家族の社会的機能

日本のおとうさん立ち上がれ


最近のおかしな事件を考えるにつけ、家族というものが正しく機能していないことが原因では、と考えるようになった。

@ 昨日、山口県で若い母と子を暴行して残酷に殺害した18才の少年が、少年法に守られて、検察の死刑の求刑に対し、無期懲役の判決がでた。七年経てば、この極悪な犯罪を犯した少年は、25才の若さで、社会に復帰することになる。裁判官によれば、母親が自殺など、して愛に飢えていた。年齢から言って公正する可能性が残されているとして判決だったが、なにかすっきりしないものが残る。

A また京都の小学生を殺害した若い男の子の事件での母親の言葉「お母さんは、信じているから、」にも、厳しくいえば、自分の息子がどんな心理状況にあり、悪いことをするかしないか、位の感覚がなければおかしいと思う。

B 更に小学4年生を9年に渡って監禁していた男の母親が、こともあろうに、自分の住んでいる二階で、凶悪な犯罪が行われていることを、知らないという驚くべき話。これも母親失格、言語同断である。

もちろん軽々には言えないかも知れないが、もしも家族というものが、正しく機能を果たしていれば、上記のような事件は起きなかったのではあるまいか。その意味では、この三人の若者は、許されない犯罪を犯した犯罪者ではあるけれども、一方では正しく家庭教育を施されないために犯罪を犯すことになった被害者でもある。

この三つの事件を見て、唯一はっきりしていることは、まったく父親の影が見えないことだ。@の場合は、父親は離婚でいない。Aの場合は、父親はいるのだろうが、一切事件に対して発言はない。Bの事件の場合は、死別して母親が、犯人が成人した後も面倒をみていたようだ。つまりどの事件でも、父親の不在もしくは威厳のなさが、子供の精神の発達に大きな影を投げかけているのは否定できない事実だ。要するに父性の権威の失墜が家族関係の崩壊を招き、そして崩壊した家庭が犯罪の温床のようになっているのである。現代日本の家族の一つの典型として、母親ばかりが、目立ち過ぎて、父親の影が薄いことは大いに問題にすべきだ。要するに父親も子供の教育と成長に積極的に参加しろということである。

日本の家庭崩壊の現状を根本的に打開する道は、やはり家族というものを再度あるべき姿に戻すしかないことは明らかだ。全ての根元は家族である。太古の昔から、子供は家族に守られ、時に優しく時に厳しく、教育を施されて成長する。また子供は地域のみんなに厳しく見守られて成長し、社会の一員として認められるようになる。その結果、やがては自分で家族を持つようになり、一人前として認められるようになるものだった。

ところが最近ではどうもその成長のストーリーが狂ってしまっているようである。上記の三つの犯罪者を生み出した家庭ばかりではない。あなたの所も私の所もみんな、変な風潮に染まりつつある・・・。つまり親と子がいつまでも経っても自分の家族を持つということをしないで、共に暮らす風潮があるようだ。その子供に聞けば、一言「楽だから」という答えが返ってくるが、これだってどこかおかしい。

こればかりではない。昨今の日本では、子供が学校へ行って「おとうさん」と言うのすら「かっこわるい言い回し」となっているという。そこで子供は、仲間はずれにならないように友達に順応し、悪い言葉で平気で「うちのオヤジ」などというようになる。まさに家族というものが、社会的に機能を果たしていないのである。勢い自分の家族が、子供を教育出来ないにもかかわらず、今度は親は学校というものに、子供の教育についての責任を押しつける。諸外国の例を取るならば、これは実に非常識な感覚である。例えばドイツでは、子供のしつけや情動教育は親の責任においてなされる。あくまでも学校は、知識を教育する場でしかない。

日本の子供の不幸は、一見良いことのように見える子供部屋の出現にも原因がある。最近の子供は、家に帰るなり自分の部屋に閉じこもって、一人でゲームというのが普通の姿になっている。子供とくに小学生にプライバシーなど必要があるだろうか。親はそこで子供に対する介入権を放棄しているのである。深く介入もしないものだから、逆に大人になっても子離れ、親離れができないというおかしな状況となっている。そのためにも一家団欒、家族単位の行動というものが大切になる。

ともかく家族という単位が人間の始まりであり、国というものの始まりである。だから家族の危機は、そのまま国家の危機に結びつく。昨今のおかしな犯罪を見るに付け、家族というものの建て直しが急務であると感じる。そうでなければ国家としての日本の再生もない。

いまこそ、日本のおとうさん、立ち上がれ!!佐藤
 


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2000.3.23