「志し」を継ぐということ

−千葉光男氏に−


 
2002年5月25日の夕暮れ時に、千葉光男翁(87才)を沼倉の里、木鉢(きばち)の自宅に訪ねた。その時、翁は夕食の晩酌を済ませた後のようで、少々赤い顔をされていたが、玄関に顔を出されて、私をいぶかるように見て云われた。 
「どなたですか。私は最近、人の顔を分からなくなったような有様で、申し訳ねえがす」と云われた。 

翁は、目が悪い上、最近とみに難聴が進んでいるらしい。耳元に近寄って、 
「佐藤弘弥です。どうも突然、お邪魔しまして申し訳ねえがす」と云うと、びっくりしたようにして、私の手を取って、 

「ああ、弘弥さんが、良く来てくれましたね。あんだは私の若い友人だ。さあ、上がってけらいん」と云われた。 

おみやげと一緒にJRのPR雑誌「トランヴェール」5月号が「宮本常一特集」だったので、お持ちした。 

その本の中の年譜の部分に昭和三十年に宮城県の栗駒町に訪問したことが載っていたので、指を指しながら、 

「光男さん、是非、”栗駒の宮本常一”という一文まとめて呉れませんか?」とペンで筆記すると、 

「いや、最近記憶も悪くなってっしょ。書けね。駄目だ。」と云われた。 

翁の側には、ひ孫の男子が、スヤスヤと眠っている。氏は、ひ孫を気遣いながら、 

「ほんでは待ってでけろ。資料でも探して来るから」と自室に行かれた。 

窓の外を見れば、沼倉の判官森の上にぽっかりと満月が顔を覗かせている。実に美しい夏の月であった。 

やがて、翁はノートのようなものと私信などを手にされて出てきた。 

「こんな物しか、ねえげっと、持っていって参考になれば使って下さい。」と云われた。 

「いや、お預かりさせていただきます。ではこれで失礼します」と私が言うと、 
「もう、帰るのすか?弘弥さん。ありがとうね。俺にとっては、宮本常一さんとお会いした事とアンダどお会いしたことは、大きな誇りであり、宝だ。」と再び私の手を強く握られた。 

私はその時、単なる資料というよりは、何かしら、大切な翁の心のようなものを預かった気がした。 

翁は、「栗駒村誌」を書かれた恩師菅原巳之吉翁について、私が「菅原巳之吉村長は、どんな人でしたか?」と聞くと、

「あの人は大変「凛とした人で、実は些細な事で、喧嘩したのさな。その後で『お前は面白い奴だな』と云って目をかげて呉れだのだ」と云われた。 

そのようにして、師から師へ伝わってきた栗駒という里村の魂が営々として引き継がれて来たのだ、と実感した。 

時間にすれば僅か、12、3分のことであろう。しかし私にとっては永遠に忘れ得ぬ故郷の満月と千葉光男翁であった。

千葉光男翁に捧げる四首

託されし「噺ノオト」を沼倉の里の心と思へば重し
満面に笑みを浮かべて「我が友」と手を握りくる翁を忘れじ 
笑み浮かぶ翁の背後にまん丸の満月見ゑて円光のよふ
栗駒の歴史を知りし翁の許訪ねし宵に満月の浮く

 


2002.5.23
 

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