法王900年目の懺悔

聖フランチェスコの思い

サンピエトロ大聖堂内部ローマバチカン市 
サンピエトロ大聖堂ドオッモの偉容 佐藤97年撮影

 

信じられないようなニューズが飛び込んできた。

ローマ法王のヨハネ・パウロ二世(79歳ポーランド出身264代目の法皇)が三月十二日、バチカンのサンピエトロ寺院で、過去2000年間にキリスト教会が犯した罪を認め、神の許しを請うミサを行った。(2000年3月13日NHK朝のニューズ)」というのである。

ヨハネ・パウロ2世が12日のミサで懺悔した内容は以下の通りである。

 1.歴史上、あなたがた神の子(ユダヤ人)を苦しめた行為を深く悲しみ、許しを求め、真の兄弟愛を誓う。

 2.(十字軍遠征、異端審問などでは)異端に対する敵意を持ち、暴力を用いた。これらカトリック教会の名誉を汚した行いについて謹んで許しを求める。

 3.(アフリカ、米大陸などへの布教では)人種、民族的な差別に基づいた排他的な行いがあり、罪深いふるまいがあった。異人種の権利を迫害し、彼らの伝統的宗教や文化に対する侮辱的な態度を取った。(毎日新聞三月十三日より)

歴史的に見て、ローマカトリックの法王がこのような懺悔のミサを行ったことは一度たりともない。ヨハネ・パウロ・二世は、ふるえる手でメモを見ながら、一字一句をかみしめるように、しっかりとローマカトリック教会の過去の罪を語り、そこに列席した信者たちも敬虔な祈りを捧げた。

考えてみれば今年は、ローマカトリックにとっても節目の年、大聖年の西暦2000年にあたる。周知のように、この西暦とはキリストの生誕した年を紀元1年として換算する歴史の区切り方である。(実際の所、現在の研究では紀元前30年程ではないかと見られているから、キリストが天に召された年を紀元一年とした可能性もある。)

西洋においては国家から始まって芸術や文化、果ては個人の考え方に至るまで、キリスト教の影響を受けていないものはない。特に中世以降はローマカトリック教会が、国家を凌ぐほどの権力となり、十字軍(セルジュク・トルコに占領された聖地エルサレム奪回のためと称して起こした異教徒討伐軍。1096年から1270年の間、計7回に渡って遠征が繰り返された)を組織して、熱狂的なキリスト信者達が聖地の奪回を唱えて幾たびにも渡る回教徒との熾烈な戦を繰り返した。この時の民衆のエネルギーは信じがたいほどで、一家で十字軍に加わるというようなことも実際にあったようである。この十字軍の戦いは聖戦と言われ当然の如く異教徒と戦う時に用いる暴力も肯定された。

そのことについての歴史的な見直しが行われようとしているのは自らの教義を見直しさらに時代に見合ったものに変えていこうとのキリスト教自身の並々ならぬ決意表明と考えることができる。

法王ヨハネ・パウロ・二世は、この日のミサでは、十字軍だけではなく、中世における異端裁判、第二次大戦前後のユダヤ教の迫害に対する曖昧な態度、女性や先住民族への差別などに対するカトリック教会の罪を認め、神み許しを請う懺悔のミサを行ったというのである。
誰も過ちを犯すものであるが、誰もその罪というものを認めたがらないものだ。それは多くの場合頭が硬直したために起こるのでない。それは己の立脚している立場を考えてあえて反省の態度を取ることを拒否している場合がほとんどだと思う。

今回の法王のふるえる手を見ながら、何故かある映画を思い出してしまった。

それは「ブラザーサン・シスタームーン」(1972年イタリア映画、監督フランコ・ゼフィレッリ)という映画である。十字軍に参加し、その悲惨な戦いで疲れた青年が町(アッシジ)に還ってくる所から、この映画は始まる。主人公は、十三世紀の実在の人物で裸の聖者と言われた聖人のフランチェスコ(1182?1126)である。彼は豊かな商人の息子だが、すべての財産を捨てて、まさに裸で出家してしまう。

やがて仲間が出来て、教会を自力で造ろうとするのだが、様々な反対に会い、異端の嫌疑さえ掛けられる。そして時の法王に直にあって自分たちの教会と教えを認めて貰うために会いに来るのである。当時法王の権力は絶大で、このような得体の知れない無名の男に会うなど考えられなかったのである。しかし何故か、法王は聖者が自分に会いに来るという予感を感じて待っていてくれたのだ。しかしフランチェスコの方は必死である。もしも異端と見なされれば、寺院の建設は許されないどころか、命さえも危うくなる。しかし元々フランチェスコにとって、信仰のためには命など問題ではなかった。意を決したフランチェスコは、粗末な衣服でしかも裸足で、サンピエトロ寺院に入ってくる…。

浮浪者とも見間違えそうな男を、法王は優しく見つめ、その前にひざまずいて、その汚れた足に口づけをする。そして立って、彼の耳元で囁く、そして一言、
何も手伝うことは出来ませんが、精一杯おやりなさい。」(台詞は忘れてしまったが、おそらくこんな言葉を言ったはずだ)こうして聖フランチェスコは、アッシジに教会を建てることを公式に認められたのである。

聖フランチェスコは、十字軍という宗教的熱狂に犯されたヨーロッパに咲いた一輪の野バラであった。おそらくは誰もが宗教の名の下に行われた様々な暴力に対し、少なからぬ疑問を持っていたはずだ。しかし誰一人として、その罪を認める勇気を持った法王が八百年の間現れなかったは、やはり時代の制約というものがあったのだろう。

今やっと900年の時を越えて、聖フランチェスコの十字軍への懐疑が、はじめて法王自身の口から間違いだったと語られた。人は誰だって間違いを犯す。たとえ法王様だって同じだ。しかし犯した間違いを素直に謝罪できる人物は稀である。今回のヨハネ・パウロ二世の、勇気ある発言に心からの敬意を表したい。佐藤

小さな野の花のように美しく生きなさい」聖フランチェスコ。
 


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2000.3.13