蝦夷の馴属と奥羽の拓殖


凡例
  • 底本には、喜田貞吉著作集9蝦夷の研究(昭和55年平凡社)を使用。
  • 「奥羽沿革史論」所収(元版大正5年6月刊 復刻本 昭和47年刊 蒲史図書社)の同論文を参考とさせていただいた。
  • 原文をそのまま維持するようにした。
  • 各節ごとに連番を附したが、これはデジタル化の便宜上、佐藤が附したものである。
  • 一部差別に通じる表現があるが、歴史的表現であり、これを伏せずに使用した。
  • 当文章は、大正4年夏に、平泉の中尊寺で開催された歴史地理学会での講演記録である。
  • 一年後の大正五年六月に、日本歴史地理学会編として「奥羽沿革史論」に納められ刊行された。
2000.7.9
佐藤弘弥

第二席(3)
 

1  第一席講演の概要

前席においては、はじめにまず石器時代の遺跡の研究から、蝦夷人が昔拡がっておった場所の範囲の想定が、ほぼできるであろうという希望を述べまして、それから天孫種族と蝦夷人と接触した当時のの有様、日本武尊征夷の伝説、白河・菊多の関を定めた年代等をほぼ説明し、さらに進んで佐伯部・東人などのことにまで及んでおきました。だんだんと話が枝葉に深入りしまして、「蝦夷の馴服」も「奥羽の拓殖」も、どかかへか行ってしまいそうになりました。
 

2  参考書

しかし市場に見えておりますこの拓殖の事歴については、一々の事実を、この僅少なる時間内において私が申し述べなくても、大体「大日本史」の「蝦夷伝」をご覧になれば、ほぼ纏まっておりまするし、近年は「古事類苑」の人事部にも蝦夷に関する史料が多く集められており、最近には菊池仁齢氏の「奈良平安時代の奥羽経営」という書も発行になっていることでありますから、それを私がことごとく申し述べる必要は少なかろうと存じます。それで今回の講演には大いに時間を倹約しまして、普通の書でわかる各個の事実はなるべくそれに譲ることにしまして、奈良・平安時代の蝦夷に関する研究の根本ともなるべき夷俘と俘囚とのことをこれから申し述べましょう。なお時間の余裕がありますれば、進んで他の具体的のお話に映りましょう。
 
 

3  夷俘囚

夷俘と俘因とは、古代史上にしばしば出て来る名称でありまして、両者同じ意味に使ったところもありますが、また違う意味にも使ってあります。このことを少しくつまびらかに研究してみますると、蝦夷と日本人と接触しました関係がよく分かり、自然に蝦夷の馴服と奥羽の拓殖との事情が明らかになる訳でありますから、私はこの側面から奥羽の事情を申し述べまして、馴服・拓殖そのものの個々の事実は、右申した『大日本史』の「蝦夷伝」、もしくは『故事類苑』人事部の蝦夷の条を御覧を願うと、こういうことに致しましょう。
 
 

4  夷俘は夷族

夷俘とはなんであるか、これには異議は少ない。普通に解して蝦夷人の捕虜になった者だという。あるいは蝦夷人の皇化に服して降参した者。降参したのでも、捕らえられたのでも同じ結果でありまして、今日の言葉で言えばもと蝦夷人の俘虜になったものということでありますが、必ずしも俘虜とは限らず、時としては蝦夷そのものをも指して呼ぶこともあります。つまり夷俘と蝦夷と、ほとんど区別がない言葉として使用している場合があります。これを詳しく申しますると面倒なことにもなりますが、だいたい夷俘が蝦夷人であることについては異論はない。
 
 

5  俘囚は日本人なりとの説

しかるに俘因の方は、これは近来なかなかむずかしい問題になっている。俘因という名は、ことに古代史上に多く見えております。俘因が京へ来て新年の式に参列したとか、俘因某が親に孝行であったから褒美を貰ったとか、あるいは俘因某が蝦夷地に行って蝦夷を騒がしたから土佐に流されたとか、あるいは俘因何百人をどこそこへ移したとかいうように、その事跡はたくさん古書に見えております。後には俘因の長安倍貞任が謀叛したとか、俘因の長清原武則がどうしたとか、あるいはこの平泉に栄華を極めた藤原清衡・基衡・秀衡らに至るまで、皆俘因であるとかいうように言われている。かく俘因という名は奈良朝から平安朝には明らかに多く見えておりますが、これが鎌倉時代に至ってはほとんど見えない。否、全く消えてしまっております。
 
 

6  俘囚と夷俘とは同じの旧説

ところで、その俘因は本来何者であるかという問題が、二、三十年来大変むずかしくなった。近ごろむずかしくなったというとおかしいが、昔はそういうことは問題にならなかった。少なくも平安朝中ごろ以来は、夷俘も俘因も同じ者だという説が一般に信ぜられておった。徳川時代でも『大日本史』には俘因を蝦夷伝中に収めて疑わない。古いところでは菅原道真が編簒されました『類聚国史』。これは『日本紀』『続日本紀』以下、世々の国史を、その記事の事実によって集めたもので、その中に蝦夷の部がありますが、それには蝦夷として記載せられたことを皆集めて、それとは別に俘因の部がある。しかしてその中に夷俘のことも一所に出してありますので、つまり夷俘も俘因も一緒のものとしてあるのです。要するに菅公は、『類聚国史』を編纂するさいに、夷俘と俘因との間に区別を置かなかった。
 
 

「江次第抄」の説

それから遙か下って、一条関白兼良はその著述の「江次第抄」(正月宴会条)において、こういうことを言っている。「俘囚はもと是れ王民、而して夷の為に略せされ遂に賤隷となる、故に俘囚と云う。あるいは夷俘とも云う。その属陸奥・出羽に在り、後分れて諸国に居る」と。これは夷と俘囚を全然同物異名と見ている。「その族陸奥・出羽にあり」とある。もと陸奥・出羽の住人で、それが後に「諸国に分れ居る」とある通りで、実際夷俘・俘囚はほとんど全国に行き渡っている。九州辺りにも夷俘・俘囚は多かった。貞観年間に新羅の海賊船を追い払わせたり、海岸を守らせたりした蝦夷人とは、畢竟これであります。水戸で「大日本史」が編纂される際にも、やはりこの俘囚を蝦夷の部に入れてあります。そして安倍貞任も、清原武則もことごとく「蝦夷伝」の中に収めてある。
 
 

8  「大日本史」と俘囚

これをもって見ますると、少くも「大日本史に至るまでは、夷俘と、たといその間に区別があるとしても、同じく蝦夷人であるということにほとんど異説がなかったのであります。平安朝において菅原道真、室町時代に一条禅閤、徳川時代の「大日本史」、すべて夷俘と俘囚とを同じく蝦夷人と見ております。従って俘囚の長たる安倍貞任・清原武則などは、同じく蝦夷人と見ておったのが古い説であります。
 
 
 

9  俘囚はもと王民との説の解

ところが、明治時代になってだんだん変わった説が出て来た。俘因と夷俘とは違う、夷俘が蝦夷人であるということについては異論はないが、俘因は本来王民で、すなわち日本人だという。これは「俘因はもと是れ王民」という『江次第抄』の語に重きをおいた説です。もっとも一条禅閤の記しおかれたところで見ると、「俘因はもと是れ王民」であるといいながら、「故に或いは夷俘と云ふ」とあって紛らわしい。論者はその前半のみを取っているが、終わりまで見れば、俘因は蝦夷人でないと同時に、夷俘も日本人だという説にならねばならぬのでありますが、そこにはいろいろの理屈もあって、ともかく俘因は夷種ではないという説が現われた。これは一時非常に有力なるものとなって、学会を風靡してしまいました。近年発行されました『古事類苑』の人事部などにも、俘因と夷俘とは違う、夷俘は蝦夷人であるが、俘因は日本人であると、こういう風に書いてある。その理由とするところは、例の一条禅閤の「俘因はもと是れ王民」から出て来る。王民が夷のために略せられて、ついに賤隷となる、ゆえに俘因というとあってみれば、なるほど夷ではないらしい。その末文の「或いは夷俘と云ふ」の句が邪魔になるが、それはしばらく措いて、俘因の説明のみを見ると、いかにももっともな解釈と言わねばならぬ。そこで、何故に「俘因もと是れ王民」ということを一条兼良公が書いたかというと、これは『類聚国史』から『続日本紀』の文を取って書いたので、説明すこぶる不十分と言わねばならぬ。
 
 

10 俘囚中の日本人

奈良朝の末期、称徳天皇の神護景雲三年[十一月]に、陸奥の国牡鹿郡の俘因外少初位上勲七等大伴部押人という者が上書きしていうには、「伝へ聞く、押人等はもと是れ紀伊国名草郡片岡里の人なり。昔先祖大伴部直が夷を征する時に、小田郡嶋田村に到つて是に居る。其の後子孫夷の為めに虜とせられ、代を歴て俘となる。幸に聖朝運を撫し、神武辺を威するによりて、彼の虜庭を抜きて久しく化民となる。望み請ふ、俘因の名を除きて、調庸の民とならん」と。これは自分がもと日本人の種であることを言い立てて、俘因の籍より脱し、朝廷に租税、賦役を奉るところの普通の人民の仲間になりたいと願ったのであります。政府ではそれだけ調庸の民が殖えるなだから、さっそくこれを許した。これが例になって、だんだんこれにならうものが出て来た。

 
 

11 元王民たりし俘囚

光仁天皇宝亀元年[四月]には、陸奥国黒川・賀美等諸郡の俘因三千九百二十人という多数が、おのれらの父祖は「本是王民」である、それが蝦夷のために略せられて賤隷となった、しかるに今やすでに敵を殺して帰降し、子孫蕃息している、仰ぎ願わくは俘因の籍を脱して調貢を致したいと願い出た。もちろん、これも許された。俘因はもとこれ王民なりとの説はこれらから出ている。一条禅閤は全然この宝亀の場合の文を取って書いているのであります。
 
 

12 俘囚と夷俘の区別し

なるほど古書の記事を見ますと、俘囚と夷俘とは明かに区別してある。俘囚某・夷俘某と、その名を列記する場合にも皆区別がしてあります。その人名のごときも、夷俘は夷名を持ち、俘囚は日本人と同様の名を持っている。俘囚清原武則・安倍貞任という類で、名前だけでは普通の日本人と区別が出来ないのが多い。しかるに夷俘の方は、皆蝦夷風の名前で、宇漢米公宇屈波宇というような、一見して蝦夷名であります。また朝廷から彼らに位を授けられるにも、俘囚は普通の人民と同じように、従五位とか正六位とかいうのであるが、夷俘には夷第一等、夷第二等などというような、まるで異なったものである。ことに国史には、この夷俘のことを蝦夷とも書いてある場合がありますが、俘囚のことを蝦夷と書いた例はない。それで夷俘と俘囚は本来違う者で、夷俘は蝦夷種であるが、俘囚はもと日本人が蝦夷のために捕虜になって、ついに夷地に永住し、蝦夷の仲間になったものだろいう説が起こったのであります。しかしこれは無理な考え方であると思う。
 
 

13 俘囚は夷種なるの証

かの大伴部押人が神護景雲三年に自分の先祖は紀伊の民であると言ったのは、あるいは事実であったかも知れませぬ。もし然りとすれば彼は日本人である。俘囚たるべからざる日本人である。それが蝦夷のために捕らえられて、間違って俘囚の仲間になっていたから、今や王化に服したので、何とぞ俘囚の名を除いて調庸の民になりたいといったのであるから、これから見ても俘囚は日本人でないという結論になりましょう。もし論者の説のごとく、俘囚そのものがただちに日本人であるならば、ことさらに自己が日本人であることを申し立てて、俘囚の名を除いてもらいたいと願う必要はない。もしまた押人が嘘を言ったものであったならば、ますます俘囚は日本人でないという証拠になりましょう。

当時政府の方針は、なるべく調庸の民を増すにあって、これはその時分の国司に対する奨励法にも見えている。人口が増し租税が多くなるというのが、国司の良政治の一となっている。それでありますから、陸奥において俘囚の籍から脱して調庸の民になろうと願ったものはドシドシ許される。元来俘囚からは租税を取らない。のみならず、俘囚となって帰服してから二代間は、政府より俘囚料の米を賜わる。それほどにも俘囚は優待を受けたもので、つまりかくまでして蝦夷を懐柔しておったものであります。そこへみずから願ってその籍を脱して調庸の民になろうというのであるから、事実の有無はともかく、たちまち一も二もなく許される。間もなく三千九百二十人という多数が願って許されたというのも、同じ意味である。

その三千九百二十人は果して押人同様日本人であったかどうだったか、これは詮索する必要はない。すなわち現にこれまで俘囚に属していた人が、私どもは俘囚であるべからざる者が過って俘囚の仲間に這入っているのであるから、これを除いて調庸の民になりたいという意味ならば、これはかえって俘囚は本来王民と違うものだという方の証拠になるべきものであって、これを日本人だという証拠に使うのは無理であります。

しかし私は、俘囚ら三千九百二十人がもと王民であったと申し出たことについて、別の考えを下してみたいと思う。これは俘囚の中でも、特にこれを願い出た黒川・賀美など諸郡の三千九百二十人という人々のみがもと王民であったといったので、必ずしも俘囚全体のことではない。三千九百二十人といえばいかにも多数ではありますけれども、理屈を言えば五十歩百歩でありましても、嘘でもありましても、政策上から許したのでありますから、道理は一つです。そこでその「王民」という語ですが、これは必ずしも日本人という意味ではない。シナからの帰化人でも、皇化に服してわが国に帰化し、臣ミンの戸籍に編入されて徴庸の民となれば、すなわち王民である。朝鮮人でも、ないし蝦夷人でも同様で、調庸の民となれば、すなわち王民であります。それには明らかな証拠がある。
 
 

14 王民の語の解

天平宝字二年(六月)に陸奥の帰降の夷俘が男女合せて一千六百九十余人、これが皇化を慕って賊と戦い、官軍に対して忠義を尽した。そこで彼らに種子を与え、農業に従事をせしめ、永く「王民」となして辺軍に充てたとある。つまり蝦夷人に農業を教え、土着させて王民となしたのであります。蝦夷人も王民になれる。王民必ずしも日本人の種だという証拠にはならぬ。されば右の二つの例について、俘囚大伴部押人は自分を元紀伊の民で、日本人であるというておるけれども、後の三千九百二十人は必ずしも日本人だとはいわぬ。自分らの祖先は元王民となっていたが、それが夷の略するところとなって、いつしか再びその仲間になったといったものであると解したい。すなわち旧縁を尋ねて、自分らも再び王民に戻りたいと願ったのである。こう解すれば、ここに王民というのは、何も日本人だという証拠にはならぬ。それを一条禅閤が軽率に解して、右の三千九百二十人以外にも渉り、俘囚そのものをもって、ただちにもとこれ王民にして、夷のために略せられ、ついに賤隷となったものだといったのは、確かに間違いである。ことに「故に俘囚と云う。或は夷俘と云ふ」とあっては、蝦夷もまたもと王民だということになり、まったく訳のわからぬものになってしまいます。要するにこのことは、俘囚と夷俘とは違う種族であるという証拠には一つもならぬ。
 
 

15 夷俘と俘囚とは同種

ことに国史を調べてみますと、明らかに夷俘であったものの子孫で、俘囚になっている例もあります。夷俘が内地に移されて、だんだん年代を経ると、その風俗も改まり。まったく日本風になって、俘囚になってしまう。それで夷俘でいる間は位を授けるにも夷俘の位であるが、その子孫が俘囚となると、今度は従五位下とか従六位とかいう普通のものをくれる。平安朝も次第に下がってまいりますと、内地ではもはや夷俘も皆俘囚になってしまって、夷俘と俘囚との別がなくなった。そこで菅公の「類聚国史」にも、これを一緒にしていることと思われます。

菅公は夷俘と俘囚とを一緒にして、これと別に蝦夷の部を設けてあるのは、蝦夷はいまだ皇化に服しない生蕃で、これに対して当時夷俘は俘囚とともに日本風になってしまっていたためでありましょう。このころの政府の規則たる「延喜式」を見ますと、これにも夷俘という語と俘囚という語とを一緒に使っております。夷俘に与える米を夷俘料といいあるいは俘囚料ともいっている。夷俘は斯々すべしと一方にあるかと思えば、それを一方では俘囚と書いてある。

つまり延喜のころは、夷俘も俘囚も区別のないことになっていたので、菅公もこれを一緒にし、一条禅閤もやはり夷俘といいあるいは俘囚というとも書いたものでありましょう。このほかにも国史に俘囚を蛮といい、異類といえるなど、彼らが夷種なるの証拠はいくらでもあります。
 
 

16 夷俘は生蕃、俘囚は熱蕃

しかしながら、これは夷俘が十分熟化した後のことで、奈良朝から平安朝の初期のころは、夷俘と俘囚との間に明らかに区別がありました。で、その区別は何かと申すと、夷俘はすなわち生藩で、俘囚はすなわち熟蕃といったなら、一番早分かりが致しましょう。同じく蝦夷でありましても、早く王化に服して、日本の風俗に従い、日本語を用い、日本の服を着、日本人風名前をつけるようになったもの、これを俘囚というのであります。その夷俘も、俘囚も、内地に移して、主として農業に従事せしめ、日本人と同化せしめる。これが古来わが政府の執り来った方針であります。
 

17 夷俘の語の前後の相違

それで俘囚と夷俘と、内地にいるものは、いつしか区別がなくなって、蝦夷地に止まっている生蕃のみが、蝦夷の名称をもって呼ばれることとなってしまった。これ「類聚国史」に蝦夷と夷俘・俘囚とを区別した時代の真相で、同じく夷俘という語をもって書いてあっても、平安朝中ごろ以後にいう夷俘と、その以前にいう夷俘とは多少違っている。この点をさえ区別致しますれば、誠に明らかに分かるのであらいまして、要するに俘囚も夷俘も種族においては同じ者である。ただ文化の程度が違い、生蕃と熱蕃との相違があっただけのことであります。
 
 
 

18 俘囚の起源

しからばその生蕃と熱蕃との区別は、いつの時代に始ったか。これはおそらく蝦夷と日本人とが接触した当時からあったことで、神武天皇以後、あるいはさらにその以前から、すでにこの区別はあったでありましょう。斉明天皇の朝に阿部比羅夫が日本海方面の蝦夷を征伐した当時、各地において蝦夷の人口の調査をしました。その時の記事に、蝦夷の人口は何人、虜の人口は何人と、明らかに区別をして、日本紀(斉明五年三月条)に書いてある。
 

19 虜と俘囚

この虜すなわち「とりこ」で、これすなわち俘囚の意味であります。これを虜といったのは、虜すなわち外夷という次第ではなく、普通の意味によっても、捕虜のことでありましょう。蝦夷が捕虜となり、日本風に化せられる。それで後には捕虜とはならずとも、日本風になった熱蕃を虜といい。同じ意味で俘囚といったものとみえます。
比羅夫遠征の結果として蝦夷が多く服属した。この斉明天皇の御代に、坂合部連石布(いしわき)という人が遣唐使になって唐に行き、蝦夷仁二人を同行して、これを唐の天子に示した。このことは唐の歴史にもちゃんと書いてある。蝦夷の国には海島中にあって、その国の人は大変髭が長い。長さ四尺とあります。非常に弓を射ることが上手で、四十間のかなたに人を立たせ、頭に瓢箪を載せて、これを射るに過ることがないとある。
 
 
 

20 斉明朝ごろの蝦夷の三種

この時の遣唐使坂合部連石布の随行者に、壱岐連博徳(はかとこ)という人があった。その人の日記に、この時の様子が詳しく書いてある。「唐の天子問ひて曰く、此等の蝦夷の国は何方にありや。使人謹みて答ふ。国は東北にあり。天子問ひて曰く、蝦夷は幾種ありや。使人答へて曰く。類に三種あり、遠きを都加留(つがる)と名づけ、次は麁蝦夷(あらえみし)、近きは熟蝦夷(にぎえみし)。今この熟蝦夷の夷毎本国の朝に入貢す」(斉明紀五年七月条)などと、まだまだ詳しい問答がありますが、要するにこの熟蝦夷がいわゆる虜すなわち俘囚で、今日の語でいえば熟蝦夷と当る。これに対して麁蝦夷が生藩で、いわゆる夷俘に当るのであります。その奧に、さらに都加留というのがいた。都加留はすなわち津軽で、源平時代までも蝦夷地の端だと思っていたみえて、よく悪路・津軽の端(はて)までもなどといってあります。
 
 

21 王朝の対夷政策の一

さて、政府の蝦夷に対する扱い方は、どういう風であったと申すに、浮腫なり、夷俘なり、王化に服した者はこれを蝦夷地から離して内地に移す。蝦夷地に置くと、彼らが団結して、同化しにくい。団結して勢力が減じない。そこで政府の政策では、なるべく彼らを団結させないことに終始注意している。
 
 
 

22 以夷制夷

これはシナ伝来の語でありますが、常に夷をもって夷を制(征)するの方法を採っている。蝦夷のある団体を怪獣しては、これをして他の蝦夷の団体を制せしめる。歴代の征夷「詔勅」を見ますると、「夷を以て夷を制するは是古への上計」などと見えております。蝦夷は強い、一もって日本人の百に当るということは、神武天皇の御製以来極った相場である。それが貞観年間になると、一もって千に当るとまで言われている。そこでいつでも蝦夷を征伐する場合には、日本人と蝦夷人との戦争ではなく、うまく蝦夷人を用いて、蝦夷同士の戦争をやらせる。これが古今動かぬ遣り方であった。
 
 

23 前九・後三の役と俘囚

かの有名な前九年・後三年の役などもそうで、その長の安倍武則なり、藤原清衡なりが、それ自身蝦夷人であったかどうかということは、これはまず別問題として説明を後に譲りまして、少なくとも彼らの下に付いておった兵隊は、大部分俘囚すなわち日本化したる蝦夷であります。これは当時の記録上、もはや争うべからざることである。その前九年の役において、陸奥守兼鎮守府将軍たる源頼義は、配下の官軍以外、蝦夷人などをも使って貞任を攻めたが、前後十二年を費してまだこれを平げることが出来ない。そこで最後に、出羽仙北の俘囚清原武則を頼んで俘囚同士を戦わせ、やっと勝ったのであります。
 
 

24 前九年役はその実十二年役

ここでちょっとお話が脇道に入りますが、奥羽経営至上大切なことでありますから、前九年の役ということを説明したい。この戦争は実は十二年掛かった大戦であります。ゆえに古い書物には、皆これを十二年の役といっておる。この十二年の役を間違えて、前後二つの役に分けて、前九年後三年合して十二年の役だなどといっておりますがこれは大間違いでいわゆる前九年の役なる安倍氏追討だけに、まさに十二年を費している。これは当時陸奥の国史の人気は六年で、その人気は疾くに満ちたけれども安倍氏の勢力は、いっこう衰えない。陸奥守源頼義は任期六年経ってもこれを滅ぼすことが出来なかったから、さらに六年の重任を得て、十二年を費したが強敵貞任はまだ滅びない。
 
 

25 前九役と旅純攻囲

今度は三度目の重任という訳にはまいらず、代りの国守は間もなく下向するということになった。是が非でも早く貞任を滅ぼしてしまなければならぬ破目に陥った。これはちょうど乃木大将の二百三高地に対されたと同じことで、ぜひ明治三十七年中に旅順を落としてしまわねばバルチック艦隊は間もなくやって来る、わが海軍はこれを迎えるために、旅順の封鎖を解いて根拠地へ帰り、船の修繕をしなければならぬ、どうでも旅順は陸軍の力によって今年中に落としてしまわねばならぬということになった。頼義のこの場合まさにこの通りである。そこで彼は出羽仙北の俘囚長清原武則を巧く懐柔し、勧むるに甘言をもってし、厚く賄賂を贈り、やっとこれを説き付けて、俘囚と俘囚との戦争をさした訳であります。この時清原武則は、一万の俘囚を率いてやって来た。頼義手を取って喜んで泣いたとある。かくてめでたく貞任を滅ぼすことが出来た。これには清原氏の功が多いので、頼義は武則を推挙して鎮守府将軍とし、もってこれに報いたのである。
 
 

26 俘囚安倍に代る俘囚清原

勢いかくのごとくであったから、清原氏は非常な勢いで、ただちに安倍氏に代って奥羽に勢力を占むることとなった。畢竟、前九年の役は、十二年を費して俘囚長安倍氏に代うるに、俘囚長清原氏をもってするの結果となったに過ぎないのである。のみならず、清原氏の方では、頼義が貞任征伐の時に、武則に降参して清原氏の家人になり、それで清原氏がこれを救うてやったくらいに思うておる。後三年の役に当り、清原武衡は源義家に向い、こんなことを言っている。汝の父頼義は、わが父武則の家人になって、助けを得たではないかと。それに対して義家は、果して頼義が汝の父の家人になったならば証拠を示せ、差入れた名簿があるであろうから、それを見せよと言ったとある。これは結局武衡が閉口したのでありますけれども、清原の方では自分の方へ頼義が降参したと思っていたくらいにまで、頼義は手を尽くして武則を懐柔したものであった。
 
 

27 蝦夷の敗退は一致の欠乏

この時もし俘囚同士に団結があって、清原氏と安倍氏とが一致するか、少くも清原氏が頼義を助けなかったならば、前九年の役は十二年は愚か、いつまでたっても容易には済まなんだことと思う。鎌倉時代に至っても、やはり奥州の蝦夷人同士喧嘩をして、彼らは次第に弱ってしまったことであった。そういう風で、彼らは仲間同士で戦ってはおのずから弱くなる。彼らの団結をなくして、夷をもって夷を制することは、わが政府の政策として非常に必要な、また非常に悧巧なことでありまして、これで古来着々成功してきたのであります。
 
 

28 王朝の対策政策の二

今一つの政策は、蝦夷地に日本の文明を伝え、彼らを同化せしめることであります。蝦夷人の帰服したものは、非常なる優待を与えてだんだんと内地に移す。かくして彼らは、九州の端までも皆行き渡っている。この手段で彼らの勢力を殺ぐと同時に、内地人を続々蝦夷地に移す。なんのことはない、人間の入れ替えをやったのである。奥羽地方には蝦夷人の子孫が多かろう、九州辺りには蝦夷人の血は混っておるまいとは、ちょっと考えられそうでありますが、必ずしもそうではない。九州辺りにも蝦夷人の子孫は多くなければならぬ。移されてかの地へ行ったものは、よほどたくさんあります。これと反対に、奥羽には内地人がたくさん這入っている。
 
 

29 「延喜式」の俘囚料

内地に移された俘囚らの数はどのくらいあったということは、今日これをつまびらかに知ることが出来ませぬが、「延喜式」を見ますと、延喜時代の俘囚料の高が出ております。

地方税で支弁するもので、この予算のある国がおよそ三十五カ国。これは蝦夷人を内地に移しますると、二代間は糧量をくれる。その米は一人一日稲二把、十日に二束、一年で稲七十三束の割合になります、しかしてその俘囚料を計上してあります高は、多い国には十数万束にも達している。最も多いのが、肥後で、これは十七万束とある。一束は春いて当時の桝で米五升を得るというのでありますから、十七万束では八千五百石で、これを貸し出してその利息をもって俘囚に給与するのであります。その当時の利息は大変高いもので、三割ないし五割というようなことでありますから、私は今延喜当時果して何割であったか調べかねておりますが、かりにこれを四割と見ると、肥後国において俘囚に給与する高が毎年三千四百石ずつとなり、一人七十三束三石六斗五升として、現に給与を受くる俘囚の数九百三十二弱となる。

この数は精密な計算ではありませぬ。出挙(すいこ)すなわち貸出しの利息をよく研究したうえで定むべきことではありますが、大約まず肥後で一千人、近江で五、六百人ということになる。他にも多い国はいくらもあります。
 
 
 

30 俘囚料と俘囚の数

しかしてこれは諸国にいる蝦夷種の民の実数ではなくて、現に俘囚の名のもとに俘囚料の給与を受けている数でありまう。前申した通り、俘囚は内地へ移ってから二代間給与を受けるが、孫には及ばない。そこで実際蝦夷種でも、古く移ってもはやこの給与にあずからぬものが、ほかにいくらあるかわかりませぬ。かの日向のごときは、「延喜式」では俘囚料一千百束を計上してあるに過ぎませぬが、これより先に尽して、数が減じたためである。しからば、延喜のころには日向に給与を受くる俘囚の数は、少くとも承和十四年、までは十万七千六百束以上を計上しておったもので、それだけの人の子孫はどこかになければならぬはずです。これもって他を類推すべきもので、「延喜式」に計上してある数はただその当時の実数で、その三十五国以外にも、かつて多数の俘囚の移されたところも多かったことでありましょうし、「延喜式」に俘囚料が少くとも、かつては多かった国も少なくないでありましょう。これを通計して考えてみますと、俘囚は全体でどのくらい内地に移されたものか、けだし想像以上の多数に上っておったことでありましょう。
 
 
 

31 夷地における日本人

これと反対に内地人で蝦夷地に移り、盛んに拓殖に従事したことの多かった様子も想像されます。中には内地人で当時俘囚の勢力のもとに属し、その仲間に這入っておった者も多かったに相違ない、かの安倍貞任のごときは非常な勢力を有して、奥州でも目貫きの場所奥六郡を横領し、国史もこれをいかんとも能わず、源平藤橘の名家の姓を唱えるいわゆる王臣子弟の徒までが、その下に属することとなっていた。これは徳川時代においても、日本人でアイヌの養子になったり、アイヌの仲間に這入ったりしたのがあるくらいでありますから、まして俘囚の勢力の盛んな時代には、いっこう珍しくなかったでありましょう。昔も今もそう人情に変わりのあるものではない。
 
 

32 遺利を東国に求む

ことに奈良朝以来、日本人が東国に利源を求め、富を得たいという思想は勃々(ぼつぼつ)として禁じることが出来ない有様であった。「万葉集」にこういう歌があります。

鳥が鳴く東を指してふさへしに 行かんと思へど由も実(さね)もなし
鳥が鳴く東の地方に行けば遺利がたくさんありますから、幸いを求めに行こうと思うが、行くべき便りもなければ旅費もないといって述懐した歌です。これは奈良朝時代の人士の思想の一端を示したものでありましょう。奥羽に行けば金がいくらでもそこに転がっているように思うておる。
 
 

33 奥州と黄金

天正二十年に奈良で大仏を造った時に、陸奥守百済王敬福じゃ、小田郡に出た黄金を献じた。日本の国内で初めて陸奥に黄金が出て来たのであります。奥州には黄金が多かった。いわゆる黄金花咲く陸奥山で、これはこの中尊寺の金色堂を見てもわかります。藤原清衡の時代に至っても、非常に金がたくさんあって、これを惜し気なく使ってある。基衡が毛越寺を造る時にも非常に金を費やした。本尊薬師仏を造るだけに費やしたのでも大したものであった。これはいずれ他の講師が述べられましょうから略しますが、ともかくこの奥州の砂金というものは非常な数で、金売吉次なども実に平泉の人でありました。マルコポーロの旅行記を見ますと、当時蒙古では日本には黄金がいくらでもあると思っていたようである。これは必ずしも奥州の金のみではありますまいが、昔の人が奥州を見るのは、蒙古人が日本を見たのと同じように考えておったに相違ない。そこで中央において志を得ない有為の人士や、内地の喰い詰め者や、冒険者などが続々奥州に這入ったに相違ない。そういう風にして、人間の入れ替わりがある。日本文化がだんだん辺境に及んで来る。俘囚はもと蝦夷人だといっても、まったく日本人と同じように開けてしまった。否、奥州でも勢力の中心地方のものは、「東路の埴生の小屋のいぶせきに」と歌われた東海道筋などよりも、遙かに開けていたであろうと思われます。
 
 

34 安倍氏の俘囚なる証

ここにおいてさらに解決すべき問題は、前に暫時お預りしておいた安倍・清原・藤原ら、いわゆる俘囚の長たるものの種族的研究であります。系図を見ますと、安倍氏は四道将軍大彦命の子孫、清原氏は天武天皇の後裔、それから藤原氏は天児屋根命の子孫で、ことにその清衡は左大臣魚名の後裔たる田原藤太秀郷の子孫だとある。しからばどれも立派な日本の貴族で、もちろん蝦夷ではありません。しかしながらこの系図果たしてことごとく信ずべきか否か。元来俘囚の長は、国史からその国内の俘囚の中で、衆の推すところのものを選んで命ずるものだとある。しからば、俘囚長は同じく俘囚であらねばならぬが、かの蝦夷をもって組織した佐伯部の兵の長たる佐伯宿禰は大友宿禰の一族で、これが佐伯部の長になった例を見ると、日本人で蝦夷を率いることが出来ないという訳はないという理屈もある。

俘囚が蝦夷人たることはすでに証明されても、その俘囚の長が必ずしも同種のものでなければならぬという理由はないから、安倍なり、清原なり、藤原なり、これらの豪族はもと内地から夷地に這入って、蝦夷人を従えたと解することも出来ましょう。けれども、それは唯一つの解釈でありまして、必ずしも証拠はない。多くの場合において、俘囚長はすなわち俘囚の仲間であるというのが事実であります。これは歴史上に晃かなことで、近江国の俘囚長、播磨の国の夷俘長などいくらも例はありますが、これはことごとく蝦夷人であります。系図も実はいろいろありまして、安倍氏の系図のごとき、大彦命の子孫にかけてあるのもありますけれども、現に貞任の子孫と称する秋田氏の系図ではこれを認めず、神武天皇御東征の時の長髄彦の兄の子孫だと入っていることはすでに申した通りであります。
 
 
 

35 安倍氏の由来

また現に奈良朝において、俘囚にして安倍姓を与えられたものがたくさんあるから、貞任の家あるいはその中の一かもしれませぬ。秋田家の系図でも、長髄彦の兄の安日の子孫が後に安倍姓を賜ったとも記してあります。それはまずいずれにしても、少くもその当時の都人士によって、安倍貞任・宗任らは蝦夷人であると看做されておったことは確かであります。これはその当時の「太政官符」にも明かにそう見えている。
 
 

36 宗任と俘囚

貞任らが降参した時に、太政官は、貞任らたちまち旧悪を悔い、すでに降虜となるうえは、その情、まことに矜(つつし)むべきものであるから、よろしく彼が同党類に仰せ、相ともに便所(びんじょ)に移住して永く皇民となし、衣糧を支給すべしとの命を下した。安倍宗任らはこれまで皇民ではなかったのである。それを今度降参したについて、同じ仲間の俘囚らとともに都合のよい所へ住ませよとのことであります。
 
 
 

37 前九の役は征夷の軍

それからまた源頼義はこの陸奥十二年の役終って、征夷の功によって伊予守に任ぜられ。その任期満ちて後。さらに重任を願った嘆願書が伝わっておりますが、それにも敵が夷であったことを精しく述べてあります。「爰に奥州のうち東夷帚し、郡県を領して以て胡地となし、人民を駆って以て蛮虜となす。」などと見えております。その当時において前九年の役すなわち奥州十二年の役は征夷の役であり、滅ぼされた安倍氏は夷の頭目であると都人が認めておったことは確かであります。
 
 

38 武士と東夷

もっとも後に源頼朝も雲上人から東夷と見られ、また豊壌泰時は「貞永式目」を書いた時に、こういう物を拵(こしら)えて、京辺にては定めて物も知らぬ夷どもの書き集めた物として笑われるだろうと言っている。誰も減じや北条氏などを目して、蝦夷だと言うものはありませぬが、これは別の理由のあることで、安倍氏とは訳が違う。安倍氏た夷裔であった事実は疑いを容れない。
 
 

39 俘囚の文化

さてこれらの俘囚は当時いかなる状態であったかというと、それはナカナカ開けておったものである。彼らは即吟に歌を詠ずるまでの文学を有していた。

年を経し糸のみだれの苦しさに衣のたてはほころびにけり
これは貞任が義家から弓をつがえて脅かされた時に即吟して免れたと伝えられるところです。また宗任は捕虜となって京都へ行った時に、大宮人からかの夷荻とうてい梅などは知るまいとのことで、その一枝を示された時に、
我国の梅の花とは思へども大宮人はなにと言ふらん
とさっそくやったので、さすがの大宮人も返歌が出来ず、大いに平行したと伝えられている。これらはむろん作りごとではありましょうが、ともかく彼らはかく開けているものだと信ぜられていたのであります。ことに「陸奥話記」を見ると、安倍貞任が厨川に敵を防いだ時の戦法は、後年楠木正成が千早城において敵を防いだ戦法とほとんど相類する。正成のやったのは、「太平記」の作者がこの厨川の役の記事を潤飾して書いたのではないかと思われるくらいで、それを貞任は確かにやっておったのであります。このほか、つまびらかに「陸奥話記」を読んでみると、当時彼らの開けていたことが重いのほかであることがよくわかる。しかしてそれは貞任一人がかく開けたのではなくて、その時分の奥州の俘囚仲間は直接京都の文明を輸入し、随分開けたものであったのであります。後に藤原三代が平泉を中心として栄えた時代のごときは、日本でもほかの地方よりよほど進んでいたようである。日本文明の第一の中心はむろん京都として、平泉はあるいは第二の文明の中心になっておったかも知れませぬ。ともかく俘囚安倍氏はあく開けておった。
 
 

40 清原氏の俘囚の証

次に清原氏もまたいわゆる俘囚の長であって、「陸奥話記」にも明らかにこれを俘囚の長とあり、その「陸奥話記」に一に「奥州合戦記」として「扶桑略記」(康平五年十二月条)に引いてありますが、それを「今昔物語」に引いてあるところを見ますと、この俘囚の長を「夷の長」と書いてあります。

これをもっても彼らを夷と見ていたことは明らかであります。また新羅三郎義光が、兄義家を助けんがために奥州に下ろうと願った言葉の中にも、兄義家、夷のために攻められ云々と言っている。ズッと後になりまして、藤原秀衡が鎮守府将軍に任ぜられたが、これはすでに清原武則においても先例のあることで、武則は一万騎の俘囚軍を率いて、前九年の役に頼義を助けた勲功をもって、この栄職に任ぜられた。これについて後に後三年の役に際し、武衡は義家を罵って、汝の父頼義は、わが父武則の援けを借りた家人ならずやと言った時に、義家答えて、戦争の習いとして困った時に援兵を乞うということはこれは普通である。わが父頼義が汝の父武則に助けを借りたことは、これは否定しない。しかしながら、その報として「武則は賤しき夷の名をもって、辱くも鎮守府将軍に任ぜられた、既に恩は充分報いてある」とこう答えている。

清原氏が同じく夷として認められていたことは、これによっても明かであります。
 

二席(3) 了



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2000.7.25

2000.8.6Hsato