日本人の顔

− 最近つくづく思うこと−

 
 
最近つくづくと、感じることがある。それはいい顔をした日本人が少なくなっていることだ。もちろん、これは顔の造作の問題ではない。 道を歩いている人の顔に、世間体や見栄ばかり気にしていると、書いてあるような気がしてくる。「何を、かっこつけてるんだ」と腹の中で笑ってしまうことも あるほどだ。

日本人は、少しばかり豊かになり、何か勘違いをしているのかもしれない。同じ東洋人でも、チベットやベトナムの人間の顔は、きりりとし まっていて、内面の信念や純朴さがそのまま伝わってくる。

日本人の中で、特に最低の顔は、政治家だ。水木しげるの妖怪図鑑に載せたいような顔ばかりがそろっている。経済人もたいした顔の人間は いない。肥え腐り、欲の皮のつぱった糖尿病予備軍ばかりだ。

役者でもいい顔の人間は少なくなった。薄っぺらで、信念のかけらも感じないようなツラをした者ばかりで、いい顔だなと感じるのは、せい ぜい高倉健さんくらいなものだ。若い頃の彼は、そんなにハンサムというほどの顔ではなかった。しかし今や、黙っていても存在感を誇示できるのは、日本では 彼ぐらいだ。彼の顔には、人生の孤独や悲しみや気概や執念のような全てが凝縮されているような気がしてくる。きっと見事な人生を送ってきたのだろう。反対 に若い頃、二枚目だった小林旭は、今やヤクザの親分しかできないような顔に成り下がってしまった。整った顔の代表田村正和の顔にも笑ってしまう。小さい頃 から、名優、坂妻こと坂東妻三郎の息子として、ちやほやされて育った勘違いが、妙な滑稽な味を醸し出してはいるが、けっしていい顔とはいえない。

顔には、人の生き様が刻まれていくのだ。逆に言えば、しわや白髪の一本一本が、その人の魅力となることがある。その意味ではジャズ ミュージシャンのナベサダこと渡辺貞夫は、魅力的な顔を持った人物だ。彼はけっして整った顔ではない。髪も薄く、白髪も多い。しかし彼の笑顔には、彼特有 の親しみと人なつっこさが同居していて、日本人の顔という特集があれば、必ず入れたくなるような顔だ。また指揮者の小沢征爾の顔もりっぱである。この人の 顔には、東洋的な神秘と大きな包容力のようなものを感じる。長い間、日本を離れ、たった一人で欧米を武者修行して歩いた苦労が開花したのであろう。

人の顔とは、その人物の人生そのものである。だから若い時に、いい顔をしていた人物が、年を経て妖怪顔になったり、若い時は、普通の顔 だった人物が、中年になっていい顔になるということは、よくあることだ。

また人の顔とは、木で言えば、年輪のようなものだ。つまりその人が自分の人生とどのように対決してきたかが、顔の中に年輪のように刻ま れる。だからよく言われる「自分の顔に責任を持て」という言葉は「自分の人生とちゃんと向き合え」という意味かもしれない、などと思う今日この頃である。 佐藤弘弥

 


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1997.7.8