胆沢郡誌
<抜粋>

第十一章 社寺名跡天然記念物

衣川村




1 月山神社

祭神 月読命
創立 人皇五十代仁明天皇の嘉祥三年慈覚大師の草創にして大師自作の弥陀如来を安置す。 
人皇六十八代堀河天皇の長治二年藤原清衡之を再興す。
宝物 神鏡。弥陀如来の木像。十二光仏の軸物。

按ずるに草創は慈覚大師にして当時は神仏混淆の世なりしを以て、弥陀如来等を安置せるならん。又宝物として以上の如きもの現存するも之れが為なるべし。祭日と古例。祭日は、十月二十八日にして、此の日は近郷の子民は男女七歳の時精進潔斎し、御ゆずりとて白衣を上につけたがよりにて製したるものをかけ、父親附添にて参詣するの例あり。之を七つ児参りと称ふ。家に帰れば近親を招待し其児を正座として宴を開き、初めて鳥肉を食せしむ、(母親も其時まで四足二足を食わず)是れ藤原秀衡大病の時の祈願によるものなりと伝ふ。因襲の久しき、今に至りて之を行ふ。奇と謂うべし。
境内老樹あり、鬱蒼幽邃儼として、神の在すが如し。思わす敬虔の念を起さしむ

2 磐神社

祭神 日本武尊 稲葉姫命の二神
神体 大石、高一丈四尺、横二丈六尺、縦三丈二尺
創立 不詳。延喜式内奥州一百座の内胆沢七座の一なり。五月二十日


3 荒沢神社

祭神 猿田彦命を奉祀せるものなりしが、仏法年を追って盛んになり、世は神仏混淆の時
代となれり。斯くて仁明天皇の嘉祥三年慈覚大師社殿を創立せしを以て、荒沢地蔵権現と称せり。其後長治二年藤原清衡之を再興せりと云う。

4 三峯神社 

祭神 諾冊二尊
勤請 当社は亨保元年三月埼玉縣秩父郡大瀧村三峰神社の分霊を勤請せるものなり。盗難防除の霊験著しとて参詣するもの夥しく、青森、秋田、宮城地方に講員一萬余を有す。社堂は、高台にありて、頗る眺めに富めり。社地一畝歩。

5 八幡神社

祭神 品牟陀別命
勤請 当社延暦二十年坂上田村麿夷酋追討の時、祈願勤請し、其後、天喜二年源頼義夷賊平定の報賽に造営せられ、永承年中、机地相模守社領四十間を寄進し社殿を修繕せりという。
宝物 短刀一振、箭根二筋、棟札二枚、

6 月山神社

祭神 月読命
草創 当社は延喜元年の草創にして上衣川字河内に鎮座す。社地南北弐町、東西一町半。文明十七年机地相模守再興す、毎年九月二十九日例祭を行う。
宝物 棟札、大且那机地殿(文明十七年三月十七日外文字不明)。牛王法印文字。月山宮宝印。

7 神明神社

社は衣の関の対岸、大櫻の南にあり。関明神を祭る。本社に一個の古き鰐口を存せり。其銘に曰く
敬奉白神明神社御宝前大壇那沙弥王道重
同大壇那沙弥王明壇那沙弥光秀称宜并屋大正冥安
貞治二十二年卯月十五日

8 愛宕神社

本社は元愛宕山権現と称し、愛宕山将軍地蔵現三尊の木像地蔵尊を祀る。其勤請の年月詳かならず、維新後愛宕神社として尊崇せり。

9 雲際寺

山号 妙好山 曹洞宗
本尊 不動明王
開基及由緒 当寺は、人皇五十四代 仁明天皇の嘉祥三年の開基にして、元、天台宗牛局山梅際寺と号せしが其後文治二年十月源義経主従十二人及北の方(京の姫)を具して奥州に下りし時、山門の戒定坊俊章、阿闍梨仲教阿闍梨民部卿の禅師頼然等之を送りて平泉に到る。義経仍て尽く慰籍して之を還し、独り民部卿頼然を留む。文治三年義経の北方当寺を再建して朝夕崇めたりし守り本尊の不動尊を安置し頼然を中興開山となし、山号を妙好山と改む。
文治五年閏四月高館落城し、義経並に北の方共に自害しければ、頼然懇に、其菩提を弔はん為位牌を本寺に安置し、朝夕回向に怠りなかりしと云う。
其位牌に、雲形にして左の如く刻したり。
捐館 通山源公大居士神儀 文治五年閏四月廿八日源之義経

当寺開基 局山妙好尼大姉
其後、年代を経るに従い、廃頽せしかば、人皇百四代後土御門天皇の文明五年報恩山永徳寺六世の孫珊光素玉和尚改築して、曹洞宗に転宗し、妙好山雲際寺と改め中興の開山となる。

10 松山寺

山号 荷石山 曹洞宗
本尊 正観音
開基及由緒 当寺は元、天台宗なりしが、年を経るに随い廃頽に帰したるを、明応元年鉄牛和尚中興して、曹洞宗に改転せり。当寺は柏山家代々の菩提寺にして柏山伊勢守明吉及其子孫の位牌を安置せり。正観世音は丈一尺五寸、柏山伊勢守明吉の位牌は高さ二尺四寸、幅六寸五分、雲形羽附にして、中央に大領院殿松山寒公大居士神祇と刻し、永正甲子正月十三日とあり。又十三仏あり。伝唐月氏の作にして各寸八分あり。空海上人支那より帰朝の時、持来りて高野山般若寺に安置せるものなるが、天正六年六月葛西氏の女、貞仙尼衣川を出発し、高野山慈尊院に参詣し、夫れより般若寺に詣づ。此時該寺より与えられしを奉じて、十月一日本村に着し而して鉄牛和尚道師となりて当山に安置せるものなりと伝ふ。本寺は羽後国平鹿郡醍醐村香最寺末寺なり、

11 安祥坊

宗派 浄土真宗大谷派
本尊 阿弥陀如来
開基 ■(イ+會)智清 嘉元二年八月の創立にして、下衣川宇河西にあり。境内三反歩、元ささやかなる庵寺なりしが年を追って壇家増加するに従い、改築するに及んで一寺院の形をなすに至れり。十一月の御七夜には善男善女参拝するもの多し。

12 地蔵堂

下衣川字六道にあり。本尊は延命地蔵菩薩にして、奥州の探題、佐々木四郎忠縄十五代の孫吉長元和二年二月本尊を奉じて下衣川字本畑に住せしが、後年堂宇を此地に建て奉祀せりと云う。子産仏なりとて三月二十四日の縁日には、近郷より参詣の婦人絡繹絶えず。

13 薬師堂(寺田)

上衣川字寺田にあり。嘉祥三年慈覚大師の開基にして、金龍山月光寺と称せしが回禄の災に罹り、夙に廃絶に帰す。後、仮堂を設け、本尊なる薬師瑠璃光如来(運慶作)十二将神を安置す。(如来丈一尺七寸、台下一尺七寸)
実に国宝ともなるべき仏像なり。此外延享五年八月二十七日附の棟札一枚を存せり。今や一民家の邸内にあり。世人寺田の薬師と称して参拝するもの多し。

14 薬師堂(大原)

堂は上衣川字大原にあり。亨保元年京都東岳院の僧都明法院本尊薬師如来を負って、此地に来り錫を止めて諸人の喜捨を仰ぎ一宇の堂を建てて奉祀せしが、宝暦五年法院死去せる後、再三火災に罹り堂塔本尊共に灰燼に帰したるを部民造営度々修繕を加え、維持し来りしが、明治三十年一月部民協同出資し、同年五月竣工遷座式を行いたり。

15 菊の瀧

碧水■麗滔々として、深潭に落つ、其落つる所、或抵となり、■(イ+焦)となり、其奇言語に絶す。一たび斯の境に遊ばば意気快活手を拍って、天工の絶景を叫ばしむ。宜なるかな。往昔源判官鹿山縣の慈童が寿に傚わんとて北の方を伴い遊覧せるや、其当時は菊の花両岸に咲き乱れ実に興ある所なりと云う。

山川の浪の花とも見ゆるかな 千々に乱れて匂うしら菊。 源 判官
白浪の音にも聞きし菊川の 菊は世に似ぬ色香なりけり。 北の 方
君かへん千歳の秋と菊の花 折りかさしつつ仕えまつらん。 浪の戸
白浪のかかる色香の花そとは 知らで遇にし菊のいろいろ。 近藤左衛門茂広
白水逶■八菊潭、渓山逼処碧凝藍、奔湍激石寒翻雪、溌刺魚跳一両三。菅川衣水佳名愛此菊花潭、激石飛泉瀞漾藍、肥遯他時随彭沢、好開迎客径三三。
   次韻  本宮三香 下総

16 衣の瀧

瀧は菊の瀧より約三里の上流にあり。直下四丈八尺蕩然山壑を振撼するの壮観なきも千尋の素簾蒼壁に懸り萬丈の錦河碧巒を伝ふるの眺めあり。其飛沫烟となり雨となり淙々として深潭に落つ。傍に形ち壷の如きあり水堪え藍の如し。俗称して藍壷と曰ふ。

源はいづくなるらん白雲の 衣の瀧は涼しかりけり。 涜人不知

蘚苔封尽石厳間、雲気冥濛鎖古関 十丈飛泉懸絶壁。涼■(風+炎)万斛洗塵顔 菅川衣水


17 浪洗

昔時、衣川此地を索回せる所なりと云う。其頃岸の松なりとて松の大木ありしが今枯損せり。西行法師漫遊して此の地に来り、水勢激して厳をかみ、■(さんずい+前)々たる緑波考松の盤根を洗うを見て
衣川汀によりてたつ浪は 岸の松かね洗うなりけり。

18 陣場

康平年中源頼義、安倍頼時征討の時、陣営を構えたる地にして、地方戦役ある毎に、南北攻守の要扼とせし所なり。後年伊達家の士卒銃術を練習せる平坦の所なり。里俗読んで鉄砲場と云う。

19 桝形森

鐘棲ありし跡なり。此の鐘棲は平泉の塔山の北なる鏡が岳より軍令を受け順次伝えて外浜に至れるなり。後人源頼義兵数を計る為作りたる桝形なりと称するも一の臆説に過ぎず。頂上石堂を建て桝形明神を祀る。

20 九輪堂址

址は安倍頼時の墓所なりと伝ふ。其堂址今に存せり。其周辺池ありしとて、其地名を池田と称ふ。

21 摂待館址

址は神明神社の北東にありて、東西六十四間、南北三十一間あり。藤原秀衡の母深く仏法に帰依せしを以て、慈善の為往来の旅人を接待せる所にして六日市場に接近せり。

22 旧市場

安倍氏全盛の当時、衣の関道路を挟みて、宿場を設け上の宿、下の宿という。後藤原氏時代六日市場、十日市場と変じたりとなむ。其外八日市場、十日市場等あり。何れも今尚其名を呼びつつあり。これ其当時子弟宗族邸宅を搆うに当たり、市塵商戸軍をならべて殷賑を極めたるならんか。

23 関櫻の趾

又大櫻とも称す。昔南宗坊といえる。行脚僧が大和の吉野より携えて来りし櫻を此地に植えしとぞ伝えいふ。樹の廻り三丈八尺九寸ありしと。今枯損して其根株だに存せず。

花の香を行手にとめよ旅人の 衣の関の春の嵐   光台院入道 正三位 智家卿

24 轡森(くつわもり)

安倍貞任が轡を埋めたる所ともいい、又藤原秀衡が轡を置きし地なりとも云う。七日市場と並木屋敷との間にあり。

瑟々錚々聲一聲 荒■(丘+おおざと)露冷草虫鳴 英雄事去山河在 千古空留轡塚名。浅利蝶夢

25 衣川柵址

址は西に八千坂、月山の天険を控え、南に衣の関の固めあり。廻らすに衣川の水を湛え、方数十町に及べるは是れ安倍氏累代の居城を構えたる地なり。柵外に櫻数千株を並木の如く植えならべたれば里人称して並木屋敷と云う。古文書に、東西七十六間、南北百四十六間とあるは、これ子弟宗族の一城郭の趾の間敷を記せしものならんか。按ずるに之に接続して小松館あり、北館あり。倉屋敷あり。大手あり、貞任が曽祖父六郡を領せしより八十余年、此に住せしかば、古文書にあるが如き狭小の城郭に非ざらん。

文治五年源頼朝藤原泰衡を征伐し、其帰途平泉に軍を駐め、一日安倍頼時の遺跡を歴覧し、郭土空残秋草■(金+巣)兮数十町、磯石何在旧台埋兮百余年と、又以て其当時を追想するに足らんか。
臆昔此地号東蛮 叛服無常民俗簇 兇賊蜂屯憑嶮頑 武人薙草奏功還
当時不察家門敗 何意欲戌天歩難 往事来弔多感慨 衣川依旧水潺々
                       土方泰山

春風白馬弄軽鞭 三世豪華圧北辺 雲黯八千長坂夕 
凄々吹雨灑衣川             菅川衣水

戦決雌雄馬一鞭 当年長柵定何辺 潮痕似帯玄黄血 秋漲蓼花紅満川
                       次韻 本宮三香


26 小松柵

安倍貞任の弟境講師官照の居館にして、東北七十四間南北六十間あり。北館に隣り、衣川柵の東に位す。唐平年中安倍の一族瓦解するに及び廃城に帰せしが、其後葉石又三郎城を此地に構え、天正年中まで居住す。

27 琵琶柵

衣川柵の西南、大手先の前にあり。衣川の流域周囲を索回して、其地形琵琶の状をなせり。故に此の名ありという。貞任の庶兄成道の居城なり。其対岸に秀衡の三男泉三郎忠衡の居りし泉が城址あり。実に南北攻守の要扼の地と称すべきなり

28 慈覚堂址

月山神社の北方にあり。藤原清衡再興せしも、今は廃絶し、わつかに其址を存するのみ。

29 月見坂

満山の霜葉錦を晒し、夕陽輝々として相映じ、秋景の美言はん方なきのみならず月東山に上れば、実に一層の奇観を極む。安倍氏全盛の頃、秋宵一刻亦千金として観月の勝地とせりと云う。

30 八千坂

坂路羊腸として、頗(すこぶ)る嶮峻(けんしゅん)なり。安倍貞任八千騎の軍兵を備えて官軍を扼(やく)したる所なりと。

31 吉冶屋敷

三條吉次信高の宅址にして、東西五十五間、南北四十八間地平坦なり。四隣水田に接し礎石今尚存せり。後人呼んで長者原と云う。因に記す、吉次の父を炭焼藤太という。陸前栗原郡金成村の人なり。三子あり。吉次、吉内、吉六という。長子吉次性怜悧少にして商を好み、平泉府に出入せり。秀衡夙に其頴才を愛し、命じて庶用を弁ぜしむ。其母京の産なるを以て砂金を托して京洛にひさがしむ。吉次大に利する所あり。尓後往復間断なかりしと。斯くて公侯の門に出入し三條吉次の名京洛の間に嘖々たりしという。時に牛若丸之を聞き窃かに託して平泉に来れるなり。
 

黄金花萬朶 遠粥帝都春 炬眼知雛鳳 相携絶世人           佐藤貌厳

礎石厳然今尚存 牛郎当日亦懐思 千年遺蹟無人弔 秋草離々長者原   浅利蝶夢

長者家空草似煙 只看礎石尚依然 憑誰欲訊栄枯夢 雨打風淋八百年   菅川衣水

右の文にも見えて陸奥の 金あき人の名こそたかけれ          庄子香園


32 室樹址(むろきあと) 

藤原秀衡の母堂花木を植栽せし所なりと云う。所謂今の植物園なり。

向館

八日市場の東にあり。安倍頼時の一族の居りし舘にして、衣川を下瞰し、遙かに西方八千坂の天嶮を望む。一説に袈裟の母衣川の居りし所なりと称するも臆説に過きず。

33 善成

山勢高峻にして所々に洞窟あり。二方川に囲まれ要害の地なり。往古大武麿とい山。夷賊の巣窟なりとぞ。

34 ■ (雨+?)山

四方山を離れて断岩屹立し高さ四町、東西九十間、南北四百間恰も屏風を列べたる如く容易に登ること能わず、里民称して切山という。中段に窟あり。奥に入るに従い暗黒にして咫尺を弁ぜず。伝えいふ、達谷窟より通りたる窟にして高丸悪路王の巣窟なりと。今や崩壊して其一部を存するのみ。

35 尼子穴

厳穴の形は巨蚌の口を張るが如し。深奥にして幽暗昔時妙好尼の隠家とせし所なりと云う。盛夏の候氷結んでとけず、窟前に春日神社を祭る。

36 机地相模守城址

址は衣水を挟みて一邱をなし、本丸は東西二十三間、南北二十八間、二の丸、東西七十五間、南北百間、今は萱生地となる。安永四年後里俗誤って安倍館と称す

37 古館

安倍氏の新城にして東西百三十間、南北百二十間あり、衣川柵破れ逃れて此に来り、官兵を防ぐも亦成らず、遂に一首坂を上りて北に逃れ去る。
後柏山伊勢守机地相模守の居住せる地となりしが柏山氏百岡に移り、机地氏永住せり。其子孫今此の近傍に住す。

38 一首坂(いっしゅざか)

源義家が安倍貞任を追って古館に至る。貞任敗れて単騎馬に鞭ちて遁れ、此坂に到るの時、義家朝臣

衣の館は綻びにけり
と呼びかけしに、貞任咄嗟の間に
年を経し糸の乱れの苦しさに
と返しければ、義家之に感じ敢て追わざりしとぞ、此事故より一首坂と称えたりしを後世に至り石生坂に転訛せりと。或は云う、貞任の逃れたる坂路は下衣川字張山の東、栗坂(里俗呼んでくりみ沢という。)ならんと。地勢上より観察すれば、一の憶説として看過し能わざるなり。唯其考証なきを惜む。他日史家の調査を待たんのみ。
一條奔流疾於矢 十里渓山曲似弓 唱和当年事何美 引而不廃脱梟雄   浅利蝶夢



ホーム

奥州デジタル文庫トップ

2002.1.25
H.sato