蝦夷の馴属と奥羽の拓殖


凡例
  1. 底本には、喜田貞吉著作集9蝦夷の研究(昭和55年平凡社)を使用。 
  2. 「奥羽沿革史論」所収(元版大正5年6月刊 復刻本 昭和47年刊 蒲史図書社)の同論文を参考とさせていただいた。 
  3. 原文をそのまま維持するようにした。 
  4. 各節ごとに連番を附したが、これはデジタル化の便宜上、佐藤が附したものである。 
  5. 一部差別に通じる表現があるが、歴史的表現であり、これを伏せずに使用した。 
  6. 当文章は、大正4年夏に、平泉の中尊寺で開催された歴史地理学会での講演記録である。 
  7. 一年後の大正五年六月に、日本歴史地理学会編として「奥羽沿革史論」に納められ刊行された。 
2000.7.9
佐藤弘弥

第二席(4)
 
 

41 御館藤原氏の俘囚なる証

次に御館藤原氏また夷として認められたことは、これははなはだ証拠が多い。藤原秀衡、武則の前例によって、運動の結果鎮守府将軍に任ぜられた。
 
 

42 夷狄秀平

その当時、九条関白兼実はその日記『玉葉』〔嘉応二年五月二十七日条〕に、「奥州の夷狄秀平鎮守府将軍に任ぜられる、乱世の基なり」と書いている。それでも鎮守府将軍に俘囚が任ぜられることは、いわゆる夷をもって夷を制するので、その先例もあることでありますから、いくらかよろしうございますが、さらに秀衡は隴を得て蜀を望み、再び運動の結果陸奥守に任ぜられた。俘囚にして陸奥守になった先例はない。しかし奥州には黄金が多い。秀衡も黄金の光でこの官を得たので、政府でもすでにとうに評議済となっていたが、さていよいよ任命のあった時に兼実はこういうことを書いている。「陸奥守藤原秀平、此の事先日議定あることなり、天下の耻何事か之に如かんや、悲むべし、悲しむべし。」〔養和元年八月十五日条〕俘囚をもって陸奥守に任ずることは、なるほど大宮人から見れば、「天下の耻何事か之に如かんや」であったでありましょう。
 
 

43 匈奴基衡

また秀衡の父基衡は、藤原頼長の荘園を支配していたが、頼長の『台記』にはこれを匈奴といっています。このほか、基衡が都人士から夷狄扱いを受けた例はいくらもあります。平泉におって、日本において京都に次ぐの文明をなした藤原氏でも、やはり都人士からは夷として待遇されたことは疑いないのであります。のみならず、彼らは都人士から夷として待遇されておったのみでなしに、彼らみずからも夷をもって任じておった。
 
 
 

44 清衡自ら夷をもって任ず

基衡の父清衡は、みずから東夷の遠酋だ。俘囚の上頭だといい、その同類をもって蛮陬・夷落だの、虜陣・戎庭だのといっております。これは秋田氏の系図に、自分は貞任の子孫で、長髄彦の兄の後裔であるということを麗々しく書いて、神武天皇より古い家だという意味でもって、これを誇りとしていると同じように、当時強いものとして認められた俘囚だといって、みずから強がったものだと解する者もありますが、しかしこの清衡が言っていることは、相手が違う。その相手は、この中尊寺の本尊様である。仏様が相手だ。仏様を相手に清衡は何も強がったり、またくだらぬ諛辞を述べる必要はない。清衡の「願文」は、今その真物はないが、後に北畠顕家卿が書かれた真筆がありまして、国宝になっております。それには、

弟子者、東夷之遠酋也。生逢聖代之無征戦、長属明時之多仁恩。蛮陬夷落為之少事、虜陣戎庭為之不虞。当于斯時、弟子苟資祖考之余業、謬居俘囚之上頭。

相手が人間であると、あるいは強がってみたり、あるいは心にもない御世辞を言うこともありましょうが、相手が仏菩薩である、それに対しては御世辞もなければ詐りもない。心に思うだけのことを言った相違ない。当時清衡自身において、自分は東夷の遠酋である。そのおる地方は蛮陬夷落である、虜陣戎庭である、自分は俘囚の上頭におるものであるということを自認しておった。これは立派な証拠であります。御館藤原氏がまた夷種として認められ、否、みずからも認めていたことは明かでありましょう。

ところが、ここに不思議なことは、源頼朝が藤原泰衡を征した時のことは『吾妻鏡』に詳しく見えているにかかわらず、その『吾妻鏡』において、すこしも敵が俘囚であるとか、夷であるとか言っておりませぬ。頼朝は後に征夷大将軍になっております。しかるにこの時の軍を少しも征夷の軍だとは言っておりませぬ。私どもの知っている限りにおいては、『玉葉』に秀衡を夷狄と言っているのと、『台記』に基衡のことを匈奴と言っているくらいが一番後のことで、これから後においては、実際泰衡などのことを俘囚とか夷狄とか言った例はありませぬ。これには実に意味があろうと思います。
 
 

45 鎌倉武士と東人

実をいえば、頼朝自身いわゆる東夷と認められているのである。彼は明かに蝦夷でありませぬけれども、このころには一体に武士を夷(えびす)と呼んでいる。武士すなわち夷、夷すなわち武士で、むしろ夷が尊称になっている。しかしてその中には、明かに夷種の出の人も交っていたでありましょう。かの西行法師すなわち佐藤憲清は、秀衡入道の一族なりと『吾妻鏡』に明記してある。かの佐藤継信・忠信などのごときもそうであって、千本桜の芝居では忠信はきわめて優しい色男となっておりますが、やはりその一族であります。いやしくも関東武士いわゆる板東武士ないし奧羽の住人は、多くは先刻申した尊敬すべき東人の流れを汲んでいる。進むあって退くを知らぬ、君のために生命を鴻毛のごとく軽んずる。これはいわゆる武士道の真髄であります。駿河・遠江あたりから東の者は東人として知られたが、後には次第に範囲も東に狭まったことと思う。かくてついには、夷というのはすなわち武士ということになっている。武士すなわち夷で、これは古書に例証がたくさんある。必ずしも武士が蝦夷種であるという意味ではないが、武士の中には夷種の流れを汲んだものも交っている。その武勇は昔の佐伯部・東人などの流儀で、むしろみずから夷をもって任じたものらしい。言葉というものは妙なものでありまして、時代によって意味も変れば値打ちも変って来る。

夷という称号

平安王朝の綱紀が弛んで、非常に世の中の混乱した時には、盗賊という言葉が胆力の据ったものもことをあらわし、かえって名誉の意味となっておった。何某は「妙(いみ)じき盗賊なり」など『今昔物語』にあるが、必ずしも泥坊のことではない。この時代、海賊といっても必ずしも賤むべき名ではなかった。悪僧とは僧兵のことで、必ずしもその称を恥じはしなかった。悪七兵衛・悪源太など、かえって名誉の称号であったかも知れぬ。かかる時代に起った武士が、たとい夷種でなくとも、強がって夷と呼ばれたに不思議はない。いわんやその家の子郎等など、古来往々夷種のものを用い、鬚濃く眼光鋭きをもって、郎従の好標本としたくらいであってみれば、夷ならぬものもその仲間入りして、得意となったものと思われる。この際において夷というのは、彼らにとってむしろ名誉のごとくなっていたかも知れぬ。少くも江戸の侠客が、水道の水で産湯を使った江戸ッ児だといって威張ったくらいのことはあろう。したがって東夷といっても蝦夷人のみではない。むろん中に日本人も這入っている。古い時代で有名なる坂上田村麻呂なども東人であったことは、すでに申し述べた通り。
 
 

46 江戸っ児と東夷の称

その東人は東国で生まれたもので、後に東夷と呼ばれるのは他から入り込んだものでも、江戸で生れて江戸ッ児と威張るようなものでありましょう。しかしどうしても、その理想的のものは蝦夷タイプのものであった。『今昔物語』などにその例が往々あります。余五将軍維茂の郎等太郎介は大変に目がきらきらして、髯が長く、よく肥え太っている「げによき兵(つはもの)かと見えたり」とある。
 
 

47 武士の理想はアイヌタイプ

体格がドッシリとして、眼光が鋭く、髯の長いのはすなわち蝦夷タイプで、これがただちに武士の好標本である。進むを知って退くを知らず、一身を君に捧げるの精神は、このタイプと伴っていたものと認められた。そこで徳川時代に至っても、やはりその思想が残っておりまして、武士の従者はやはり髯がなくてはうつりが悪い。奴(やっこ)は髯がなくてはならぬ。髯のない奴は髯を書く。髯奴という名称もある。国定教科書の挿絵にも、奴の絵は髯を濃く描いてある。髯がないと武士の従者らしく見えないのである。徳川時代の武士必ずしも髯があるという訳ではない。けれども少くともその下僚のものは、やはり髯がないと武士の従者らしく見えなかったのである。
 
 

48 巡査と薩人郎等と蝦夷

明治維新の後、薩州人が多く流れて東京に這入って来た。先輩の所縁を求め、「鳥が鳴く東を指してふさへしに」やって来た。あまりたくさん来たので、さすがの薩閥でも一々これを収容し切れない。そこで結局これを巡査に使った。ために明治の警官には薩州人が比較的多い。むろん、その多数が薩州人だという訳ではないが、比較的薩州人が多い。したがって壮士芝居や落語・講談などにあらわれる警官は、多く薩州弁を使う。薩州弁でなければ、演劇や落語・講談では、なんとなく巡査らしく見えないのである。この形勢が長く続いたなら、巡査という者はすなわち薩州人だということになったかも知れぬ。こういう次第で、武士が夷だということになってみれば、その鎌倉夷が奥州の夷を攻めるに、征夷というも工合が悪い。否、この時代になっては、奥州の俘囚ももはやこれを俘囚とは認めず、自分らと同じ武士だと認めていたものだと思われます。これ、泰衡らをいっこう夷といっておらぬ理由でありましょう。
 
 

49 田村麻呂の研究

さてさきに坂上田村麻呂が東人であることを述べましたが、これは東北研究のうえに面白い材料でありますから、少し説明を加えてみましょう。『田村伝記』を初めとして、古書の伝うるところ、田村麻呂はどういう風の人かと申すと、体格が偉大で、デクデクと肥えた、濃い髯は黄金のごとく輝き、眼は隼のごとく鋭く、顔の赤い、何様普通の人ではなかったとあります。系図を尋ねると、申すまでもなくこれは漢の霊帝の子孫だとありまして、シナ人の末です。父は刈田麻呂で、その刈田麻呂の親も祖父も分かっております。その刈田麻呂は宝亀年間に上書して、自分は漢の霊帝の子孫であるということを申し立て、祖先阿知使主が大和高市郡檜前(ひのくま)の土地を賜って以来、一族大いに蕃息し、高市郡の住民十の七、八ことごとく同族だということをいっております。しかるにもかかわらず、彼ら父子は奥州で生れて東人となり、衛府の軍人となっている。ことに奥州の俘囚らは、この坂上田村麻呂をもって、自分らの仲間だと認めておったようであります。その証拠は例の『陸奥話記』すなわち『奥州合戦記』にある。『陸奥話記』は前九年の役唯一の詳しい記録で、奥州の事情を見るに最も必要な書でありまして、その当時の国府から出したいろいろな書類、すなわち「国解」(こくげ)を基として出来た当時の確かな実録であります。他の書はたいてい後から好い加減に出来たものが多いのでありますから、間違いもあれば嘘もあるが、『陸奥話記』に至っては、ほとんど前九年の役の当時の記録といってよろしいので、最も確かなものであります。
 
 

50 坂面伝母礼麿降を請う

その「陸奥話記」の終末に、こういうことを書いてある。頼義が軍功によって従四位下伊予守に任ぜられ、義家なり、清原武則なり、そのほか多くの人が軍功の賞を受けたという記事の後に、

戒狄(いてき)は、強大にして中國、制する能わず。故に漢の高祖は、平城の圍(囲)に苦しみ、呂后は不遜の詞(ことば)をも忍ぶ。我朝にても上古屡々大軍を発し、國中多く、戎を責むると雖、大いに敗るることなし。然るに坂面傳母禮麻呂(さかのものてもれまろ)を請ひ、普(あまね)く、六郡の諸戎(しょじゅう=えびす)を服し独り萬代の嘉名を施す。即ちこれ北天の化現、希代の名将なり。その後、二百余歳、或いは猛将、一戦の功を立て、或いは謀臣、六奇の計を吐くも、而もただ一部一落を服のみ。未だ曾て兵威を耀(かがや)かし、遍く、諸戎を誅するものあらず。而して頼義朝臣、自ら矢石(しせき)に当り、戒人の鋒(ほこ)を摧(くだ)きぬ。あに名世の殊功に非ずや。彼の至支単于(しつしぜんう=人名)を斬りて、南越王の首を梟す。何を以てこれに加へんや。
とあります。これは寄り義の偉功を述べる文ではありますが、その偉功をもって、二百年前の坂面伝母礼麿の勲功にのみ比すべきものだとしてあるのであります。この伝母礼麿果して何者でありましょう。彼は北天の化現だと認められている。北天はすなわち毘沙門天で、坂上田村麻呂がまた毘沙門天の化現だと認められていたことは、「公卿補任」にも見えている。のみならず、史上に蝦夷を征して大成功を奏したものを尋ねますると、田村麻呂以上のものはない。彼は征夷の神として、後にまでも崇拝されている。その年代もほぼ二百年というに近い。しからば、その坂面伝母礼麿と田村麻呂とが、果して同人か別人かは分らぬけれども、これまで征夷の将軍中最大の功を奏したものは田村麻呂で、しかも彼は北天すなわち毘沙門天の再来だと認められ、その墓は山科の地に設けられて、後に征夷大将軍の出征のさいには、必ずこの田村麻呂の墓に詣でるということになっているとすれば、これをもって「陸奥話記」のいわゆる北天の化現として、最大の功を奏した坂面伝母礼麿と同人のことを伝えたと解して、不都合はありますまい。坂面はあるいはサカノウエと訓ませるのかも知れません。伝母礼麿すなわちテモレマロは田村麻呂の訛りでありましょう。
 
 

51 伝母礼麿は田村麻呂

要するに「陸奥話記」に坂面伝母礼麿というのは、同じく北天の化現と言われているところの坂上田村麻呂に相違ない。しかして「陸奥話記」には、その田村麻呂が「降を請ふ」とある。いかにも不思議なことです。降を請うという以上、もと官軍方の人ではなかったかと認められたもので、実に奇態な記事でありますが、よく考えてみれば必ずしも不思議ではない。古来いわゆる夷をもって夷を制すで、夷人にして征夷の将となっている例は多い。清原武則のごときもその最も近い例であります。しからば、彼はもと東人であるがために、この前九年の役のころににおける奥羽地方の人は、これをもってやはり自分ども同じ仲間の者だと解釈しておったものとみえます。なお、これについては多少参考すべき記事が「凌雲集」という平安朝のころの詩集にあります。小野岑守が田村麻呂の死を哭した詩に、

蠢爾蝦夷不息乱 羽書■(チョウ=刀を変形した字;ずるいの意)斗日夜伝
此時承命鑿幽出 千里戦勝献勝旋
この「幽を鑿(うが)って出ず」とはいかなる意味でありましょうか。これまで隠れておったものが、初めて蝦夷征伐に出て大功を得たという風に書いたのではないかと解せられる。これが詩でありますから、なんとでも解釈が附きまして、あまり当てにはならぬことでありますが、しかしそういう風にも見られるのであります。
 
 

52 系図の不信

伝記に見ゆる田村麻呂のごとくんば、系図も確かで、出所進退明らかでありまして、「幽を鑿(うが)って出ず」というには当らない。あるいは田村の信仰は、はだしき後よろ、多少の潤飾を加えたのではありますまいか。ともかく奥州においては、後までも自分らの仲間と見ておったのであります。これをもって類推しましても、いわゆる東人とか俘囚とかの中には、いろいろの系統の人がたくさん這入っておったと察せられる。日本人にして蝦夷の豪族の威武に伏し、俘囚の名をもって王飾に抗したものもあったでありましょう。しからば奥州地方において、蝦夷種のものが以前蝦夷人として保存され、みずからもこれを認め、他からも然(し)か認められておったのはいつごろまでであったか。
 
 

53 陸奥・出羽は夷の地

頼朝の奥羽征伐の後、文治五年に下した「制令」(「吾妻鏡」文治五年十月条)にも「陸奥出羽においては夷の地なるにより、度々の新制にも除き訖りぬ、偏に古風を守り、更に新儀なし」とあって、田制のことについても内地と同様にしてはならぬ、蝦夷の土地だから、蝦夷の風にそのままやっておかねばならぬと言っている。
 
 

54 蝦夷と隼人と服属年代

これを遠く遡って史上に類例を考えてみると、奈良朝のころ天平二年に、大隅・薩摩両国に班田の制を布こうとたが行われなかった。薩・隈の二国は隼人の国である、昔から固有の風がある。今においてたちまち他とおなじような政治を行うならばたちまち国が乱れるというので止めにしたことがある。これを文治五年の奥羽のことに比べると、約五百年の時代の相違があって、しかも事実は前後符節を合わしたようなものであります。隼人はそれより後次第に同化して、延暦十九年に至って初めて班田の制を行っておりますが、奥羽に至ってはいつ内地と同じ制度を布いたかそれは分かりませぬ。とにかく隼人は延暦年間に至って、もはやほぼ同化しつくしたということが分かっているが、蝦夷の方では年代が分かりませぬ。
 
 

55 鎌倉奥羽の蝦夷

しかし奥羽地方に蝦夷人が蝦夷人として残ったことは、鎌倉時代の末でもなお見えております。かの長崎高資が、原被双方の賄賂を受けて、訴訟を決しなかったために、ついに合戦に及んだ安藤氏は、安倍氏の子孫であります。父方の安倍氏と、母方の藤原氏との両方の字を一字ずつ取ったのだというような説もありますが、ともかくその配下の蝦夷どもが戦争したことが「保暦間記」に見えている。
 
 
 

56 安藤氏

この当時の蝦夷の乱はかなり大きかったものとみえて、鎌倉軍が向っても容易に鎮定しなかった。この安藤氏はどういうものであるか。源頼義が俘囚安倍氏を仆したのは非常な勲功で、ために六郡の首領たる安倍氏の巣窟を覆すことは出来たけれども、その後でただちにこれに代るものは同じ俘囚の長たる清原氏をもってしなければならなかった。もって奧羽における夷族の勢力が察せられます。清原氏が後三年の役で仆れて、これに代ったのはやはり「東夷の遠酋」「俘囚の上頭」なる藤原清衡であった。蝦夷地を治めるには、どうしてもその地に馴染のあるものでなければならなかったのであります。
ところで頼朝が藤原泰衡を滅した時には、葛西・大崎等の関東武士が来て陸前・陸中地方を支配し、本州全体がともかくも同一政令のもとに服するようになった。本州統一はこれが初めだといってよろしい。頼朝に奥州征伐は、実に征夷の軍でありました。しかしこの頼朝の時ですらも、北の方はやはり旧族の安藤氏でなければ治めることが出来なかった。『保暦間記』に安藤氏のことを記して、「彼等が先祖安東五郎と云ふもの、東夷の堅めに義時が代官として、津軽に置きたりけるが末なり」とある。その安藤氏が分裂して戦争した。幕府がこれを鎮定するに労したことは、鎌倉の附近の金沢にある称名寺の文書に、時の執権北條高時が称名寺の仏に蝦夷の静謐を訴えた「願文」があるのでも察せられます。鎌倉武士の力をもってしても容易に鎮定しない。大分喧ましかったとみえる。この鎌倉末の蝦夷の乱は、ただちに元弘・建武の大変に続いておりますから、この方にのみ心を奪われて、歴史家によって比較的閑却されておりますけれども、奥州史上ではナカナカ大きな問題であったろうと思います。これより後にも、ずいぶん蝦夷は山間假陬の地に残っておったような形跡があります。徳川時代になっても、橘南谿の『東遊記』や、古川古松軒の『東遊雑記』を見ますと、この趣がありありと見えまするし、他にもいくらも証拠はありますが、とにかく蝦夷が蝦夷として、大びらにこの奧羽地方で活動したのは、これで終りであります。これより後は、あるいは北海道へ逃げこんだ者もありましょう。絶滅した者もありましょう。同化してしまった者もありましょう。しかしてほとんど内地において、これを見ることが出来なくなってしまいました。
 
 
 

57 夷の島と渡島

しからば北海道においてはどうであるかというと、これはいわゆる夷の島で、『吾妻鏡』に見えている。この北海道は、古く安倍比羅夫が征伐したこともありまして、当時は越(こし)の渡(わたり)島とあります。今の渡島(おじま)の名はこれからつけたのです。これは明治当初の政府の人の見当違いでありまして、古く越の渡島とあるのは、今の渡島(おじま)と限ったものではない。今では「渡島」と書いて、オジマと読んでおりますが、古書の渡島はワタリジマでオジマではない。越の渡島と言っているのは、越の国の中で、越はもと越前・越中・越後地方の総称。その越後の中には、今の出羽なり津軽なりから、遠く北海道に及んでの総称であった。
 
 

58 粛慎人

この渡島には古く粛慎(みしはせ)人が来ていたので、安倍比羅夫が征伐した粛慎は、すなわちこの北海道の地でありましょう。わが古代には、北海道地方に蝦夷人のほか多数の粛慎人が住んでおって、蝦夷人と対抗していたことと解する。そこで比羅夫は、出羽海岸の夷を服して、さらに北海道に渡り、そこでは蝦夷のために、これを苦しめる粛慎人を討ったものとみえます。粛慎人が佐渡ガ島へ来たことは、古く欽明天皇朝にもありまして、古えは樺太から北海道にかけて多くいたのでありましょう。
 
 

59 渡島の帰属

比羅夫以来、北海道の一部は久しくわが政府支配のもとに属していたとみえまして、奈良朝初め養老年間に、渡島の夷が来って馬千疋を貢したこともあり、渡島の津軽津司諸君鞍男ら六人が、靺鞨国を視察に行ったこともあります。しかしその後は関係が遠くなり、夷の島として放任された。後に至ってこの渡島に移って、初めてこれを拓いた者は、奥羽にあって日本の文明に同化された蝦夷そのものである。これを渡党といった。内地から津軽海峡を渡って来た仲間の義であります。ただしこれはもはや昔ながらの蝦夷人ではありませぬ。すなわち内地において久しく日本人に接触し、おそらくは種族も少なからず混淆し、日本人と風俗を同じうし、日本の語を話し、日本の作法にも慣れたもので、中には純粋の日本人も交ざっていたことでありましょう。しかし大体において彼らが夷種であり、また蝦夷人として認められていたことは、南北朝の初めのころの信州諏訪の縁起〔『諏訪大明神絵詞』〕によって証せられます。
 
 

60 南北朝ごろの蝦夷の三種

諏訪は武の神でありまして、昔から霊験あらたかな神として崇敬された。それで蝦夷征伐のことにも関係が多く、したがって縁起にも蝦夷のことを書いてある。もっとも今日のごとく地理が明らかになっていないから、記事はよい加減であるが、当時の日本人の知識に上っていた蝦夷人の様子は知られる。同書には、北海道のことを蝦夷ガ千島と言っている。今日でも北海道の中に千島国があって、蝦夷島の東北方に飛び石のごとく列んでいるが、これは維新後の新名で、昔は蝦夷島そのものを千島と言っている。蝦夷島は一千の島から成っているものとして、千島と言っている。これを三種の蝦夷が分領して、各三百三十三の島に群居し、今二島(一島の誤りか)渡党に混ずとある。いわゆる三種の蝦夷とは、日の本、唐子、渡党で、その渡党は和国の人に相類し、言語俚野なりといえども大半は相通ずとあった、その風采は鬚多くして遍身に毛を生ずと書いてありますから、彼らが風俗は日本風でも、もと夷種であることは疑いを容れません。いわんや、これをもって蝦夷三類中の一となすにおいてをやです。
 
 

61 日の本と唐子

渡党以外の日の本・唐子の二類は、その地外国に連るとあれば、渡党よりは奥地にいたもので、形体夜叉のごとく、変化無窮なり、人倫禽獣・魚肉を食し、五穀の農耕をしらず、九訳を重ぬとも、語話を通じ難しとある。渡党所属の島の中には、宇曾利・鶴子洲・万堂宇満伊犬などいう名がある。「まとうまい」はすなわち松前でありましょう。すなわち渡党は熟蕃で、日の本と唐子とは生蕃と解すべきものでありましょう。この生蕃、変化無窮とある。いったい蝦夷人は変化である、魔法を使うものであるということを、日本の人は昔から信じていた。口から霧を吐く、蝦夷人が霧を吐いて身体を隠すと見えなくなるなどと信じていた。渡党の中にも、公超霧をなす術を伝え、公遠隠形の道を得たる類もありと見えております。彼らは相変わらず勇悍で、戦場に臨む時は丈夫な甲胄弓矢を帯して前陣に進み、婦人は後陣に随いて木を削りて幣帛のごとくにして、天に向かって誦咒の体あり。男女ともに山壑を経過すといえども乗馬を用いず、その身の軽きこと飛鳥走獣のごとし。彼らが用うるところの箭は魚骨を鏃として毒薬を塗り、わずかに皮膚に触るればその人斃れずということなしとある。この木を削りて幣帛のごとくにするとは、今もアイヌが行っているイナオのことで、その他の風俗も今のアイヌに見るところが多い。要するに『諏訪大明神絵詞』の蝦夷ガ千島とは今日の北海道のことで、これを日本風に拓殖したのは渡党である。内地の蝦夷が皇化に服して俘囚となり、それが北海道に渡ってこれを拓いたものだと思われます。
 
 

62 北海道の拓殖と渡党

藤原泰衡が滅んだ時に、その仲間の俘囚どもが奥州から北海道へ逃げて、在来のアイヌを駆逐して、その西南部の土地を拓いたことは、疑いを容れぬ。俘囚が北海道に渡ったことは、さらに古くからあったでありましょう。『今昔物語』に安倍頼時が源頼義に攻められて、北海道に逃げてまいりました話があります。ただしこの時には、先方に非常に恐ろしい夷がたくさんいたので、ついに逃げて帰った。後に宗任は逃げて行こうとして行かなかった。泰衡も実は北海道へ逃れようとして、途中で殺されたのであります。かような次第で、北海道はもと蝦夷の国だが、その蝦夷の国を拓いたものは、やはり同じ蝦夷人の仲間であったのであります。
 
 

63 日の本蝦夷の解

次に日の本蝦夷とは、申すまでもなく生蕃中の一種でありますが、これは果たしてどんなものであったでありましょう。斉明天皇の時にも蝦夷に三種あったとある。すなわち熟蝦夷・麁蝦夷・津軽蝦夷で、その熟蝦夷は後の渡党にも当りましょうが、いわゆる日の本はその何に当るでありましょう。津軽蝦夷のことは、その後もしばしば物に見えている。『陸奥風土記』にも見えている。もとは奥州津軽の辺にいたのでありましょうが、熟蕃すなわち熟蝦夷なる渡党が北海道の地におるようになりましては、これよりもさらに開けないはずの津軽蝦夷は、さらにこれよりも奧にいなければならぬ。その津軽蝦夷は、後の日の本蝦夷に当るのではなかろうかと思う。
 
 

64 チュプカグル

北海道の土人は、今日千島のことをチュプカと言い、千島土人をチュプカグルと言っている。チュプカは日の出る方、または東方の義で、千鳥はこの日の出る方すなわち東にありますから、これでこの島をチュプカと言い、その土人をチュプカグルという。グルとは人の義で、すなわち東方の人と言うのであります。東はすなわち日の本で、日の本蝦夷はすなわち今日いわゆるチュプカグルではなかろうかと解されます。このチュプカグルは、最後まで石器時代の状態にいた、開けぬもので、その地外国に連り、形体夜叉のごとく、九訳を重ぬとも語話を通じ難しというにもよく相当致します。昔より日本のことを日出国と言った。日の本すなわち日の出る国で、これはシナに対しての地理から、日本のことを日の本の「やまと」の国と枕詞をつけて呼んだのが本で、聖徳太子が「国書」を隋に遣わされる時に、これを漢字に翻訳して日出処といい、これに対してシナを日没処と申されております。そこでまた日本の中では、この奥州が東のはてで、日出処に当ります。『新撰姓氏録』に奥州のことを日出之崖とある。豊臣秀吉の時分の記録にもまたこの奥州のことを奥州日の本などと見えています。秋田氏もみずから日の本将軍と言いました。つまり東のはてが日の本で、蝦夷地ではチュプカグルが日の本蝦夷なのでありましょう。しかしてこれがやがて津軽蝦夷であったろうと思います。津軽という語はアイヌ語からの解釈の説もありますが、あるいは今日のチュプカと同一語原のものかとも考えられます。
 
 

65 唐子の解

最後に今1つの唐子とは何でありましょうか。子とは人ということと同じによく用いております。家来のことを昔は家人(けにん)といった。家の人であります。これを家の子といいます。家の子郎等などといったのはこれです。また家(や)っ子ともいいます。「奴」の字を「やっこ」と訓みますが、やはり家っ子でありましょう。これと同じで唐子は唐人の義と見えます。後の唐太(からふと)すなわちこれと同義かと思う。唐太は唐人(からひと)で、これをイ韻をウ韻に訛る流儀でカラフトとなったのでありましょう。今日はこれを「樺太」すなわちカバフトと書いて、やはりカラフトと訓ませている。かの地には樺の大木が多くあるから樺太だと言うのです。これは露国と所属問題が起った時、唐は外国の義であるから、わが国でも初めからこれを外国であると認めているではないかと言われては困ると心配したので、これはカラフトではない、カバフトで、地名がすでに日本語であるから、日本の地だという証拠にしようとしたものだそうであります。されば本来は唐人(からひと)といわねばならぬものでありましょう。この樺太にはオロッコという一種族がおります。
このオロッコは、昔は広く北海道本島にも住んでおったもので、これをカラコといったものではありますまいか。初めの子音を略する例もありますから、あるいはもとはカラコといったのをオロッコと訛ったのではなかろうかとも思われます。その北海道本島に住んでおったものを、安倍比羅夫は征伐した。古史にいわゆる粛慎人はあるいはこれではありますまいか。そのカラコが一方では唐人となり、カラフトと転じ、また一方ではオロッコとなったのではありますまいか。果してしからば、唐子はオロッコで、日の本は千島アイヌ。これらがもとは渡党とともに蝦夷カガ千島に住んでいて、後にオロッコは樺太島に追い込まれ、日の本は次第に熱化して、多くは今日のアイヌとなり、わずかに千島の地において、比較的後世までいわゆる千島アイヌすなわちチュプカグルとして残ったものではありますまいか。これは一の仮定説には過ぎませぬが、大体こんなことであろうかと思われます。
 
 

66 講演の要領概括

以上席を重ねて申し述べましたところを概括してみますと、要するにこういうことになって来る。蝦夷はもと広く内地に住し、有史後も多く東国に住していた。これが日本人と接触するにしたがって、だんだん日本人に同化して来る。これを熟蝦夷すなわち俘囚という。この俘囚をは日本朝廷の方針として、だんだんに内地に移す。その代り内地人を蝦夷地に移す。つまり人間の入れ替えを行う。そうでありますから、蝦夷地にもだんだん内地の文明が及んで来る。内地に這入った蝦夷人は、次第に内地人に同化してしまう。また蝦夷人は多く貴紳豪族の従者すなわち「侍い」として用いられ、あるいは佐伯部の兵士となり、俘囚の筑紫の方へ送られたものは、海賊防禦の役に任じ、あるいは内地において警吏の下役に役せられ、また百姓になったものも多い。
東人という者は、これは蝦夷という訳ではないが、東国の人で、直接間接蝦夷の感化、影響を受けている。彼らは佐伯部の「海行かば水浸く屍、山行かば草生す屍、大君の辺にこそ死なめ」という武勇誠忠の思想を受継いで、額に箭は立つとも背(そびら)に箭は受けじといいて、一つ心に君を守り奉った。その東人が多く武士の家の子郎等となって、もって関東幕府の基をなし、鎌倉武人は東夷といわれるもをもって名誉というくらいのことになった。この東夷はいわゆる然諾を重んじ、義を見ては身命を鴻毛の軽きに比するの武士道を有するものであった。この東夷と呼ばれた鎌倉幕府が奧羽地方を平定して、これまで前九年・後三年の役を経ても、やはり俘囚でなければ治めることの出来なかった奧地をもことごとく従えて、当初はやはり夷の地として多少の区別もしていたが、ついには全く他と同一のものにしてしまった。それでもなお最北の地は安藤氏に委していたが、それもいつか同化しつくし、北海道においてのみ蝦夷はみとめられることとなった。しかしてその北海道を開いたものもやはり同じ夷種の渡党であった。これが私の講演の大体の要領であります。
 
 

67 北方の強

蝦夷は強いものとして古くから信じられていた。その強い蝦夷が強くない日本人に敗けて、ついに皆な日本人になってしまった。シナでも北は強い。孔子も北方の強ということをいっている。しかしてこの北方の強者がしばしば中国へ乱入して来て中国を征服している。ところでその強者は戦争では中国に勝ったが、いつも中国の文化のために征服せられて、皆な情弱に流れて、さらにまた北方の強者のために征服される。しかしてその勝った者がまた前と同じく文弱になって、再び北方の者に征服せられる。
しかるに日本では、そこによほど趣の違うところがある。いわゆる大海は細流を択ばずで、わが天孫種族は、よく夷をもって夷を制し、政治上にもこの北方の強者を従えたうえに、されにこれを文化のうえからも征服して、ことごとくこれを同化、吸収してしまった。ただに蝦夷人ばかりでなく、来る者は拒まず、ことごとくこれを収容し、例えば柚子や橙や枳殻に雲州蜜柑を接木したように、ことごとくこれを天孫種族に同化し、打って一団とした忠勇なる日本国民としてしまった。これ今日の大日本帝国の出来た順序であります。そこで奧羽地方の拓殖の結果、蝦夷人はあるいはだんだんと内地に移されて、その跡を日本人中に没し、蝦夷地へは日本人が入り込んで奧羽の拓殖を進めて行く、また蝦夷地に残った者らは熟蝦夷すなわち俘囚となり、内地の文明を受けて共々に力を戮せて拓殖に従事して行った。その間には、内地人で俘囚の仲間に這入ったものも多かろう。しかしてこれらが相率いて、皆日本人中に跡を消してしまったのであります。
 
 

68 奥州の国造

ここにおいてさらに補うべき問題は、前に保留しておいた上代の奥州地方の国造のことであります。仮に『日本紀』の年立に従って允恭天皇の御代に白河・菊多の二関を設け、これをもって内地と蝦夷地との界としたとすれば、その以前に白河・菊多以北に国造の任命されたことは何と解すべきか。『旧事本紀』などを見ると、すでに古く白河・菊多の関を越えて、蝦夷地に多くの国造が出来ております。奥州の南方はすでに内地人の治下に属しておったもののごとく書いてある。これはよほど考えてみなければならぬ。けだしかの『旧事本紀』中の「国造本紀」は、私どもの考えでは、文武天皇の御代において当時の国造の家柄を調べて『国造紀』という書を作った。それをほんとしていささか加筆しつつ『旧事本紀』中の一編として収めたものであろうと思う。果してしからば、その記述するところがことごとく信ずるべきかどうかは問題であります。
 由来、系図には誇張が多い。有力者や旧家が祖先を皇胤神裔に附会することは古くから多かった。近く徳川氏が寛永年間に『寛永系図伝』を拵え、寛政時代に『寛政重修譜』を作ったのを見ても、同じ趣が察せられる。文武天皇の三年に『国造紀』を偏した時には、その当時国造の名を有しておったものについて、その家柄を調査したものであるから、ずいぶん法螺もあったと思われる。允恭天皇以後において蝦夷地に這入って蝦夷人を服したもの、あるいは俘囚の有力者らが皇胤神裔の説を唱え、しからざるまでもその由来を古く語ったことがなかったともいえますまい。
 
 

69 東国文化の由来

しかし東国に天孫種族の文化が及んだことは、これは大分古く遡ります。今取り約めて大体のことを見ますと、ズーッと古い時代の伝説もあります。
 
 

70 齋部中臣両氏と房総半島

神武天皇が大和を御平定の後、斎部氏の祖先天富命が阿波の忌部を率いて房総半島に殖民したということもあります。中臣氏の一族が下総・常陸の地方に殖民し、鹿島・香取の神を勧請したこともこの時代だと伝えられております。これが神武天皇の御代だなどということは嘘としても、古く斎部氏や中臣氏が東北地方に蕃殖していたことは疑いを容れない。かくてこれよりさらに進んで北に這入ったことも、それはあったでありましょう。
仁徳天皇の御代に上毛野国造が蝦夷を征して陸前地方まで行ったということは、多少疑問がありますけれども、それは必ずしも嘘だとはいわれない。允恭天皇の時に白河・菊多を界したからとて、その前代にすでにその奥へ這入って行った者があっても差支えない。平安朝の中ごろには陸中の中央まで夷の手に落ちていた。しかし遠くすでに霊亀年間に、太平洋岸を伝うて王化は閉伊地方に及び、閉の郡家が置かれた例もある。
また出羽の地方も、かの元慶年間の秋田の叛乱の時には、秋田川をもって蝦夷の国と日本の国との界としようということを言っているくらいで、秋田川以北は陽成天皇のころには蝦夷の地であったけれども、しかも彼処は早く遠い古代において、安倍比羅夫が征服して郡を建て、なおも遠く北海道までも及んでおったこともあったのでありますから、允恭天皇の御代に白河・菊多を界したということのみをもって、必ずしもこれを打消すことは出来ない。景行天皇の御代において、日本武尊が果して後の人の信ずる日高見国すなわち北上川地方に来なかったに違いないということは言えない。来たかも知れない。霊亀元年に閉伊郡地方の蝦夷須賀君古麻比留らは、祖先以来常に昆布を貢献したと言っている。飛び飛びにも海岸伝いに内地の勢力が奥地に及ぶことはあるのであります。
 
 

71 天智朝の夷地探検

また天智天皇が蝦夷地を探検されたということもあります。それは『日本紀』にありませぬ。『日本紀』にはこの時代に安倍比羅夫が出羽の方面の蝦夷を攻めたことのみで、陸奥方面のことは『常陸風土記』にでております。常陸の鹿島郡の海岸に、幅一丈余、長十五丈の船がある。天智天皇が国を覓めんがために石城の船造りをして造らしめたので、その船が進水しないので、ついに擱座したままに今に残っていると『常陸風土記』には書いてある。これは著者が当時存在のことを書いたので間違いはない。天智天皇の時においても、奥の方の夷地探検の御計画があったとみえます。
 
 

72 石城・石背の建置問題

その結果としてか、陸奥が南の方に石城・石背の二つの国が置かるることになった。陸奥という言葉は申すまでもなく道の奥で、陸という字を書いてありますのは、「陸」は道で、道奥とあるのも同一です。すなわち東海道・東山道のズーッっと奥の地で、その街道筋の終てる処が道奥である。これをムツと訓むのは陸を六の字に解し、「六つ」というのじゃなどいいますが、これは洒落でありまして、ムツはミチの奥州訛り、ミチはミチノクの略称であります。陸奥をミチノクといった例は平安朝にたくさんあります。
さてその陸奥は辺要の国で、陸奥の国司の領する範囲は遠く蝦夷に国にも及び、どこからが蝦夷の国、どこまでが陸奥の国というように、北の方には判然たる境界はありますまいが、南の方はだんだんと開けて来て、もはやこれは内地と同様に扱うべきものだというので、石城・石背の二国を置いた。『続日本紀』には養老二年に石城・石背の二国を置いたと書いてありますが、これは疑問で、養老以前の記録にもすでに明らかにこの二国の名前が出ている。すなわち文武天皇の大宝元年の「大宝令」に、両国の名が二ヵ所にも出ているのであります。
これについても種々な問題があります。なるほど「大宝令」は大宝の時分に作ったのであるが、後に藤原不比等が養老に修正した。だから養老二年に置いた石城・石背の名がこれに載っていても不思議とは言えぬという。けれどもそれは理屈が立たぬ。いかにも養老の修正はありますけれども、少なくともこの石城・石背の二国の名は、大宝の当時の遺文である。その証拠は、石城・石背と同一条の下にあるべきはずの出羽国にことが、
いっこう書いてない。陸奥とともに石城・石背よりも、いっそうなければならぬはずの出羽が出ておらぬ。しかして、もと出羽を含んでいた越後が出ている。出羽は和銅六年に越後から分置したもので、それで大宝の文には出ておらぬのであります。したがってこの石城・石背の二国の出ているのは大宝の遺文で、大宝の当時この二国は存在しておった証拠であります。決して養老二年に初めて置いたものではない。かえって養老ごろにこの二国を廃したことの間違いで、反対になっているのであります。なお、これにはいろいろ証拠もありますが、あまりくどいから略します。すなわちだんだんと拓殖が進んで行って、奥州の南の方はもはや内地同様の扱いにすべきものとなり、ここには他と同様の国司を置く方がよい、鎮守府を置いて蝦夷地をも治めねばならぬような、特別行政の場処とは離したがよいということであったとみえます。しかるに結果はどうもよろしくなかった。やはり陸奥と合併して一大国として、兵員を徴発するにしても、その他のことにも、蝦夷に対するには陸奥の国が大きくなくては不都合である。力を割いては工合が悪いというので、再び合併することとなった。
 
 

73 爾薩体と都母

奈良朝のころにはいわゆる日高見国、すなわち今の陸前、北上川下流地方までも明かに日本の中となり、平安朝の初めには爾薩体(にさつたい)・都母(つも)、すなわち今の二戸郡から七戸辺までも及んだ。しかし実際には柴波郡あたりまでしか、平安朝中ごろにはわが勢力は及ばなかった。柴波郡は『延喜式』の神社の処に名が出ております。しかし国郡の名を列挙した所にはこの名は見えませぬ。まずこの辺が境であったでありましょう。要するに柴波郡地方はまず『延喜式』では日本の勢力範囲でありまして、それ以南はすなわち王地であります。しかるに安倍頼時は俘囚の長として、胆沢・磐井あたりまでひそかに六郡を横領して、勢力衣川の南にも及んだ。内地に向って逆襲したのであります。前にはいったん進んでおったものが、大分逆戻りとなったということになっている。かくたびたび消長がありまして、ついに鎌倉時代頼朝統一ということになります。以上大体の沿革を概括して補っておきました。
私の講演は大体これで終ります。一つ一つの事歴は『大日本史』や『古事類苑』また菊池仁齢氏の『奈良平安時代の奧羽の経営』で見て頂きたい。終りに臨んで、この平泉の近所の達谷窟(たつごくいわや)のことを述べて、御免を被ることと致しましょう。
 
 

74 達谷窟

達谷窟は田村麻呂が毘沙門天を勧請したと伝えられる所。元来、田村麻呂は前申した通り非常な偉傑で、自身毘沙門天の化身として信ぜられたほどの武功を立てた。その田村麻呂が蝦夷を征した事歴は不幸にしてその時代の国史が欠けて、詳細にわかりませぬが、七戸地方の都母村を征して壺の碑てら立て、日本中央と記したとさえ伝えられております。かの多賀城碑を壺の碑だなどいうのは間違いです。かく田村麻呂は遠く北方まで行ったには行ったでありましょうが、しかも彼が敵酋の根拠地としてもっぱら力を尽したのは、この平泉地方であったと思われる。ここを当時の蝦夷の中心地と認めて、征伐したに違いない。
後に安倍・清原・藤原の三氏が起って、もって自己の立場となすに適当な場所は、すでに遠く延暦初年の蝦夷の根拠地であったものみ相違ない。『吾妻鏡』(文治五年九月条)に頼朝がこの達谷窟を見まして、こういうことを言っております。「これ田村麻・利仁等の将軍、倫命を奉じて征夷の時、賊主悪路王並に赤頭等、寨を構ふるの窟なり」と書いてあります。頼朝が泰衡を征した後に親しくこの地を見て、この場所は田村麻呂が蝦夷の酋長を殪した場所であると教えられたとみえる。それ果して実際だか嘘だかわかりませぬが、少なくとも頼朝のころにはそういう説であったのである。
 
 

75 利仁将軍

この田村麻呂のほかに、達谷窟におった賊酋を平げた人で、藤原利仁という人の征夷のこともほとんど物に見えないが、これは延喜ごろの人でありますから、このころにも蝦夷の酋長がこの地に拠っていたことでありましょう。この人はなかなか偉い人で、その事蹟は種々見えている。『今昔物語』などにも出ております。
 
 

76 悪路王の研究

さてこの達谷窟で田村麻呂が悪路王を滅ぼしたという、その悪路というのは蝦夷地の地名でありまして、との悪路の酋長でありますからして、悪路王と言ったのでありましょう。いやな文字を用いておりますが、これは何も悪い王じゃという意味ではない。とかく夷狄に対して、ことさらに賎むような文字を使うのはシナ古来の習慣で、それをわが国にも真似たのでありましょう。シナ人が日本のことを倭奴と言ったり、北の夷狄を匈奴と言ったりするごとくに、ことさらに悪路と書いて蝦夷を賎んだのでありましょう。本名は阿久利という。
 
 

77 悪路と阿久利

陸奥守源頼義が胆沢の鎭守府から多賀の国府に帰る時に、阿久利川で貞任乱暴の一件があった。いずれこの地方の名に違いない。その阿久利すなわち悪路でありましょう。『吾妻鏡』に名馬阿久利黒というのがありますが、これもこの辺から出た馬でありましょう。坂上刈田麻呂および東人らが、馬を飼う術に達していた話はたくさんあります。阿久利にも古く良馬が出たのでありましょう。
 
 

78 悪路は地名

さてこの悪路が蝦夷の地名であるということは、他には種々な物に見えておりますが、一の例を申すと、『発心集』に心戒上人跡を止めざることの条の中に、こういうことがあります。「其後此の国へ帰りて都あたりは事に触れて住みにくしとて、夷があくろ・津軽・壺のいしぶみなどいふ方にのみ住みけるとかや」とあります。悪路は津軽や壺などとともに、皆蝦夷地の地名であることがわかります。『平家物語』にも平宗盛が捕虜になった時、どうか生命が助かりたいということを述べた処に、「大臣殿世に嬉しげに思して、さるにつけても御涙を流し給ひ、いかなるあくろ・つがろ・壺の名をも、夷が栖なる千島なりとも、甲斐なき命だにもあらあと思ひ給ふ」とある。まだほかにもそういう例はあります。
 
 

79 六郡の地域

要するに悪路は地名であります。そこで『陸奥話記』に坂面伝母礼麿があまねく六郡の諸戎を平げたとある、その六郡は安倍頼時以来藤原氏に至るまで占領していた地で、古くからこの六郡が蝦夷勢力の中心であったとみえます。それで田村麻呂の誅した悪路王も、やはりこの地方におった。田村麻呂はこれを誅して、六郡の諸戎を平げたといわれているのです。その賊酋がこの達谷におったというのは一の伝説でありまして、実は確かにはわかりませぬが、ともかくも田村麻呂の征伐は、主としてこの地方において行われたものと見てよいのであろうと思います。
 
 

80 安倍高丸は悪路王

この悪路王のことを『元享釈書』の「延鎮伝」には「阪将軍田村勅を奉じて奥州の逆賊高丸を伐つ、云々、高丸既に駿河を陥れ、清見関に次す、将軍師を出すと聞きて、退いて奥州を保つ」など言っておりますが、これはあまり話が大きいようで、信ぜられませぬ。しかし鎌倉時代末にはそういう説があったものとみえる。この高丸を征したことは『元享釈書』の「延鎮伝」のみならず、先刻申した諏訪神社の縁起にも出ております。「桓武天皇の御代に東夷安倍高丸暴悪の時、将軍坂上田村麻呂勅を奉じて追討す、云々」とありまして、その高丸城の註に宅谷岩屋と書いてありますから、高丸の拠った城はこの達谷窟だということは、南北朝のころの人も信じておったものとみえます。その高丸の名は、あるいは達谷の名と関係はありますまいか。この高丸すなわち悪路王であることは申すまでもありません。この高丸はやはり安倍氏で、安倍頼時の先祖の系図に載っている。古くそういう風に信ぜられておったものとみえます。
それから今一つの赤頭のことは、これは『吾妻鏡』に出ている以外に、私はほとんど確かな出典を知りませぬが、やはり後に延喜のころに至って、この地方に蝦夷の酋長がおって、非常に強かったのを申したものと見るべきでありましょう。達谷の話もこれで終わります。大分に時間が延びまして、はなはだ御迷惑であったでありましょう。蝦夷の馴服のことが主になって、拓殖のことが十分述べ切れませんでしたことは深く御詫び致します。なお時間を取違って、後の講師の貴重な時間をも蚕食することになりましたことも、併せて御詫びを致しておきます。
 

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2000.7.25

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