アイデンティティーとは何か!?

 
 
 多くの人は、心理学者EHエリクソンの「アイデンティティ」という言葉を誤解したまま使っている。

この誤解は、ユングの「コンプレックス」の場合とまったく同じだ。ユングの「コンプレックス」が、本来「心の複合性」であるのに、いつの間にか、複合性のひとつの要素に過ぎない「劣等意識」だけを取り出して、「コンプレックス=劣等感」となって、その言葉が勝手に一人歩きを始め流行語化してしまった。同じようにエリクソンの「アイデンティティ」も「自己同一性」と訳され、それが「主体性」と解され、更に単純化されて「本来の自分らしく生きること」などと、曲解されて流行語化してしまったのである。

エリクソンは、アイデンティティという言葉を細心の注意を払って使用している。彼はこのアイデンティティという言葉を厳密に定義づけて分かりやすく説明したことはない。簡単に定義をしてしまうと、あらぬ誤解を受けてしまうことを恐れたのであろう。むしろ言葉では簡単に説明し得ぬ感覚の世界を表現する言葉とさえ言っている。

エリクソンは、定義をする替わりに、あるエピソードを上げている。それは先輩心理学者で精神分析学の創始者であるフロイトの手記についてであった。ある時、ユダヤ人であるフロイトは、自分がユダヤ教徒でもないのに、ユダヤ人である自分を意識したという。それは多くのヨーロッパ人の友人達が、ヨーロッパ文化のしがらみや、様々な制約の中で生きているのに、自分はそんなヨーロッパ的な制約から自由に物事を考えられるという自分を何気なく意識した時だったというのである。これでエリクソンが、アイデンティティという言葉を「一種の感覚の世界」という微妙な言い回しをしているかの理由が分かろうというものだ。

エリクソンは、どうもフロイトの学問的な独創性とその成功の要因を、フロイトのアイデンティティとの同化にあると見ているようだ。分かりやすく言えば、フロイトは、自分のアイデンティティを最大限に活用したことになる。しかしもちろんフロイトは自分自身の無意識領域にあるアイデンティティなどということをいつも意識しているわけではない。アイデンティティとは、簡単に言葉で表現しえない無意識の領域にあるある種の感覚なのである。そしてそれは己と他者を明確に分かつ尺度であり、暗く長い人生の道標のようでもあり、物言わぬ導師のようでもある・・・。

エリクソン自身もフロイトと同じユダヤ人だった。彼はナチスドイツの迫害を逃れて故国ドイツを捨てて、アメリカに渡った人物であった。普段多くの人間は、自分のアイデンティティということを意識しないまま生き、そして死んでいく。その中で、ファシズムの嵐が吹き荒れる第二次大戦の当時のヨーロッパにいたユダヤ人ほど、己の存在の意味を考えさせられた人種は皆無である。一見ヨーロッパ人と何違うことのないユダヤ人であるが、彼らには強烈なまでの、民族的アイデンティティが存在する。ユダヤ人は、どんな時代にあってもあくまでもヨーロッパにおいては異邦人を貫き通している。

だからと言って、アイデンティティの語をナショナリズム(民族意識)と曲解してはならない。またそこで簡単に日本人がアイデンティティなどという言葉を使うのも実に危険なことだ。元々日本人のアイデンティティ(もちろんユダヤ人にも)なるものは、長い歴史の中で、意図的に作られた観念であって、初めからないのである。あるとすれば、それは誰かがそれを意味があると言い始めたから、後に続く人たちが勝手にそのように思っているだけなのである。

エリクソンが、簡単にアイデンティティということを口にしたり、定義化したりしない理由は、そこにこそあるのである。言うならば、アイデンティティは、ふわふわした雲のようなもので、実体があるかないかも分からないような柔らかいものだ。しかしそれは人間がそれと一旦同化した時には、強烈な力を発揮してくれるスーパーパワーなのである。

フロイトにしてもエリクソンにしても、また相対性理論のアインシュタインにしても彼らの独創的な発想の源泉は、ユダヤ人という人種的優越性にあるのではない。それはきっと自身のアイデンティティと同化しやすい環境にあったことによるのである。フロイト自身が、何気なく直感したものは、実は内的なアイデンティティだったのだろう。(もちろんフロイト的に言えばそれは、リピドーということになるはずだが?!)

その意味でもアイデンティティの形成ということは、生きている人間が、その生涯の最後の最後まで追い続ける虹のようなものだ。もしもそれを我々も意識的に活用できるようになれば、きっと想像もつかない独創的な仕事を成し遂げられるかもしれない。

そこで私はもう少し積極的な意味でアイデンティティという言葉を使って見たい。アイデンティティは、過去の文化の連続性に対する同化というよりは、我々人間のよりよい未来の探求と、それに対する同化なのではないだろうか。だた元々アイデンティティそれ自体が無意識の領域にあるものだから、意識した瞬間には、虹のような遠くの彼方へ消えていく類のもので、なかなか捉えにくいものであることは確かである。

人間はみんな自分のアイデンティティというものを持っているのだが、そのアイデンティティを見つけられずに、一生を終えてしまうことが多い。もしもフロイトのようにその無意識領域にある未知のエネルギーであるアイデンティティと結びつくことが出来るならば、人間は自分でも想像がつかない素晴らしいことが出来るかも知れない。したがって私はアイデンティティを、「本来自分の中にある高次の自分を探求発見し、それに同化する気構え」、と考えたい。佐藤
 


義経伝説ホームへ

2000.2.15