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ジョン・レノンはいかにして
ジョン・レノンとなったか?!

「ジョンの振り見て、我が振り直せ」

今日はジョンレノンというひとりの天才を通じて、「人の目」ということを考えてみよう。もちろ「人の目」を「ファンの目」と置き換えても同じだ。ジョンレノンに限ったことではないが、人間というものは、多かれ少なかれ、この「人の目」ということを、気にしながら、自分というものを形成していく。まあ人は、どんな人も、無人島でも行かない限り、「人の目」というものを無視しては生きられない動物なのである。
 

ジョンレノンと言えば、ビートルズだ。ビートルズは、不良少年だったジョンレノンが不良仲間と始めた「クォリー・メン」というバンドを1957年3月に結成したのがきっかけだった。そこに、お利口な坊やのような表情の年下の少年が加わる。ベースのポール・マッカートニーだ。ジョンは、初めポールのお利口面が気に入らなかった。しかしポールは、ジョンに気に入られるように、ベースだけではなくやピアノやギターまで、懸命にレッスンした。

彼らは次第に、腕前を挙げ、1960年武者修行に行ったドイツのハンブルグで、自分たちの演奏スタイルを確立したといわれている。しかしまだまだ「人の目」を気にする「猿真似バンド」の域を出るものではなかった。ビートルズの商業的成功を語る時、敏腕マネージャーの「ブライアン・エプスタイン」という人物を抜きにして語ることはできない。この契約は1961年12月に交わされた。ビートルズの成功は、彼とマネージャ契約を交わした時から始まった。彼はファンの目と心を奪うためのマネージメントに精を出し、様々なことをメンバーと考え実行に移した。

ジョン自身も、自分たちのオリジナルを作らねばならないと思い立ち、ポールと共作で自作の歌を書いた。髪型も「マッシュルームカット」と言われる前髪を垂らした坊やのように変えた。またおよそ不良のジョンには似合わないようなアイドル風のミリタリー調のステージ衣装も着た。

もちろん音楽性が新しいことが一番だったが、斬新な彼らのスタイルが注目を浴びるようになり、彼らは、瞬く間にスターダムにのし上がった。そして1963年二曲目のシングル「プリーズ・プリーズ・ミー」が、1963年2月チャート一位を獲得して、彼らの人気は世界的となり、ビートルズは、時の人となった。それからというもの、彼らは時間と競争をするように世界中のコンサート会場を飛び回り、その合間にレコーディングセッションをするという綱渡りのような生活を続けた。

考えてみれば、あのデビュー当時のファッションは、まるで、ジョン・レノンの考えを反映したものではなく、周囲のスタッフ、例えばブライヤン・エプスタインのような敏腕マネージャーたちが、ファンの目(「人の目」)を気にした細工に他ならなかった。

彼らはどんなにヒット曲を連発したところで、本来の自分らしくないコンサートに追い立てられるような生き方に、ジョンは、大いに疑問を持ち始めた。「ファンの目」(「人の目」)ばかりを気にした生き方がたまらなくなったのだ。今思えば、ビートルズは、ジョンの心の中で、まず崩壊していたと言える。1969年、僚友であるポールは、ジョンに対して、「ゲットバック」(戻ってきて)という歌を作って、ジョンの気持ちを、何とか呼び戻そうとした。まだまだポールには、ジョンの助力が必要だった。しかしジョンは、もうポールも外のメンバーも必要とはしていなかった。

自分が自分らしくない姿で居ることにジョンはたまらないほどのストレスを感じた。そこに現れたのが、オノヨーコという年上の女性芸術家だった。ジョンは、ヨーコのオブジェの展覧会(1966年11月ロンドンのインディカ画廊)に偶然出席し彼女の作品とキャラクターに触れて、運命的なインスピレーションを感じた。ヨーコは、大スタージョンレノンに向かって、少しも媚びずに「ジョンあなたは、あなたらしく居ればいい。何をそんに気にしているの」と言った。「人の目」ばかりを気にして生きる必要はないとヨーコは言いたかったのであろう。

ジョンは、はっとした。「人の目」ばかりを気にしている自分を気づいたのだ。それからジョンは変わった。髪を長く伸ばし、髭も刷らず、まるでイエス・キリストのような風貌となった。アルバム「レット・イット・ビー」(1970年5月発売)に付いている写真をみると、ジョンの苦悩が色濃くビートルズ全体に影を落としているのが、よく分かる。
 

かつてジョンは、「俺たちは、イエス・キリストよりも人気がある」(1966年3月ロンドン・イブニング・スタンダード紙掲載)と発言をして、物議を醸し、不買運動までされたことがある。ジョンは、お利口なアイドルグループとなったビートルズに当初から少なからぬ不満と焦りのようなものを感じていた。それは、「ファンの目」(「他人の目」)をばかりを気にして、活動している自分に対する苛立ちそのものだった。

ヨーコと出会ってからは、とにかく楽に生きれるようになった。それはジョンが誰の目も気にせず、自分らしく振る舞おうとしたからだ。しかしジョンがジョンであることは、逆にいえば、ビートルズにとって、それは解散の二文字を意味した。ヨーコと親密になった1969年から1970年にかけてのビートルズ時代、ジョンはグループの中で活動することに、意味を見いだせず、ただ上の空であった。ただメンバーと、そこにいて、ギターを弾き、歌っていただけだ。しかし「ドント・レッツ・ミー・ダウン」(シングルではポールの「ゲットバック」(戻ってきて)の裏面の曲として発表された)のような自分が本気で作った歌は別だ。あの歌には、ジョンの焦燥や怒り願いが押し込められている。

こうしてジョンは、他人の目を気にしない状況を、自らで作り上げた。その結果が、ビートルズからの脱退であり、1970年12月に発売されたアルバム「ジョンの魂」(原題「john Lennon」)だった。このアルバムは、彼の天才を知る上で、極めて重要なアルバムだ。これほど、正直に自分の胸の内をあからさまに表現したアルバムは、ロック史上ではもちろん初めてのことである。

その中には、自分の生い立ちと亡くなった母への思いと、行方の分からないぐうたらな父への思いを歌った「マザー」がある。まさにそれはジョン・レノンという男の魂の叫びのようだ。またヨーコに感じた純粋なる感情を傑作「ラブ」として結実させた。更に「ゴッド」(神)では、「ゴット・イズ・コンセプト」(神は物差しにすぎぬそれによって人は己の苦痛の度合いを計る)という強烈なメッセージを伝えた。

「ガッド」は、凄まじい歌だ。多く人は「神」の概念をもって自分をごく一般の「よい子」の中に押し込めようとする。つまりジョンのイメージで言えば、神は人を既成のワクの中に押し込め無力化するイデオロギーそのものと映った。そこには個々人の自分らしさもリアリティもない。それこそが神という概念の本質であり、権力者にとって、極めて有効な統治の為の道具あるいはイデオロギーとなる。この過激すぎる歌は、後に彼のイメージを決定付ける傑作「イマジン」(1971年10月発売)へと飛翔することとなる。

ジョンの考えで言えば、「神」の概念もまた「人の目」に過ぎぬ。もっと厳密に言えば、神の概念もまた「神の概念を持ちだした者の目線」そのものだからだ。そこでジョンは、「神を信じない。」と歌う。本当は、信じないというよりは、必要としないのだ。当然ビートルズもまた必要ない。こうしてジョンの中では、あらゆる権力というものが消滅してしまった。彼の中では、ビートルズの商業的成功も名声もすべては、夢のなかでの出来事であり、リアリティを感じる現実ではなかった。だからこそ、彼は他のメンバーにむけ、「夢は終わったのだ」(ドリーム・イズ・オーバー)と呼び掛けている。

もはやジョンにとって、「ビートルズ」は不要だった。もちろんビートルズにとって、ジョンは、欠くべからざるリーダーだ。ジョンを失った「ビートルズ」の他のメンバーも、一時の夢を醒まされて、バンドとしてビートルズも解散することとなる。こうしてジョン・レノンは、「人の目」ばかりを気にしすぎていたビートルズ時代の自分を捨て、本来の自分らしい自己を取り戻したのであった。

結論である。「人の振り見て、我が振り直せ」という格言があるが、多くの人は、この格言を、「人が失敗するのをみて、失敗しないようにしろ」などと、否定的に解釈しがちだ。これを私流に解釈し直せば、「ジョンレノンが成功したではないか。あんたも自分に成りきって、本来の自分を取り戻しなさい」となる。我々もジョンを見習い「人の目」「他人の目」果ては「神の目」ばかりを気にしすぎる人生を少しばかり見直して、本来の自己というものを探す旅に出かけてはどうだろう。要は「ジョンの振り見て、我が振り直せ」である。佐藤
 

 


2001.10.4

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