きのこを食して山の神を宿すということ
きのこ名人と言われるほどきのこ好きの兄が栗駒山で採った珍しいきのこを送ってきた。
そのきのこを連日、鍋、お吸い物と食しながら、ふと栗駒山の山の神が体に宿ったようなふしぎな感覚に満たされたのである。何故か、この感覚は大事だと直観
した。
私たちは毎日、生まれてから死ぬまでの間、他の命を食することで自らの命をつないでいる。世界では、宗教宗派の如何を問わず、食べるという有り難い時間の
前に、感謝を捧げる習慣がある。ひとつひとつ食べ物となった命たちには、気の遠くなるようなそれぞれ独自の命の日記とも言えるようなDNAの二重らせんが
内包されているのだ。
人間は今たまたま地球上の生態系の頂点にあることで、あらゆる命を食すことができる立場にある。もしも仮に他の生命体が、人間の進化を上回って、極限の高
等生物になったら、逆に人間は、彼らの食の対象になる可能性だってある。
だから、食事の前には、「申し訳ない。ありがとう。君の命は無駄にしません。」と言うように感謝の気持ちを示さねばならないのである。
すべてのものに神や仏が宿る。という考え方は、アニミズムや仏教のような多神教的な考え方であるという単純な区分けはすべきでない。その証拠に、唯一の神
ヤハウの申し子であるキリストは、最後の食事の時、ワインを「私の血」、パンを「私の体」、であると語り、弟子達に食の意味を教え諭して、全人類に食され
るというような象徴的な死を遂げた。
自分の中には栗駒山の山の神が宿っている。そのように考えると、自分がいい意味で無敵の存在となり、どんな困難にも、心静かにそして心を強く立ち向かって
行けると思ったのである。
2006.11.10 佐藤弘弥
義経伝説
思いつきエッセイ