殺人の禁忌(タブー)が破られた現代「日本」社会 

−現代青年の心の闇について−

最近あるテレビ番組を見て衝撃を受けた。
「本気で自分の父親を殺そうと思った。人を殺して何が悪いの?!」と一流大学と一般に言われる大学の学生が平然と答えた。
それに対し、以前金八先生の役をやっていたタレントの武田鉄矢が、
「そう言われる明確な反論の言葉がない」と反論を避けたのだ。
学生の言葉にも驚いたが、武田の言葉に更に唖然とした。この武田という男、福岡教育大の出身だと記憶していたが、そうではなかったのか?!

そもそも人殺しとは、人類の発生以来の法以前の倫理である。旧約聖書でも、兄弟殺し(カインとアベルの物語)が、まず禁忌(タブー)として語られる。しかもこの青年の場合は、父親殺しだ。モーゼは神よりの言葉を受取り、そこには「汝の父母を敬え」(十戒のうちの5番目の戒律)、「汝殺すなかれ」(十戒のうちの6番目の戒律)と続いているのは周知のことだ。父母を敬うこと、他人を殺すということは法以前の決まりなのである。社会生活を営むに当たり、「殺人」は、人類が社会生活を営むようになってから、法以前の決まり事として営々と存在してきたのである。ましてや現代法においても親族間の殺人は、通常の「殺人」より重い罪として罰せられることになる。

おそらく武田は、その言葉をしゃべった青年の心の動きを一度呑み込んで、「殺人の意味」を、やさしく話そうとしたとは、思うが、彼はソクラテスでもなければ、キリストでもない。簡単に言葉を失っては困るのだ。断固として彼は反論すべきであった。ここに戦後民主主義教育の生み出した欠陥が露呈している。こんな分かり切ったことでも青年に反論できない大人と子供の力関係が浮き彫りとなっている。こんなのは民主主義でもなんでもない。

明らかに、この青年には正常な社会倫理観念が、欠如している。その原因はおそらく、父母と教師によって当然なされるべき倫理教育がなされて来なかったことに尽きるであろう。しかし我々はこれを極端と考えるべきではない。このような心情が、ごく普通の現代青年の中にもあるからこそ、非日常的な犯罪が、モグラ叩きのように次々と発生しているのではないか。これが日本社会の現実の姿なのだ。本来教師だけが、教育者ではない。親も近所の頑固オヤジも、子供は社会みんなの子供であった。親もまた自分の子にとっては人生のかけがえのない教師である。息子に殺されそうになる親は、まず教育を学校の先生に押しつける前に、まず人間の先輩として自分の倫理観というものが、社会に適応しているかどうか、しっかりと見ておくべきだ。

武田に限らず、「殺人のどこが悪い」という者には、「君は生まれて両親や先生から何を学んで来たの?聖書の話は知っている?」と問うべきであろう。社会全体が、子供をチヤホヤと甘やかし過ぎて、法以前の禁忌を学ばなかった者を平気で、受け入れてしまう日本。体年齢ばかりが大きくなった青年に反論ひとつ出来ない大人。私は武田の媚び切った発言に、すぐに胸クソが悪くなってチャンネルを変えた。その後どんな会話がなされたかは知らない。知りたくもない。きっと武田は、髪を掻き上げながら、ドラマのように、殺人がいかに悪いことであるかを、懇切丁寧に説いたのであろうか・・・。

そもそも法とは、法以前にある倫理道徳の上に成立しているものである。人類最古の文明のひとつの古代バビロニアの時代には、有名なハムラビ法典があり、殺人をした者には、目には目をで、容赦なく死刑が下された。日本においても、江戸時代では、敵討ちというものが許されていた。だから殺人を犯す者は復讐に対する備えもしなければならなかった。要するに大変なリスクがあり、それに加えて恨みを持って死んだ者は、怨霊や亡霊となって祟るのだから、殺人は絶対に踏み越えてはならない社会の禁忌(タブー)であった。ところが、現代日本においては、殺人罪が適用されても、心神耗弱とか、様々な理由が付けられて、たいていの場合、殺人犯でも10年前後で出所してしまう。また少年法に守られた少年には、殺人罪は適用されず、少年院送りとなるケースも多い。これではどのように考えても、殺人の被害者や家族だけが損をする仕組みでフェアーではない。本当に社会的禁忌(タブー)もなくなった社会日本はいったい何処へ行ってしまうのかと心配になる・・・。

結論である。現実に我々の周囲には「人を殺して何が悪いの?!」という青年がいる。ここから始めなければいけない。青年の心にある闇を何とかしなければ、本当にこの日本という社会は取り返しのつかないところにまで行ってしまうであろう。佐藤
 

 


2003.2.24
 

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