井上靖の
「平泉紀行」を読む


中尊寺金色堂
(2003.4.26撮影)

「天平の甍」や「孔子」などの著作で知られる小説家井上靖が、平泉を初めて訪れたのは、1972年6月のことであった。この時、小説家は、65歳であった。さてこの時のことが、「平泉紀行」と題されて、発表されている。しかしその記述の内容は、意外に、平泉の風景や中尊寺や毛越寺の印象でも芭蕉が「夏草や兵どもが夢の跡」と詠嘆した高館から景色でもなく、金色堂に埋葬された藤原三代の遺体のことに殊更焦点が当てられている。いったいこの小説家は、何を観たくて、この平泉に足を運んだのであろう。

平泉紀行の中で、小説家は、以下のようにおのれの興味について記している。
 

「藤原三代の権力者の異体が収められて居る以上、金色堂は当然葬堂として建てられたものであると考えるのが自然に思われるが、しかし、学者、専門家の間では必ずしも、これが定説になっていないようである。
今仮に金色堂を葬堂として考える立場に立ってみよう。私などに最も興味がある問題は、これを造った時の初代清衡の気持である。黄金の光まばゆいお堂の中に、自分の死後の世界を置こうとした清衡の気持ちである。
清衡が金色堂を建てたのは六十九歳の時、一一二四年のことである。そして四年後の一一二八年に、清衡は遺体となって、その中にはいっている。(中略)清衡が黄金の葬堂をいかにして思いつき、いかにしてそのプランを実行に移したか、清衡をそのような気持に走らせたものは何であったか。信仰であったか。中央政府に対する反撥であったか、あるいは北方の王者としての気負いであったか。」


考えてみれば、この時、小説家は、65歳で、清衡が金色堂を建てる時の年齢とほとんど同世代であった。老いというものは、煎じ詰めて云えば、死の一線に近づくことに他ならない。小説家のなかでは、それが顕在意識であったか、潜在意識であったかは、別にしても、いかにしたら、人は死というものを受け入れ、そしてそれを乗り越えることが可能であるか。金色堂の前に立つことによって、そのことについて、何かしらのインスピレーションが得られるのではないか、というような期待のようなものも心のどこかにあって、平泉に訪れたのではないかと想像される。
 
 

自分の死というものを十二分に意識し始めた人間とそうでない人間では、金色堂の味わいは、まったく違うものになる。ましてやこの金色堂を建てた初代清衡の年齢に近い井上靖であらば尚更のこと、自分の気持が、その場に立った時、どんな風になるのか、それこそどきどきするような思いで、杉木立に囲まれた傾斜の緩い階段を一歩一歩と上って行ったことだろう。

復元修理で、旧鞘堂は、経蔵の脇に移築されている。新しい鞘堂は、コンクリート造られたものだが、賛否両論がある中で、概観としては、さほどの違和感を思わせるものではない。その中にあって、さらに透明のガラスの覆いで包まれて金色堂は立っている。

そして小説家は、お堂の中に入る。

「この金色堂を眼にした時の印象は、美しい黄金の小函(こばこ)と言うほかはなかった。…そしてこの金色に光り輝いている小函の中に三つの遺体と、一つの首級が収められているのである。…藤原三代の武人たちが蝦夷の血を持っていたかどうかは知らない。初代の清衡は自ら“東夷の遠酋(とういのえんしゅう)”と記しているが、これだけで彼が蝦夷の血を持っていると解釈するおとはできない。ただこの黄金の小函を一族の者の死後の住家としようとしたそうした考え方の方がむしろ異様な気がする」


「美しい黄金の小函」とは、実にユニークな表現である。ここから私が類推するイメージは、黄金の玉手箱のようなもので、その中には小さいけれども様々な色をした宝石が収められていて、燦然と光り輝いて光景である。おそらく小説家は、その圧倒的な輝きに驚きを隠せなかったに違いない。そのことを感情のままに言えば、「蝦夷の末裔がどうかは、しらないけれども、何というほどの輝きだろう。しかもこの小函のようなものを、死後の住居にしようと考えるとは…?!」そして、そこに常識を遙かに越えた清衡の極楽浄土に対する強い思いを観て、「異様」と形容したのであろう。

確かにこれほど、死後の住処というものを、きっちりと定めて、そのプランの通りに、死んで見せ、はたまた自身が統治した平泉の地が滅びた後の世にも、征服者たちにも、少しも手を触れさせず、そのまま存在するということは、古今東西の歴史の中でもそんなに多い例ではないはずだ。滅んだものの葬廟というものは、たいてい征服者やあるいは墓泥棒のような者によって、ことごとく持ち去られてしまうものである。それがこの金色堂の周囲では、太閤秀吉によって持ち出された経典などの一部を除いては、ほとんど見られない。これまた実に不思議なことである。
 

小説家の興味は、金色堂にあるようにみえて、実は自らの遺体を人口的にミイラとし、永遠に遺そうと構想した清衡の心にあるようだ。古来より、自分の遺骸を、永遠に遺すことを決意し、実際にそのようにしたのは、少なくても日本の政治家では、清衡が初めてであろう。アイヌの社会には、そのような風習があったということだ。これをもって、エミシの流れを受け継ぐのものとしての奥州藤原氏の自覚の顕れとする見方があるが、もう少し踏み込んで考えてみれば、密教的な意味で永遠不滅の肉体を得るという弘法大師空海(774-835)のような考えを持つに至ったのかもしれない。真言宗の信徒の間では、今も空海は、高野山の奥の院に、生きていると信じられている。そして今でも空海の元に、食事を運ぶ高僧がいると言う。もしかすれば、清衡は、この平泉の地に永遠の肉体を得て、奥州の平和を見守るつもりだったということがあったのかもしれない。

現に、吾妻鏡では、そのことを、次のように記している。

「入滅の年に臨みて、にわかに逆善を修す。百ヶ日の結願の時に当たりて、一病も無くして、合掌して、仏号を唱えて、眠るが如く、眼を閉じ終わりぬ」


逆善云々を簡単に説明すれば、清衡は、最期の年に、にわかに旅立ちの日を想定し、死の準備に入ったのである。おそらく彼はおのれの肉体を永遠化し、平泉という都市の聖なる地に遺すために、意識して食事を細くし、肉体から水分を徐々に減らしていったはずだ。その間、経典を読呪などして、静かながらしかし確信に満ちた日々を送ったのである。極端に言って、不滅の肉体を得るための修業というのものは、意識して行う餓死行為と言われる。これを清衡は、百日に渡って見事にやり遂げ、最後に大往生した。この時、清衡は72歳の高齢であった。参考までに言えば、空海の入定は、61歳であった。何という意志力であろう。清衡や空海に限らず、人はいったん念(おもい)を持ってしまったら、この位の芸当はやってしまうほどの潜在力が眠っているということになる。

井上靖は、この清衡の己の肉体を不滅化しようとするほどの強靱な精神というものに触れたかったに違いない。だからこそ、紀行と言いながら、まったくと言っていいほど、平泉の美しい景色にまで筆が及ぶことがなかったのではあるまいか。言い換えれば、景色に興味がなかったのではなく、黄金の都市を築いて亡くなった清衡以下三代の心模様をこそ是非とも垣間見たいという思いが強かったというべきであろう。
 
 

平泉の金色堂は、独特の雰囲気が漂っている。それは薄暗い中でまばゆく輝きを放つ荘厳の壇の下に、清衡をはじめ基衡、秀衡の遺骸、それに泰衡の首級まで安置されているという先入観があるためかも知れないが、僅か6m四方に収まる小さな御堂にもかかわらず、観る者の魂を圧倒してしまうような強烈な力が発せられている気がする。

一昨年(2001年)に洋画家の村山直儀画伯を、中尊寺にご案内したおり、村山氏は、この金色堂を出るなり、「これは単に日本文化というよりは、エジプトのピラミッドを想像したファラオの文化に通じるものを感じるね」と言われた。

奥州平泉の文化と古代エジプトの共通項はなにか。それは第一に己の死後の肉体を遺すためにミイラ処理を施したという点、第二に永遠に輝きを失わない黄金というものをふんだんに使う文明であったという点であろうか。

都市平泉を造営した清衡は、中尊寺に「鐘楼」と呼ばれる「鐘」を造らせ、朝晩に平和を祈願し、これを突かせた。その音は、聖なる都市「平泉」中に、響き渡ったことであろう。その鐘には次のような意味の文字が刻まれていた。
 

「この鐘の一音が及ぶ所は、世界のあらゆる所に響き渡り、苦しみを抜き、楽を与え、生きるものすべてのものにあまねく平等に響く。(奥州の地では)官軍の兵に限らず、エミシの兵によらず、古来より多くの者の命が失われてきた。それだけではない。獣、鳥、魚も数限りなく殺されてきた。命あるものたちの御霊は、今あの世に去り、骨も朽ち、それでも奥州の土塊となっている。だからこの鐘を打ち鳴らす度に、罪もなく命を奪われしものたちの御霊を慰め、極楽浄土に導きたいと願うのだ・・・」


これは間違いなく清衡のという人間の本音である。この気持ちにウソ偽りはない。何故ならば、清衡ほど、周囲で血なまぐさい経験をした人間はいないからだ。清衡の実父の藤原経清は、前九年の役で、エミシの血の流れを汲む安倍氏方に組して、最後は官軍に首を落とされた。僅か八歳の時である。安倍氏の娘であった母は、この時、官軍に加勢した出羽のエミシの流れを汲む清原氏に再嫁して、清衡の命は、何とかつながった。しかし今度は清原氏の中で内紛(後三年の役と呼ばれる)が起こり、自分の妻と子が、奇襲にあって、焼け死んでしまうという悲惨な目にあってしまう。それでも清衡は、清原の兄弟同士の悲惨な戦を死にものぐるいで闘った結果、最後には、陸奥守鎮守府将軍源義家の助成を受けて、奥州の覇者となり、奥州と出羽を統一してしまうことになる。清衡は、このことを自分の力だとは思っていなかった。「誤って、エミシの酋長の座に座ることになった」と謙虚に語っている。

何しろ、清衡は、それこそ一夜にして、南は白河の関(現在の福島)から外浜(青森)までに及ぶ広大な東北の地を事実上領有してしまうことになった。そしてこの地には、金の中でも最高の品質を持つと言われる「砂金」という強い経済的バックボーンがあった。

清衡は、この砂金というものを最大の武器として、農業の生産力を高め、馬を飼育していった。その結果、奥羽の経済は、辺境と言われていたにもかかわらず飛躍的な発展を遂げるのである。そして清衡には、もう一つの精神的な基盤があった。それは仏教に対する強い信仰心である。

言い方を変えれば、都市平泉は、戦争に苦しみ死んで行った人と他の生類に対する鎮魂の浄化の装置であったのだ。この地から戦が消えて、平和になったことを高らかに宣言し、二度と戦争の悲惨がこの地に巡ってくることのないように清衡は、中尊寺を建て、「中尊寺供養願文」と呼ばれる文書を自ら起草させて、平泉に一種の「願」を掛けたのである。不思議なことに中尊寺供養願文には、「金色堂」のことが記載されていない。これには色々な説があるが、私は自分がこの中に入り、不滅の魂となって、この平和の楽土を見守ろうとする「願」そのものであるから、これを変に誤解されて、朝廷以上の立場を奥州藤原氏は狙っていると思われないために、表は努めて、白河法王と鳥羽天皇の発願による「御願寺(あるいは勅願寺)」ということを強調したのであろう。

最後に、小説家井上靖は、この不思議な紀行文をこのように綴って締めくくっている。

「私は、北方の権力者たちの不思議な意志と行動を、己が一族が持たねばならなかった運命の予感としてとらえたいのである。平泉の栄華の跡は何もなくなり、文字通り夏草に覆われている。遺っているのは美しい黄金の小函と、そこに収められてある三個の遺体と一個の首級だけなのである。」


これ以上、私が何を付け加えようか。紀行の結論を、著者も読者の心にゆだねている。奥州の覇者たちは、謎かけのようにして、夏草に覆われた夢の跡と不思議な黄金の小函を遺して去ったのである。了


 



2003.5.11 Hsato

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