「義
経=自専の人」覚え書き
義経は「自専の人」と呼ばれる。では「自専」とはなにか。少しばかり考えてみたい。
上横手雅敬氏の「源義経」(1978年10月刊)に「自専の人」の一章がある。
この中に、義経の自専について述べた以下のような箇所がある。
「どう
して義経はこれほどまでに兄に疎まれるようになったのであろうか。・・・前年義経が法皇によって検非違使、左衛門少尉に任ぜられ、頼朝の許可なく就任した
ことを「吾妻鏡」はその原因の最初にあげている。しかし頼朝が目立って義経を嫌うようになるのは、やはり平家滅亡後であり、梶原景時の報告こそが、最大
の、そして直接の原因であろう。・・・「吾妻鏡」によれば、義経が非難されている原因はその「自専」にあり、頼朝の家来である御家人をかってに使役した
り、処罰したりしたため、御家人と対立したという。範頼の管轄する九州まで、義経が介入したという非難もある。戦勝の立役者からくる驕りが諸将との対立を
生じ、頼朝からも疎まれるに至った原因であり、単に頼朝の狭量、狷介(けんかい)だけを非難するのはあたらないであろう。考えてみれば、無断の任官もまた
自専である。そしてその義経はその放浪と栄光の日々を通じて、つねに自専の人であった。その自専ゆえにこそ、源平合戦において数々の殊勲をあげることもで
きたのである。戦いの場では、自専はしばしば有効であり、必要ですらある。しかし、自専は平和や体制や秩序とはあい容れない。頼朝や梶原がどうあれ、義経
の栄光の季節は、終焉に近づいていたのである。」
さてこの「義経=自専」の初出は、元暦二年四月二一日(1184)の条の梶原景時が頼朝に送った書状(讒言状)である。
抜粋すれば、以下のようになる。
「およそ和田小太郎義盛と私梶原平三
景時とは侍の別当・所司でありますが、それによって、頼朝殿は、ご舎弟の両将を西海に派遣した時、軍士らのことを奉行するために、義盛には参州殿(範頼)
に付られ、景時は廷尉殿(義経)に付けられたのでありますが、参州殿は以前より、頼朝殿の仰せをよく聞き、背くことなく、事の大小にかかわらず常胤(千
葉)や義盛(和田)に相談しているようであります。一方、廷尉殿は、自専の思いを差し挟んで、一向に鎌倉からのご命令を守らず、ただわが意に任せて自由の
振るまいをするばかりで、周囲の人々は恨みを持つにいたっております。何もこれは景時に限ったことではありません。」(現代語訳佐藤)
この景時の報告を受けてか、吾妻鏡の四月二九日の条では、次のように記されている。
「雑色
の吉枝という者を遣いとして、西海に送った。これは命令書を田代冠者信綱(源姓)に手渡すためである。その文の内容は以下である。『廷尉は関東の使いとし
て、御家人を随えて西国に派遣されたのであるが、この間すっと自専の振るまい止まず、この私(頼朝)に良く随ってくれる侍らは、廷尉にそれぞれに恨みを
持っているようでである。今後においては、関東に居る私に忠義を尽くそうと思う者は、廷尉に随ってはならない。この言葉の意味を心の内にしっかりと刻んで
忘れぬようにせよ』」(現代語訳佐藤)
ここから、「自専」の出所が、梶原景時の讒言状であること。この「自専の人」という義経のイメージが頼朝(あるいは鎌倉政権内)であっという間に増幅した
ことが推測される。もっとも頼朝の中には、景時の讒言を受け止める義経憎しのイメージが既に出来上がっていて、梶原の讒言状は、その頼朝の意を汲んだ景時
の一種のゴマすり状とも言うべきものである。
頼朝の書状の宛先である田代冠者信綱であるが、頼朝の石橋山合戦以来の腹心で、義経の近くに一ノ谷、屋島の合戦に付き従った者と伝えられる。父は伊豆守源
為綱または為綱の子の為経と言われる。生没年は不詳である。
次に「自専」という言葉であるが、広辞苑には掲載されていない。したがって、「自」、「専」と別々に考える必要があると思われる。
白川静氏の古語辞典「字訓」によれば、自は、「
『身つから』の意。・・・
『わが身から』の意となる。・・・一人称とも異なるもので、国語では副詞、漢文法では複称代名詞という。・・・複称代名詞には身自、自親、躬自のように二
字を連用することが多いが、みな単独でもその用法のある字である。・・・自は鼻の象形。・・・鼻には自意識を示す意があって・・・」とあ
る。
専の項には、「もはら」が、音便化して、「もっぱら」となったもので、「
他
の何ものをもまじえず、ひたすらにそのことにうちこむ。一途であることをいう。『も』には深くうちに蔵する意があり、『はら』は『ひら』『はる』と同源の
語で、おしなべての意をもつ語であろう。『思張』(もはら)の意とする説もあるが、また「むはら」という形もあった。」とある。
以上のように、義経=自専の人という説は、源流を辿れば、宿敵である梶原景時から発せられた讒言によって生まれたものであるが、極めて義経の性格なり性質
を的確に表した言葉となっている。
確かに義経は、自意識が強く、何事も自由に発想する人物であった。周囲の人間すべてを自己の観念の中に押し込んで忠誠を要求するような頼朝の発想とは根本
から違っていた。頼朝は、常に戦場から遠く離れた鎌倉の地から、長期戦を志向し、その為に九州に向かった範頼軍は、兵糧に困窮し、知将知盛率いる平家軍に
包囲壊滅させられる危険があった。その情報を受け取った義経は、矢も立てもたまらずに、法皇に直訴をする。
曰く「このままで行けば、源氏軍が敗れて、再び京の都が戦場になることもあります。ですので、直ちに出陣することをお許しください。」
こうして義経は、頼朝の命のないままに、梶原景時が総大将代理の立場にいた源氏軍に合流し、屋島に向かったのである。おそらく、頼朝も、範頼軍の苦戦を見
て、義経の合流を仕方なく追認したものと思われる。これで誰が一番割を食ったのか。それは誰が見ても梶原景時である。面白いはずはない。せっかく自分が総
大将の立場にいて、最高の手柄を立ててやろうと考えていた矢先に、義経が総大将の立場に納まってしまったのであるから。こうして、梶原の讒言劇が始まった
ものと推測される。もちろん彼の中には、頼朝がもっとも嫌う義経の自専の性格を殊更強調することによって、自分が主役となるはずの戦の功を奪われた恨みを
晴らしたのである。
この讒言の中にある自専の言葉は、義経を良く表す言葉であると共に、頼朝が怖れた自由な発想をする者への懸念であった。
05.8.18 佐藤弘弥
義経伝説
源義経研究