7年連続オールスター出場

イチローの言葉を読む


野球の神さまに祝福されるイチロー・スランプに沈むマツイ


マリナーズのイチローが、7年連続で、大リーグのオールスター戦に出場が決まった。

イチローは、禅を志す僧侶のように、淡々とその感慨を語った。

 「日本での数字に並ぶことは目標の一つ。 (オールスターに選ばれたことに) ちょっと、ほっとしている」

 「選手からの投票はかなりうれしい。ファンの支持は、最も大事なもの。常に見られているという意識は外せない。」

 「いつもあの日が終わってしまえば、何ごともなかったようにはかなく消えてしまう。一瞬にして消えてしまうからこそ尊さのようなも のがある」

 「自分の出場にはほっとしたが、斎藤さん(ドジャーズの抑えのエースとなった斎藤投手のこと)の出場は嬉しかった」


以上4つの言葉に、等身大のイチローがいるような気がする。それほど現在のイチローは、自然だ。けっして気取らず、奢らず、淡々として、日々、ファンが期 待し、誰よりも自分がワクワクするほど期待するイチローという理想の自分になろうと考えている。

しかしそれはファインプレーをしたり、他の誰もが打てないような数のヒットを量産することを、日々考えることで、実現していくのではないことをイチローは よく知っている。

それは、誰よりも早くグランドに来て、人一倍ストレッチやランニングに汗を流し、試合がはじまれば目一杯のプレーを見せ、試合が終われば、バットやスパイ クやグラブを磨いて家路に就くという「ルーチン・ワーク」を、コツコツと積み重ねていくということによって実現される類のものである。

かつて、イチローが年間262本のヒットを放ち、大リーグの記録を作った時、「とんでもない結果も、日々の積み重ねによって生まれる」というような趣旨の 発言をしたことがある。

イチローは、自分自身と冷静に対峙し、プロデュースができる極めて稀有な才能を持つ選手だ。

このイチローの存在によって、今や、日米のベースボールの垣根は、取り払われ、その交流も含め、大いに自由になった感がある。その成果という線路に乗る形 で、今年レッドソックスに入団したマツザカは、このイチローの存在によって高評価に通じ、手取り60億円という、とてつもない契約金を手にすることが叶っ たのである。

今や野茂英雄に始まった日本選手のアメリカ大リーグ進出は、越えなければならないハードルは若干あるとは言え、意思さえあれば、乗り越えられない高さでは なくなった。

昨今のイチローを見ると、文字通り日本野球を背負っているという自負があるように見える。「まだまだ日本野球界には、素晴らしい資質を持った選手がい る。」イチローの背中は、アメリカのファンにそのように言いたげに見える。

昨年春、第一回WBCにおいて、イチローは、全身全霊でチームを引っ張り、優勝を日本チームにもたらした。この時、イチローは、「王さんに恥をかかせられ ない」と熱くしかもきっぱりと語った。

これはイチローという人間の強い信念と自覚を示す言葉だった。それまで自分のことにストイックに邁進するクールな天才と思われてきたイチローが、実は熱い 人間で、義理にも人情にも人一倍篤い人間であることを身をもって示した。これはクールな天才イチローが、日本のファンのすぐ側に、近寄って来たようなもの であった。

お そらく八百万の神のいる国日本には野球の神様という大いなる存在が、どこかに居て、選手たちの行動や努力の質をじっと見守ってくれているのかもしれない。 そんな中で、日本の伝説のホームラン打者王さんは、野球の神様の代理人のような人物だ。イチローは、そんな王貞治という人物の特別な存在価値を直感的に見 抜いていて、「どうしても、王さんには、恥をかかせられない」と思ったのだろうか。ともかく、それがひとつの「祈り」となり、日本チーム全体の意思として 浸透した時、あのような奇跡的なWBCの優勝という快挙に繋がったったのだろう。そして、どこかで秘かに観戦していた野球の神様は、イチローが牽引する 「王ジャパン」に、心からの祝福を送ったのである。

それに対し、ヤンキースのマツイは悩んだ挙げ句に、高給を手にしたばかりで、球団を裏切れないと、良 心の呵責に悩みながら、王監督に長文の手紙を書いて、 不出場を詫びたのであった。あの時に、イチローとマツイの運命は、ふたつに分かれてしまったと私は本気で考えている。

マツイは、本来そのように、野球の神様を裏切れるような薄情な人間ではない。しかしマツイは、アメリカ社会のゼニカネ優先の社会の洗礼を受け、そこに折れ て自分を曲げてしまったということかもしれない。

マツイの中にいる野球の神様は怒った。昨年、捕球しようとして左手首骨折という事故が起きてしまったのは、どこかにマツイ自身が、良心の呵責のようなもの があって、動きにブレーキがかかってしまったとも言えるのではなかろうか。

その意味で、マツイとイチローを分かつものは、一般に言われるパワーやスピードというよりは、自分を最後の最後まで信じ切る思いの強さかもしれないと思う のだ。

打撃技術にしても、マツイは結局、自分はジオンビーやロドリゲスのようなパワーヒッターではないと勝手に思い込み、自分を中距離ヒッターと位置づけ、高い 弾道の打球を目指すバッターになる道を諦めてしまっているように見える。

イチローの目指すものが、どの辺にあるかは不明だが、どん欲なまでに己を信じ切る心の強さがある限り、どこかでじっと目をこらして見ている野球の神様は、 当分の間、イチローを祝福し続けるのではないだろうか


新イチロー論

2007.7.3  佐藤弘弥

義経伝説
思いつきエッセイ