義経伝説ホームへ

義経エッセイINDEXへ

秀衡公の遺言から分かること

柳の御所跡の枝垂れ桜越しに束稲山に向かって伸びる旧高館橋を眺める・・・
(佐藤2001.4.21撮影)

義経公がこの世を去ったのは、文治5年4月30日(1189)であるが、その一年半ほど前の文治3年10月29日(1187)、鎌倉の兄頼朝に追われていて苦しい立場の義経公をこれまで一貫して支え続けてくれた藤原秀衡公は既にこのような遺言を、息子たちと義経公に遺して亡くなっていた。

「よいか、息子たちよ。我が亡き後は、ここに居られる九郎義経殿を主として、おまえ達がひとつにならなければならぬ。必ず鎌倉の頼朝殿がそなたたちの心の隙間をついて攻めて来るであろう。まずは、そのことを神仏の前に誓い起請文を書いて貰いたい。またこれは九郎殿にも御願いしたい。是非奥州の主となることを承知してくださり同じように起請文を書いてくださらぬか」(九条兼実の日記「玉葉」を佐藤が意訳)

亡くなる直前の秀衡公がこのような遺言を遺したことは、裏を返せば、実は奥州が、勢いがついている鎌倉勢の圧力を受けつつ、外交姿勢が、必ずしも一致していなかったことを意味する。つまり鎌倉とどう付き合うかで意見が割れていたということになる。しかもこの時、秀衡公は、基成の娘であり嫡子泰衡の母に当たる自分の正室を兄弟和融の証として、長男国衡に与えているのである。

考えてみれば、この対立する二派の一方は親鎌倉派とでも呼ぶべき連中だ。もちろん「親」とは言ってもこの場合、積極的な意味における親ではなく、戦をするよりはマシほどの意味である。この連中は、京の人脈と外交戦術を以て、鎌倉と一戦を交えぬ方向を模索しようとする藤原基成を中心とする外交派とでも呼ぶべき連中たちである。それに対立するのは、国衡を中心とする武闘派あるいは反鎌倉派とでも呼ぶべき一団だ。

秀衡公が存命の間は、その圧倒的な存在感により、両者の対立を巧妙に避けながら、奥州の平穏は何とか保たれてきた。秀衡公という政治的カリスマを失うことは、潜在していた基成と国衡に代表される意見の対立がいよいよ表に出て顕在化することになる。秀衡公が起請文を自分の子供たちに書かせ、国衡に基成の娘である若い妻を与えた意味はここにある。

基成が戦を極端に恐れている理由は、平治の乱(1159年)の折りに、自らの弟たちがその兵乱に参加して失脚した過去が尾を引いていることは容易に想像できる。その為、人脈による外交力を駆使して、何とか鎌倉と京とも上手に付き合おうとしたのではあるまいか。

藤原基成は誇り高い男である。それもそのはず、彼は藤原北家道隆(みちたか)の流れをくむ名家に生まれ、父忠隆は白河院の近臣であった。エリートを地でいくような男基成が、奥州の新都平泉に訪れたのは、康治2年4月(1143年)のことであった。二十歳前後の若者であったはずの若き「鎮守府将軍基成」を出迎えたのは、二代基衡公であった。その頃の平泉は、豊田館からこの地に居城を移して、僅か四十年余りであり、あたかも山野の中に、新都が忽然と出現したような趣があったに違いない。

それからの基成は、すっかりこの平泉に魅せられてしまった。豊富な経済力と強烈なまでの信仰心。若きエリートは、この都市に、京の都にはない限りない魅力と夢を感じ、秀衡の父基衡に請われるまま、鎮守府将軍退任後もこの都市に住まい、その後の鎮守府将軍の人事決定にも隠然たる力を持ち、やがて基衡卒去後に奥州のトップに立つ秀衡公とも盟友関係を結んで、共に平泉を並ぶもののないような黄金の都市を造ってきたのである。そして彼は、やがてこの急速に都市化する奥州の平泉を自分の血脈によって支配できるかもしれない、と考えるようになっていった。
 

一方の国衡は、武闘派的色彩は、濃い性格だが、ある面では父秀衡公の政治をそのまま引き継ぐような所が見られたはずだ。もちろん父とは、政治的才能もカリスマもないが、秀衡公がこれまでやってきたように京都の権力とは上手に付き合い、一方鎌倉とは強力な軍事力を背景として対峙するやり方である。ただこの手法は、政治史的な見方をすれば、やはり多く古代的な支配機構である京都の院を中心とした権力を容認するような古代的政治手法から一歩も脱却していないことは明白であった。

そしてこの秀衡公の遺言の発表となる。何とその遺言の内容は、秀衡以後の奥州政治の中心に源義経公を据えようとした。おそらくこの方針が出された時、基成としては、プライドをずたずたにされた思いがしたに違いない。かつて秀衡公は、基成と盟友関係を結び多くの京人脈を得た。その盟友関係の証として、おそらく親子ほども歳の離れた娘を基成は秀衡公の正室として与えた。そして嫡男となる次男泰衡も生まれたのである。基成にしてみれば、「この俺を差し置き、何で義経なんだ」という遺言に対する思いもあったはずだ。しかもだから基成は、地団駄を踏む思いで、その中心に据えられようとしている義経公を完全なる敵と認識したと考えられる。

基成にとって希望の星は、孫の泰衡である。ほとんど歳の違わない秀衡公とはこれまで、盟友関係にあったが、腹の中では、奥州がこれほど、栄えているのは、京の貴族に人脈を持つ自分の力があるからに他ならないという強烈な自負心がある。だから秀衡公が養和元年(1181)に鎮守府将軍という地位につけたのも、ひとえに自分の口添えのお陰だと思っていたに違いない。

秀衡公は、このしたたかな義父基成がどのような考えを持っているか、よく分かっていた。だからこそ彼は起請文を、自身の前で書かせて、神仏に誓わせて、基成の野望を封印しようとしたのである。秀衡公は、この遺言を述べた時に、自身の正室である基成の娘を前妻との間の長男国衡に譲ることを話した。これはおそらく財産分けという意味と同時に、意見を違えている我が子たちの仲を取り持ってくれることを期待してのものであろう。この時、国衡の年齢は、30代の半ば程、譲られる秀衡の妻もほぼ同年代であったことだろう。そして泰衡は21歳となっていた。

国衡は、武勇で知られる大柄な武者で、奥州合戦における和田義盛や畠山重忠との凄まじい合戦シーンは、吾妻鏡の中でも見た者でなければ描けないような迫力がある。一方泰衡は、最後には、敵将である頼朝に泣き言を言って、どうにか生きのびようとするようなひ弱な若者であり、現在金色堂の中で、父秀衡公の棺の中に一緒安置されているマスクは、少年のように幼く小さく余りに痛々しい。何しろ鼻をそぎ落とされ、額には梟首(きゅうしゅ)された折りに長さ八寸の鐵釘(てってい)を打たれた深い穴が残り、その表情は、余りに重い荷を背負わされた凡庸な若者の苦悩がにじみ出ている。

ともかくこうして秀衡公という強力な指導者の重しが解けた時、奥州は秀衡公の願いとは逆の方向に向かって、まっぷたつの状態に別れて行くのである。その意見対立の中心に義経公が存在することになった。果たして義経公は奥州鎮守の神か、それとも疫病神なのか、というような対立軸の中心に居ることになる義経公の苦悩はいかばかりであったろう。佐藤
 

 


2001.5.18

義経伝説ホームへ

義経エッセイINDEXへ