ユーモアについて

ユーモアはヒューマニズム?!


@ユーモアすすめ

ユーモアというものは、人生において、とても大切なものである。様々な人生のトラブルやストレスが、我々の心を暗くする時、ユーモアのセンス次第で、簡単に気分を変えることができる。ユーモアは、人間が精神のバランスをとるためには、極めて有効な武器である。

ものの本によれば、ユーモアとは、Human(ヒューマン:人間)が変化してHumour(ユーモア)になったと言われている。だからユーモアには、単なる滑稽なおかしさではなく、人間的な滑稽さやおかしさの意味が込められているのである。つまりユーモアには、人間の生活のなかににじみ出る矛盾やおかしさを、寛大な態度で、笑い飛ばして、楽しむような側面すらある

しかし残念ながら、ユーモアとはセンス(才能)である。しかも誰もが平等に持っているたぐいの感覚ではない。つまり世の中には、ユーモアを解する人間とユーモアをあまり知らない二種類の人間が存在する。ユーモアを知らない人間の人生は、遊びのない自動車のようなもので、ひどくギスギスした人生を送ることになる。あえて言わせてもらえば、ユーモアを解しない人間は、損をするとだけ言っておこう。

どんなに苦しい時でも、ユーモアのセンスさえあれば、人は豊かな時間を過ごすことが可能になる。ひとりのユーモアを解する人間がそこに存在すれば、その人間のまわりすべてが明るくなってしまう。辛く苦しい時、ユーモアは、まさにオアシスのような役割をはたしてくれる。

聖書(キリストの生涯の物語)からキリストのユーモアのセンスを学べという人物がいる。20世紀最大の予言者と言われるエドガー・ケイシーである。彼によればキリストは極めてユーモアやジョークのうまい人間で、自分が十字架に掛けられる寸前ですら、ユーモアの精神を忘れなかったと指摘している。その意味でも、キリストのユーモア精神豊かな人生は、まさに人類そのものに大いなる安らぎと勇気を与え続けていることになる。

ユーモアのセンスがあるからこそ、イエスという名の大工の息子は、たった一人の力で、世界を敵にまわして、ついには世界の精神的な支柱とまで成り得た人物であったのだ。まじめ一辺倒だけでは、おそらく彼の精神は、逃げ場を失って、狂っていたかも知れない。

何度となく彼は、自分の弱い心の誘惑に負けそうになった。広野で断食の修行をしている時、彼の中の腹の虫が、「パンを食え、食ったら楽になるぞ」といってキリストを誘惑した。その時、キリストは「ひとはパンだけで生きているわけではない」といって、その弱い己の心を、ユーモアの力で跳ね返した。

何も食べないでいれば、自分が死ぬかも知れない極限の状況の中だからこそ、ユーモアは有効なのである。苦しんでいる自分を笑い飛ばすユーモアとは、ひとつの勇気である。しかも楽天的な生き方のすすめでもある。我々も真剣な場面で、その真剣な自分がやたらとおかしくなる時がある。おかしくなったとしたら、我々もキリスト同様、自分を笑い飛ばせばいいのである。

我々は、人生を実り多いものにするため、もっとユーモアのセンスを磨かなければならない。楽しいジョークやユーモアのひとつも言えないで、何のための人生だろう。成功の前には、まずユーモアあり、と言いたい。


Aユーモアの本質

社会に道徳や法律があるように、ユーモアにも、ルールというものがある。どんなに自分がユーモアと思っても、それを受け取る人間が、不機嫌になるような内容のユーモアでは、ユーモアとは言えない。つまり悪い冗談や下品な言葉は、「ジョーク」ではあっても「ユーモア」とは呼ばれない。人間そのものに対する深い愛情や思いやりのない人物は、ユーモアを語る資格はない。我々はそのことを良く理解した上で、このかけがえのない人生においてユーモアを存分に楽しみたいものだ。

ではユーモアのルールとは、どんなものだろう。私はユーモアのルールを以下の五点にまとめてみた。

@ユーモアとは、独りよがりであってはいけない。

A人を傷つけてはいけない。

B人をバカにしてはいけない。

C人を悲しませてはいけない。

D人を差別してはいけない。以上をユーモアの五戒と呼ぶことにする。

つまり常にまわりの人のことを考えた上でなければ、せっかくのユーモアも周囲の人を、むやみに傷つけて反感を招いてしまうことにもなりかねないということだ。その意味では、ユーモアとは、一種の人に対する気づかいなのである。

少し大げさなことを言えば、文化が違う世界では、我々がユーモアやジョークと考えるものが、差別や敵対そのものと、とらえられてしまうことすらあるのである。

例えば、日本製の「チビクロサンボ」(黒人の子供をモチーフにしたユーモラスな人形)という人形が、黒人団体から「黒人差別を助長するようなクチビルの形状だ」として抗議を受けて、発売を中止した。

また最近では、ナイキ社が、シューズのかかとの部分に、アラビア語のアラー(神様)に似たデザインのロゴを使ってしまったため、イスラム諸国から、猛烈な抗議を受けて、直ちにその新製品を世界中から回収した。

このように他人への思いやりがなければ、ユーモアはユーモアになりえない。ユーモアを実行する時、我々は十分に世の中の事情や人の気持ちを考えた上で行動に移すべきである。

あなたは、あなた自身の人間としての資質とレベルが、あなたの発するユーモアによって、他人に測られていることを忘れるべきではない。もしもあなたが、初めて会った人の前で、下品きわまりない冗談を言ったとすれば、あなたは間違いなくくだらない俗物と評価されるだろう。つまりあなたのユーモアは、あなた自身を測るバロメーターなのである。もっと分かりやすく言えば、あなたのユーモアは、あなた自身とも言えるのである。

結論である。ユーモアとは個人と社会との調和と融合である。そして何よりもユーモアとは、ヒューマニズム(人間主義)である。ユーモアとは、他人への思いやりであり、人間そのものへの深い愛情の表現方法である。もしもあなたが自分らしい機知に富んだユーモアを言えるようになれば、あなたは素晴らしく魅力のある人物と周囲の人々から見なされるようになるはずだ。ユーモラスでヒューマンな人間を目指そう。佐藤


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1997.7.10