河合隼雄氏のご逝去を悼む

河合隼 雄小論(業績と人となり)


佐藤 弘弥

 河合隼雄氏の訃報を聞く

ユング心理学者で前文化庁長官河 合隼雄氏が、07年7月19日午後2時過ぎ、旅立たれた。享年は79歳。思い起こせば、氏の最後は余り悲しいものであっ た。

というのは昨年(06年)6月、文化庁関係者が、奈良県明日香村の高松塚古墳の国宝壁画の損傷を公表 しないまま、修復していた事実が発覚。その後、責任を 感じた河合氏は、給与の一部を返納などした。同年8月9日、河合氏は、地元明日香村を訪れ、苦々しい表情で、脂汗を流しながら、「文化庁の信頼が損なわれ る事態となり、おわびしたい」などと、文化庁のトップとして壁画損傷の責任を住民代表者たちに侘び、同時に石室解体という荒療治による壁画修理の協力を要 請した。

本来、氏の本性とは関わりのないところから、情報不開示(隠蔽)の責任は、湧いたように降りかかって きたのである。おそらく、氏の中で、恥じ入る思いが津 波のように襲ったことは想像に難くない。07年8月17日、奈良の自宅で突然倒れた河合は、脳梗塞と診断され、緊急手術が、施されたが、ほぼ一年間、河合 隼雄氏という日本文化研究に多大な功績を遺した大人物は、一度も意識を回復することなく、奈良県天理市内の病院で、ご家族に見守られながら、ついに昨日 (07年7月19日午後2時過ぎ)返らぬ人となった・・・。

河合隼雄氏は、単に文化庁のトップに居たというだけではない。文字通り日本文化研究のトップランナー だった。そんな人物が、文化庁の情報公開を怠るという 余りにも情けないミスがストレスとなり、命を失ってしまったと思うと本当に残念でならないのである。


 河合隼雄氏の略歴

河合氏は、1928年(昭和3年)兵庫県丹波篠山に生まれた。男ばかりの六人兄弟の五番目だった。父は地元の旧家の農家の出だが、次男坊のため、歯科医を 志し、見習いからはじめ、東京に留学するなどして、歯科医院を開業した努力家だった。河合氏に父譲りの粘り強い性格を受け継いでいるようだ。父は子供たち に講談調の「おはなし」をして聞かせたということだ。

河合氏は、京都大学理学部数学科を卒業後、私学の数学を教える高校教師として教鞭を取りはじめる。そこで、悩みを抱える生徒たちの相談を受けているうち に、心理学を学ぶ必要を痛感。京都大学大学院に進み臨床心理学を学ぶ。ロールシャッハ法(心理テスト)の権威ブルーノ・クロッパーの著作に没頭。著者に手 紙を出す。思いがけず返信があり、大感激をする。大学院卒業後は、天理大学の講師となる。

31歳(1959)の時、敬愛するクロッパー教授に学ぶため渡米を決意。フルブライト留学生としてUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)に留学し た。そこでクロッパー教授に、ユング心理学の著作フリーダ・フォーダム著「ユング心理学入門」に勧められ、強い衝撃を受ける。

34歳(1962)、クロッパー教授の推薦を受け、スイスジュネーブのユング研究所に留学する。この時、提出資格を受けるため、河合氏は日本神話に関する 論文を同研究所に提出している。すでに日本文化研究への興味はこの頃にすでに膨らんでいたことになる。

スイスに渡った河合氏は、C.G.ユング(1875-1961)の高弟だったC.A.マイヤー(1905ー1995)につき、3年間学び、日本人として初 めて、ユング派精神分析家の資格を取得し帰国。すぐに母校京都大学の非常勤講師として、臨床心理学を講義することになった。ここからの氏の活躍は説明の必 要がないほどだ。

39歳で初めての著書「ユング心理学入門」( 培風館 1967年刊)を刊行すると、「箱庭療法入門」(編著 1969年 誠信書房刊)、「コンプレック ス」(1971年 岩波新書)と立て続けに上梓。44歳(1972年)に京都大学教育学部助教授に就任。このころ、同じ京大のノーベル賞受賞の湯川秀樹 (1907−1981)や「梅原猛氏(1925− )より、明恵上人(1173ー1232)の研究を勧められた。(その構想は、15年後、氏が60 歳の時に「明恵 夢を生きる」として結実した。この著作は、後に紹介するが、第一回新潮学芸賞受賞することになる。)

以後、氏は47歳で京大教授に就任すると、ユング心理学の研鑽で培った見識を、神話や物語などの分析を踏まえて日本文化と日本人の心にフォーカスした意欲 的かつ独創的な著作を次々発表し、60歳(1990年)で国際日本文化研究センター教授を兼任した。

64歳(1994年)で京大教授を退官後は、アメリカのプリンストン大学やコロンビア大学などで、講演をするなど世界的なユング研究者と評される存在と なった。67歳(1995年)に国際日本文化センター所長(95−01)に就任。同年には、紫綬褒章を受賞した。72歳(2000年)には文化功労賞を受 賞。またこの年には、趣味のフルート演奏をCD「音と心」として発売した。74歳(2002年)で請われて文化庁長官となり、在籍期間は、今年の1月任期 満了で退官するまで6年間に渡って続いた。


まさに河合隼雄氏は、ユング心理学を通じて日本人の心の状況を探り、日本文化の深遠な森にまで分け入った稀有な学者だった。

以後、数回に分けて、河合氏の業績の人となりを辿ってみたい。

◇  ◇  ◇

 1 夢の分析

ユングが言った心の構造というものは、大きく分ければ、表層意識の奥に個人的な無意識と集合的な無意識があるということになる。そして一般に潜在意識と括 られてしまうこの無意識世界にあって、個人がどのようにあがいても、知覚できない世界があり、それが集合的無意識(普遍的無意識)というものだと知った時 は衝撃的であった。

何故ならば、人間はどんなに努力をしても、自分の心というものを知覚することは出来ないということになるからだ。しかし幸いなことに、夢というものがあ る。人間は自分が見る夢を分析することによって、自分の心というものが、何を欲し、何によって突き動かされているか、ということを、朧気ではあるが、学問 的レベルまで、掘り下げて分析できるのである。

その代表的な著作が「明恵 夢を生きる」( 京都松柏社発行 宝蔵館発売 1987年4月刊)という労作だろう。この著は、鎌倉時代において夢日記(「夢 記(ゆめのき)」)を綴った名僧明恵上人(1173ー1232)の日記の心理を克明に分析することによって、個としての明恵の心とそして、明恵を慕う人々 がいかに見えない心というものを介在して、魂が向き合っているかを解読した名著である。私はこれを精読することで、人間とは時代を越えて、いかなる時にお いても個人(自己)として存在するものだ、ということ、そしてもうひとつ集合的無意識というものが、まるで漆黒の宇宙のように心の奥に拡がっており、そこ には汲めども尽きないほどの智慧が眠っているのではないか、と想像させられた。


この著を書くために河合氏は、白州正子さん(1910−1998)との知遇を得た。彼女は、すでに「明恵上人」(新潮選書 1974年4月刊)という本を 出版していて、この著に触発されながら、河合氏は日本人と日本文化の森に深く入って行ったのである。

私は白州正子さんの自邸である「武相庵」の奥座敷の書斎を見た時、河合隼雄氏の著作が、ぎっしりと整理され配置されているのを見た時、白州正子という日本 文化の研究者が、河合氏のユング心理学による日本文化の心理分析というものが、いかに重要な仕事であるかということを、思い知らされた。

ふたりは18歳という世代の違う人物ではあるが、互いに深い尊敬を持ちながら、日本文化というものの奥にあるものを探ろうとしたというべきだろう。ふたり は「縁は異なもの 白州正子 河合隼雄」(河出書房新社 2001年12月刊)という著作で対談をしている。これは白州氏が亡くなってから刊行されたもの であるが、その中に、面白い白州さんのエッセイが掲載されている。

これは白州正子さんが、河合氏の「明恵 夢を生きる」の解説として書いたものである。白州さんは、「解説は苦手」と前置きして、自分が河合氏の心遣いに よってに癒されたというエピソードを明かしている。

ある新聞のコラムに、白州氏は「私の小さな秘密」として、長年自分の身の回りの世話をしてくれた乳母が高齢で亡くなった時、人が死んだ悲しみより、戦時中 のことで、これでイースト菌を調達する者がいなくなって、パンが食べられなくなると思ったらしい。白州さんは、なんて私はイヤらしい人間なのだろう、と自 己嫌悪を催し、ずっとその気持ちを隠してきた。数十年後、これをコラムに書いたのである。

すると、これを読んだ、河合氏がこれを雑誌か何かに取り上げて、「人はあまり大きなショックをうけた時には、それから逃れるために極く些細なことや、つま らないことを考えるものだ」と言ってくれたというのである。

白州さんは、あまりにうれしかったのか、その夜には、夢に河合氏が現れて、旅先のホテルの芝生の上には満天の星空が広がる中で、やさしく静かに抱いてくれ たというのだ。これは少しもセクシーなものではなく、ちょうど「明恵上人が弥勒菩薩に抱かれて、ゆうゆうと空を飛んでいる感じ」と白州さんは表現してい る。確かに、河合氏の言葉に癒され、その癒しは、個人の無意識の表出としての夢にまで顕れ、白州さんの心は魂のレベルで救われたということができる。白州 正子さんの自邸である武相荘の書斎に、河合隼雄氏の書籍が多く配置されている意味が、何かよく分かった気がした。


参考文献

「未来への記憶ー自伝の試みー」(岩波新書 上 下 2001年1月刊)
「コンプレックス」(岩波新書 1971年刊)
「明恵 夢を生きる」( 京都松柏社発行 宝蔵館発売 1987年4月刊)
共著「河合隼雄 こころの処方箋を求めて」(文芸別冊 2001年1月刊)
共著「河合隼雄を読む」(共著 講談社 1998年12月刊)
対談「縁は異なもの 白州正子 河合隼雄」(河出書房新社 2001年12月刊)


 2  中空構造論(日本の国の形と日本人の心を規定するもの)

昔、私は漠然とではあるが、神話と渾然一体となって曖昧な日本の歴史の真相を知っている人がいるに違いないと思っていた。


 明治維新で壊れたもの

日本の歴史は、古事記や日本書紀に表された日本神話があることで、非常に曖昧になっているという現実がある。普通民族に伝わる神話というものは、歴史的現 実というよりは、夢やファンタジーのように、民族の想像力をかき立てるものである。同時にそれは、民族の文化的歴史的な背景を持つ「神話の知」あるいは 「神話力」とでもいうべき大切な智慧を含んでいるものである。

ところが、日本の場合には、明治維新以降、明治憲法によって、天皇の権力というものを国家の中心に据えた立憲君主制を取り、強力な富国強兵政策進めた結 果、古代における日本神話がイデオロギーとして機能させられるようになって、日本人の精神は、歪められた神話解釈をなかば強制され、急速に全体主義化させ られることになった。その為、今日でも、どうも日本の神話というものに、違和感や懐疑心を持つ人も少なくない。教育の現場でも、日本の神話を教えることは ひとつのタブーのようになってしまっている現実がある。

太平洋戦争が勃発する頃には、日本人のかなりの人々が、「日本は神国だ」と主張する「軍国主義思想」に、洗脳されたようになって、「アメリカ怖れるに足ら ず」との声が巷に満ち溢れていた。昭和16年(1041)12月8日、日本海軍はアメリカ海軍の基地があるハワイ真珠湾に空から奇襲を仕掛けた。この日 は、日曜日の早朝とあって、アメリカ軍も油断をしていたこともあり、アメリカの太平洋戦略に大打撃を与えた。この一報を、日本中が歓喜の声で聞いた人がほ とんどだった。しかしその後、戦局は急速にアメリカ軍優勢となり、沖縄戦、広島、長崎への原爆投下と続き、日本は昭和20年(1945)8月14日、ポツ ダム宣言を受諾し無条件降伏を受け入れることになったのである。

何故、神の国の日本が負けたのか。それは結局、明治維新以降、日本神話にイデオロギー的な装飾をしながら、天皇という存在を中心に据えて、ドイツ流の西洋 化を短絡的に進めたことの敗北であった。それはまた神話的幻想(イデオロギー)に洗脳され全体主義化した日本人が、真の意味で近代合理主義の精神(民主主 義)というものを知る始まりとなったのである。


 河合隼雄氏の自己探求の旅としての日本神話研究

河合隼雄氏は、日本神話にユング心理学をもって取り組むことになった経緯について、このように語っている。

「日本神話はかつて軍閥によって 都合のいいように解釈され、国民に押しつけられたという不幸な歴史をもっている。私も子供時代にその体験をしたため、日本 神話に対する嫌悪感は相当に強かった。それが、アメリカ、スイスに留学し、ユングの分析家になるためにひたすら自分の内界への旅を続けていたときに、日本 神話に出会うことになり、非常に驚いた。結局は日本神話を取りあげ、分析家になるための資格論文を書いた。」(「神話と日本人の心」岩波書店 2003年 7月刊)

私は、この引用文中の「非常に驚いた」という箇所に、注目する。それはソクラテスが、日常毎日通っていた門の上にある「汝自身を知れ」という言葉によっ て、一種の悟りを得て、学問の何たるかを知ったことに似ていると思うからだ。

私は冒頭、日本の歴史を誰か明確に知っている人が現れると思った直観は、今この河合隼雄氏ではないかとさえ、考えるようになった。日本の歴史の真実とは、 単なる歴史学的な政治状況の変化変遷のみではなく、日本人と称せられる日本列島に住むようになった人間の心(魂)の歴史もある。


 中空構造とは何か?

河合氏は、己の心の内面を探ろうと、日本の神話という森の中に分け入り、驚くべき発見をした。それは、日本の神話の中に隠されていた、真ん中が空であると いう意味の「中空構造」であった。

これを簡単に説明すれば、イザナギとイザナミの子に、アマテラス(女性姉=太陽または天を象徴)とスサノオ(男性弟=地上を象徴)が居て、その間に、ツク ヨミという神(月読弟=月を象徴)が居るのであるが、無為の存在で何も行動を取ることのない神である。真ん中に居ながら、神話の中で何も自己主張をしない 極めて存在感が薄いという河合氏の発見である。

ここから河合氏は、さらに想像力を働かす。アマテラスという女性原理とスサノオという男性原理が衝突し合いながら、均衡を保つ構造によって、カウンターバ ランスを取る日本神話の仕組みについて次のように説明している。

「このような構造は、アマテラス =スサノオの対立性を示すものではあるが、完全にどちらかを善なり中心なりとして規定せず、時にはどどちらかがそうである ように見えても、次に適当なゆりもどしによってバランスが回復されることを意味している。」(「中空構造日本の深層」中央公論社 1982年1月刊)

この中空構造は、単に「アマテラスーツクヨミースサノオ」の関係のみではなく、同じように、天地創造の時の「タカミムヒーアメノミナカタヌシーカミムス ヒ」の場合でも、また「ホデリ(海)ーホスセリーホヲリ(山)の時にも見いだせるとする。

この中空構造の社会の特徴は、

「中心が空であるために、そこへ はしばしば何ものかの侵入を許すが、結局は時と友に空に戻り、また他のものの侵入を許す構造 である、・・・このようなモデルは日本人の心性にいろいろな点でマッチしていると思われる。」(前掲書)

日本人は、古代は中国や朝鮮から、明治以後は、西洋から、何でも新しいもの取り入れ、日本的に変容させて、日本化してしまうようなところがある。この日本 人の特徴も、この河合氏の「中空構造論」から説明がついてしまう。また中心が空ということを考えれば、京都という都市の構造を考えると、侵入者があって も、どうぞいらっしゃいという構造だ。これは文化的に、いったん侵入者があったとしても、そこで「空」という権力者が、天皇なのか、それとも摂政役の公家 なのか、まるで掴み所のない魔法のような権力構造によって、煙に巻いてしまうようなところがある。

まさに日本では、

「歴史をふりかえってみると、天 皇は第一人者ではあるが、権力者ではない、というふしぎな在り様が、日本全体の平和の維持にうまく作用し てきていることが認められるのである。」(前掲書)


 戦後の日本と中空構造

これは、中心にすべての権力が集中する社会構造とは、まったく違う考え方であり、明治維新以降、日本は、富国強兵のために、このような中空構造を否定した 社会体制となり、太平洋戦争によって、大きな犠牲の上に天皇の直接統治を排し、象徴天皇制として、元の中空構造の社会に戻ったということになる。

日本神話の研究から生まれた河合隼雄氏の「中空構造論」は、画期的、独創的な日本論であると同時に日本人論である。日本社会の特徴である曖昧さは、実は中 心を意図的に、空にすることによって、新しいものと古いものが、バランスを保ち、共生する民族の智慧であったということも出来る。

その場合、中心に座る人物は、カリスマ的な独裁者は、けっして座ることが叶わない。もしもそのような力を持つものが現れると、その人間は、日本神話に登場 する「ヒルコ」(*注)のように島流しに遭うのでる。それは中空構造は、均衡を好み、鎌倉時代で言えば、源義経のような武将や戦国時代で言えば織田信長の ような絶対的な専制君主は、受け入れがたいとして、これを排除抹殺してしまうという強硬手段に訴えたりもするのである。しかしそれはあくまでも、中空構造 という均衡を保つための手段なのである。とすれば、「出る杭は打つ」という日本の諺も、何となく「中空構造論」で説明がつくのである。

1982年1月、河合隼雄氏54歳の時、中公叢書として、何気なく刊行された「中空構造日本の深層」は、当初さほどの反応はなかったが、25年後の今日、 その輝きは、今や河合氏の日本文化に対する最大の貢献という見方もあるほどだ。今後、この「中空構造論」が、日本と日本人をめぐる難問解決の指針になるこ とを期待したいものだ。


 河合隼雄氏の日本人への遺言?

ところで、河合隼雄氏は、2004年11月に、「深層心理への道」という少し遺言書にも読める著作を刊行したが、その中で、こんな気になることを言ってい る。

「中空均衡構造で日本はいままで 頑張ってきたけれども、これからはヒルコに帰ってもらうべきだというのが僕の考えなのです。

ヒルコに帰ってもらうのだけれども、うっかり真ん中に帰ってきたらがらりと変わるだけです。中心統合 型になるだけで、それでは面白くない。だから帰っても らうのだけれども、中空構造も維持したままでヒルコに帰ってきてもらうというそういう非常に難しいことをするのが現代の日本人の課題だ、というのが私が日 本の神話から考えたことです。」(深層意識への道」岩波書店 2004年11月刊)

これは河合氏が、日本社会の最大の弱点である本当に力がある人が中心のリーダーとして活躍できない状況を突破するための方策を示したもので、中空構造の社 会でも、カリスマ的な才能を持った人物が活躍できる社会を創り出して行くべきだという提案だ。確かに頭脳流出が叫ばれる昨今、能力を持った人物が海外に流 出してしまって、日本社会に頭脳の空洞化という極めて不幸なことが起こらないとも限らない。やはり私たちは、西洋の合理主義の長所もうまく取り入れて、そ れこそ日本社会に新しい流れを作らなければならないのである。


*注
「ヒルコ
イザナギとイザナミの息子。足が不自由で、三歳でも足が立たず、捨てられたと言われる。「蛭子」あるいは「日る子」とも表記し、恵比須(えびす)とも呼ば れる。アマテラス(女子)と同じく太陽を象徴する男神である。古代の神話世界での母性社会を暗示するものか。

参考文献

「中空構造日本の深層」(中公叢書 1982年1月刊)
「神話と日本人の心」(岩波書店 2003年7月刊)
「深層心理への道」(岩波書店 2004年11月刊)


 3 日本における家族の崩壊とその修復

 日本における家族の崩壊

本来、家庭というものは、人間がもっとも安心して暮らせる憩いの場であったはずだ。ところが最近では、この家庭内において、親が子を虐待し殺害したり、逆 に子が親を殺害したりする事件が毎日、日本のどこかで起こっている有り様だ。

その根底には「家族の崩壊」あるいは「家庭の崩壊」という問題があると言われる。確かに戦後急速に起こった景気の急拡大の中で、大都市にヒト・モノ・カネ が集中した結果、日本社会にあった伝統的な家族関係はあっさりと崩れ去ってしまった感がある。二世代三世代が、ひとつ屋根の下で暮らす大家族というもの は、姿を消して、親兄弟が別々に暮らす核家族の時代となってしまったのである。

河合隼雄氏は、この日本における伝統的家族関係の崩壊過程を以下のように述べている。

「日本人は『家』を大切に生きて きた。・・・日本は血縁よりも『××家』という『イエ』の存続が大切で、そのためには血縁を無視して、有能な人物を養子に したりする。

『イエ』を大切にするのも、人間が安心して生きるための方策であるが、これは個人の自由を束縛するの で、戦後はアメリカの影響もあって、日本人はこれの廃 止に努めた。それに代わるものとして、映画などによく出てくるアメリカのマイホームがひとつの理想となった。・・・

日本人のしたことは、『イエ』を壊し、知らぬ間に『代理イエ』を作っていた。その典型が『カイシャ』 である。・・・日本の多くの男性は『イエ』を出て、 『代理イエ』の『カイシャ』に所属することになった。

多くの日本の女性は、このために父親不在となった『家』で、父親役と母親役の両方をこなして子どもを 育てることになった。まだ大家族的な傾向が残っている 間は、祖父母などがこれにかかわって、何とか切り抜けてきたが、核家族化が進行してくると、この構造がだんだんと破綻しはじめた。

このような偏奇した構造に対して、女性が反撥するのもお当然であり、女性も社会に進出したり、趣味を 生かそうとしたり、自分の世界を持とうとするようにな る。この場合も、男性同様、『イエ』を出て『代理イエ』に入る傾向が強いので、夫も妻もそれぞれが別の『代理イエ』に所属し、子どもだけが『家』に残され るようなことも生じてきた。(後略)」(「家庭教育の重要性」 河合隼雄著作集U期第5巻所収 2002年1月刊 初出「教育委員会月報」六〇〇号 第一 法規出版 2000年1月刊)

戦後における家族関係の崩壊過程が、社会学的な見地から見事に分析されている。この過程で一番大切なことは、子供がひとり、「イエ」という永遠性をもった 「家庭」の中にポツンと取り残されてしまったことだ。そしてまた、家族の外にある「代理イエ」である「カイシャ」に帰属した親たちは、大切な子供たちの心 の成長を「6・3・3制」の学校制度に委ねるという形が、当たり前となってしまったのである。

結局のところ、「イエ」の崩壊は、子供と親のコミュニケーションを奪っただけではなく、子供たちをひとりぼっちにして、社会に適用するための人間教育のほ とんどすべてを「学校」に押しつけるということになってしまったのである。


 登校拒否の高校生の心

既に述べたように、河合隼雄氏は、終戦から7年後の1952年24歳で奈良県の数学担当の高校教師となった。しかし氏は、その経験の中から教師を続ける上 で、どうしても心理学を学ぶ必要を痛感し、大学に戻った。その後、アメリカ、スイスに留学し、徹底して臨床心理学を学び、大学講師となって、若い学生を教 える傍ら、ユング派の精神分析家として、子供から大人までさまざまな階層のクライアントの心と真正面から向き合い問題解決の道をさぐってきた実践家であ る。

河合氏は、登校拒否の問題について、登校拒否の男子高校生の夢を取りあげてこのように語る。

「登校拒否症がわが国において発 生しはじめたのは、一九六四年頃であるが、はじめは都市部に発生したのが、田舎にもひろがり、低学年から高学年へ、ついに は大学にまでひろがって、教育相談の半分ほどが、この問題で占められるようにまった。(中略)

人間の深層に迫る方法として、私は夢を素材に取りあげる。・・・夢は意識的な日常性を越えた知見をわ れわれにもたらしてくれる。次に示すのはある登校拒否 症の男子高校生の夢である。

『どこかの大きな屋敷へ女の友だちと行った。そこは陰謀団のすみかで、その仲間にA君もいた。それを 知ってたいへん驚いた。そして逃げ出した。が、女の友 だちは捕まった。高い塀を跳び越えたりして、走りに走って逃げた。あとから悪人が追いかけてくる。そしてある一軒の家へ逃げ込んだ。そこには悪人の仲間の 女が住んでいたが、なぜか自分をかくまってくれた。悪人たちが追ってきて、僕がやってきただおうと聞いたが、女は知らないといって追い返した』(「母性社 会日本の病理」中央公論社 1976年9月刊 第一章「日本人の精神病理」より)

この夢を見た高校生の生の心と向き合いながら、徐々に河合氏は、この一見奇妙に見える夢の裏に隠されている真実を見つけ出していった。

この夢のキーワードは、「悪人から逃げる」ということ。もうひとつは、「助けてくれる悪人の仲間の女」である。もっと極端に省略すれば、「逃げる」と 「女」ということになる。ここから河合氏は、母性社会である日本というものを見る。またこの高校生は、はじめかくまってくれた「女」を好意的に見ていた が、次第にネガティブなものと見る態度を示しはじめたと記している。

この夢において「女」が象徴するものは、一義的には「母親」であり、もっと深いところでは女性原理そのものとしての「太母」(グレートマザー)を象徴して いることになる。するとこの登校拒否の高校生の心は、母なる女性のかくまわれて生きているものの、そこから逃避しなければならないという思いを持ちながら も、ズルズルとすべてを包含し、許容する家庭の中に逃げ込んでいる自分をこの夢の中で戯画化していることになる。

これまでの日本社会においては、「母性原理に基づく文化を、父権の確立という社会構造によって、補償し、その均衡を保ってきた」(前掲書)しかし今、その 家庭に肝心の父親が存在しないに等しい状況がある。この母性原理一辺倒になってしまったところに、不登校が急速に増加した原因の一端があることは明確とな る。

そこで河合氏は、このような処方箋を書く。

「登校拒否の子どもたちは文化・ 教育の危機に対する警鐘をー無意識ではあるがー身をもって打ち鳴らしているのである。かれらを単なる脱落者と見ることな く、警鐘を鳴らすものとしての意味を取りあげ、教育ということを、広く文化、社会、宗教などの問題と照らしあわせ、再検討することの必要性が痛感され る。」(前掲書)


 結論 日本の家庭に中空構造を復活させる智慧

このように河合隼雄氏の日本社会に対するアプローチを見てくると、昨今日本各地で起こっている家庭崩壊を思わせる事件の解決は、単に学校教育を充実させる ことを優先する以前に、やるべきことがあるのではないかということだ。

でもそれは、けっして不可能なことではない。まず、私たちは、問題を殊更難しく考えずに、家庭内における母性と父性のカウンターバランスを確保するという 実にシンプルな発想で、意識改革をすることが肝心だ。

一方において温かく子どもを包み込む母性が居て、それと反対側に、時に子どもの壁となって立ちふさがりながら、常に厳しい目線ながら、愛情をもって子ども を見つめ続ける父性的存在が、程よいバランスを保って存在するという家庭の創出である。

そこでその家族関係のモデルをシンプルに図式化すれば「母ー子ー父」となる。しかしこれは、けっして子どもを母と父の間の中心に配置して子どもの甘えを許 す構造では ない。

この関係を河合隼雄一流の言い回しで表現すれば、

「家族はその時に応じて、父親な り母親なり子どもなりを中心にして生きてゆく、つまり家族のなか に、永遠の同伴者の顕現を感じとってゆく、と考えていいかも知れない。つまり中心となる人は固定しないのである。」(「家族関係を考える」講談社現代新書  1980年9月刊)となる。

この中で河合氏が語った「永遠の同伴者」とは、日本人が連綿として伝えてきた「祖霊」を大切にする永遠の相を求める日本人の心性(アイデンティティ)であ る。

この古くて新しい極めて日本的な家族関係を再構築(修復)するためには、企業のモラルも含め、日本人の働き方やライフスタイルにも手をつける必要があるこ とは言うま でもない。そしてこの方法は、河合氏の日本文化に対する中核理論である「中空構造論」をテコとして、崩壊した日本の家族関係を修復するロード・マップでも ある。



参考文献
「母性社会日本の病理」(講談社α文庫 1997年9月刊)
「河合隼雄著作集 第U期 第5巻 臨床教育学入門」(岩波書店 2002年1月刊)
「家族関係を考える」(講談社現代新書 1980年9月刊)



2007.7.18-25 佐藤弘弥

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