記憶の曖昧さ

 

最新の学説によれば記憶というものは変化するモノらしい。遠い記憶も、自分の都合に合うように加工され、再構築される、という説がでてきている。要するに我々の記憶は、誰の記憶であっても曖昧で混乱に満ちているということになる。今でも我々の頭の中では、勝手に記憶が作り替えられているのだ。

人間の記憶が、自分の都合のいいように瞬間に変わっていくということを、見事に表した映画がある。黒沢明の「羅生門」という世界映画史上の傑作が、それである。この映画のテーマは人間の記憶というものの曖昧さと不確かさである。この映画は、芥川龍之介の小説「藪の中」(やぶのなか)を脚色したものであり、芥川自身も、中世の世間話を集めた古典の「今昔物語」からあらすじを拝借している。

話の筋は、山の中で、妻を連れた一人の武士が旅の途中で殺され、やがて犯人と目される盗賊の男が捕まるところから始まる。やがて裁判が始まり、発見者のキコリ、僧侶、殺された武士の妻、犯人と目される盗賊、そして巫女の口を借りて殺された武士が、次々と、自分の記憶をもとに自分なりに真実と、おぼしき事実を、裁判官に語っていくのである。しかしそれで、ますます真実が藪のなかのように曖昧になってしまうのである。興味のある人は、ぜひこのビデオを見て下さい。

学校で習う日本の歴史というものがある。これだって時の支配者が勝手に自分の都合のいいように歴史を解釈し、記憶を変化させた結果にすぎないのだ。古事記や日本書紀が成立したのは西暦700年前後であり、人間の曖昧な記憶を頼りに書かれた戯言(たわごと)にすぎない。だから日本の始まりは、テキ屋の寅さんが言いように「ヤマト朝廷」などでは絶対にないのである。

このように記憶とは、元々曖昧なモノであり、自分に都合の良いすり替えにすぎない。極端に言えば、100人いれば100通りの真実がある。そしてそれらの記憶の全てには、自分勝手な解釈が入っている。そうだとすれば人は、正確な記憶を、記録として残す手だてを考えなければならないことになる。

私自身も、最近つくづくと、自分が自分の記憶というものを信じすぎていることに気付いた。それは自分の子供時代の記憶なのだが、高校受験の発表の日に、緊張したのか、自分の部屋で布団をかぶって寝ていたと、おばさんに指摘されたことだ。それが自分の記憶にはまったくない。もしかしたら、おばさん自身の記憶違いかもしれない。私自身の性格からしても、そんなことでビビるなんて考えられないのだ。しかし今では真実を検証する手段はない。まさに真実は、藪の中なのである。でも言われてみれば、そんなこともあったかもしれないと思うようになった。要するに私も、過去の記憶が曖昧なのである。

人の記憶も、自分の記憶も、簡単に信じていたら、とんでもないことになる。元々記憶とは曖昧なモノである。だからこそ我々は記憶ではなく、記録に頼らなければならないのだ。だから大切な事はきちんとメモをとることをすすめたい。

佐藤
 


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1997.8.7