心に花をもつこと
毛越寺大泉が池は私の心の花



毛越寺大泉が 池

(2006年5月6日 佐藤信行撮影)
 

人は誰も心のなかに美しい花を持っている。花とは、ふるさとの懐かしい景色であり、母 の笑顔であり、父の怒った顔である。そして一緒にいたずらをした友や おっかない先生などである。長編小説にもたとえられる人生にとって、心に残った花は掛け替えのない思い出であり、宝物である。

私にとって、ふるさと毛越寺の大泉が池は、心に咲いた花である。ここに来ると妙に心が澄んで透明になる。静かに自分の鼓動が聞こえてくる。どんな日でも、 大泉が池は、たとえようもなく美しい。嵐がきて豪雨が激しく水面を打ち付けようと、強風が木々を根こそぎに持って行こうとしても、大泉が池は、ただ沈黙し たまま、その場に留まってじっとしている。

何故こんなに美しいのか。そんなことを考えたことがある。それはおそらく、この大泉が池を構想した奥州藤原氏初代清衡とその息子基衡の思いが込められてい るからだと思った。その思いとは、かつて30年以上に及ぶ戦禍に見舞われた奥州が、やがて平和が訪れ、二度と戦争を起こさないとの非戦の誓いであり、また 戦禍によって亡くなった数え切れない人々、鳥獣、魚、虫、木、草にいたるまで、あらゆる生命の魂を極楽浄土に送ってやろうとの願いのことである。

毛越寺のある平泉は、そのようにして開かれた楽土であった。ここを訪れた人々が、「ここは極楽浄土だ」と思わせるために、この池は形が整えられ、舟も浮か べられた。中島には湾曲した朱色の橋がかけられ、人々は大門をくぐった途端に、極楽浄土の景色を拝むことができたのである。

しかし当時あったすべての伽藍は今はない。あるのは、大泉が池と借景である塔山と金鶏山だけである。しかし私にはそれで十分だ。むしろ私の脳裏に浮かぶ創 建当時の毛越寺のイメージこそが花なのである。

現代が満たされた世の中で、望めばすべてが商品として買うことができる。少し前、健在だった毛越寺の故藤里貫主は、私に言われたことがある。「佐藤さん。 今の世の中は、お金の時代と呼ばれていて、おそらく50億もあれば、この毛越寺の失われた伽藍すべてを再建できるかもしれません。しかし心のないものは、 ただの箱です。祈りがあるから、寺は美しいのです。だからいつも良い心を持って、良いことをしてください・・・」

祈りのないものは、生きた花ではない。造花の花である。生きた花と造花も見分けられない世の中である。私にとって、藤里貫主は、心の師であり花である。何 か私が悪いことを考えるものならば、たちまちその花は、鬼の形相となって、「良い思念をもって良い行いをしなさい」とたしなめてくれる。モラルハザードが 叫ばれ、親が子を虐待して殺害までする世の中である。美しい花が失われた社会において、心に美しい花をもつことがいかに大切か、そんなことを思うのであ る。

「こころある人みな花を持つべし」と諭してくれし人を忘れず


2006.5.12 Hsato

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