イジメ社会日本の構造



 
佐藤弘弥

1 イジメ社会日本に未来はない


「イジメ」が、最近連日のように新聞テレビなどで報道され、いささか加熱気味の気がしている。またひとつの「イジ メ」が連鎖反応を起こし、別の「イジメ」に転化しているということも考えられる。この「イジメの連鎖」とも言うべき社会状況は、いったいどのようなことで 起こったのか。少しばかり考察を加えてみたい。

まず「イジメ」という語句であるが、漢字で表記すれば、「苛め」あるいは「虐め」となる。広辞苑によれば、「いじ めること。特に学校で、弱い立場の生徒を肉体的または精神的に痛めつけること。」となっている。また新明解国語辞典では「いじめる」で、「{弱い立場にあ る者に}わざと苦痛を与えて、快楽を味わう。」と説明している。

要するにふたつの辞書の説明を綜合すれば、イジメとは強い者が弱い者を精神的肉体的に苦痛を与えることであり、一 方的に弱い者イジメをすることである。厳密に言えば、イジメとは、すべて「弱い者イジメ」なのである。つまり私たちが通常使用している「イジメ」という言 葉は、「弱い者イジメ」の「弱い者」を略した形ということになる。

ではどうして、人間は弱い者をイジメたくなるのだろう。

人間には攻撃性という本能があると言われる。確かにそうだ。ネコなども、自分より体の大きい人間やイヌを見ると、 大人しく借りてきたネコであるが、小鳥やネズミなど自分より小さなものをみると、たちまち攻撃してこれを食してしまう。また時には、殺した獲物をおもちゃ にして主人と思う人間の前に持ってきて得意顔をする時がある。人間は自分の内部にある他者への攻撃性を理性や道徳の力によって抑え時には「弱い者を助け る」と哲学を構築して人間としての価値を得ようにしているところがある。

通常、イジメというものは、風邪のように、人から人へ、組織から組織に伝染する性質を持つ。私の経験した例で言え ば、高校時代、寮に入った私は、意地の悪い先輩から、イジメを受けた。何かに付けては呼び出され、正座をさせられる。買い物に行かされる。その時私は、非 常に悔しかったが、冷静に考えて、「これは代々繰り返されてきた寮の慣習であって、この慣習を自分がその立場になった時に無くせばよい」、と強く思うよう になった。そしていつか私の美学として「先輩には嫌われても、後輩に好かれる自分になろう」と考えるようになったのである。事実、どうせ先輩というもの は、一年も経てば、卒業して居なくなるものである。苛められる側のこっちが苛めに動じなくなれば、先輩も面白くない。あいつは面白くないとなり、余り苛め の行動はなくなってしまった。別に親にも先生にも相談したことはないが、そのようにしてイジメは私の前から消えたのである。

さて昨今のイジメは陰湿で手が付けられないという見方がある。しかし日本がそれほど変わっているとも思えない。弱 い者をイジメる連中は、今も昔もいたのである。そして彼らいじめっ子の特徴というものは、決して刃向かって来ないようなものを選んでターゲットにするとい うことである。そしてまた刃向かって来ると思われるものには、徒党を組んで、刃向かっても無駄と思わせるのである。だとしたら、イジメられる側も頭を使っ て仲間を募る位の対抗策はとってもよい。

本来日本の学生は、憲法によって教育機会を権利として平等に与えられている存在であるが、それがイジメによって違 憲状態となっている教育現場であるとすれば、今後ますます子を持ちたがらぬ親が増えて、少子化傾向は完全に歯止めを失ってしまうことだって考えられる。と んでもないことである。

そして結局、現在の荒みきった学校現場を尻目に今後教師という職業へのなり手は居なくなって、日本社会から公立学 校というものは自然消滅してしまうことだって考えられないことではない。まさに教師という職業は、医療訴訟ばかり起こされて、さっぱりなり手のいない産婦 人科医と同じ道を辿るのだろうか。頭脳以外に、さしたる原材料を持たぬ日本においては、世界中においてどこの国よりも教育制度の充実がなければ、国の未来 は見えて来ない。イジメによって憲法に保障された教育の機会均等が疎外されているのであれば、これを直ちに是正する必要があることは明らかである。


2 イジメ社会とマスコミ

現代の日本社会においては、「イジメの社会構造」とも言うべき「骨組み」が出来上がっていると想像される。

このイジメの構造を最近の事件から考えてみる。福岡県のある小学校で起こった悲劇的事件だ。これは小学校5年生の の女生徒ふたりが、学内でイジメに遭い、年間で13万円ほどの金銭を嚇し取られたのであるが、これを学校側は、教育委員会に「イジメ」としてではなく、生 徒間の「金銭トラブル」として管轄の教育委員会に報告していたというものである。この事実を記者会見で公表した校長は、去る06年11月12日、責任を痛 感し自殺を遂げた。誠に痛ましい事件である。

まず学内で起こった執拗なイジメであるが、そのイジメをイジメとして認識しておきながら、教育委員会に「イジメ」 として報告しなかったことは、確かに大きな問題がある。その意味で校長の責任は大である。しかしながら、この「イジメ隠し」のムードは、ひとつの「構造」 であって、全国すべての学校の間に拡がっている一種の「空気」である。

本来であれば、「イジメ」をイジメとして報告し、これを撲滅しなければならないのだが、それを臭い物のようにフタ をして、やり過ごしてしまう。少なくても自分がその学校に関わっている間は、「イジメ」という報告をさせないような構造と空気がある。

つまり正しい報告を避けさせる要因が、「文科省ー都道府県教育委員会ー市町村教育委員会ー現場の学校」というヒエ ラルキー(階層組織)の中に間違いなく存在しているはずだ。それはおそらく勤務評定であろう。現場としての学内でも「校長ー教頭ー主任ー一般教諭」の中で 同じようなヒエラルキーがあり、これが「イジメ」という深刻な学内問題を表沙汰にしないで隠すようになるひとつの大きな原因である。

またこのイジメ問題が、昨今これほど加熱した原因は、国会での教育基本法改正論議に伴う、マスコミの集中砲火的報 道にも責任がある。それはイジメそのものやイジメによる自殺の悲劇などを連日連夜報道することで、日本中が過剰反応を起こしてしまっているのである。

マスコミは、このイジメの問題をまるで獲物のように追っている。自分は社会正義を背負った顔をしているが、彼らは 正義などを背負ってなどいない。彼らは読みの深い取材などはほとんどせず、記者クラブなどで得られた浅薄な情報を各社使い回しして、一律的な底の浅い報道 に終始している。名前を出したら悪いが、テリーIというタレントは、土曜日フジテレビ、6時間の教育番組でコメントを言ったと思ったら、日曜日の10時に TBS、さらに12時からテレビ朝日で教育問題を最もらしい顔をしてしゃべる。そして月曜日の早朝には日テレに登場して、また知ったかぶりの持論を展開す るという有様だ。彼はいったいいつどのような勉強をして教育問題を語るのか。

彼のようなマスコミが御しやすいコメンテーターと言われるようなタレントによって、ひとつの風潮のようなものが形 成されている。このどこを切っても、金太郎飴のようなコメントが、日本社会のひとつの「良識」を形成しているつもりだろうが、私からすれば、視聴率競争に 明け暮れるテレビ業界だけではなく、マスコミという存在は、「情報という獲物」を探す肉食獣の姿にしか見えないものである。そして私には彼ら自身が「いじ めっ子」の面相に見えて仕方がないのである。

もちろん今でも優れたジャーナリストはいるだろう。NHKで「ワーキングプア」のドキュメンタリーを制作など立派 なものもある。しかし現在のマスコミで一番目立つのは、この新鮮な情報という獲物を探すどう猛な肉食獣の残虐性である。例えば、先の福岡の小学校の校長先 生が「イジメ隠し」の責任を取る形で自殺したが、この校長を取材した時には、取材馴れしない校長を帰り間際もみくちゃにした上に「どのように責任をとるつ もり」と残酷な言葉を投げつけていた。

私から見れば、今回の「イジメ禍」とも言うべき社会現象は、教育基本法改正時期において、半ば人為的に引きおこさ れたムードと呼べないこともない。確かに「イジメ」という問題が、陰湿に日本中に蔓延していることは分かる。でもマスコミがこれをひとつの獲物として集中 砲火的に報道することによって、日本人特有のひとつの方向に過剰に反応する行動パターンに火が付いてしまったのである。確か石原都知事が、「過剰反応では ないか」、という発言をしたが、この意見には私も賛成である。

日本社会のイジメの構造は、何も子供の社会(学校)だけのことではない。むしろ話は逆であって、社会そのものが、 日本社会は弱い者イジメ社会なのである。むしろ連日イジメ事件の報道をするマスコミだって、イジメの社会構造の中心にあってイジメの歯車を回すゼンマイの 役割を担っていることを忘れるべきではない。自分だけは、今日のイジメの構造と一切関係ないという人はいない。つまり親と子の関係であれ、教師と生徒の関 係であれ、あるいは経営者と社員の関係であれ、私たちそのものが、否応なく、時にはイジメ社会でイジメの側に立ち、そして場所を変えれば、逆にイジメられ る側に回ってしまっているのである。

次に「貧困とイジメの因果関係」を考えてみよう。


3 イジメと日本経済

昨今の日本社会は、「格差社会」であるという。言ってみれば、「イジメ禍」とでも名付けたくなるような殺伐とした 教育現場の実態は、この格差社会の中で顕在化した問題ということができる。格差社会が生み出した貧困層の激増と学校でのイジメの因果関係を立証することは 容易ではないが、とりあえず日本経済の実態を捉えながら、格差社会という問題を見ていくことにする。

格差社会とは、これまでの中流意識の強い均質と言われた日本社会が、自由経済の市場原理を社会全体に浸透させるこ とによって、富裕層と中流層、そして貧困層というように所得格差によって階層に分かれつつあることをいう。

しかしながら、この所得配分をめぐる不公平感は深刻な問題を引きおこしつつあり、その是正は口でいうように簡単で はない。

OECD(経済協力機構)の2004年度の調査によれば、日本の貧困率というものは、世界の中で5番目(15. 3%)だそうである。随分と高い。ちなみに先進国の中では2位のアメリカ(17.1%)に次いで二位である。イギリスは11位(11.4%)、ドイツは 14位(10。0%)の順だ。この統計において、貧困層をどのように区分するかと言えば、その国ごとの平均所得の50%以下の収入しか得られていない人を 貧困層と定義しているそうだ。

この統計は、日本社会が、格差の拡大をある程度容認するアメリカ型資本主義社会に質的に変化を遂げようとしている ということだろう。

これまで日本社会は、一億中流と言われるように所得格差が少ない均質な流れの中にあった。かつての日本人は、隣近 所、同じような家を建て、自動車を買い、子を育てる。そして国民には貯蓄が奨励され、その貯蓄率の高さと勤勉な勤労意欲によって、日本は急速に経済発展を 遂げ、先進国の仲間入りをするまでになった。

しかし90年以降、日本社会は、イギリスのサッチャー政権によって行われたビッグバン(1986年以降イギリス証 券取引所を中心とする金融制度改革を宇宙開びゃくのビッグバンに喩えて言う言葉)をひとつのモデルとして、またそして2000年以降は、小泉政権による聖 域なき構造改革が叫ばれ、市場原理に基づく日本社会の構造改革がなされた。その結果、「自己責任」が問われ、社会は貯蓄型社会から投資型社会への転換が図 られるようになった。

そして昨今の日本経済(2002.2〜現在)は、いざなぎ景気(1965.11ー1970.7)を越えて持続して いるとの見方がある。しかし統計による数値がいかにいざなぎ景気を越えたとしても、日本国民は好景気が持続しているという実感がない。



ここに財務省が発表しているグラフがある。これによって一目で分かることは、企業収益が急激に伸び、それに反比例 するように勤労者の所得が低下していることである。国民が好景気との実感がないひとつの理由がここにある。つまり全体の景気は好調を示しても、個人の所得 が減少の一途を辿っているのだから、誰も好景気などと思わないのである。

さらに増税に拍車が掛かっている。保険料が上がり、医療費の負担率が上がり、また社会的弱者である高齢者や障害者 の負担率も上がり、一方では配偶者控除が廃止されや勤労者の定率減税が半減させられているということがある。

個人ベースで言えば、給料が減った上に、負担が増えたために、国民は消費を控えているという現実があるのだ。

日本銀行の理事から野村総研の理事長を歴任した鈴木淑夫氏が作成した今回と「いざなぎ景気」を比較表を参考にして みる。(鈴木淑夫氏HP「2006年11 月版月例景気見通し」より)

                      今回(02/2〜)       いざなぎ景気(65/11〜70/7)
   実質成長率     年率+2.4%        年率+11.5%
   経常利益      年率+10.8%       年率+30.2%
   設備投資      年率+6.5%       年率+24.9%
   個人消費      年率+1.7%       年率+9.6%
   定期給与      通計−0.85%       通計+79.2%
   消費者物価     通計−0.4%        通計+27.4%

ここで注目なのは、いざなぎ景気と今回とではまるで質的に違うものであるということだ。一概に好景気が続いている と言っても、まず給与の伸びがまるで違う。いざなぎの時には5年間で給与が80%もアップしている。それに比べて今回は給与は5年で1%弱下がっている。 この差は大きい。結局個人消費は、いざなぎ景気の時には、物価が30%近く上がったものの、給与がそれを上回る勢いで伸びたために、個人消費も年率で 10%位ずつ伸びているのである。今回は個人消費も1.7%と低いままだ。これが現実なのである。

いざなぎ景気を越えると言われた今回の好景気の正体は、国際優良企業と国内大企業が、リストラにリストラを重ねる ことによって、余剰資産を圧縮し、正規雇用を大幅に減らして利益をひねり出した結果なのである。 今回の「好景気」の牽引役は、国内に基盤を置く企業ではなく、トヨタ自動車やキャノンといった国際優良企業が中心である。

大企業の周辺で下請けを行っている中小企業の間では、少しでも収益を絞り出すために、ギリギリのコストカットが要 求されており、その収益は、個人の勤労者の給与同様、減少しているのである。さらにここに地方経済というファクターを入れれば、格差社会日本が、「ワーキ ング・プア」(働く貧困層)と呼ばれる最下層の人々をも生み出しつつあることを知らされるのである。


4 教育に反映した社会格差

さて日本経済を貫く競争原理至上主義は、子供を廻る教育現場でも厳しい現実を生んでいる。そのひとつの象徴的な出 来事がある。それは目を覆うような公立校の凋落と有力私立校の勃興である。かつて日本一の難関大学東大への進学率では、都内有力都立高校や各県の有力公立 高校が中心を占めていた。ところが最近では、私学校が競うように難関校進学のための特別カリキュラムを組むことで巾を利かせるようになった。

その結果、起こったことは、私学校へ入るための塾通いが小学校から始まる。しかも塾は、算数、国語と分かれてい て、2つ3つと掛け持ちで回るのが当たり前だ。都会の深夜まで、子供がリックを背負い歩いているという怖ろしい現実がある。彼らの夢は、むしろ親の夢で東 大かさもなくば有力大学へ進学するためのコースが暗黙で出来上がってしまっているのである。これでいいのか、などと疑問を持つ暇など、親にも子供にもな い。それが評価の高い学校に入学し、エリートになるための道のように見えているのである。

要するにこれまでの中学までの義務教育というものが、現実の受験社会の中では通用しないものになっているというこ とになる。最近、俄に石川県の公立高校で、当然必修となっている「世界史」などのカリキュラムを受講できないという話が表沙汰となり、それから日本中で同 じ未履修問題があちこちの公立校で顕在化した。このことは、私学校に押される公立校の焦りにも見える。そのことに責任を痛感し、自殺した校長がいたことも 記憶に新しい。

戦後、確かに団塊の世代が受験期を迎えた1960年代の受験戦争と言われた時代も苛烈だったが、少子化社会となった現在の方が子供に対する期待度は数段高 くなっている。その分、子供たちの受ける精神的プレッシャーは大きいことになる。

現代のイジメ問題は、その中にあるものである。親たちの期待をそれぞれ背負った子供たちの心の内を考えれば、うっ積したものを、手近の比較的弱い者に向け てしまう傾向は、ある意味で自然な流れとも言えるのである

同時に公立学校が新たな受験戦争の中で、存在価値を失い、親からの信頼感もかつてのようではない。昔であれば、先生を全面的に信頼し、「うちの子が何かあ れば、遠慮なく、叱り、殴ってもけっこうです。」という親が大半だったが、今は子供に暴力を振るおうものならば、親が学校に怒鳴り込んで、場合によっては 訴訟沙汰にもなる。これは公立学校の権威の失墜を物語る事件である。


この公立学校を尻目に、特徴のある教育を主眼とする有名私立校は難関となり、親でも分からない妙な問題を幼稚園に 入る前から塾通いしてたたき込まれ、親まで面接し、根掘り葉掘りと収入や親の学歴までが質問され、ようやくわが子をエリートコースに歩ませることが許され るのである。

この結果、最近では日本最難関の東大生の親の所得が、以前の慶応大学などを抜いて、富裕層で占められるようになっ たということである。(橘木俊詔著「格差社会」岩波新書2006年P115)これが現実なのである。公立学校のシステムが、現実の日本社会と合わなくな り、受験をひとつの産業としてシステム化できている私学優位の状況をつくり出したのである。こうなると才能というよりは、親やどの階層にいて、潤沢な教育 資金を投下できるかで子供のキャリアが形成されてしまうということにも通じる。皮肉だが、公立の学校しかなく、もちろん塾もなく、家庭教師も付けられぬよ うな地方の貧困層の受験生は、結局高い授業料を払って私学に入るしかないという道を選択せざるを得ないということにもなる。


5 イジメ問題解決への道

現在のイジメ問題と過去のイジメでは質的にかなり違うものがある。まず昔は前にも述べたが教師の権威が相対的に高 かった。また生徒の方も、一人っ子が多い現代と違い、まず兄弟げんかなどで、経験を経ているので、ケンカの仕方も、強い者の受け流し方も知っていたのであ る。しかし現代の子供は、兄弟も少なく、精神的なイジメも暴力的なイジメもまともに受け止めてしまう傾向がある。またテレビなどの影響で、大人びたところ があるが、全体に精神的にも肉体的にもひ弱である。それは少子化で甘やかされて育っていることの影響もありそうだ。その為に、自分の殻に閉じこもって、イ ジメから登校拒否、そして引きこもりというような流れに入ってしまう例も少なくないのではないだろうか。

かつて学校に行くことは、友達に会いに行くことであり、スポーツをすることであり、未知のことを先生に教わること であり、それ自体が楽しい時間と場所であった。ところが、現在のように、子供が朝から晩までリックを担いで、塾から塾に渡りガラスのようにして飛び回るこ とは、実に大人が科したこととは言え、子供にとっては苦痛そのものであり、子供の人権侵害にもなるような事態ではないかと思うのである。

子供は将来の日本を背負う大切な社会の宝であるが、現実には、子供の健全な人格形成ということを考えるのであれ ば、公教育制度を根本から見直し、時代に見合った姿にするしかない。そして塾通いを強制せざるを得ないような昨今の歪んだ教育システムをその根本からなく すようなことも必要だ。そしてうっ積した子供たちのむ無用のプレッシャーを取り払い、子供たち一人一人が自らで己の特技や才能を見つけ出し、その方向に進 むように援助の手を差し伸べるのが、教育本来のあり方である。

かつて文科省の計画でなされた「ゆとり教育」も本来の趣旨は、受験一辺倒になってしまっている日本の公教育を、子 供本来の自由で伸び伸びとした方向に進めようとしたものである。しかし結果としては、日本の教育水準の低下を招き、結局、再び教育現場に悪しき市場原理が 持ち込まれ、東大などのエリート大学には概ね富裕層の子弟しか入れないような有様となったものである。格差社会は、そこにいる人間を否応なく富裕層と貧困 層に分類していくものである。そこで大切なことは、ふたつある。ひとつは所得の分配を不公平感のないように是正すること。もうひとつはセーフティネットの ような仕組みを作り、負け組となった人々を救う手だてを講じることである。

幸い安倍政権は、「再チャレンジできる社会」を盛んに喧伝している。これはとても大切なことであり、私も概ね賛成である。
日本では一度「落ち零れ」や「駄目人間」というレッテルを貼られると、立ち直るのは容易なことではなかった。「再チャレンジ可能な社 会」を作ることは、日本社会のひとつのアンシャン・レジューム(旧制度)を解体する意識革命の側面もある。そ れだけに単なる制度をだけではなく、日本人の心そのものが変化しなければならないのだ。人は一生ひとつのイメージで存在するのではない。どんなイジメに遭 い、落ち零れや引き篭もりを経験しようと、社会の温かい目と制度的な支援があれば、社会そのものを牽引するほどの人物になる可能性がある。

そこでまず、マスタープラン作りが問題になる。その作成者 の人選であるが、これまでの文科省肝煎りの「中央教育審議会」(会長 鳥越泰彦 慶応義塾大学顧問)のような組織では何か足りないものがある。それはメン バー個々のレベルが低いということではない。はっきりと言わせてもらえば、メンバーが総 花的意見しか言わず、どこに教育の目的を置き、日本社会の未来を託す人間を育てるのか、という強い信念を欠いているように見えるからだ。周囲に気を配り過ぎる余り、自分の選出母体の利益やら、また特定政党や組合などに遠慮をして、自己の意見を取り下げるような人たちの 集まりではけっして、日本のこれからの百年を託せる教育プランなど出来上がるはずもない。

その意味では06年10月10日、安倍首相の主導の元に、「教育再生会議」(座長 ノーベル化学賞受賞者 野依良治 内閣官房室帰属)が誕生したが、今ひ とつ分からない部分もある。中教審とどのように整合性をつけるのか。両方の組織にダブって委員となっている人物もかなりいて気になる。座長の野依氏もその 一人だ。


ともかく「中教審」で あれ「教育再生会議」であれ、新しい教育制度のマスタープラン作りには、メンバーの熱意と信念が前提となる。その上で、憲法及び教育基本法の理念に基づ き、主役である子供たちをマンダラの中心に据え、その周囲を、現場の教師、家族(父兄としてのPTA)、教育現場を よく知るNPO団体、心理カウンセラー(現場の教師を支え生徒の心理面をカバーする)などが程よく配置された日本ならではの教育制度を策定してもらいたいものだ。

ここで私の大雑把な提案は、あくまでも教育現場という舞台の主役が生徒であることを確認し、この子供たちを中心としたマンダラ構造の分厚 い組織を創ることが必要ではないかと思うのである。これには、強い信念を持つリーダーの存在が不可欠だ。
安倍政権の提案する「再チャレンジ」の精神は、教育の現場でも当 然活かされるべきである。そこで、はじめてイジメに遭い登校拒否となった若者でも、再び自信を取り戻して学校に戻り、社会に意気揚々と巣立ちできる仕組み を 作ることが可能となるのである。


2006.11.13ー 14  佐藤弘弥

義経伝説
思いつきエッセイ