義 経が女性に弱いという偏見について


【義経は単なる情実の人なのか?!】

義経の情について考えてみる。一般に世間では「義経を情実の人」と見る傾向がある。大河ドラマ26話の台本 も、そのような固定観念で書かれたようであった。

確かに義経の生涯を見る時、情に篤く人に温かい面があることは確かだ。これは兄頼朝とは決定的に違う性格であ る。しかしすべての状況において、情の人と見る見方は間違っている。彼が情を出すのは、自分の味方と思っている者。完全に抵抗を諦めた降人(投降し捕縛さ れた人物)に限られる。それ以外の者については、むしろ情け容赦なく徹底的に攻撃を加える傾向が顕著である。

大河第26話では、義仲の都大路にさらし首になるのを反対したというフィクションを中心に義経が情に流される 人物であることを殊更強調し、後白河院や丹後局などに、「人としては良いが、サムライとしてはどうか」と、いった余計なセリフを語らせていたが、これは まったく義経という人物を解していない者の言い回しだ。

先に私は、味方と、投降した者に限られるということを言った。平家物語の中でその典型は、後に登場する屋島の 戦での佐藤継信の死に及んでの義経の行動に示される。あの時、義経は自分の身を投げて、義経をかばって死にゆく継信をかき抱き、激しく動揺した。自分の愛 馬「太夫黒」を差し出して、継信の弔いを頼んだ。その姿を見て、義経の郎等たちは、こぞってこの人物のためならば、命も惜しくないとこの人物に命を預ける ことを改めて誓い合った。

後者(降人)については、壇ノ浦の後の平時忠のケースがある。この人物は、「平家でなければ人ではない」とい う言葉を吐いて、奢る平家の典型的人物であったが、壇ノ浦合戦後、囚われの身となっていた。時忠は、義経に自分の娘を嫁にやって、義経の勘気を和らげよう とする。自らが書いた他人(頼朝?)に見られてはまずい手紙が義経の許にあり、それが鎌倉に送られるのを怖れたのである。そこで時忠は、息子の時実と相談 する。その時の時実の言葉は、「判官(義経)は情け深いお方と聞いています。女性などが心から懇願すれば、どんなことでも聞き入れるとも聞いています」と いうものだった。

これには少々誤解があるように感じる。義経は女性に限らず、切実な懇願に弱いところが見受けられる。いや頼ら れると弱いということかもしれない。高野山文書として残っている義経直筆の文書にも、その義経の性格的特徴がよく顕れているように見受けられる。周知のよ うにこの古文書は、高野山に対する阿弖川の庄の安堵状であるが、頼まれたら弱いという義経の性格がにじみ出ているような文書となっている。

さて時忠は、23歳になる娘を義経の許にやり、その文書の返還を依頼する。この女性は、伝説で浄瑠璃姫の原型 ともなる娘である。義経はこの女性の熱心な懇願を聞き入れて、手紙を返却する。こうして時忠は、この文書を直ちに消却し事なきを得る。このエピソードは、 女性の懇願に弱いという義経の歴史的評価を決定的にしている。この事件を頼朝がどこまで知っていたかは不明だが、無断任官事件と共に、追討の口実を与える 脇の甘い行動であったことは確かである。

昔から人間の長所と欠点は近くにある。いささか情けに篤い性格が時には長所となり、時には欠点となる。戦場で は、鬼神のような荒々しさで敵に怖れられた義経も、一度戦が終わった時には、情けに篤い人間に立ち戻ったという事実は、義経が後世まで愛される人間的な魅 力そのものではなかったか。武家の棟梁としてはどうかという声もあるが、この時忠の娘のエピソードは、源氏の宿敵である平家一門をことごとく殲滅した直後 のことであり、直ちにこれをもって義経が情に溺れる人物であったということを断ずるいささかの無理がある。

むしろ、そんな人の良さこそが義経という人物の魅力であった。但し今回の大河ドラマで描かれる義経の情け深さ に関しては、まったくメリハリがついていないことは明らかにである。いつでも誰に対しても、義経は情実の人だった訳ではない。特に時忠の娘の一件から出た と思われる女性に弱いという義経に対する偏見は、今回の大河の義経のイメージにも引き継がれている。これはいったん歴史的にイメージとして固着化された偏 見が、おいそれと訂正されるものではるという事を物語っているものであろう。

2005.7.4 Hsato

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