古戦場一の谷の景観の変貌を考える 

−歴史的景観と寺社−

神戸のある人から「義経伝説」の掲示板を通じて便りがあったので、すぐに昨秋訪れた神戸の一ノ谷の景色を思い出してしまった。今そこは須磨浦駅が出来、JR、私鉄、国道が入り乱れて、お世辞にも風光明媚な古戦場とは言い難い場所になってしまっている。

想像するに、かつての一ノ谷合戦のあった、神戸須磨区の一ノ谷古戦場は、素晴らしく風光明媚な場所であったはずだ。しかし今、遠浅の砂浜だったはずの海岸線には、道(国道二号)が出来て電車の線路が敷かれている。波が押し寄せていた砂浜は、コンクリートの岸壁が壁となって、地と海は分かたれている。こうして源平合戦の主戦場となった歴史的景観は、永遠に失われてしまったのだ。それでも須磨浦公園から明石海峡を挟んで淡路島を遠くに見る景観は素晴らしい。

何故一ノ谷が、このような状況になってしまったか、と言えば、それは須磨寺という聖域以外には、時の権力者にも、民衆にも、今目の前にある歴史的景観を大切にするなどという思考がそもそもなかったからに他ならない。更に言わせて貰えば、須磨寺の寺社の力がもっと優勢なものであるか、時の権力者が、松島における伊達政宗のように、この地を大切に保護していれば、もう少し名所旧跡として景観が保持されたかもしれない。つまり地域開発と言う美名のもとに、景観は蔑ろにされ、様々な人間の欲というものが強く働いた結果、現在の一ノ谷の古戦場跡の無惨な変貌があるのだ。

考えてみれば、日本三景にしても、その他の多くの風光明媚と言われる名所でも、やはり寺や神社が、その景観の中心をなしているか、深い関わりを持っているような地域に限られるようである。つまり景観というものは、ある意味で信仰というものと結びついて初めて、維持されるような類の壊れやすいものなのだ。人々の利便や私欲が優先される時には、どんなに過去において風光明媚な場所であったとしても、ことごとくその景観は破壊される運命にある。

我々は平泉の景観を考える時、このような歴史の教訓から学ばなければならないのえはあるまいか。だから一ノ谷の景観の変貌はけっして他人事ではない。佐藤

 


2001.7.2

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