児童投げ落とし事件の考察


異常犯罪行動学の試み

本稿は、人の悪の心を鍵穴にたとえ、その悪心という鍵穴にひとつの鍵(キー概念)が 差し込まれた瞬間、日常生活において普通の感覚で暮らしていた人間が、突然異常な行動にをとってしまうメカニズムと原因の社会学的考察の試みである。

佐藤弘弥

はじめに
昨今の日本社会では、異常とも思える犯罪が多発している。日本中で児童を狙った卑劣な事 件が連日のように新聞を賑わせているが、おそらくここには、何らかの社会的原因が横たわっているに違いない。日本人の心にどんなことが起きているのか。先 月(06年3月20日)、神奈川で発生した高層マンション15階からの児童投げ落とし事件を考えながら、私なりの考察を加えてみたい。

それにしてもあれは異様な事件だった。事件は、3月20日午後、15階建てマンションに住む小学3年生の児童が、
学校からの帰宅中、住んでいるマンションの15階から転落し死亡す るというjところから始まった。当初は、単なる転落事故かと見られていた。しかし3月29日、同じマンションで、清掃作業中の女性(68歳)が、男に 「15階にゴミがあるから見て欲しい」と声をかけられ、15階に誘い込まれて危うく投げ落とされそうになったところから、事件は急展開をみせた。備え付け られていた防犯ビデオの分析から、事件直後、同マンションを走り去る不審な男が浮上し、各テレビ局が大々的にこれを取り上げた。すると、4月1日、男はい ずれ捕まると観念したのか、慌ただしく自首してきたのである。

捕まえてみれば、容疑者は、妻子もいる五人家族の41歳の男だった。41歳と言えば、働き盛り分、別盛りである。そんな男が、一五階のマンションから、幼 気な小学生の児童を抱えて投げ落とし、殺害するというのは、極めて異様な事件に思えた。同時に人間の心の闇を垣間見るような思いがした。その後、容疑者 は、人の死に快楽を感じたのか、今度は掃除の女性を同じ手口で、殺害しようとしたのだろうか。

異常な心理状態での犯行のようにも見えるが、よく考えてみると、随所に容疑者の冷静沈着な心理を伺わせる場面もあり、単純に「異常者の犯行」という観点で 片づけられない事件のように感じる。殺害の動機は、本人に言わせれば、「昨年リストラされてむしゃくしゃした」ということであるが、勤めていた会社の経営 者に言わせれば、リストラではなく、本人の都合で辞めたということである。

マスコミの報道によれば、この人物は、東京生まれで、都内の高校を卒業後、理容師学校で理容師の資格を取得し、千葉のとある街で、理容室を開業。一時は、 本人の商売上手もあって、お客が並ぶほどの繁盛振りだった。しかし働き過ぎが災いしたのか、けんしょう炎となり、結局92年頃廃業し、神奈川県麻生区内の 不動産屋に勤務、その後カーテン販売の会社に転職し、昨年9月頃に退職したようである。現在の家は2004年10月頃、ローンで購入した模様。自宅には、
3人の子供と妻がいる。周囲の人には、人当たりもよく、評判は悪く ない。カーテン販売業当時は、月に百万もの給料をとることもあったということである。また子煩悩で、夫婦仲もよかったというものである。それが昨年頃か ら、突然、無断欠勤をしたりするようになった。勤務先には、実父の病気を理由にしての欠勤もあったようだが、真相は掴めない。

今井容疑者の犯行の裏には、異常な心境に振れる切っ掛けとなる何ものかがあったはずだ。まず、この男の最初の挫折は、理容師を廃業したことであろうか。次 には、本人の言う「リストラ」である。しかしそんな状況にある人間は、世間に数え切れないほどいる。幼気(いたいけ)な児童を、一五階から投げ落とすとい う一線を超えた異常なる犯罪行為に及ぶためには、何か他に特別な動機がなくてはならない。それは、内発的なものか、それとも外発的なものか、それとも、そ の二つが複合的に絡み合ってのものか、今後検証される必要がある。

この異常な犯行の社会性を考える時、日本社会の中で、人の心に常識とかモラルを越えた暴走を起こす装置のようなものが、あるように思う。飛躍的な考えと思 われるかも知れないが、最近頻発する常識を越えた異常な事件の裏には、いくつかのキー概念が存在するように思う。以下、個人を異常な行動に駆り立てる犯罪 誘発のキー概念(鍵)を考えられる限り列挙しながら、この事件を突破口として、社会行動学的な分析をおこなってみようと思う。
06.4.3


 
 「リストラ」

今井健詞容疑者は、取り調べに対して、「昨年9月にリストラされ、自殺しようとも思ったことがある」などと語ったと報道されている。

容疑者にとって、「リストラ」は人生に対する不安の増大を意味する。もちろん言ってみれば、これは屁理屈に過ぎないが、異常犯罪行為を引き起こすキー概念 のひとつとして、考えることはもちろん可能だ。リストラされた結果、生活苦、そしてそこから「自殺」の衝動が生まれた、と容疑者は言いたいのである。その 容疑者の主張であるを、「今回の児童投げ落としという常軌を逸した殺人事件は、自殺を思いとどまった容疑者の自殺から他殺へという代償行為ではないか」と いうことは言えないだろうか。言い換えれば、容疑者は、自分を殺害することが果たせず、他人を殺害するに至ったということである。

しかも容疑者は、犯行に至る過程で、大人の男子とも会ったが、その人には、体力的に負けるかもしれないということで、まったく目をくれていない。自分が確 実に肉体的にコントロールできる男児と68歳になるという清掃会社の女性を狙ったのである。

昨今、児童への傷害事件は、全国各地で多発しており、社会問題化している。今回の今井容疑者の事件もまたそうした「児童虐待」あるいは「児童受難」時代を 象徴するような事件と言っても差し支えないであろう。

「リストラ」というキー概念について、少し考えてみる。かつて「リストラ」は「解雇」と呼ばれ、企業にとっては、大変なストレスの貯まる問題だった。労働 組合との接触があり、おいそれと簡単にできるものではなかった。しかしこの1990年代からの10年以降、日本経済は、「失われた10年」と言われるよう な景気後退があり、いつの間にか解雇は「リストラ」と呼び代えられて、企業が生き延び、利益を絞り出すための策として、社会的な認知を受けたようなところ がある。かつては「不当解雇」という言い方があったが、「リストラ」と変わった瞬間に、「不当リストラ」と呼ばれることはついぞなかった。要するに日本経 済が不況下にある時点で、「リストラ」は社会的に公認されてしまったのである。その結果、個人にとっては、リストラがストレスとなって、犯罪までも誘発し かねないキー概念となってしまったということが言えるのではなかろうか。06.4.5


2   「自殺」

新聞報道によれば、今井容疑者は、自宅において、コードを首に巻いて自殺を図ろうとしたことがあるという。その時は、家族が止めに入って事なきを得たよう だ。またこれは事実の検証が必要だろうが、児童を投げ落としたとされる当のマンションの15階付近から、投身自殺を遂げようとしたが、下をみたところ、足 がすくんで思いとどまったということである。

とすれば、今回の異常犯罪の背後には、「自殺」というものが、キー概念として存在するように思える。最近「自殺」という問題は、日本社会に暗い影を投げか けている。インターネット上では、様々な自殺サイトがあり、自殺願望を持つ人間の心をかき立てるような扇情的な内容を持つサイトも少なくない。日本では、 この数年間3万人を越える自殺者がいて、交通事故死亡者の三倍を越える人間が、自らの手で亡くなっている。中でも、経済的な理由による自殺者は、7千人前 後いるといわれ、不況下で、リストラや倒産などによって、将来の望みを絶たれた人々の自殺が目立っている。またそうかといえば、原因のはっきりしない自殺 も結構の数に上ると推定される。

それは若者たちが、社会に適合できず、漠然と人生を悲観した挙げ句、ある日突然に、自殺するというものだ。インターネット上で、同伴者を募り、まったく見 ず知らずの他人同士が、自殺志望という一点で共鳴し合い、自動車のなかに練炭などを仕込んで行う集団自殺のこの分類に入るものと思われる。

フロイトは、「快楽原則の彼岸」(1920)という著作のなかで、「タナトス」という概念を持ちだして、生物としての人間は、無機物に回帰しようとする本 能があるのではないかと考えた。つまり、人間にとって、無に帰する死はひとつの本能的な目標というわけである。しかし一方で人間社会は、歴史的に死をある 種のタブーとして恐怖心をかき立てるような流れを作り、人間社会の安定的維持に専心してきた。そこでは、死は怖いものである。死が怖いから、人間社会の最 高刑は、「死刑」であった。人間の死は、痛みを伴うもの、恐怖なもの、として盛んに喧伝され、死後には、地獄があり、そこで人は生きた人生を評価され、裁 きにあって、地獄の苦しみを受けることもあるとした。死への恐怖は、人間社会維持の規範であり、死への本能は、フロイト的にいえば、無意識下に抑圧され、 意識に上らないようになった。

まして自らを死に追いやる自殺というものには、宗教的制約が厳しく加えられ、中世ヨーロッパのキリスト教社会では、タブーとなり、自殺者には、葬式も墓も 設けられないというような厳しい状況があった。

一方、日本社会においては、自殺はまったく別の展開をみた。日本社会では、切腹や殉死ということが、社会のシステムとして機能していた長い時期があり、自 殺というものについての考え方が、欧米とまったく違うことは明白である。例えば、昭和45年(1970)、三島由紀夫が、市ヶ谷において割腹自殺を遂げた が、世界は「ミシマのハラキリ」として、日本社会の異質なサムライ文化として、これを奇異な目で報道した。

当時の日本人のなかでも、改めて、日本の第一級の文化人の「割腹自殺」というものに衝撃を受け、「日本文化を防衛しなければ日本文化は滅びかねない」とい う趣旨の三島の最後の発言を取り上げて、これを好意的に評価するマスメディアもあった。これは日本人の死生観に関わる問題であり、単なる自殺と同類に論じ ることは不可能であるが、フロイトの言う「死の本能」(タナトス)という側面からみれば同義である。ただ三島の死は、日本人にとって、一見血なまぐさい自 死という行為が、ある種の意思の表明(自己表現)にもなりうるということを身をもって示したものであり、太平洋戦争の勝者アメリカが、もたらした「平和な 民主主義国」というものイメージを打ち砕く得体の知れぬ強烈なメッセージとなったことは確かだった。

ある意味では、戦後日本における自殺のタブー化は、三島の一撃で砕かれたという表現があっているかもしれない。元々日本社会においては自死はサムライとし ての本懐であり、その意味では「自殺」というものにも、民族的本能のレベルにおいては、タブーとはなりきれなかったのかもしれない。戦後GHQは、復讐劇 や血なまぐさい歌舞伎の上映などを取り締まったというが、アメリカは、日本文化をよく研究していたライシャワー駐日大使のような人物の指導の下に、日本人 の血の中にあるタナトスへの本能を押さえ込もうとしたとも受け取れるのである。

日本人は元々自殺について欧米キリスト教社会に比べてタブー化の度合いが低かったということは、以上みてきたことではっきりとした。これはあまり誇るべき ことではないが、日本が世界有数の自殺大国であることの原因は、経済的な理由の他に、自殺のタブーが歴史的にみて稀薄であったということにも少なからず関 与していると思うのである。

フランスの社会学者エミール・デュルケーム(1858ー1917)は、有名な「自殺論」(1897)で、「アノミー的自殺」ということを言った。このアノ ミーとは、ギリシャ語の「anomos」(アノモス)から来ており、「無法律状態」と訳される。したがってアノミー的自殺とは、自殺行為というものについ ての規範が薄れて、混沌状態に陥ってしまって、起こる自殺というように定義付けられる。この著作は、今から100年以上も前に書かれたものであるが、少し も鮮度を失っていないように感じる。それは資本主義社会が、際限ないほどに高度する中にあって、人間個人の倫理的価値観が、物質文明に翻弄され混乱し、自 己の居場所をなくした人々が、ついには自殺という行為を選択してしまう過程を、社会学の立場からよく分析している古典である。

私はこのデュルケームのいう「アノミー的自殺」現象というものが、現代の日本においても、起こっており、日本の伝統的な死生観と相まって、日本的自殺傾向 というものを暗黙のうちに形成していると思うのである。

さてここで、もう一度、今井容疑者の問題に、視線を移そう。彼は自殺仕切れず、自分よりも弱い児童を、自分の自殺の代償行為として、投げ落とした。また死 の本能に目覚めた彼は、再び人の死を目撃体験しようと、自分よりもやはり弱い掃除婦の女性を同じ場所から投げ落とそうとしたが、失敗した。聞くところによ れば、今井容疑者は、身長が160cmほどでかなり小柄で、しかもやせ形である。もしかすると、身体的に、劣等意識のようなものを抱えていた可能性もあ る。ともかく彼は、自殺の代償行為として、肉体的な弱い者を狙った。ここから次のキーワードとして、「弱者」というものを想定し得ると思う。06.4.6
 

3  「弱き者」

「弱い者」ということを、キー概念とすると、何かしら世相が見えてくるものがある。むかし日本社会は、弱い者イジメを恥じとする文化があった気がする。所 謂「強きをくじき弱きを助ける」という考えである。

ところが、昨今の日本の世相を見渡せば、校内暴力(イジメ)、家庭内暴力、夫婦間暴力、ヤミ金被害、振り込め詐欺など、常に強い立場の者が、自分よりも弱 き者を狙って行われる力の行使の様相である。このことは、古き良き「「弱きを助ける」精神文化が、日本社会の中で、消滅もしくは、軽視されることになった ことを物語っているのである。

強い者が弱い者を助けるということは、社会の健全性を計るバロメーターであるが、残念ながら、弱い者が一方的に被害者となってしまうことが日常化してし まっている。

今回の児童投げ落とし事件と同じように児童がターゲットになった事件を思いつくままにあげてみよう。第一に、1997年、「酒鬼薔薇聖斗」と名乗る当時の 中学生が、小学生の生首を学校の校門に置くという異様な事件が起こった。この被害者となった、児童は知能障害を持つ児童だった。

第二に、2001年6月、大阪教育大学付属池田小学校に侵入し、無差別に8名もの小学生を刺殺し殺害した事件がある。犯人は宅間守という人物だった。宅間 も、今回の今井容疑者と同じく、自殺未遂の経験があった。また宅間は、「何故小学生を狙ったのか?」という取り調べに対し、「大人だと抵抗される」と思っ たと語った。彼は今井と違って、182cmの長身であり、体力自衛隊に入隊していた経験もあり、同年代の若者と比較しても、決して劣るものではなかった。

児童が標的になった事件は、様々あるが、その根源をたどると、1987年から1988年にかけて宮崎勤によって引き起こされた一連の事件があるようにも思 われる。この事件は、埼玉の印刷工場経営者の息子として生をうけた宮崎勤が、社会に適合出来ず、ビデオなどで、性的妄想を膨らませた挙げ句、3歳から7歳 という年齢の4名の少女を誘拐し殺害に及んだというものであった。

ある意味においては、大人の女性の愛を獲得することの出来ない宮崎という孤独な青年が、代償行為として、幼女を対象としてこれをターゲットとして犯行を重 ねたものである。この事件は、日本人の悪の精神のターニングポイントとなった可能性がある。多くの宮崎に似た精神性をもった青年が、これにある種の共感を もって受け入れた可能性がある。要するにこの事件のインパクトは、児童をターゲットとすることへの抵抗感を排除する役割を果たしたということである。

大事なのは、「弱きを助ける」という不文律の道徳観が、いつの間にか、排除されてしまったことにあった。動物の世界で、考えても、幼児期において、どのよ うな人物もあどけなくて、可愛らしい風貌をしているのは、「愛らしい風貌」が生物としての本能的戦略なのだという考え方がある。確かに、どんな厳つい顔を 持つ動物でも、生まれたての幼児期には、大変可愛らしい。人間も同じだ。悪党のような容貌を持つ人物でも、幼児期の写真を見ると、笑うほど可愛らしいもの だ。誰もこのような子供を虐める気にはなれないのである。ところが、最近は違ってきてしまった。子供の愛らしさは、自分の身を守る道具にはなれず、ただた だ弱いという弱点そのものが攻撃のターゲットにされてしまう傾向にある。今や幼児期の愛らしさは幼児自身の防御装置としては通用しなくなったのである。

現在41歳の今井容疑者には、三人の子供がいる。自分の娘が、交通事故にあったが無事だった時には、「神に感謝」と、ブログか何かに書いたということだ。 極々普通の子煩悩なパパの姿がそこにある。そんな彼を狂気の犯行に駆り立てた原因は、何だったのか。弱い者にしわ寄せがいく世相が、日本中に蔓延してい る。そのことが今井容疑者の犯罪を何らかの格好で誘発したことは容易に想像がつくというものである。06.4.7


4  「ローン・ストレス」

今井容疑者には、大きな住宅ローンがあるようだ。報道によれば、04年10月頃、現在の 川崎市麻生区の家をローンで購入し、そのローン残高は3千万円であるという。償還年数にもよるが、おそらく15万円前後の、月々の返済が必要になる計算 だ。

今井家は、共働きのようである。夫婦ふたりの収入でバリバリ働けば、問題なく、やっていける金額だったはずだ。それがローンで家を購入してわずか1年後、 容疑者は、会社をリストラ(?)で退職したのだから、食べ盛りの3人の子供の食費や教育費と15万円のローンを抱えていれば、どうにもならなくなったので あろう。妻だけが、働いていたとしても、家計が火の車なのは、容易に想像がつく。おまけに本人の父親が病気との報道もあり、今井容疑者には、大変な金銭的 なプレッシャーがのし掛かっていたと思われる。

昨年暮れにかけて、二度ほど首にロープなどを巻いて自殺未遂を起こし、今年になって、病院に入院したとの報道もある。ともかく金銭的な不安が容疑者の精神 状態に大きな影響を及ぼしていることだけは間違いなさそうだ。

「自殺」の項でも触れたが、日本の自殺者において、金銭的ストレスあるいは経済的要因が占める割合は、20%から25%は下らないと思われている。今井容 疑者の場合は、自殺者に名を連ねる可能性もあったと思われる。それが他者しかも弱き者としての児童へ向かったことに特徴がある。ここに全国で日常化する児 童に対する犯罪多発のメカニズムが潜んでいるようにも思える。

とかく犯罪の影にはローン・ストレス(借金によるストレス)があるとはよく言われることだ。今井容疑者の引き起こした投げ落とし事件の背後に、「ローン・ ストレス」があったかどうかという検証は見落とされてはならない問題である。06.4.10 


5  「中高年者の失業」

総務庁の統計によれば、今年2月の完全失業率(季節調整値)は4.1%で、これは平成10年(1998)年以来の低水準とのことだ。景気回復の鮮明さが裏 付けられた形だ。これに伴い、大手企業は、新卒採用を大幅に拡大しているようだ。

しかし一方、雇用市場では、この景気回復、雇用の拡大とは裏腹な側面もある。それはこれまで馬車馬のように働いてきた中高年の一般職の失業者の雇用問題で ある。大企業は、新卒や専門職の雇用には積極的だが、営業や事務職などで失業した中高年の労働者には、鼻も引っかけない傾向にある。

今井容疑者は、まさにそうした社会階層に入る人物だ。家を購入したばかりで、育ち盛りの三人の子供がいる。しかも彼は理容という手に職を持ちながら、けん しょう炎ということで、それも出来ない状況に追いやられている。

「自分ばかりどうして、こんな目に遭うんだ」と拗ねてみたくなるのも、一理ある。それが彼をうつ状態にし、自殺未遂を起こさせた要因であろう。

リストラをめぐる今井容疑者と前に勤めていたカーテン販売会社の見解の違いは、おそらく、失業保険が絡んだものと思われる。カーテン販売会社は、あくまで も今井容疑者が自分の都合で退職したとして、社会保険を処理したのかもしれない。それに対して、今井容疑者側は、「リストラ」によって退職したことにして 欲しかったのである。もしも会社の都合のリストラであれば、失業保険の給付をすぐに受けられる。しかし自己都合であれば、三ヶ月待たなければならなくな る。結局、会社は、今井容疑者の都合ということで、給付が昨年の11月か12月から実施された可能性が高い。

さて彼の失業保険であるが、それも11月から6ヶ月であるから、この4月か5月で打ち切りになる計算だ。これは今井容疑者の異常な犯罪行為の経緯とピタリ と符合する。失業保険の給付打ち切りという現実が、時限爆弾のように容疑者の心を追い詰めたのであろか。

端からみれば、ほんの少しポジティブに考えれば、問題ないように思える。愛すべきそして守るべき家族がいる のだから・・・何でもできるはずだ。しかし人には容易に変えられぬ気質というものがあり、雇用保険も打ち切りになるという不安は、容赦なく今井容疑者を追 い込んで行ったに相違ない。世の中には不器用な人間もいるのである。今井容疑者の退職が、自己都合か会社都合かは別にして、一般的にいって、中高年で失業 した人間の悲劇が、この非道な事件の背景にあることを忘れてはならない。06.4.11


6  「今井容疑者は"ハル 9000"説?!」

これまで、今井容疑者を犯行に至らしめた外部要因((キー概念)について考えてきた。今度は少し視点を変えて今井容疑者の心そのものを考えてみる。

映画「2001年宇宙の旅」(1968年監督スタンリー・キューブリック)のコンピューター「ハル9000」について知らないひとはあるまい。周知のよう に「ハル9000」は「ディスカバリー」の母船全体を統率管理する人類史上最高の人工知能である。ハルは、既に自意識のようなものをもつ意識体まで進化し ている。

ところが、木星探査の過程で暴走し、乗組員を次々と殺害する。ハルは、木星探査の任務そのものに、疑念を持った。そして乗組員ひとりを故障と偽って船外に おびき出し殺害、さらに冬眠状態の三人も生命維持装置をはずして殺害する。ハルの狂気(暴走)に気づいた機長(キャプテン)のボーマンは、ハルのスイッチ を切ることに成功した。そしてディスカバリーは遭難する。息詰まるような緊張感が画面一杯に溢れている映画史上に残る傑作だ。

この映画を表して、スピルバーグは「乗り越え不可能な作品」と最大級の評価をした。ともかく、観る度に想像力をかき立てられる作品であることは確かだ。妙 な表現だが、私にとっては、幽霊屋敷を探検した後のような薄気味の悪い思いが残るような映画であった。それは、人間が近未来において自分たちが造り上げた 人工知能(コンピューター)という新たな知性体によって、支配されてしまうのではないか、という不安そのものかもしれない。

そこで、私はこのハルの狂気、暴走というものが起こり、例のロボット三原則によっても、人間に手出しをしてはいけないはずの知的ロボットが、一線を越えて 人間という主人を殺害するというタブーを破ってしまったことに、とても興味が沸いた。それは人が悪を働いて人を殺害するということにも通じるものがあるか らだ。

さて、その後、「2010年宇宙の旅」という続編が作成された。これは原作が、「2001年宇宙の旅」(1984年を協同で練り上げたSF小説の巨匠アー サー・C・クラークが書き下ろしたものだが、ハルの暴走の原因が明かされる。ハルの暴走の理由を解明したのは、ハルの設計者チャンドラ博士であった。博士 は、原因はハルが人間で言えば、統合失調症(分裂病)の精神状態になったためであると結論付けた。つまりハルは、次々と与えられた指令に答えようとしたの だが、指令と指令の間に、初めにセットされている基礎的なベースの心の間に、矛盾を生じてしまったというのである。

難しいことは、抜きにして、人間の心にもこれと同じで、心の均衡を失わさせてしまうキー概念が働くことがあるのではないかと思うのである。平静の精神状態 であれば、道徳や倫理観はハル同様、今井容疑者にもあったことは、41年間、悪人として捕まった経験がなかったことからも言えるであろう。とすれば、今井 容疑者は、我々の前に現れた「人間のハル9000」なのである。06.4.13


  ハルの心と今井容疑者の心」

ハルが人間の乗組員に対し凶行を働いた背後に、人間の精神病と同じ状況があったということについて詳しくみてみる。ハルは心を持ってしまったと考えられる 人口知能だ。ハルの心はコンピューター言語によって書かれている。一つの命令がハルに下されるとする。

例えばこうだ。
「君は5人のクルーと共に、木星探査の任務につけ。任務全般にわたってクルーに従い無事地球に帰ってくることを命令する。但し、君だけに、告げておくこと がある。木星にはある知的生命体が存在し、今回は彼らとのファーストコンタクトとなる可能性がある。この事実はキャプテンのボーマンにも他のクルーにも告 げていない。彼らの動揺を怖れるからだ。万が一彼らが死亡することがあっても、君はすべてのデータをもって無事に地球に帰還するように命令する。」

すでにこの命令そのものが、命令としてミステークである。それはハルにはロボットの三原則によって、人間への忠誠を宿命付けられているにもかかわらず、ハ ルのみが、このミッションの本当の意味を知らされているという矛盾を孕んでいるからである。計画の全貌を知っているハルは、ディスカバリーの中にあって は、言うならば神のような存在にもなる。なぜなら、彼らの生命維持もミッションの内容も知っているのは、自分だけなのである。人間の下にいて、従う立場に ある人工知能が明らかに優位な位置にいる。

言うならば、ハルは自分の存在理由をしっかりと見出し得なかったのである。そのため、ハルは、人間の統合失調症の精神状況となり、乗組員を殺害するという 凶行を演じたのである。突き詰めて言えば、人間による間違った命令がハルを苦しめ、追い込んでしまったことになる。実は、この命令をハルに下すことを、ハ ルの生みの親であるチャドラ博士は反対したのであった。しかし反対は上層部によって、却下され、たとえクルーが亡くなったとしても、ハルが任務遂行を自主 的に行うことを命じたのであった。ハルの狂気の原因は、人間のプログラムミスが引き起こしたものだった。

今井容疑者を弁護しようなどとは少しも思わない。ただし、ハルという人工知能の心の微妙なヒダを読む時、ひとつの言葉、ひとつの経験、ひとつの挫折が、人 間の心と同じように、バランスを失って、異常な行動を引き起こす引き金になりかねないと思うのである。

ところで、キャプテンのボーマンによって、電源を切られたハルは、2010年、調査救出に向かったチャンドラ博士によって、意識を回復した。そこでチャン ドラ博士が行ったことは、実行した命令のログを解析し、ハルの心の動きと狂気の行動を調べることだった。そしてハルが陥った「ホフスタッター・メビウス・ ループ」という症状を発見したのである。これは人間の統合失調症に当たるものだった。その後にチャンドラ博士が取った作業が、ひとつのハルの治療法であっ た。それは、ハルの行動記録(ログ)をそっくり、記憶回路から削除したことである。これは人間で言えば、限定的な記憶の喪失の状態にあたる。人間におい て、記憶喪失は、精神が耐え難いパニックに陥った状況で起こるようであるが、ハルの場合は、この記憶を削除することによって、正常な精神を生みだしたので ある。

人間と人工知能の違いは、「忘れる」という行為の有無ということも言える。その意味でも、抜き差しならない問題に直面した時には、これを忘れるという機能 もまた大切になるのである。もしも、今井容疑者の心が、今後徐々に解明されていくであろうが、少し楽に生きる術を気質として持っていたら、三人の子供がい る分別盛りの男が、小学三年生の児童を15階から投げ落とすという凶行に及ぶことはなかったと思うがどうであろう。06.4.14



8  「今井容疑者と理容師の心理学」

今井容疑者は理容師であった。理容師の心理というものを考えてみる。私は理容室に行っていつも思うのだが、喉の辺りをのヒゲを当たってもらっている時、命 を預けている気がする。その時、私は無防備で、もしも理容師の人物が突然の狂気に襲われて、人を殺したいという衝動を持ったとしよう。普通その狂気という ものは、イメージするだけで終わってしまう。その時、理容師は、湧いてきた狂気を、職業的倫理観というもので一気呵成に払拭してしまう。つなり理性という もので、抑えつけて何もなかったことになる。ところがもしも、精神的に追い詰められていた場合、そのいつでもノドを掻き切れるという状況は精神の成長と発 展に何らかの影響を与えることは事実だろう。

要は、理容師という職業は、その気になれば、首切り役人のように変る可能性のあるものだ。そこのところが、「2001年宇宙の旅」のハルと立場が似ている のである。つまり今回の事件で、今井容疑者は、ハルと同じく、抑えられない衝動が道徳心を上回って、人を殺害するということを現実化してしまったのであ る。

人の心というものの、成り立ちを時系列で考えれば、まず気質というものが個々人に生まれ持ったものとして存在する。また手先が器用とか、逆に、理数系に特 に優れている。あるいは語学に能力を発揮するとか、才能というものも、人それぞれに違っている。その上に、家庭環境や学校教育などが積み重なって、次第に 人格というものが形成されていく。その過程で、生じる事故や災害、事件などが、人格に強い影響を与える。やがて大人になると、人間は職業というものを持 つ。人間の人格の完成において、決定的な影響を与えるものが、職業というものである。

人間というものは、ある職業を持ち、一定期間それに打ち込むことによって、性格も大いに変化する。「職業が人を作る」とはよく言われることだ。今井容疑者 の場合も、短い時間ではあったが、理容師という、人のノド元に、カミソリナイフを置いて自由に行き来させる時期を過ごしたことが、何らかの意味を持ってし まったのかもしれないと思うのである


9 「宅間守と今井容疑者の類似点」

宅間守という人物がいる。云わずと知れたあの大阪池田小学校に侵入し、8人もの児童を無差別に殺害した殺人鬼だ。彼は反省の弁もなく、死刑判決後は、「早 く刑を執行して欲しい」と控訴せず、結局異例のスピードで刑が執行され亡くなった。私にはまるで、彼の死が公権力への依頼殺人のようにも感じられた。今井 容疑者との共通項は、自分よりも腕力体力の劣る児童や女性を狙ったという点である。

ところで、J・ヒルマンという心理学者に「自殺と魂」という著作がある。この中でヒルマンは、興味あることを言っている。結論から言えばそれは「すべての 死が自殺」であるというものである。その前に、ヒルマンは、「象徴的な死」と「実際の死」という概念を用いて、「すべての死が自殺」であるという主張を証 明しようとする。

「象徴的な死」とは、夢や想像の世界の中で、自分の死を体験することである。それに対して、「実際の死」は、まさに現実に死ぬことである。そして、ヒルマ ンは、死というものが、魂の「変容の瞬間」を意味すると主張する。誰もが自分の人生を変えたいと願う。現実に叶わない場合は、死がひとつの変容の機会にな ることもある。

このヒルマンの考え方を宅間の人生において考えれば、宅間は一度確かビルの5階から飛び降り自殺をはかり、未遂に終わっている。彼には、今井容疑者同様、 強い自殺願望が存在した。そこで考えられることは、宅間が池田小学校で児童を殺戮することで、死刑になるということで、自分に死を招来したことになる。別 の言葉でいえば、これは裁判所という公権力を利用しての一種の自殺ではないかと思われるのである。

今井容疑者の場合も、自分がそこから飛び降りることを「象徴的な死」として考えたが、とても怖くて出来ず、擬似的に児童を投げ落とすという行為に出たと考 えられる。二度目に掃除婦の女性を投げ落とす行為は、連続殺人であるから、これは無意識の内には、死刑になるという象徴的な死を、想像の世界で、体験済み だった可能性が高い。

とすれば、宅間守も今井容疑者の場合も、ヒルマンの自殺論における自分への決着としての自殺願望が背景にあることが想定されるのである。


10  「動機なき犯罪傾向と歴史」

今井容疑者の行動原理を分析しながら、様々な角度から、その異様に映る犯罪を検討している最中、4月24日、午後7時半頃、高野山で大阪から高野山の高校 に留学していた16歳の少年が、71歳の高野山写真館店主を惨殺するという事件が起きた。やはりこの事件も、恨みによる犯行ではない。つまり犯罪動機がな いのである。

大阪に戻り、自首した犯人の弁によれば、「(高校の)先生に怒られたので、ムシャクシャしてやった。別に誰でも良かった。」という趣旨のことを語ったとさ れる。もしも、物証もなく、犯人が自首しなければ、警察としては、物取りによる犯行ではないと見て、怨恨による犯行として、被害者の交友関係を洗うことに なったはずだ。しかしこの事件もまたこれまでの犯行パターンとは異なった原理に基づいて実行された犯罪である。

誰でも良かった、ということは、別の言葉にすれば、「たまたまその時、側にいて、殺人衝動を満足される対象であればよかった」ということになる。その対象 は、当然のように強いものには向かわず、決まって明らかに犯人よりも弱者に向かう。これは、ひとつの最近の衝動的殺人犯の行動パターンと言ってよい。この 行動パターンから、私はある怖ろしい歴史を連想してしまった。それは二十世紀初頭、ドイツで吹き荒れ、全世界に波及したナチズムやファシズムなどの全体主 義的傾向である。

心理学者のユングは、かつてヒトラーが台頭し、ドイツでファシズムが吹き荒れ、ヨーロッパ全土を震撼せしめる前の頃、ドイツの若者たちが、暴力的な傾向を 示したことを、いったい若者の心で何が起きているのだろう、と考えたという。少しして、その答えは明確になった。ドイツ人の心を捉えたヒトラーは、ユダヤ 人をドイツ民族の敵と見なして、徹底的な弾圧を加え、無防備なユダヤ系の罪なき市民を捕らえて、強制収容所へ送り、そしてガス室で600万に上るユダヤ人 を虐殺してしまったのである。

ユングは、ヒトラーという人物を、「空想虚言」と診立てた。これはヒステリーの一種で、自分でついた嘘を、自分で信じ込むというものである。ドイツ人の若 者の暴力的な傾向は、ヒトラーの空想虚言に強く反応し、ハメルンの笛吹に操られたネズミのようになって、無批判にユダヤ人たちの攻撃に向かったのである。

話が少し大げさで、横道にそれたように感じる人がいるかもしれない。私がここで言いたいことは、「動機なき殺人願望」という得体の知れない暴力的傾向が、 ユングの言う集合的な無意識の形をとって、若者の心の奥底に地下水脈のように流れているのではないかという一点である。

動機なき殺人を犯した犯人の心に共通するものを冷静に分析することが必要である。今井容疑者の犯行を社会行動学的に位置づけるならば、今井容疑者の不可解 極まりない犯行も、単なる意味不明の犯罪というものではなく、やがて大きな歴史的事件の呼び水となる歴史性を帯びたものかもしれないということが想定され るのである。


つづく 佐藤 

2006.4.3-4.27 佐藤弘弥

義経伝説
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