連中である。また出羽方面で一族を成した清原氏についても同じことが言えるでだろう。奥州は、このようにして、国家とは言えないまでも、部族的な結びつきを持って、大和朝廷側の執拗な攻撃に耐えてきたのである。

まさに奥州の古代史は、黄金をめぐって繰り広げられた侵略の歴史である。清衡公は、このような歴史に一定の決着を付けたかったに違いない。多くの人が戦によって、亡くなり、そんな戦没者を弔い、戦乱の世が二度と起きないようにする気持ち込めて、中尊寺興し、金色堂を建立したのである。

金色堂は、清衡公が、69才頃の1124年に建てられ始めたとされる。そして遅くとも5年後の1128年には金色堂は完成し、同年3月24日、考えられないような盛大さで、落成式が執り行われたのであろう。そこで発表されたのが、「中尊寺供養願文」と言われる清衡公の祈りを込めた供養の言葉である。

ここで、清衡公は、
「自分は国家の安泰を偏に守りたいとの一心で、この寺を建てた。私の血を辿れば、蝦夷と呼ばれた者に連なる。多くの戦いがあったが、自分はこうして運良く戦の無き世に生まれて、生き長らえ、誤って「俘囚の上頭」の地位にいる者である。自分の代になり、平和が30余年も続いたのは、天恩のお陰である・・・」と切々言葉を続ける。さてこの「天恩」が、京都の朝廷を差すようには、説明できると思うが、私はこれを仏への感謝あるいは帰依の気持ちとして考えて良いのではないかと思う。つまり「国家の安泰を偏に守りたいとの一心」とあり、一見京都政権に恭順の意を示しているようにするのは、表向きのことであり、彼の真意(心)は、まさに「天上」にあったと解すべきであろう。その証拠といっては少し語弊があるかもしれないが、願文の原文において、彼は自らを「弟子」と称している。これは言葉の慣用からして「仏弟子」以外には考えられない。

そして最後に、
「財政をなげうち、占いによって、この平泉の地を選び、様々な御堂を建て、黄金を冶いて仏教というものの表現したのである。今ここに私のすべてを捧げ、お祈り申し上げます・・・」と語るのである。まさに清衡公という人物の心からの「祈り」である。この日からわずか4ヶ月後の7月17日、清衡公は亡くなった。享年73才(?)であった。死後、清衡公には、ミイラ処理(?)が施され、金色堂須弥壇の下に葬られたのである。

中尊寺金色堂は、初めから、自分の死後に眠る場所として構想されたものか、どうかは謎である・・・。が、我々は、先の「供養願文」の言葉から、清衡公の恒久平和への祈りと仏への帰依と感謝の気持ちに一点の曇りが無いことを思えば、その謎が解けそうに思えるのだが、どうであろうか・・・。佐藤



 史料
中尊寺供養願文 (原文と読み下し)

 


2001.8.21

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