童話 命の川

1
その日は、月がきれいな夏の夜だった。北上川に映った月がゆらゆらと妖しい光を放っている。今年で80才になる亀爺は、「今日はさっぱりだったな」と呟きながら、高館橋の畔にある我家へ船を急いだ。誰が待っているわけでは訳ではない。8年前に、奥さんを亡くしてからは、毎日こうして、釣りに明け暮れる生活を送っている。もう寂しさにもなれ、一人暮らしもそう悪くはないと思い始めていた。川を下りながら、今日の獲物の少なさのことはすっかり忘れ、爺の脳裏をさまざまな思いが次々と浮かんでは消えた。

「戦争もあったけど、何とか生きて帰って来れて、子供も無事育って、何とか一人前になって、みんなそれぞれの家庭を守って、それなりに暮らしていっているみたいだし…結構いい人生だったのかもしれないな…」普段はそんなことなど、考えるような亀爺ではなかったが、やはり月の光が爺の感傷を刺激したのだろう。

そばで、さっき釣ったばかりの鯉がバシャ、バシャと跳ねた。爺はそんなことはまったくお構いなしに、煙草に火をつけてプカリとやった。遠くで愛犬の「ラン」が吠えている。いつものことだ。爺の帰りを誰よりも待っているのは、このランなのだ。爺は口癖に、「お前が一番ワシのことを思ってくれるものな、息子娘はみんな独立してしまって、ワシのことなどどうでもいいらしい」そして、そそくさと魚をさばき、串に刺して、火に焙ると、その一匹が、ランのものとなる。爺の方は、コップに酒を汲みながらチビリチビリとやる。これが大体のお決まりの爺の一日だった。

ところが、今日は少し違う。何が違うかと言えば、ランの吠え方がいつもと違う。爺にはランが、何かを知らせているように感じた。川岸に釣り船をつけると、ランが爺のそばにすり寄ってきた。
「どうしたラン?」
ランは、爺を連れて行こうとしたのか、川岸の上の方に走って行って、「ワンワン」とやった。爺はランの行く方向に向かって歩いて行った。80m程行った所で、ランの足が止まった。爺は、その場所まで、懐中電灯を灯しながら、スタコラ向かう。やっとのことで、その場に着くと、道路工事ですっかり岸辺の緑が剥ぎ取られて、むき出しの土の上に裸の少年が倒れていた。歳の頃なら8,9歳だろう。爺は、「どうした。坊や。どうした」と抱き起こして叫ぶと、少年は、ゆっくり丸い大きな目を開けて、「うーん」と呟いた。
 


そして少年は、「キキ、カミ、ナカテ」と、小さな声で意味の分からない言葉を発した。爺はびっくりしたが、少年の目を見て、それが「ここはどこなの?」と言っていることが、何となく呑み込めた。爺は、少年に笑いかけながら言った。
「ここはどこって、平泉の高館だべ。坊やは、どこの子だ。溺れて流されて来たんだな。そうだべ?前沢の辺り子が?」
「ま・え・さ・わ?」
「違うのが、まさが水沢つごとなかべ?」
「み・ず・さ・わ?」
「駄目だなこりゃー、まあ、家さ、入るべ、風邪っこ引いたら大変だっかな」
亀爺は、八十歳にしては、太すぎる腕に少年を抱えて、高館の岸辺にある我家へ向かった。

それにしても何と明るい満月の夜だろう。爺の経験でもこれほどの明るい月を見たのは初めてだった。爺は少年に、「もう大丈夫だぞ、心配いらないからな」と優しく微笑みかけた。すると腕の中の少年は「まえさわ、みずさわ、まえさわ、みずさわ」と歌うように繰り返した。

爺は、少年の歌が気に入ったのか、「じゃ、平泉も入れて、『まえさわ、みずさわ、ひらいずみ』と、歌ってみろ」と言った。そして少年の声に合わせて「まえさわ、みずさわ、ひらいずみ」と歌った。ふたりと一匹は、しばらく、「みずさわ、まえさわ、ひらいずみ」と歌いながら、月夜の道を歩いた。

先を走っていたランが、岸辺の船の前に下ろして置いたク―ラーボックスを「忘れないで」というように、船の前で「わんわん」と吠えた。
「ラン、分かってるよ。お腹が空いているんだな。大丈夫ちゃんと喰わせてやるからな」そう言うと、爺は、肩にヒョイとクーラーを担いで、母屋を素通りし、背後にある釣り小屋に入った。

釣り小屋とは言っても、爺の一日は、ほとんどここで始まり、ここで終わる。母屋はほとんど寝に帰るようなものだ。それに奥さんや家族の思い出が一杯詰まっている母屋にいるよりは、狭いけれども気楽で居心地がとてもいい。小屋は、全体が12、3畳ばかりだが、入ると小屋半分は、土間になっていて、突き当たりに調理場がある。奥に土間より二尺ばかり高くした板目の居間があり、そのまん中には上から鉄瓶の掛かった囲炉裏が設えてある。いつも亀爺は、奥の横座に座り、かか座のランを相手に一杯をやる。そして気がつくと、大体ランと一緒になって、眠ってしまうのだ。爺の朝は早い。束稲山の空が白み始める頃には、目が覚めてしまう。眠そうにしているランの尻を叩いて、「こらネボスケ犬め。早く起きろ」とやる。するとランは「ワウーン」と情けない声を出して渋々起きて、爺の後に続くのである。

爺は、まずこの小屋に入るなり、少年を横座に下ろし、「寒かったべ、いま暖かくしてやっからな」と言いながら、体にバスタオルを巻いてあげた。少年は、相変わらず焦点の定まらない視線で、爺やランの方をキョロキョロと見ていた。少しして、長押(なぎし)の、弁慶と呼ばれる焙った魚の竹串を刺す竹細工が珍しかったのか、「カカ、ムキ、シテ」と言って、指を指した。爺は「カカ、ムキ、シテだと?」と言いながら、少年の目を見て、それが「あれが欲しい」と言っているのだと分かった。

「あれはな、坊や、やいた魚を指して置くものだから、あげられないのだ。わかったな」と言いながら、少年の頭を撫でた。少年は、今度は壁に掛かっている釣り道具に興味を持ったのか、「カカ、ムキ、シテ」と言った。爺は、クーラーに入っている魚を早くさばいてしまいたくて、「坊や、少し待ってろな」と言いながら、部屋の隅にある冷蔵庫から、缶ジュースを取りだし、「ペッシ」という音を立てて、少年の前に出した。少年はそれが何か、分からずに、「ペッシ」と言いながら、眺め回していたが、やがて爺に促されて、ゴクゴクと勢いよくジュースを飲み始めた。
 
 


爺が、クーラーから太った真鯉をまな板に載せ、さばき始めると、ふたりと一匹の視線が、鯉に集中した。包丁が鯉の背に入った瞬間、鯉は少しパタパタとやったが、すぐにおとなしくなった。きっと少年もお腹が空いているのだろう。腹の虫が「ググ、グー」と鳴った。爺は手慣れた様子で鯉をさばくと、酒の肴にする白身を少し取り、残りは鯉濃(こいこく)にして、大鍋に野菜と一緒に入れて無造作に煮た。少しして、大鍋がグツグツと音を立て、美味しそうな赤味噌仕立ての臭いが、小屋の中に充満しだした。そばでは電気炊飯器が、旧式の機関車のように米を炊きあげている。

爺は、棚からコップを取り出すと、お酒を注いで、グイッとあおった。「うまい…」爺は酒が入ると、急に陽気になって、「一声鳴いては旅から旅へ苦労深山のホトトギス」と演歌を唸りはじめた。いつものことだ。歌詞も何もこのフレーズだけしか知らないのだが、とにかくいい調子になると、この歌が爺の口をついて出てくる。するとこの歌に合わせて、ランが「ワォー、ワン、ワン」と続ける。ランとしては、一緒に歌っているつもりなのだ。今夜は、さらに少年までもが、爺の後に続いて、歌い出したものだから、爺はますます調子に乗って、少し節回しを変えたりして歌い出す始末だ。

「よし、煮えたぞ。さあ、食べろ」そう言うと、少年にはどんぶりに鯉濃をたっぷり盛ってあげた。ランには、どんぶりに炊きあがったばかりのご飯を敷いて、その上にたっぷりと鯉をかけた。少年は、食べたいのだが、どうして食べていいのか、分からず、箸を使わず手掴みにしようとしたので、爺が「これはいかん」とフォークを出して、食べさせてやろうとした。フォークの使い方をすぐさま覚えた少年は、爺の手からフォークをもぎ取ると、熱い鯉をフーフー言いながら口に運んだ。爺はニコリとして、鯉の白身に味噌を付け口に入れ二口三口咬んでは、コップ酒で一気に胃袋に流し込む。仕方がない。昔は歯ごたえを楽しむことができたが、今は自前の歯が、ほとんど無くなっているのだ。

すっかりいい気分になった爺は、外気に当たろうと小屋の外に出た。月は金鶏山の真上に位置していた。透明感は、やや薄れたが、相変わらず、妖しい光を放って輝いている。その光を受けて、金鶏山が、僅かに闇の中に浮かび上がっているように見える。この山、金鶏山は、その昔、この平泉の王であった三代藤原秀衡が、富士山をイメージして、人工的に造った山と言われている。高さは100m弱の小山だが、頂上には、仏教の経典を埋めた経塚が発見されている。また雄雌の金鶏埋めたとの伝説も残っている。秀衡は、この金鶏山を背景として、無量光院という小さな御堂を建てた。それは祖父清衡の建てた中尊寺や父基衡の建てた毛越寺と比べれば、遙かに小さな建築物ではあったが、秀衡は確固とした信念を持ってこの御堂を建てた。それは人が死んでから行くと考えられていた極楽浄土というものを、無量光院に来れば、生きながらイメージ出来るということであった。爺は昔から秀衡を、人間として尊敬してきた。

そしていつか爺は、金鶏山を見ながら、自然に両方の手を合せている自分に気がついた。様々なことが頭をよぎった。幼い頃、東京に出たくて父と喧嘩したこと…。結局爺は、父に許されて、東京の学校に入学することになった。しかし折からアメリカとの戦争が勃発し、爺は学徒出陣によって、中国へ出征することになった…。

その時、遠くから、サイレン音が、近づいて来るのが聞こえた。はじめは火事とも思ったが、どうやらパトカーのようだ。それにしてもこの時間にパトカーが来るなんてことはないので、「いったい何だろう。」と思っていると、何と自分の家の前で止まったので爺は二度びっくりした。警官が、二人ほど、月夜の中を走って来るのが見えた。ランは、爺のそばに駈け寄ってきて、闇の中に響くような低い声で「ウー」と唸りだした。
 


「づんつぁん、おばんでがす、びっくりすたべ?」 
ランは、今にも飛びかからん勢いで、「ウー」と構えていたが、その警官が帽子を取って、 
「ラン、俺だ。豊吉つぁんだ、安心しろ」と言うと、安心したのか、側に行って「クン・クン」とやった。警官は、豊吉と言って、爺の幼なじみの千葉新吉の息子で、小さい頃から、一ノ関の警察署に勤務している男だった。 
「あにが、出来だのが?豊吉」と亀爺が言うと、警官は、爺の腕を取って、 
「あのさー、ちょこっと、一緒に見でけねが」と、家の後ろに導いて、北上川の川上を指さした。見れば、爺の家の僅か100m程前方の川が青白くボーッと光っているではないか。 

「・・・?」爺はびっくりして声も出ない表情をした。 
「ほら、見えるべ、何だや、いったいあの光り?」 
「鬼火という話は、聞いだごとあっけど、随分青白いなや、それによく見ると、光りが右左に動いでいるな。いって、なんだべなあ?」 
「うん、署にもさあ、問い合わせの電話何件もへってよう、こうして調べさ、来たわげさ」 
「・・・分がんねなあ、」 
「それでさあ、悪いげっと、づんつぁん、ちょこっと、舟っこ出してもらうわけいがねがなあ」 
「それは構わねけど、おっかねなあ、気持ち悪いしなあ、」そう言いながら、光りをの方を見ると、揺れながら、川中を舞っているような感じで動いている。 
「危ない時は、すぐに引き返すがら、頼む、づんつぁん、報告書書く手前あるからさ、おっかねがら、遠くで見でどなったら、笑われるからしょ」 
「仕方ねえなあ、」と言いながら、人のいい亀爺は、身繕いを素早くすますと、心配顔のランを「わらすっこと小屋に居ろよ」と言って残して、警官と一緒に、船着き場に降りて行った。 

「づんつぁん、さっきわらすっこって言ったすか?誰が来て居るのすか?」
「・・・」爺は、警官の質問には答えず、足早に、高館の坂を下っていく。
「づんつぁん、ちょっと待ってよ」遅れた警官が、焦って爺を追いかけ、足を傾斜に掬われて、ズズーと3mばかり、尻ですべった。
「豊吉、しゃべってるがら、そういうごとになるんだ。ちゃんと気を付ける時は気を付けねばな。いずまで経っても
わらすっこみだいだど、おしょすぞ。おめ、歳なんぼなったのだ?」爺は呆れたように言った。
「38才だ」警官は頭をかきながら少年のように答えた。
づんつぁん、さっきわらすっこって言ったすか?誰が来て居るのすか?」 
「・・・」爺は、警官の質問には答えず、足早に、高館の坂を下っていく。 
「づんつぁん、ちょっと待ってよ」遅れた警官が、焦って爺を追いかけ、足を傾斜に掬われて、ズズーと3mばかり、尻ですべった。 
「豊吉、しゃべってるがら、そういうごとになるんだ。ちゃんと気を付ける時は気を付けねばな。いずまで経っても わらすっこみだいだど、おしょすいぞ。おめ、歳なんぼなったのだ?」爺は呆れたように言った。 
「38才だ」警官は頭をかきながら少年のように答えた。 
「早く、嫁御(よめご)とんねどな」と煙草に火を付ける。
「大きなお世話だべ」と警官が尻の泥を払いながら、小声で言った。
 

爺は、舟に乗ると、馴れた手つきでエンジンをかけ、「豊吉しゃがめ。いいが、ちゃんと捕まってろよ」と一言云って、舟は静かに岸を離れて川上に向かった。青白い光りが妖しい光を放ちながら、どんどん近づいてくる。前方を見つめている爺の顔に緊張が走る。 

「づんつぁん、何だべ、ほんとに、あの光はよー」警官が不安気に云った。 
「そんなごと聞がれでも分かるわけねえべ」 
それにしても前方の光りさえ見なければ、実に穏やかな月夜だ。柳の御所から高館にかけてのなだらかな丘陵の傾斜が月影によって浮かび上がって見える。月は相変わらず煌々と爺たちを照らしている。舟が起こすさざ波が月の光を浴びてゆらゆらと揺らめいている。静かな夜の北上川に爺の小舟のエンジンの音だけが響いている。 

「懐中電灯消せ」爺が、警官に向かって言った。 
「えっ?はい」警官が、促されるままに前方に向けていた懐中電灯のスイッチを切った。舟は、例の青白い光りから50m近くまで接近した。ふたつの妖しい光は、近くに接近すると、遠くで見ていた時以上に、左右前後に激しく動き回っているように見えた。川の中から発せられる光は、美しいと言えば、美しいには違いないのだが、ふたりにとってはこの世ならぬものに思われて、緊張は極限にまで達した。 

「UFOかな?」と、警官がいつもより甲高い声で言うと、 
「少し黙ってろ、シーッ」と爺が口に指を当てた。 
「何だよ、づんつゃん、そんなに怒らなくてもいいべ」 
「ほでね、豊吉、何か聞こえねが?ほら…」 
「…」 
「ほら、歌みだいだべ?なあ、歌でねが?」 
「うん、…確かに聞こえるな。いったい、何だべ?」 
どこからか、こんな風な声が聞こえている。 

「ミミ、カテ、トラセ、 
クク、モチ、トラセ、 
サー、ケテ、ナーモ」 

ひとりの声ではない。とても澄んだ声だ。爺は特に理由はないのだが、その声を聞いて、とてもやるせない気持ちになった。 
「何だべなあ、歌っこ聞いだっけ、涙が出てしまうって、いってえ、何だや、胸が締め付けられるような気持ちになるってよー?」 
「づんつゃん、俺もだ。悲しぐなって涙っこ出てしまう」ふたりは、そう言いながら、舟の上でついに涙をポロポロと流して大泣きに泣いてしまった。 

「ミミ、カテ、トラセ、 
クク、モチ、トラセ、 
サー、ケテ、ナーモ」 

どうやら、声は光りのある方向から聞こえてくるようだ。 
その時、爺の中で、何かしら、ひらめくものがあった。「もしかして・・・」爺は、ある言葉を必死で思い出そうとした。
「どうした?づんつぁん具合でも悪くなったが?」警官が心配そうに爺の顔をのぞき込む。
「少し、黙ってろ」爺は、集中するために、思い切ってエンジンを止めた。
「・・・キキ、カミ・・・ナカテ」爺はあやふやながら小声で言った。
「はあ?何だそれ?」
ついにその言葉を思い出した爺は、今度は大声で光りに向かって叫んだ。
「キキ、カミ、ナカテ」
爺は、同じ言葉を二度三度と繰り返してみた。
4度目は、警官も声を合わせて「キキ、カミ、ナカテ」と叫んだ。 

すると不思議なことが起こった。さっきまで聞こえていた歌が聞こえなくなったのだ。次に青白いふたつの光りも消えた。いったいどうしたのだろう。ふたりは顔を見合わせ、必死で付近を見回し、耳を澄ませても、もう光りも歌も聞こえて来ない…。 
 

「ちょっと懐中電灯貸せ」爺が大声でそう言うと、声の勢いに押されて、警官が素直にライトを差し出した。爺はつい今し方まで、光っていた辺りの水面にライトを当てた。何も見えない。いつもの北上川がそこにはあった。爺は一点に光りを当てて、しばらく考え事をしているように見えた。
近づけない雰囲気が爺の周囲に充満している。
「づんつぁん・・・」警官が小声で言った。
「ん?」
「そろそろ帰んねすか?もう何も見えねすな」
すると爺は、警官をジロリと睨み、「おっかねのが?」と言った。
「ほでね、ほでねちゃ、もう何もねがど思ってよ」
「このおっかねがりが、昔からおめは、おっかながりだったもんな。夜釣りに連れで行って、少し風っこ吹いで、草っぱザワザワいったけ、お化け来るって、ションベンむぐしたごとあったけなあ」
そう言いながら、爺はゲラゲラと笑った。
「何、づんつぁん、ずいぶ、昔のごど覚えでるごど、俺小学生の頃だべ、このまま一生言われそうだな、このままだどなあ」
「黙って聞げ、豊吉お前はなあ、新つぁんの息子だ。新つぁんの息子というごどはなあ、俺の息子というごどだ。わがるべ?新つぁんと、俺どはなあ、小さい頃がら、一緒にこの平泉に生まれてよ。喧嘩もしたげっと、とにかぐあいづがいだがら、俺もここまで頑張ってこれだど、思っている。新つぁんはなあ、戦争が終わって、中国でなあ、ロシケに捕まって、シベリアに連れでいがれだ。それで、うんと苦労した。生き残ってきたのは、不思議だとさえ、俺さ語った。何しろな、連れでいがれだ部隊の親友が、冬のシベリアの重労働で次々に死んで、次は俺の番だな、ど思ったんだどや、そんなごど、とおちゃんがら聞いたごどなかべ?」
「まったく、戦争のごど、俺さなど、語ったごどながったでば、ほだか、何にも知らねでば」
「それはなあ、余りにも辛い体験だったので、子供さは、教えたぐながったんだべなあ。分かるがその親の気持ちというものがよ・・・。だがら、お前もな、とうちゃんの気持ちを分かるためにも、結婚つぅーもの早ぐしてな、子供なして人の親になんなぎゃだけだぞ。いいが豊吉」
「まだ始まったもなあ、分かりした。分かってだっか。づんつぁん」
「ほんとだな。じゃー早ぐ、嫁御連れで来いよ」
「・・・うん」
「もう今年で、何年になる?」
「何年って?」
「バガこのー、とうちゃん死んでがらよ」
「ああ、今年で12年だっか、来年が13回忌だな。ずいぶん早い気すんなあ」
「そうが、もう13年になるのが・・・。シベリアで苦労したから、早ぐ逝くごどになったのだべなあ。新つぁんもなあ・・・」そう言いながら、爺は男泣きに泣いた。
 


その時である。ふいに水面がゴーという轟音とともに静に盛り上がっていった。爺と警官は、ただびっくりしたまま、目の前で起こっている出来事を凝視するしかなかった。水柱は、直径にして5mばかり。それが10mほどの高さに成長した。全体が青白い目映い光りを放っている。

「ユーフォー、ユーフォー」腰を抜かした警官が言った。
爺は船の前に立ちはだかる光の水柱にたじろぎながらも、心を決めて、
「キキ、カミ、ナカテ、キキ、カミ、ナカテ」と声を発した。

そのとたん、光の柱が中心から静に分かれて、光りの中心に巨大な人間の姿が見えてきた。次第にその実像がはっきりし出した。よく見れば、それは人間には似ているが、どうも我々とは少しばかり違うような見える。
爺は、きっと神様でも出てきたのだと思った。警官は、昔からUFOや宇宙人に興味を持っていたので、てっきり映画「ET」で見たことのある宇宙人に違いないと思った。

「おめだず、なすて俺だずの言葉っこ知ってるのや。なすてだ?」
鋭く甲高い声が聞こえた。聞いたことのない声だ。でもとても耳に心地よく響く。しかもその言葉は、紛れもない爺が使う土地の訛りのある言葉だった。
「なしてたって、すってからしゃべんのっしょ。それ以外ながべ」爺が答えて言った。
「もしかして、俺のわらすっこ知ってんでねえのが?!」
「わらすっこ?」
「ほど、今日なあ、俺のわらすっこいなぐなって探していだどごなのだ」
「歳はなんぼぐれだ」
「7づだ」
「7づが、ほで、おら家にいる子ど一緒ぐれだな」

「ほんとが?何でお前の家さ、何でおら家のわらすいるのだ?」
「今晩、高館の川っぺりに倒れでいだので助けだのだ。そのどき、さっきのキキ、カミ、ナカテ、キキ、カミ、ナカテって言っていだっか、覚えだのっしょ」
「今晩、川っぺりだど・・・それではおら家のわらすっこ助けで貰ったのが?」
「助けだのがどうかは、分かんねげっと、おら家さいっから安心しろ。とごろで、いってお前だず、人間なのが、それとも、妖怪なのが?」
「俺らはなあ、お前だずが「河童」といっている生き物だ。元々俺らはな、田舎の川っぺりに住んでいだのだげっと、人間が川の側さ、家っこ建てるようになってがら、住むどごなぐなってな。あるものは、川上の支流の山奥の川さ行って、住み着いだ者もいだす、俺らみでにな、大川の底さ、家っこ建でで暮らすているものもいる。ところがこの大川も随分お前ら人間の手で岸は、コンクリになるし、葦や草こは全部むしられでなぐなるし、もう住むどごろではなぐなったのだ。それによ、今度は、川底抉られるわ、岸の土っこ取られるわ、魚っこも逃げでしまって、もう生きていぐのも大変になった。今日俺家のわらすっこ腹減ったらしくて、魚っこ取りさ、行ったままかえんねがら、こうして心配して探していだのだ。」

よく見れば、確かに人間とは明らかに違う。まずクチビルが少しだけ尖っている。皮膚の色は、雪のように白く、手足がやたらと細長い。髪の毛は、水に濡れているため頭皮に張り付いて見えるが、その色は、やや青みがかったブルーだ。

爺は、もうどうにもなれ、という位に腹を据えていたので、少し失礼かとは、思ったが次のように行った。
「河童ってあの河童すか、随分俺らが思ってんのど、違うごだ。河童って、亀みだいに甲羅背負ってんでねえのが、あど皮膚の色って緑でながったが、水かきもねくて、水の中泳げねべっちゃ?」
すると河童はクスクスと笑いながら、こういった。
「河童って、人間が勝っ手に思っている河童って、人間が頭の中でこせだもので、本物とは違う。大体人間だって、猿がら進化したのでねのが。俺らはな、イルカがら進化したものだっか、姿は似でいっけど、まるで違うのだ」
「そうが、お前だず、イルカが祖先なのが、それで、口尖っていで、毛っこ少ねんだな」

その時、また別の水柱が、船の前に立ち上がった。

少しして、光りの柱の中に、ゆっくりと白く輝く絹のような薄い衣を羽織った女性が現れた。その優美な姿に、爺は「観音様だ」と小声で言った。遠い昔に法隆寺で見た百済観音に似ていると、爺は思った。その優美な顔は、微笑んでいる訳ではないが、どことなく人を和ませる雰囲気と気品に満ちていた。警官の豊吉は、その艶めかしい姿にただうっとりとしていた。

その女性が、透き通るような甲高い声で言った。
「めっかたのすか?」
「うん、このじんつぁんどごさ、居るみでだ。きっと魚っこ負っているうちに工事現場の方さ、行って、網にでも足が引っかがってしまったのだべ。高館の岸辺に倒れでいだのだどや」
「ああ、よかったね。てっきり、工事の土砂の下敷きにでもなったがど、思って底の方ばっかり探していだがら、わがんねがったんだね」その女性は河童の妻であった。

爺が言った。
「今工事でこの辺の川っぺり変わってしまって、確かに大変だべなあ、川に住んでいるどなるどな」
「ほでがす。昔みでに、魚っこちょちょっと取って、暮らすっつ訳いがなくなってしょ、大変なのだ」河童の夫が答えた。
「でも、ほんとにありがどがすた。助けでもらって、恩に着ます」妻が、爺に向かって、頭を下げ、白い手を差し出したので、
「いや、ただおらは、倒れでいだどご抱いて、おら家さ運んだだげだでば」と、爺は大照れに照れながら妻の手を恐る恐る握った。
「そしたら、早ぐ、息子さんどご、迎えさ行った方いいんでねがすか?」警官が言った。
「ほだな、いぐべ。河童さんや、ほじゃ、狭めげっとも、船さ、乗ってけらえん。大丈夫だっか」

河童の夫婦は、爺の船に乗り込むと、爺は高館の岸辺にある自分の家の方に、急いで向かった。月は既に金鶏山の彼方に沈み闇平泉全体を包んでいた。しかし爺たちを乗せた船の周りだけは、満月が北上川に落ちてきたような様子で、青白い光りがボォーと水面に浮かび上がり、北上川を滑るように横切っていくのであった。


船が岸辺に近づくと不思議なことが起こった。きっと光りに誘われたのであろう。音もなくキアゲハの大群が、爺たちを迎えるように、取り囲んでしまった。しかし蝶たちは、彼らにまとまりつく様子はなく、遠くから神々しい光りに対して敬意を払っているように見えた。

「何だべ、この蝶?」と警官が言った。
「構ねで置げ、ちょどすてれば、何にもすねがら、けって、綺麗だべ」と爺が言った。

四人が船を下りると、その気配を感じたのか、ランが「ワン、ワン」と駈けよってきた。
蝶たちが一斉に四人の周りを離れて、上空に舞い上がった。
爺は、河童の夫婦に噛みついてしまうのではないかと、心配になり、
「ラン、せつからすね、静にすろ」とランを睨み付けた。

河童の妻は、夫にしがみついて、じっと事の成り行きを見ていた。ランはどうやら、何かを知らせたくて、飛んできたらしい。しきりに爺に、こっちへ来い、というように小屋に向かう仕草をした。爺は、小屋で何かが起こったと察した。そこで、「みんな急ぐすぺ」
と言いながら、とても八十歳を越えたとは思えない足取りで、月が沈んだ闇の中に消えた。
その後をランがついていった。
「ちょっと、待ってけらいんちゃ。じんつぁん」と言いながら、大きな懐中電灯を持って警官が走った。河童の夫婦は、キアゲハの護衛に囲まれながら、その後に従った。

釣り小屋につくと、電気は付けっぱなしで、中が荒らされていた。爺はとっさに、
「キキ、カミ、ナカテ」と叫んだ。
少年はいない。少年が居た場所は、少し濡れており、擦ったような跡ががついていた。
「河童さんの息子さん居ねのすか」と警官が言った。
「ミミ、カテ、トラセ、ミミ、カテ、トラセ」と河童の夫婦が連呼した。
もう河童の妻の目からは涙が溢れんばかりだった。

「母屋さ行って見べ」爺が言った。
爺を先頭に母屋へ回った。するとやはり正面の玄関の戸は壊されており、賊のようなものが侵入した形跡が伺えた。中は真っ暗で電気は付いていない。ここで職業意識に目覚めたのか警官の豊吉が、先頭に立つと、
「じんつぁんちょっこら、待ってけろ、泥棒中さいるがもしれねっから、おれさ任せでけろ」と言った。
警官は警棒を取り、用心深く、そろりそろりと母屋の玄関に入って行く・・・。
 


細い廊下を忍び足で進と、先の居間の方でカタンと音がした。それとともにガラス戸越しに黒い影が、ふっと流れた。皆がその音の方向に目を向けた。警官の豊吉は、手の警棒の握る手に力を込めながら、後の爺の顔を見て、小さくうなずくような仕草をした。爺はゴクリとツバを呑み込んだ。廊下を照らしてみれば、確かにスニーカーの跡が点々と居間に続いている。
「一人でねえがもしゃねな」と警官が、小声で言った。
確かに廊下の上には、微かだが、スニーカーの跡が、幾重にもあるように見える。

覚悟を決めた警官は、左手に懐中電灯、右手に警棒を持って、
「こりゃー、ドロボー、ケイサズだ。おとなしくすろよ」と叫びながら、居間に飛び込んで行った。

しばしの沈黙があり、「あれ・・・」という気の抜けた声が居間から聞こえた。廊下にいた爺が、居間に入り、その後、玄関にいた河童の夫婦も、用心深く家に入って来た。家中がパッと明るくなり、その周囲を数十蝶が護衛しているようにも見える。

明るくなった居間を見れば、冷蔵庫が開けっ放しになって、中の者が散乱している。しかし人は誰もいない。冷蔵庫の側のテーブルの下が、濡れているのが見えた。

「おら家のわらす子、こごさ居だね。ほらあそご濡れでっから、見らいん」と河童の妻が言った。
「間違いねーな。確かに少し前まで、ここさいだな」
「何でわがんの?」爺が言った。
「ほだって、床濡れでいるすっぺ」
「なるほど、河童さんのわらすっこだっかね」

警官が言った。
「これは、きっと、母屋さ誰も居ねど思って入ったドロボー、河童さんのわらすっこど、なじょにがすて会ってしまって、てでがれだのでねべがや?」
「ほじゃー誘拐されだっつごどが?」爺言った。
「まず、間違いねべなあ・・・」
「豊吉、そしたら、こんなごとしてる暇ねがべ、署さ電話して応援頼まねばながべ」
「ああ、ほだ、ほだな・・・」そう言いながら、警官は、無線電話を取り出して、連絡しようとした。

その時、河童の夫が言った。
「あの、ちょっと、待ってけらいん。あのそーすっと、我々河童の子だっつごど世間さ分がってすまうごどになる。それは我々としてまずいのっしょ。人間ど、河童は似てげっと、そもそも祖先がサルどイルカだっか、違うすべ、まず人間の歴史で、河童はいっつも、馬っこ川さ誘って、悪さしたり、溺れだ人間の肝喰ってしまうだの、随分悪いごどばっか、言われでいるすぺ。こごで河童が出てきて見つかったつうごどなったら、まだ悪い噂流されで、我々の仲間もみんな捕まってしまったら大変だっかっしょ」
「なるほどなあ、あんだだち河童さんだまな、もし河童どわがったら、確かに世の中の人、なじょなっか、分がんねものなあ・・・」爺言った。
「づんつぁん、ほじゃー、なじょすっぺ、おれらで探すすか、ねってごどが?」
「ほだ、それしかながべ。それしかよー」

「あのー・・・」と河童の妻が、静に言った。
「なんでがす?」爺が言った。
「あのー、少し時間貰えば、あの子どごさ居だが、見えるんだげっと・・・」
「見えるって、あの千里眼つうものすか?」爺は、河童の妻を眩しく覗きながら言った。


河童の妻は、その場に腰を下ろすと、辺りを見回し、どんぶりを指さして、それに水を入れて来るように頼んだ。爺は、目をぱちくりさせながら、妻の前にそれを置いた。妻は目を瞑り、心を集中させていった。それにつれて、彼女の周囲を取り巻いていた光りが一変した。それまでは柔らかな月光のようだったのが、青白い光りへと移行し、その光りはますます強くなる一方だ。周囲を飛び回っていた蝶たちも、その色を借りて、青白い蝶に変わって、キラキラと輝いている。

「ほで、見でみらいん、下の水さ映ってるはずだっか」妻の甲高い声が、部屋に響いた。一同の目が、小さなどんぶりの表面に集中した。そこには何か、映っているが、少しぼやけているように見える。
「もう少しだな」河童の夫が言った。
すると妻は、更に気を一点に集めようとした。見えた。表面に鮮明に人の影が映っている。
そこには、河童の息子の他に二人の人物が映っていた。一人は子供で、河童の息子と同じ位の年格好だ。そしてもう一人は、大人でサングラスをかけ、頭を短く刈り上げている男だ。男は、軽トラックを運転して、どこかへ向かっている様子だ。すれ違う車のヘッドライトが通り過ぎて行くのがみえる。

「この車、おら家のでねが」爺が言った。
「うん、ほだ、これ、づんつぁん家のだな。間違いね」
「ほだら、この男がドロボーつうごどが」
「よし、ほじゃすぐに署さ、応援頼むがら」そう言い終わると、警官はすぐに署に緊急配備を依頼しようとした。
「待で、豊吉、さっき河童さん言ったごど、忘れだのが」

それまでじっと腕組みをしていた河童の夫が急に声を発した。
「このわらすっこ誰だべ?」
「誰だって言ったって、おめの息子だべ」と爺が言った。
「ほでねぐ、もう一人の子の方っしょ」
「もう一人」爺はそう言いながら、もう一人の少年を見つめた。歳の頃は5、6歳だろうか。河童の息子よりは、少しだけ幼い感じがする。丸刈りのぼーっとした顔にまん丸い目、すり切れたようなジーパン生地の半ズボンに同じ素材のチョッキのようなものを羽織っている。手には、爺の家の冷蔵庫にあったものか、ソーセージを持って、かじっている。全然怖がっている様子はない。

「サングラスの男と親子なのだべが?」と警官が言った。」
「・・・までよ」と爺が、何か閃いたらしく目を輝かした。つづく

 


2001.6.4
2001.7.2

義経伝説ホームへ

義経エッセイINDEXへ