影の克服

家康の非凡


 
 
徳川家康は好きな人物ではない。彼は、今日の日本人の島国根性の根本を作り、世界的な視野を奪った張本人だ。まさに鎖国で家康がやったことは、とにかく内向きで、外の文明を、日本人の意識から消し去るような愚民化政策であった。しかしその反面、人生の一成功者として、家康を見る時、大きな教訓が彼の人生にはある。

家康の成功の要因は、ひとえに子供の頃、信長という強烈な個性を持った人物と知り合えた幸運による。信長とは、家康にとって、信じられない感覚を持った眩しい存在だった。信長は家康とまったく正反対の人格を持って家康の前に現れた。幼くして人質の生活を強いられ、すべてに控えめで内向的な家康とは逆に、信長は、日本の歴史史上でもまれな、激情型の天才だった。彼はとにかく常識的な発想や権威を嫌い、キリスト教を取入れ、堕落しきった仏教の対抗馬とするなど、鋭い時代感覚と先見性を持った英雄的な人物だ。しかし信長は、あっさりと家臣の裏切りというハプニングによって天下盗りを目前に殺されてしまう。家康は信長の身近にあって、信長の失敗から、何かをつかんでいた。性格的にも正反対の信長の人格は、家康にとって、まさに巨大な影であった。

家康の人生訓に「堪忍は無事長久の基、怒るべからず」という言葉がある。これなどは、信長のおこりっぽさや性急な態度を反面教師として、自分は、絶対に信長の二の舞は踏まないぞ、という決意のようにも受け取れる。確かに彼は、政策的にも信長の逆ばかりやった。鎖国によって、積極的に外国の文明を取入れようとした信長の政策をことごとく否定し、キリスト教を禁止するなど、新しい思想や宗教を国民から完全に遮断した。

家康の影の性格には、明らかに信長的な部分があったはずだ。つまり外交的で、おこりっぽく、攻撃的で、権威を認めないような。しかし似合わないことは、身に付かないものだ。家康が、24歳の時、信長的な戦をしようとして大失敗をした。三方ケ原の戦いである。戦国最強と言われた武田の騎馬軍団を相手に敗北し、馬上でクソ、ションベンを垂れ流しながら、逃げ帰った。まさに九死に一生を得たほどの大敗北だった。しかし家康の非凡さは、これからの彼のとった行動にこそある。家康は、なんとそのだらしのない自分のぼろぼろの肖像画を書かせて、生涯の宝としたというのだ。その肖像画は、確かに、後の英雄家康とは、想像できない惨めな姿をさらしている。これは家康が自分のあってはならない影の肖像を書かせたということだ。

否定的な内なる自分を意識した時、家康は人生の戦いに勝利する鍵を手に入れた。信長の失敗と自分の信長的なる行動による失敗を見つめ続けた挙げ句、彼は天下人となった。もし今家康がいたらきっとこう言うだろう。「怒るべからず、急ぐべからず、信長公のようにカッコよくいくと思うな。そして自分の影をしっかりと見据えよ」と佐藤
 


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1996.8.13