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日本人の因果応報の観念

−道真公の思い−


初めまして。
** さま。

お読みいただきましてありがとうございます。私は特定の宗教の肩を持つつもりはありませんし、神秘主義者でもありませんが、少なくても宗教心というものはもっているつもりです。それは分からないもの、我々の常識で説明がつかないものを頭から否定するのではなく、むしろその中に一片の真理が働いていて、我々に何かを気づかせようとして起こるのだと考えるような立場です。その中に、私は菅原道真公のたたりの話が、日本人の中で、連綿と語り継がれてきたのだと思います。

道真公は、学者の顔を持った政治家で、温厚な面差しの人物でした。それが藤原時平の悪意と陰謀によって、左遷させられ、一族も徹底した排斥被るに及んで、その表情は険しくなり、無念を持って亡くなった後は、憤怒の形相となり、やがては雷神となり、大いに祟る神として、被害を及ぼした連中の前に現れたのです。人は皆このような怨霊となる資質を内に持っています。大衆は、この祟る神を畏れ崇拝し、社を建てて、一身に祈り、自分の住む土地にこの祟る神を勧請し、福の神として鎮まって貰ったのです。考えて見れば、たった数十グラムの物質が、エネルギーとして地上に全面解放されただけで、地球がぶっとぶほどの威力があるといいますね。

同じように人は自分の内に莫大な心的エネルギーというものを保有しているような気がいたします。もちろんこれはひとつの比喩ではありますが、道真公は、怒りと怨念という起爆剤をもって、己の心的エネルギーを「祟り」として解放したのだと思うのです。

しかし多くの人が、この自分の内になる無量の負のエネルギーを解放しないままに、多少この世に恨みなどを残しつつも、あの世に旅立っていってしまいます。それに日本人には、死ぬときにどこかで諦めのような心理が働いていて、何もかも自分一身で、背負って死ぬことにある種の美学を持つ心的傾向があるように思います。

今日では、梅原猛氏の壮大かつユニークなインスピレーションにより、法隆寺も聖徳太子の怨霊を鎮めのために建てられたという説が出て、定説化(?)しつつありますね。聖徳太子も、イメージで考えれば学究肌の温厚な政治家でした。ところがお札で見ていた聖徳太子像とはまるで違う聖徳太子像が明らかになってきています。怨霊としての聖徳太子像です。確かに怨霊になるだけの条件を太子は十分すぎるほど持っています。確か夢殿観音でしたか、その中から秘仏として出てきた大師像は、眼光鋭い、まさに怨念を一身に秘めて、実に怖い太子像でした。日本中広く流布している太子信仰は、やはり道真公に対する天神信仰と同様、祟る神に対する信仰だったということになりましょうか。ですからそうなると大化の改新というものが、聖徳大師という稀有な人物の怨念のエネルギーによって成し遂げられたと言えないことも無いわけですね。

随分おどろおどろしい話になりましたが、結論で言えば、人に悪いことをしたら、必ずその報いはある。「祟りが在るか無いか」とすれば、「在るか無いかは分からないが、在ると思った方がいい」と考えたいですね。それから故景山民雄氏の話は、別に仏をむち打って罰当たりをするつもりはありませんが、残念ながら承伏しかねます。何故ならば、故人の見方は、余りにも一面的で、無神経な気がするからです。我々は、現在の日本の平穏が、何百万何千万という人間の尊い血の犠牲の上に築かれた平和であることを知った方がいいのではないでしょうか。しかもこの犠牲者の中には、日本人だけではなく、多くのアジアの人々も含まれているのです。ですから簡単に日本を平和な国家と規定して単純に今紛争が起こっている地域の子供たちと比べて欲しくないのです。だって日本が平和になったのは、歴史的にみればごく最近のことではないでしょうか。問題なのは、今ある日本の平和が多くの血でもってあがなわれた上の平和であるという認識の欠如が日本人の間で段々と広がりつつあることのように思えます。そのことの一端が、故人の言動の中にあるように思えてしようがないのです。

以上のことを踏まえ、しかも憲法の保証する信教の自由は、承知した上で、日本には素晴らしい、宗教観や宗教的倫理観があるのですから、単におどろおどろしい「祟り」という事ではなく、菅原道真公や聖徳太子に対する日本人の信仰心の根源にある本質なるものを、キチンと民俗教育として教えることは、あってもいいのではないでしょうか。

最後になりましたが、ご指摘の「百人一首」の件、私の記憶違いでございます。訂正してお詫び申し上げます。今後ともどうぞ宜しく御願い申し上げます。佐藤

 春霞み梅のかほりも道々に菅丞相の思ひ残り香
 

 


2002.2.1

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